もしも、巡る季節が止まってくれたら

 家に着く頃には周囲はすっかり暗く、街灯に照らされているけど家の中は真っ暗だった。
 姉は電気は付けられるに、室内は暗い。
 ……出て行ってしまったのか?

 最悪の事態が脳裏によぎり、体がガタガタと身震いを起こす。
「大丈夫だから」
「はい」
 首に掛けてあった鍵を出して、通常の玄関鍵に差し込む。すると確かな手応えがあり、ガチャと音を鳴らした。
 玄関ドアをそっと開けると、そこには。

「みーちゃん!」
 掠れた声を上げた姉は、ただその身を寄せて強く抱き付いてきてくれた。
 先生が玄関の灯りを付けてくれ姉の状態を確認すると、手足に擦り傷はあったが、大きな外傷はなかった。

「はぁ……」
 大きく、大きく溜息が出る。
 良かった。家にも多くの危険がある。
 包丁、コンセント、鏡、ガラス、水、階段からの落下。
 その他にも、私達には想像つかないものまで。

「一人で外に出たらいけない約束、よく守れたね」
「大地と、京子先生と、約束したから……」
 姉は私の充電が切れたスマホをずっと握り締めて、帰りを待っていた。電気を付けるのも忘れるぐらいに。

「ごめんね、お姉ちゃん! お姉ちゃん!」
 こんな暗闇で待たせて。怖い思いをさせて。一人だけ遠くに行こうとして。

「私、ちゃんとするから! こんなこと二度としないから! だから、これからも一緒に暮らそう!」
「みーちゃん!」
 しゃくり上げる姉を強く抱き締めて、もう大丈夫だと告げる。
 私はもう、絶対にこの手を離さない。絶対に。

 ……だけど、この思いとは別に私達の体は離されていく。
 京子先生の手によって。

「……先生?」
 どうして? どうして、こんなことをするの?

「あーちゃん、お泊まりに行こうか?」
「え?」
 その言葉に顔を見合わせ、目を泳がせる私達。
 意味が、全く分からない。

「やだ」
 姉は私に寄ってきて、先生に許しを蒙るように首を横に振る。
「先生? どうして? 私が側に居るから、その必要はありません」
 姉を私の後ろに隠し、言葉で説明出来ない姉の代わりに代弁する。
 そんなこと、私達は望んでいない。

「未咲ちゃん、落ち着いて聞いてね。ずっとじゃないよ。一時的。ほんの少しの間、明日香ちゃんを入所施設に預けよう。だから、お父さんの連絡先教えてくれる?」
 真っ直ぐに私達を見つめてくる瞳が潤んでいる。
 どうして?

「ダメです。お姉ちゃん怖くて、頭叩いてしまうから……。痙攣起こして苦しむから」
 後ろにやった姉の手をギュッと握る。
 だから姉は私が守らないといけない。
 誰かに託すことは出来ない。

「でもね、このままでは未咲ちゃんが自分を傷付けることになると思うの。だから……」
「私なんてどうでもいいです!」
 声を荒らげて、その考えを否定する。
 だって、そうしないと家族を守れないんだから。

「人を支える為には、まず自分を大切にしないといけない。そんな言葉聞いたことない?」
「え?」
「保育の勉強をする時に、講師の先生に一番に言われる言葉なの。だって人間相手にする仕事なんだからね。そこには精神的な安定が求められる。自分の基盤が出来ていないのに、誰かを支えるなんて出来ない。それは泥濘んだ土砂でフラフラとする相手を支えようとするけど、自分も安定しないから共に倒れることを差すらしいの。それではダメでしょう? まずは自分の基盤を作らないと。自分の安定計らないと。そこで初めて人に目を向けて良いの」

「私が……未熟だから……?」
 だから姉の世話をしてはいけないの?

「うん、未熟。だってまだ子供なんだから。先生から見たら高校三年生なんてまだ子供で、自分の基盤すら出来ていない不安定な時期なの。進路に悩んだり、交友関係に悩んだり、自分のことで悩んだり、誰かのことで悩んだりして、人に割く時間なんてない。今、未咲ちゃんがしていることは大人がすることなの。……先生はこのまま、未咲ちゃんが大人になってしまうことが怖い。子供時代を過ごせないまま、大人になってしまうことが。誰かの為に、自分の人生を諦めて生きていくことが」
「それは、私の決めたことだから」

「じゃあ、どうしてあの海に居たの? 誰かの為に生きる人生が、苦しくなったからじゃない? 本当にこのままの人生を生きて良いのか、分からなくなったからじゃない? 先生は泣かない子の方が心配だと言ったよね? そうゆう子は自分を責めて、突然大きな行動を取るから。だから、ね?」
 濡れた足は突如ひんやりとしてきて、べちゃべちゃとして気持ち悪い。

 そうだあの時、私は時の流れを止めたいと願ってしまったんだ。
 もし京子先生が来てくれなかったら、私は今頃。
 自分の思考に力が抜けた私は、玄関にしゃがみ込んでしまった。

「未咲ちゃん、少し休もう。明日香ちゃんの為でもあることだから。共に倒れてしまう前に」
「……はい」
 私が小さく頷き父の電話番号を告げると、デニムのポケットより出されたのはスマホ。
 父に電話をする為に、玄関ドアを開けて外に出て行った先生の声が僅かに聞こえてくる。それは私達に話しかける時のような柔らかな声ではなく、大人として凛としたものに変わっていた。
 それにより事態を重く感じた私は、気付けば体がカタカタと震えていた。

「みーちゃん?」
 しゃがみ込み震えている私に寄り添い、起き上がらせてくれようとする存在。心配してくれているんだ。
 だけど足には力が入らず、私は立ち上がれない。そんな私に、姉はまたポロポロと泣き出してしまった。

 玄関より僅かに漏れてくる声は、先生が父に連絡を取っている話し声。
 私を一切責めず、ただ休ませてあげて欲しい。ゆっくり寝かせてあげて欲しい。そう頼んでくれていた。
 事態を知った父は現在仕事で遠方におり帰ることは出来ないが、ケアマネさんに連絡を取ってくれ緊急で姉を預かってもらう話が進んでいった。
 私を起き上がらせてくれ濡れた靴や靴下を脱がせくれた京子先生は私をリビングのソファに座らせてくれる。
 父に許可をもらったからと泊まりの準備までしてくれ、私はその姿をただ呆然と眺めていた。

「みーちゃん」
 私の顔を覗き込み、シクシクと泣く姉。もう精神的に限界で、抱き締めないと癇癪を起こすだろう。

「ごめんね、お姉ちゃん」
 だけど私には出来ない。姉を支えられる基盤が出来ていないから。共に倒れてしまうから。このままでは、私達に未来はないから。

「やだ! やだー!」
 久しぶりに放たれる、キィキィと叫ぶ甲高い声。
 リビングでひっくり返り、足をバタバタとさせ、頭を拳で叩く。
 そんな姉に、私は無意識に手を伸ばしていた。
 しかしそんな姉に手を伸ばし抱き締めてくれたのは、京子先生だった。
 激しく暴れる姉に動じず体を密着させ、背中をトントンと優しく叩いてくれる。

「ここは先生がするから、未咲ちゃんは二階に行ってて」
「でも……」
「痙攣止めの坐薬は冷蔵庫の中にあるんだよね? 必要な時は頼んで良い?」
 そう言いながら姉に頭や顔を叩かれても、引っ掻かれても表情を崩さない。
「先生は発達障害児支援士の資格持ってるから、パニックの対応も心得てるの。退職前までは自閉症の子を受け持ちしていたし、大丈夫。任せて」
 だから姉との関わりもこれほど上手なんだとどこか腑に落ちたけど、だからと言って姉の癇癪を全面に頼ることなんて出来るはずが……。

「明日香ちゃんの為でもあるから、お願い」
 そんな私の心を読んだかのような返答に、私はようやく二階の自室に閉じ籠る。
 暗い部屋で壁に背を預けて、両手で耳を塞ぐ。
 しかし姉の叫び声はそこまでも響き、私の胸を強く締め付けてくる。
 そうだ。だから私は……。

 その後一度は静かになるも呼び鈴が鳴り玄関が開くと、よりけたたましい声が響き渡り、私の体は反射で立ち上がりドアノブに手を掛けていた。

『明日香ちゃんの為でもあるから』

 頭の中で過った言葉に手の力が抜けていき、私はまた壁に体を預けて目を閉じる。