気付けば私は五十嵐くんに別れを告げた浜辺に辿り着いていて、二人で並んで座った石垣にそっと腰を下ろす。
 空を見上げれば小さくなった入道雲と薄い雲が混在していて、オレンジ色の夕日に、それに照らされて同色に染まる海。
 波は、押しては引いてをただ繰り返している。


 もう日が暮れるんだ。早いな。
 気付けば太陽は水平線に吸い込まれようとしていて、周囲は薄暗く、空は茜色に彩られていた。

 私は、この場所にどれぐらい居るのだろうか?
 時間の感覚が分からない。 

 私の目はどうしてしまったのだろうか?
 空に広がる雲が、沈んでいく夕日が、景色が、全てが歪んで見える。

 私の耳はどうしてしまったのだろうか?
 蝉時雨も、押しては引いていく波の音も、風の音も、何も聞こえない。

 それだけじゃない。
 潮の香りも、抱える膝の体温も、地面に足が付いている感覚もせず、体がふわふわと浮いているような錯覚を起こして気持ち悪い。
 ずっとご飯の味なんて分からなくて、砂を噛んでいるようで、空腹なんて感じなくて。
 頭がガンガンと痛くて、目がチカチカして、耳がキーンと鳴って、胸には何かがずっと詰まっていて息苦しい。
 こんな生活、いつになったら終わるのだろうか?

 日が暮れて、星が出て、また日が登って、また沈んで、その繰り返し。
 それを、あと何回見るのだろう?

 空は入道雲から薄い秋空に変わって、灰色の乱層雲となり雪を降らせ、また春が訪れる。
 春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来て、季節は巡っていく。
 ……そっか、終わらないんだ。

 この海の波が止まないのも、夜眠ったら朝が来るのも、夏が終わって秋が来るのも、全て止まらないことなんだ。

 止めたい。時の流れを、季節の巡りを止めてしまいたい。

 視線を下せば、目の前に光る海。
 立ち上がった私の足は、どんどんと前に進んでいく。

 未咲。未だに咲かない花。
 まるで一生花を咲かせることのない人生だと、名前にまで言われているみたい。

 足を動かす度に、砂が鳴る。
 海に近付くと波が音を立てている。
 ああ、音が聞こえる。

 夏の海はどこか温かくて、一歩、また一歩と進む度に深くなっていって、私の体を包み込んでくれるみたいでどんどんと前へと進んでいく。

 顔を上げれば茜色の夕日に海が全面に広がっていて、その景色は五十嵐くんと一緒に居て時間を止めて欲しいと願った、あの日を彷彿させてくる。

 あまりにも美しい夕日に視界は開けていき歪みは消え、頭は痛くなくなり耳鳴りもしない。

 私、やっと楽になれるんだ。

 虹色に輝いた夏が終わる前に、五十嵐くんと見たこの美しい夕日が沈んでしまう前に、時間を止めてしまいたい。
 もう、疲れた……。




「未咲ちゃん!」
 その声と手を掴まれた感覚に、体がピクッとなる。
 ゆっくり振り返ると目の前には優しい笑顔を浮かべた人が居て、呼び止めてくれたのは京子先生だった。

「日暮れを一緒に見よっか?」
 息を切らせ、額からは汗が流れているのに、穏やかな口調は変わらなかった。

「はい」
 先生に手を引かれ海から出た私は石垣に座る。紐履とジーパンは太腿ぐらいまで濡れていて、そこに砂が混ざっている。
 普通なら靴に入った海水の感触が気持ち悪くて、海水がまとわりつく足がベタベタして、砂がジャリジャリするけど、そんな感覚が分からない。
 自分が何をしようとしていたのかも。

 呆然とする中で太陽は水平線へと消えていき、次に光るのは丸い月に散らばる星々。
 時の流れは当たり前だけど誰にも平等で、私が止めても姉の時間は止まらない。

「……先生」
「うん?」
「私、帰らないと」
「うん。送るからね」
「ありがとうございます」

 駐車場に乱雑に停められた車に乗せてもらった私は助手席に乗せてもらい、車はスピード出し走り出した。
 京子先生を見ると顔に焦りがあり、状況を理解しているのだと分かる。

「……先生」
「ん?」
「私……、姉を置いてきてしまいました」
 大きく息を吐き、自分の過ちを先生に告白した。

「違うよ、散歩していただけでしょう?」
「違う! 違います! 私は。私は、姉を置いて行ったらどうなるか分かっていたのに!」
 言葉にした途端に実感する、己の罪。
 こんなこと、血が通った人間がすることじゃない。

「それって未咲ちゃんのせい?」
「そうです。私が見ないといけないのに!」

「どうして?」
「だって、家族だから!」
「どうして、家族だと見ないといけないの?」
「だって……、だって……」
「どうして未咲ちゃん一人が、そんな責任負っているの?」
 先生が言っている意味が分からない。
 だって、家族だから。
 家族が家族を支えるのは、当たり前だから。

「大丈夫、明日香ちゃんは家で待ってるよ」
「え?」
「先生に電話をして来てくれたのは明日香ちゃんなの。未咲ちゃんが居なくなったから、探してほしいって。すごいね、明日香ちゃん。怖いから家に来てじゃなくて、未咲ちゃんを探してと頼んできたの」
「お姉ちゃんが……?」
 ハッとなりジーパンのポケットを探るもスマホはなく、家に置いてきたのだと分かる。まさか、それで電話したの? パスコードを自分で解いて?

「未咲ちゃんは先生が探すから、明日香ちゃんは家に鍵をかけて待っててと言ったの。明日香ちゃんを安心させる為にずっと呼びかけていたんだけど、充電切れみたいで切れてしまってね。でも明日香ちゃんは家で未咲ちゃんが帰ってくるのを待ってると言っていた。だから、約束守って待っててくれるんじゃないかな?」
 車のデジタル時計は、十八時四十五分と表示されている。私は何時間、家を空けていたのだろう?

「でもお姉ちゃん、今頃泣いて……!」
 不安に押し潰され泣き叫んでいるであろう姉を思うと、息が苦しくなっていく。
「うん、泣いてるだろうね。でもね、先生は泣く子より泣かない子の方が心配かな」

 ……あ。
 私、この状況でも涙の一つも流していないんだ。
 普通、後悔して泣くよね。
 姉を案じて泣くよね。
 自責の念から泣くよね?
 それなのに私の目は乾き、込み上げてくるものなんて何もない。
 どれだけ冷たい人間なんだろう。

「先生が言いたいことは、そうゆうことじゃないよ。一般的に考えたら健常の子と、知的障害を抱えている子が別々に問題を抱えていたら後者を先に手を差し伸べるじゃない? 今回の場合は特に、明日香ちゃんがまたどこかに行って事故に遭う可能性があったのに。だけど先生は未咲ちゃんを優先させた。普段感情を出さない子は、その反動で大きな行動を取ることがあるから。だから先生は、普段から感情を抑え込んでいる子の方が心配だな」

 ドクンと鳴る心臓。
 頭が痛くて、目がチカチカして、耳がキーンと鳴って、息苦しくて。
 私はあの時、何をしようとしていた?