「先生が引っ越した理由はね、主人を亡くして実家に戻ったからじゃない。母親の介護だったの」
「え?」
 初めて聞かされる事実に、また言葉が消えていく。
 先生がこの町を去ったのは先生の旦那さんが亡くなったばかりだったし、疑問に思ったことすらなかった。

「警察の人から、母が家でボヤ騒ぎを起こしたって連絡があったの。実家に戻ると近所の人から夜中に歩き回ってることもあると聞いて、病院で検査を受けたら認知症だと診断されてね。だから母親を一人にしておけないと、同居の為に引っ越したの。高校生だった子供達に転校までしてもらって。それが当然だと思っていたのよね、家族なんだから……と」
 ぼんやりと見つめる先は、姉により傷を付けられた腕。
 しかしよくよく見ると、薄っすら縦線に傷の痕があった。

「想像以上に大変だったな。目を離すとすぐに外に出て行こうとするし、料理しようとして空鍋に火を付けたり、危ないからIHにしようと提案しても年寄り扱いするなと嫌がるし、トイレの失敗してもオムツ嫌がるんだよね。自尊心もあるから」
 そこには姉の世話以上の過酷さがあった。

「何度言っても分からない母に怒り、時には怒鳴り、手が出そうなことなんて数えきれないぐらいにあった。それだけはしないと決めていたから、その時は自分の腕を噛んだり引っ掻いていた。こうして自分を傷付けることで精神を保っていたんだよね」
 遠くを見つめる目は、次に私の腕をとらえる。
 以前姉に引っ掻かれた腕の傷はとっくに消え、何の痕もない。

『このままでは未咲ちゃんが、自分を傷付けてしまうから』
 その言葉の真意が、ようやく分かったような気がした。

「先生が母に怒るのは相手の為じゃない。怒りに任せてしていたこと。そこに優しさなんか皆無で、ただ毎日をこなすだけだった」
「先生が?」
「うん、大人なのにね。……母はしっかりしていて、優しくて、尊敬出来る人だったからこそ分からないことばっか言うのが悲しくて、辛くて、やるせなかったの。認知症のせいだと分かっていても、もう戻らないと分かっていてもね。嫌な自分に出会って、優しく出来ないことに自己嫌悪して、ただ生活をするだけで時間が過ぎていく。とにかく時間が止まってくれないかと願っていたな。その間に寝れるのになって」
 考えていることはあまりにも一緒で、しかも先生はしっかりしていた頃の相手を知っている。辛かっただろう。
 気付けば私は、両手をギュッと握り締めていた。

「介護を終えた身としての経験を話すとね、それだけで生きてはならない……かな? 母が亡くなって何も残らなかったし、どうやっても失った五年間は戻ってこない。それが、介護を終えるということなの」
 光りのない目で、話は続いていく。

「先生の場合は高齢の母だったから五年だったけど、明日香ちゃんはまだ十七歳。成長することもあるけど、誰の手も借りずに生きていくことは出来ないと思う。だからずっと寄り添って世話をすることは、自分の人生を投げ出すことと同じ。それが、誰かの為に生きるということなの」
 こちらに向けてくる目は意思が強くあるものだけど、どこか力が抜けているようにも感じる。
 痩けた頬、骨ばった腕、小さくなった体全体。
 この姿が、未来の私なのだろうか?

 私達は双子なんだから、当然だけど同じように年齢を重ねていく。
 姉をこの先も見るなら、終わりがいつくるのかは分かるはずもない。……その時、私は何歳になっているのだろう?

 ドクっとなる心臓。目を逸らしていた現実を叩きつけられた恐怖。
 私は、どれほどの時間を失ってきたのだろう?
 これから、どれほどの時間を失うのだろう?

「誰かの為に生きる。その考えを否定する気はないけど、その時間は返ってこない。その最中にいる時は明日を迎えることしか考えられないから、思考停止してしまうの。距離を取ったり終わりを迎えることでようやく、自分に目を向けられるようになるからね」

 だから、私達を引き離してくれたんだ。
 一度、その最中から抜け出す為に。

「……いつか、明日香ちゃんを恨む日がくるかもしれないからね? 二人には仲が良い双子でいて欲しいと先生は願ってるの」
「え?」
 瞳の奥より見える、物悲しさ。
 人を恨むのは、これほど辛く悲しいことなんだ。

「だからこそ、将来を決める今向き合わないといけないの。何があったの? 未咲ちゃんが明日香ちゃんを一人にするなんて、よっぽどのことがあったんじゃないの?」
 ずっと触れて欲しくなかったことだけど、京子先生はそのことについて触れてきた。
 それは今、向き合わなければならないことだからだろう。