小学五年生の時に母が亡くなって、姉は不安定になった。毎日大声で泣き叫び、頭を叩き、体をバタバタさせて、痙攣を起こして救急車で運ばれる。
 姉は乳児期に脳出血を起こしていて、普通の人より脳が脆い。だからこのまま繰り返すとまた出血を起こし、命に関わるかもしれないと主治医の先生に宣告を受けた父は、ただ愕然としていた。

 病院のベッドに眠る姉に、手を握り寄り添う父。
 私が支えないといけない。そう思った。
 だから父に、お姉ちゃんは私が見るから大丈夫だと話し、私が姉の母親になると決めた。
 大切な人を亡くしたばかりで悲しくて苦しかったけど、心は一旦横に置いて感情のない機械のように毎日をこなしていった。

 だって、どれだけ苦しくても時間は過ぎていくのだから。
 朝になればご飯を作らなければならない。
 洗濯をしなければならない。
 父には働いてもらわないと生活が出来ないし、姉をずっと家で塞ぎ込ませるわけにはいかない。
 姉は自分のことが出来ないから、私が学校の準備や片付けをやらないといけないし。その時は母を亡くして症状が重く出てしまっていたから一からのお風呂入れも、排泄の失敗も対応して、毎晩お母さんと泣きながら叫ぶ姉を抱きしめ宥めていた。

 私まで泣いてはいけない。
 巻き込まれてはいけない。
 私はお母さんの代わり。
 そんな時に自分の気持ちに寄り添う時間なんてあるわけもなく、私はただ目をギュッと閉じ時の流れに身を任せた。

 そうしていく間に気付けばお母さんが亡くなって四十九日間近となり、季節は巡っていた。
 姉の夜泣きは無くなり、それを聞いて共に涙を流していた父も落ち着いていった。

 やっと自分に目を向けられる。
 ヘルパーさんにお世話になっている間に、自室でお母さんとの思い出にゆっくり浸ろう。
 だけど、母の法事の時に告げられた。

「お父さんを支えてあげてね」
「お姉ちゃんを見てあげてね」
「未咲ちゃんは優しいね」
「お姉ちゃんの分も頑張ってね」
 私に降り注がれる言葉の数々。

 そっか、私はまだ頑張れていないんだ。
 病気で出来ないお姉ちゃんの分まで、頑張らないといけないんだ。
 周りが求める私にならないといけないんだ。
 家のことをして、姉の世話をして、優しくて、姉の分まで頑張らないといけない私。

 そうなる為に邪魔だったのは、感情。
 だから私は自分の心を無限に貯水出来るペットボトルに見立てて、強く蓋をした。
 そしたら楽になった。悩みも葛藤もない、時の流れに身を任せたら良いんだって。
 春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来てまた春。
 それの繰り返し。

 だけど私の心は時折、溢れそうになる。
 未咲はどうしたいの? 将来どうしたいの? 好きな人は居ないの?
 そんな優しい言葉を聞く度に。
 だって、そんなこと言ったらどうなるの?
 夢みたらどうするの?
 恋なんて知ってしまったら、戻れないよ。
 だから私は目を閉じ手を握り締めて、心に蓋をする。こうして生きてきた。

 だけどあなたと一緒に見た空はあまりにも広くて、青くて、海はキラキラと輝いていて、世界はこんなに広く美しいものだと知ってしまった。人を好きになる気持ちを知ってしまった。

 この気持ちは抑えられない。五十嵐くんを好きな気持ちは。
 この気持ちは絶対に口にしてはならない。望んではいけないことだから。
 だから私から、その手を離すと決めた。

「今までありがとう。看護師になる夢、絶対に叶えてね」
 私は心からの笑みを浮かべる。
 良かった。人の幸せを祈れる心が残っていた。
 これ以上、自分を嫌いにならなくて。

「お前だって、やりたいことあるだろ! 本当は……!」
「やめて!」
 私の荒らげた声にピクッとなった五十嵐くんは、口をゆっくり閉じていく。しばらくしまた口を開こうとする姿に、私が先に声を出した。

「私は家族と生きていく。それ以外の望みはないから。……ごめんなさい、ありがとう」
 立ち尽くす五十嵐くんの前を通り過ぎた私は、一人で砂遊びをしていた姉の元に行きそっと屈む。

「お姉ちゃん、帰ろう」
「……うん」
 私の様子から、ケンカしていると思った姉は萎縮してしまっており、何も言わず私に付いてくる。
 私は五十嵐くんの方に顔を向けず、姉の手を引っ張って行く。

「……大地は?」
 そう聞いてきた姉の声は震えていて、唇をキュッと噛み締めていた。

「五十嵐くんは勉強があるから、ね?」
「うん。またね、大地!」
 小さく手を振る姉に、五十嵐くんはいつものように返事をしてくれず、私はただ姉の手を引いて歩き出す。

 振り返ってはならない。余計に辛くなるから。時間は逆行しないのだから。
 そう自分に念じ、私はただ前へと進んでいく。

「みーちゃん」
「何?」
「また大地と会えるよね? 勉強終わったら会えるよね?」
 姉は言い知れぬ恐怖を抑え、私にそう聞いてくる。
 それほど五十嵐くんが、大切なのだろう。

「ごめん、ムリなんだ。五十嵐くんの勉強は終わらない。専門学校に行っても勉強は続くから……。だから二人で応援しよう」
 私は笑って、そう答えた。
「……うん」
 俯いたまま歩いた姉は、それ以上聞いて来なかった。

 ごめんね、ごめんね。私の勝手なんだよ。
 心なんてなければ良かったのに。そしたら私は、姉から五十嵐くんを奪わなくて良かったのだから。

 空を見上げると、入道雲と混在する薄い雲。
 それは、秋の訪れを知らせてくれる。
 巡る季節は止まらない。時間は止まってくれない。
 ずっと続く関係なんて、ないのだから。