十月下旬、空が高くなり服装がブレザーに変わる頃。
 今日は学校で行われた模擬面接を受け、帰宅する時間には茜色の夕陽に照らされていた。
 外灯が付いていた家に入ると、リビングより漏れる明るい光。しかしそれと同じくして、焦げ臭いものまで放っている。

 久しぶりに台所に立った父は料理をしていて、そんな姿一体いつぶりに見たのだろうか?

「久しぶりすぎてな。こりゃ慣れるまで大変だ」
 鍋でぐつぐつと煮込まれているのはシチューで、どうやら鍋底で焦げているようだ。

 父がやたらこちらを見ないと覗き込むと、頬や手の甲には見えるのは大きな引っ掻き傷。
 一瞬息を飲むが、原因が分かった途端に出る小さな溜息と苦笑い。

「……あ。前途多難でな」
 ははっと笑って見せた父は、傷跡をそっと隠す。

「手伝うよ」
 手を洗った私は朝の食器をふきんで拭いていき、食器棚へと仕舞っていく。
「いや、これはお父さんがやることだから」
「手伝いぐらいするよ、子供でも」
 カチャカチャと片付けながら、私の口元は緩んでいた。

 姉はカレーが好きだけど、私はシチューの方が好きだった。だけど二つに作るのは負担だと、私もカレーの方が好きだと言っていた。
 だけど父は、そんな私の気持ちに気付いてくれていたのだろうか?

 四人がけのテーブルを囲むのは、父と私だけ。
 母と姉が居ない空間は、あまりにも広すぎた。

「苦いな……。ごめん」
「そんなことないよ」
 ほろ苦いシチューを口に運ぶ。

「未咲」
「うん」
「お父さん、仕事辞めたんだ」
「うん」
 父の目には力がなく、見られたくないだろうと作ってくれたシチューの不揃いの具を眺めていた。

 父はあれから同僚の方と共に業務改善を求めて話し合いの場を設けたらしいけど、改善しなかったのだろう。
 他の同僚の方に体を壊す前に退職しようと説得したらしいけど、頑なに拒んだ人も居たらしい。
 以前の自分を見ているようで歯痒いらしいが、仕方がない。その最中にいると誰に何を言われても、今の異常さに気付けない。自分が変わりたいと思わないと、人は変われない。それは経験しないと分からないことだから。

 父が食器を洗ってくれているけどその表情は険しく、流れる水と弾く水をぼんやりと眺めている。
 体の傷は姉の面会に行き、おそらく引っ掻かれたのだろう。
 施設での生活自体は落ち着いたらしく安定しているけど、父はまだダメみたい。
 短期入所は基本三ヶ月と決まっていて本当は十一月末ごろまでとなるが、今は家庭の事情を理由に伸ばしてもらう予定にある。
 姉がうちに帰ってくるには、父、姉、私と各々の取り決めがある。
 父は、仕事が姉の世話が出来る環境であること。
 姉は、父や支援をしてくれるヘルパーさんに心許すこと。そうならないとまた元に戻ってしまうと、ケアマネさんとの取り決めだった。

 私は、姉が迎えに行ける日まで、絶対に会いに行かないこと。今頑張っているから私に会うのは里心が付いて一番辛い。だから姉の為に会ってはいけないと言われている。
 正直、言い切れぬほどの罪悪感に苦しんでいる。
 姉が泣いている中、私は笑っている。
 姉が頑張っている中、私だけ自由を謳歌している。
 眠りにつく時、以前はこのままで良いかの自問自答だったけど、現在は姉のことばかり考えてしまい罪悪感で押し潰されそうになる。
 隣にいない安堵感と、もの寂しさ。
 自分の半分が失くなったような、喪失感。
 私があの日、姉を置いていかなければ良かったのではないかという、自責の念。
 もっと私が頑張っていれば良かったと思う、苦しさ。
 姉を案じて亡くなっていった、母への想い。

 だけど私が姉の元に走り、手を伸ばさないのは。
 ピコン。
 眠れない夜に響く、メッセージアプリの通知音。
 そっと覗き込むと、強張っていた私の口角はどんどんと上がっていく。

『明日、コスモス見に行くけど時間あるか? 別になかったらいいけどよ』

 亜美、渚、五十嵐くんが私に考える時間を与えないように、いっぱい連絡をしてくれる。

 今は十一月の入試、小論文、面接、そして失われた時間を取り戻すことで忙しい。
 勉強、平穏な高校生活、カフェ、まさかの大人がお子様ランチが食べれる喫茶店に連れて行ってくれのには驚いたけど。
 スマホの待ち受け画面はあの時のお子様ランチと、五十嵐くんの手。
 大きなそれにドキリとなった私は、スマホを置き布団を被る。明日、コスモス見にいくの楽しみだな。
 別の意味で、眠れなくなってしまった。

 こうして季節は、どんどんと巡っていく。