翌日、朝六時。久しぶりに部屋のベッドで眠った私はムクリと起き、あくびをしながら下へと降りていく。
 二人分の少ない洗濯物を回し、少ない食器を片付け、ゆっくり朝の食パンを食べて、洗濯物を干し、自分の鞄を準備したらまだ七時。四十五分も空き時間が出来た私は、小論文の書き方と記されている教科書の続きを読む。

 父は早朝より泊まりの仕事に行ったが、昨日の面談帰りにしばらく帰宅は遅くなると言っていた。
 おそらく同僚の方に会社の体制がおかしいと話し、同意した人達と経営者に直談判するのだろう。
 以前は説得された側だったらしいけど、その時は生活を守る為に断ってしまったらしい。私達の為に。
 その時会社に残った人達に穴埋めとして負担がかかり、連日泊まり込みの仕事という過酷な労働を従業員に強いていた会社。
 なんとか改善してほしい。
 父達は退職して逃れても、また会社に残る人はいるだろう。
 その最中に身を置いている時は、その異常さに気付かないもの。
 だからこそ、願う。父のような、私達家族のような人達がこれ以上に増えないことを。

 時間となり教科書を閉じた私は、静まり返った家より一人出ていく。
 行き先はスクールバスの停留所ではなく、自分の学校。今日から新学期が始まるからだ。

 時間帯が違うからか生徒はまだそこまで来ておらず、ポツポツと聞こえる「久しぶり」の声を聞きながら階段を登り廊下を歩いて行く。
 日焼けした姿、楽しかった夏休みの話、共に遊んだ思い出話。それらに一切の曇った感情はなく私の中で右から左へと流れていく。

「おはようー!」
 朝練の為に生活習慣が早かった為か、早くより登校していた渚と亜美に声をかける。

「え、未咲!」
 目を丸め、どうしたの? と言いたげな表情をする理由は分かっている。
 姉の学校は九月一日からで、それに合わせて私も休んでいた。だからこそ、こうなるのは当然。
 でもあえて触れてこないのは、この自由に後ろめたさを感じていた私にとってありがたかった。

「県大会優勝おめでとう」
「全国は一回戦負けだけどねー」
「あー。全国には強い人が山ほど居たわー。絶対、リベンジマッチしてやるから!」
 亜美と渚は大学に通ってもテニスサークルに所属すると決めていて、その戦いはまだまだ続くようだ。

「って、いうか。未咲も日焼けしたんじゃない?」
「あ、これね」
 返事をしようとすると、上靴が擦れる音が廊下より教室内に入ってくる。
 振り返らなくても分かる。だから。

「五十嵐くんが、姉と私をあちこちに遊びに連れて行ってくれたんだー!」
「はあー? ちげーし!」
 やっぱり、教室に入ってきたのは五十嵐くんだった。

「うっそー!」
「どこ連れて行ってあげたの、五十嵐くん!」
「うっせーな! どうでも良いだろ!」
 そんな悪態にも一切怯まず、グイグイいく亜美と渚。怖くないのだろうか?

「五十嵐くんって、照れると毒っ気抜けて可愛いよね?」
「あー、分かる。毒を抜かれたサソリみたいな?」
 途端に始まる、本人を目の前にした女子トーク。あまりの的を得た発言に声を上げて笑ってしまう。

「お前ら、いーかげんにしろよ!」
「それでどこ行ったの?」
「人の話を聞けー!」
 あの怖いとされた五十嵐くんが、女子に振り回されてタジタジになっている。
 そんな姿を登校してきたクラスの子達は目の当たりにし、五十嵐くんを見る目が柔らかなものへと変わっていく。

「確かに、五十嵐くんって可愛いかも」
 ボソッと出た本音。

「おい、妹! 余計なこと言うなよ!」
「あれ〜? どうして未咲が妹の方だって知ってるの?」
 尖り切っていない目を見つめた渚が、からかうように軽口で告げる。

「あ、それ私も思ってた。前……、確か一年の二学期? 未咲がクラス委員になりそうな時に、姉さんの世話があるから外してやれよと言ってたよね? どうしてお姉さんだと知ってたの〜?」
 亜美の言葉により、五十嵐くんの目は完全に尖りをなくしていた。
 
「はあ? 知らねーし!」
「そうなの?」
 私がまじまじと見つめると。
「知らねーって言ってるだろが!」
 顔をプイッと背け、紅潮していく頬。

 そんなこと初めて知った。もしかしてクラス委員や体育祭の実行委員とかをやらなくていいように、免除にと提案してくれたのって……?

「別に、男子側に負担がいくからで妹の為じゃねーし!」
「また、妹って言ったー」
「うるせー!」
 渚の声より瞬時に反応する五十嵐くんは尖ったものが一切なく、近寄り難い人というイメージはすっかり消失していた。

 今まで、委員会免除は後ろめたくて居心地が悪かった。でも球技大会の実行委員だった時に知ったけど、実際に役割を遂行出来ない方が断然風当たりが強かった。特に相手の男子から。だから免除で助かっていたんだ。

 そう思いながら五十嵐くんをチラッと見ると、プイッと逸らされ自分の席にドカッと座る。
 そんな前から気にかけてくれていたんだ。
 またそっちに視線を送ると今度は目をしっかり合わせてくれ、首をクイクイと動かす。
 ……あのことを話せよ。そんな合図のようだった。

「聞いて欲しいことがあるんだ。私、短大の保育科に進学することに決めたんだ」
「えー!」
 歓声と共に顔を近付けてくれる笑顔は、私の幸せを共に祝ってくれているのだろうと、目が潤み喉の奥が熱くなっていく。

「だからさ、小論文の書き方とか面接の受け方とか教えてくれない?」
「勿論!」
「じゃあ、カフェとか行く? 学生ならワンドリンクで三時間勉強出来るから」
「え? 行ってみたい!」
 大きな声ではしゃいでしまった自分に驚きつつ、手を口元に当てる。
 私、バカ真面目からバカになれたかな?

 また五十嵐くんに目を向けてしまうと、また目が合い口角を上げてニッと笑いかけてくれた。

 えっ!
 すぐにプイッと顔を背け頬杖で口元を隠してしまったけど、私の体全身に熱いものが走る。
 そんな新学期だった。