瞼を開けば、いつもと同じ天井が広がっている。
 だけど違うのは二つ。隣の布団は畳まれ空になっていたこと、そして枕元に置いておいたスマホがなくなっていたことだ。

「おはよう」
「おはようございま……。え!」
 慌ててリビングに行き柱時計に目をやれば、時刻は十一時半を差していた。
 一体、私は何時間寝ていたのだろうか?

「ごめんね。これ返すね」
 先生に渡されたのは透明のケースカバーに入った私のスマホで、目覚まし機能がオフになっていた。
 切ってくれたんだ。

 姉のことを気にしながら寝るのは正直しっかり休まらないし、眠りも浅くなる。
 だから私はずっと睡眠不足で、疲労感から隈が出来るほどだった。
 だけど私は今日、心から安堵してゆっくり眠ることが出来た。アラームで起こされなかったから、目が覚めるまで眠ることが出来た。
 何も気にかけず眠れるって、こんなに幸せなことだったんだ。

 当たり前のように出されたトーストと目玉焼きを食べ、食器を持っていけば洗ってもらえる。
 夏休みの宿題は終わっているかを聞かれ終わっていると返すと、また好きなことをして良いと時間を与えられた。

 本当は遅れている勉強をするべきだろう。
 だけど、それは何の為?
 それを学んだ先に、何が待っているのだろう?
 そんな考えがぐるぐると巡り、私は何がやりたいのか分からなくなってしまった。

「今日の夜、お父さんが帰って来るね。だから、少し二人で話をしようか?」
「……はい」
 やることもなく俯いてしまった私に、先生は正面のイスを引いて座り、話しかけてくれる。

「これが子供が過ごす、普通の生活だからね? お風呂にのんびり入って、ご飯の準備がされてて、シンクに食器を持って行ったら洗ってもらえる。洗濯だってしてもらえるし、畳むのは自分の分だけ。勉強したら、後は好きなことができ、自分の時間が持てる。少なくても先生の子供達は、そうゆう環境で育ったの。未咲ちゃんは、小学二年生の頃から家事をやってたんだよね? それって、おかしいことだと思わない?」

 しかし、私からすれば他所の家はそこまでやってもらえる方がよく分からない。それはうちが、父子家庭だからだろうか?

「明日香ちゃんのお世話は、物事着く頃から始まっていたよね? だって思い通りにならないと泣き叫ぶ子が居たら、自然とそっちに譲ることになるから。好きな物も、好きな色も、両親も……」
 親の話にピクッとなる体。
 私は姉に全てを譲ってきた。一番欲しかったものさえも。

「確かに、明日香ちゃんが頭叩くのは辛いよね。子供の頃に痙攣を何度も目の当たりにしてるし、兄弟でそんな子が居たら怖くて仕方がなかったよね?」

 ……怖かった。姉の体はガタガタと震え、焦点が合わない目に、奇声を上げる姿が。

 どうしてこんなに体が震えるの?
 苦しくないの?
 お姉ちゃん、死んじゃうの?
 私もいつか、こうなってしまうの?

 ずっと、両親に教えて欲しかった。
 だけどそんなこと口にして、また親を泣かせてしまったら。
 そう思うと聞けるはずもなく、私はその言葉を飲み込んだ。

 だから、姉の感情が揺れないように私が我慢した。
 そうしたら何も起こらずうちは平和だから。
 姉は苦しい思いをしなくて済むから。
 両親は姉のことで疲弊しないから。
 私が求められている私を演じてきたら、全て丸く治るから。

「でもね、未咲ちゃんが全て我慢するのも違うよね?」
 まるで私の心を読んでいるかのように、京子先生はそう言ってくれる。
 だけど、仕方がないよね?
 だって、私は分かるけど姉は分からない。不安な世界で一人生きているのだから、私が我慢しないといけない。
 そう思って生きてきた。

「自分の具合悪くても?」
 言葉が出てこない私に、問われた言葉。

「熱出しても、お腹痛くても、それを隠して登園していた。どうして?」
 十五年近く前のことを今でも覚えてくれている。あの頃の苦しみさえも。
「ごめんなさい」
「謝って欲しいのではなく、理由を聞いているの。どうして?」
 どうして? そんなの、私が具合悪いなんて言ったら。

「お母さんに迷惑かけるから?」
 先生は全てを見透してくる。
「いつも無理して笑っていたのも分かっていた」
 私の本心を。

 夏休み前に保育園時代のアルバムを捲った時。子供の頃の写真を見て苦しくなったのは、そのせいだったんだ。
 口角は上がっていたけど、目に光がない。作り笑いだったのだから。

「お母さんが入院治療になって明日香ちゃんは短期入所で預かってくれることになっていたけど、お母さんの治療が一旦落ち着いたら明日香ちゃんも帰ってくるよね。急に知らない場所に泊まらないといけなくなって、帰って来たらお母さんが弱っていた。そんな姿を見た明日香ちゃんはどうなっていた?」

 すごい癇癪を起こしていた。だからお母さんから離れなくて、ヘルパーさんの世話も受け付けなくて困ってて。お母さんは治療で疲れていて世話なんて一切出来る状態じゃなかったけど、当時の姉はそれが理解出来るほどの冷静さも知能もなかった。

 だから、私が代わりに世話をした。
 姉と顔が同じで、母の面影がある私を受け入れてくれたから。私が見ると決めた。
 姉にそんな顔して欲しくないから。これ以上ヘルパーさんに迷惑はかけられないから。母を安心させたいから、亡くなってからもずっとずっとその一心で。

「夏休み前に、車で送ったことあるじゃない? 未咲ちゃん、制服を着た子をぼんやり見ていたよ。同じ高校の子じゃない?」
 亜美と渚を見かけた時だ。

「光のない目で、遊びに行く子達を眺めていた。これから先も、自分の将来とかやりたいことを犠牲にして生きていくつもりなの?」
「ぎ、犠牲だなんて……」
 やっと出た声は裏返っていて、どんどんと詰まっていく。だから否定しようと首を横に振るけど、果たしてそれは本心なのだろうか?

「ごめんなさい、言葉が強すぎた。……先生の本音が出てしまったな」
 本音?
 ずっと俯いていた顔をゆっくり上げると、眉を下げ、私から目を逸らし、唇を噛み締めている先生の姿があった。