「未咲、今まで本当に悪かった。謝って済むことではないと分かっている。ごめんな……」
 机に額が当たるぐらいに頭を下げた父に、私はやめてと呟く。

「未咲は子供の頃から聞き分けの良い子で、自分のことを全て自分でするしっかり者で、明日香に何でも譲っていた。でもお母さんとお父さんは、それを当たり前だと思ってはダメだと分かっていた。未咲も明日香と同じ子供で、そこには意思も言い分もある。主張がない方を蔑ろにしてはならない。そう思っていた。……でも明日香の癇癪が酷くて、未咲が譲ることで落ち着いていく。それを繰り返すうちにそれが当たり前のようになり、いつしかそれが未咲の本心だと思い込んでいた。本当に悪かった……」
 私は小さく首を横に振る。
 その頃には、私もそれが本心だと思い込んで話していた。だから両親に察して欲しかったと、言うつもりはなかった。

「お父さんは、明日香とどう関わって良いか分からなかった。お母さんや未咲は明日香と上手く関われているのに、お父さんが世話をしようとした途端に癇癪を起こすようになり、宥めようとすると痙攣まで起こす。お母さんは、明日香は男の人が苦手だからと言ってくれたが関わり方が悪いのは分かっていた。だから癇癪を起こさせないように明日香と関わらないようになり、自然とお母さんと未咲とも距離を取るようになった」

 父はそうゆうけど、姉が男性を避けていたのは幼少の頃より明らかで、父が悪いところがあるとすればこの高い身長に男性らしい低い声だったことだろう。
 当然ながらそんなことどうしようもないが、父からしたら苦しかっただろう。娘が自分を見る度に頭を叩き、ひっくり返って大声で叫ばれるのは。

「そんな時にお母さんの病気が分かり、お父さんがしっかりしないといけないと思った。だけど実際は仕事と家事が両立出来なくて。結局、小学二年生だった未咲を頼っていた。洗濯、食器洗い、ゴミ捨てとかの細かなことまで。それはエスカレートしていき、明日香の世話、年々弱ってきたお母さんの世話まで娘にさせてしまった。このままではダメだ、未咲を頼ってはいけない。分かっていたけど仕事後に行く食事の買い出し、町内の仕事、明日香の福祉関係の書類、お母さんの癌治療の書類、市からの書類。お母さんがやってくれていたことが全てこっちに来て、お父さんもいっぱいいっぱいになってしまっていた。そんな時にお母さんの癌が転移して助からないと分かり、お父さんは寝込んでしまった。本当ならお母さんを支えないといけなかったのに。母親を失くす娘達に、寄り添わないといけなかったのに……」
 言葉に詰まらせた父は、額に手を当て俯いてしまう。
 あの時の父の姿は覚えており、共に死んでしまうのではないかと思うぐらいに痩せ細っていった。
 家族を亡くす悲しみ、私達を一人で育てなければならない重圧。それを吐き出せたり、支えてくれる親族も居ない。精神はもう限界だったのだろう。

「お母さんが亡くなり、明日香は毎日癇癪を起こして痙攣が止まらなくなった。冷静に考えれば明日香に母親の死に目に合わせるべきではなかったが、あの時は気が動転してそこまで頭が回っていなくてな……。痙攣が止まらないことが頻繁して、何度も救急車で運ばれ、このまま繰り返していけば血管が切れ最悪の場合死ぬかもしれないと宣告された。目の前が真っ暗になったよ、明日香まで失うのかと。まともに向き合ってこなかったくせに、こんな時だけ親みたいなこと思って、情けなかったよ。塞ぎ込むお父さんに、未咲は祖父母に頼れないかと初めて聞いてきた。お母さんの両親は既に亡くなっていたし、親族は遠方だから頼れない。そこまでは事実だし、話して良かった。……だけど、お父さんの両親は明日香の障害を理由に絶縁してきた。ずっと隠していたことを、未咲に言ってしまった。子供に、そんな残酷な事実を……」
 目を潤ませた父は私から目を逸らし、親指と人差し指で目頭をグッと抑える。
 お父さんの気持ちは分からないけど、理解は出来るよ。
 だって自分の親から拒絶されるなんて、自分の家族を認めてもらえないなんて、辛いに決まっているから。

「そんな時に未咲がまた寄り添ってくれ、明日香の世話をするから大丈夫だと言ってくれた。あれほど激しい癇癪を起こしていた明日香は落ち着いていき、未咲に母親のように甘えていた。未咲はその時、まだ小学五年生だったのにな。……お父さんは半年ぐらいでようやく立ち直り、明日香は行政支援を頼りつつ三人で生きていくと決めた。今度こそ父親になって、娘二人を育てていかないといけない。そうしないとお母さんも安心出来ない。そう自分に言い聞かせて。だけど、明日香は父さんを拒否した。それはそうだろうな。ずっと関わりを避け、肝心な時に寄り添ってくれなかった父なんて。その時の明日香は幼少期より知能はあったし、話をすれば分かってくれたかもしれない。だが、父さんの顔を見るたびに大声を出し泣き叫ぶ姿に責められていると苦しくなり、お父さんは完全に明日香から目を逸らしてしまった」

 それから姉は多感な時期を迎え、父だけでなくヘルパーさんまでもを拒否するようになった。
 こうして姉と私の世界はどんどんと狭まっていき、そして。

「次は流行り病で会社は倒産し、就職が一向に決まらなかった。そんな時に高校受験を控えた未咲に、高校進学を辞めてアルバイトをすると言われた。……とにかく情けなかった。家のことを散々させて、生活まで不安にさせるなんて。だから過酷だと言われている、長距離トラックの運転手に転職した。とにかく、生活の心配だけはさせたくない。その一心だった。しかし就職すれば話が全然違う。明らかに労基違反だと分かっていたが、何も言えなかった。それを主張し退職に追い込まれた同僚も居て、一年半かけて見つけた仕事を辞めるなんて。未咲に高校辞めて働くなんて、言わせたくなくて」

 私の言葉が、父を追い込んでいた?
 段々と強張っていく表情に、父は違うと否定し話を続けていく。

「そうしていくうちに、いつのまにか飲み込まれていた。同僚達に会社の体制がおかしいから全員で抗議しようと提案されても断り、自分が辞めたら同僚達に負担がいくからと辞めれれなくなり、どんどんと過酷な勤務が当たり前だと思っていき、現状を変えようとしなかった。そんな時、未咲に仕事を辞めて欲しいと言われた。それを言われた瞬間、言葉に詰まってしまった。また子供に心配をかけさせてしまった。父親失格だ。情けなくて、何も言えなかった。だから、せめて経済的に不安にならないようにと働き、明日香を不穏にさせないように細心の注意を測った。もうお父さんに出来ることは、それしかないと思ったから。だけど未咲が保育園に通っていた時の先生、佐伯先生から明日香を預けて未咲を休ませてあげたいと電話がかかってきた。そこでようやく、未咲にどれほどの負担をかけてきたかを振り返れてようやく避けていた現実に目を合わせることが出来た。未咲、今まで悪かった。未咲を大人にとって都合の良い子に、物分かりの良い子にさせてしまった。全て、お父さんが悪かった」

 その言葉に胸が熱くなった私は、首を横に何度も振る。
 私がこうなったのは父のせいではなく、環境のせい。
 だけどそうならなければならなかった私を理解してくれたことにより、本当の私が顔を覗かせてくる。

「未咲はどうしたいんだ? この先の人生、どうやって生きていきたい? 明日香のことは関係なく話してくれないか?」

「私は……」
 姉のことは関係なく。
 切り離して考えてしまって良いのか?
 そんな考えが私の中で過り、言葉に詰まってしまった。

「ちょっと待ってくれる?」
 父の言葉を胸に階段を駆け上がると、開けたのは自室のドア。
 卒園時に保育園からもらったアルバムノートを開けると、そこには京子先生と無理に口角を上げて笑う私。
 それを閉じた私は一冊の冊子を本棚の奥より取り出し、父が待っているリビングへと向かっていく。