「……ん」
 頬に当たる痛みで瞼を開き、顔を上げる。
 すると目の前にはテーブルに開きっぱなしになったドリルがあり、数学の問題集はまだ二問しか解いておらず側には芯が折れたシャーペンが転がっていた。
 終業式が終わり姉と買い物を済ませて、家でお昼ご飯を食べた。
 その後いつもの昼寝時間となり、姉が寝ている間に少しでも夏休みの宿題を進めておこうと思ったのに、私はいつの間か居眠りしてしまったらしい。
 ふっと窓に顔を向けると、オレンジ色の夕陽が部屋中を照らしていた。

「お姉ちゃん」
 テーブルに手を突き勢いよく立ち上がった私は、姉が眠っている寝室へと駆ける。
 しまった。寝かせ過ぎてしまった。夜寝てくれるかな?
 今の失態により、夜の自分を困らせる。
 そんな自分に溜息を吐きながら。

 しかしそこはペタンとしていて、横に放たれたままになっているピンクのウサギが描かれたタオルケット。
 そこに、姉の姿はなかった。

「お姉ちゃん!」
 シンと静まり返った部屋に私の声が響くが、それを返してくれる存在はない。
 心臓がドクンドクンと激しく鼓動を打ち、息は速く乱れていく。

「……二階?」
 姉とは二階には行かないと約束しているけど、なかなか約束を守れなかったりする。
 もしかして私の部屋に入って、何かを壊して……。
 こないだ部屋に入った時に鍵をかけたかを思い起こしていると、それ以上に最悪な光景が目の前に広がっていた。
 コンクリートで出来た玄関床に光る、赤色ハート柄のキーホルダー。それは太陽の光りで反射し、私に存在を知らせてくれる。

「え!」
 衝動的にジーパンのポケットを漁るも中に鍵はなく、そこに落ちているのが、それだと分かる。
 そしてようやく事態に気付く。青とピンクで装飾されたマジックテープで固定出来る運動靴が、なくなっていることに。

「お姉ちゃん……、お姉ちゃん!」
 玄関ドアをバンっと開け右に左にと首を動かすけど、目の前には車二台が通るには狭い舗装された道路に、その先に広がる生い茂る木々。空に広がるオレンジ色の夕陽だった。

 当てもなく駆け出そうとした足を止め、まずは家に引き返した。サンダルを乱暴に脱ぎ捨て、向かったのはリビング。テーブルに置きっぱなしになっていたスマホを手に取り、はぁはぁと息を切らせながら震える手で110と打ち込み通話ボタンをタップする。
 姉のことは以前より警察や地域で相談しており、もし行方が分からなくなった時に捜索してもらえるように申請していた。

「もしもし。姉が……、姉が居なくなってしまって!」
 震える声と共に、姉を探して欲しいと感情のまま叫んでいた。
 落ち着いて名前と状況を一から話して欲しいと電話口の相手の方に言われ、私はなんとか一呼吸置く。
 姉の名前と、家に居らず玄関ドアが開いていて靴がなくなっていると状況を説明していく。
 私のジーパンに入れておいた内鍵はいつの間にか抜かれ、それを使用し鍵を開け出て行ってしまった姉。
 内鍵は後付けで、認知症や知的障害など判断力がない人が一人で外に出てしまい事故などに遭わないようにする趣旨で作られた命を守る生命線。
 閉じ込めるなんて可哀想なんていう人もいるけど、仕方がない。命を守る為なんだから。

「お姉ちゃん! お姉ちゃん!」
 私は家の鍵をかけるのも忘れて付近を走り回り、喉が枯れるぐらいに叫んでひたすらに足を前に動かす。
 脳内がグラグラと揺れ、耳の奥がずっとキーンとした音を鳴らし、足はふわふわとして現実味がないけど動かすことをやめなかった。

 知的障害を抱える姉は、外の危険を本当の意味で分かっていない。以前にもあった、衝動的な道路への飛び出し。線路への侵入。夕日に照らされた川や海に魅了され、飛び込んでいるかもしれない。
 その姿は目に浮かぶほどで、全身より汗が滴り落ちてくる。

 とにかく私は姉の馴染みの場所であり、スクールバスの停留所である海岸方面の道に向かって駆け出す。

 あの内鍵は特殊で、開錠するには複雑な段取りが必要な構造となっている。だから姉には開けられず、どこか慢心していた。
 まさか寝ている私のポケットから鍵を取るなんて、開錠出来るようになっていたなんて気が付かなかった。
 どうしよう。どうしよう。どうしよう。

 吐き出す息は熱く、体全身はどんどんと熱くなっていき、横を猛スピードで走る車や追い抜いていく自転車が歪んで見える。
 お願い、止まって。姉にはこの危険が分からないの。そう叫びたい衝動を必死に抑えて。
 そんな場合じゃない。一刻を争う事態。瞬きする目に力を入れ、唇をギュッと噛み締め、ひたすらに首を左右に振り棒になったような足を動かす。

 ……助けて。誰か……。

『何かあったら連絡してね』
 そう笑いかけてくれた、京子先生の顔が浮かぶ。

 私はジーパンのポケットに押し込んだスマホを取り出す。

「京子……先生……」
 息を切らせながらメッセージアプリをタップする。
 そこには京子先生だけでなく亜美や渚の連絡先もあるけど、私は指を引っ込めてしまう。
 スマホの横ボタンを押せば画面は暗くなり、オレンジ色の夕陽がより色濃く反射する。
 空を見上げれば夕日は西の空に傾き、家屋の陰にどんどんと吸い込まれていく。
 再度スマホの横ボタンを押すと、映し出された時刻は五時三分。七月中旬の日没時刻を考えると、あと二時間もない。
 その事実に、心臓がまた跳ね上がる。暗くなってしまったら、捜索は困難を極める。
 それだけじゃない。姉は暗闇が怖く、暗くなっていく空にパニックを起こし、いつも以上に突拍子のない行動を取るかもしれない。
 背筋がゾクッとなるのを抑え、ただ私は前へと走っていく。

 ようやく海岸道路に辿り着くとそこは二車線であり、通り過ぎる車は一瞬で過ぎ去って行く。この道路の制限速度は五十キロ。こんな鉄の塊にぶつかったらと血の気が引くも、永遠と続く錯覚を起こす直進道路に目をやる。
 私は押しボタン信号も使用せず、車が途切れたタイミングで海岸側の道路へと横断する。
 石垣の向こうに見えるのは、オレンジ色に染められた一面に広がる海だった。
 ザザーン。ザザーン。押しては引いていく波に、綺麗だとも、心穏やかになることもなく、脳裏に過ぎることは一つ。それは水難事故だった。

 確かあれは、中学三年生の夏。今から三年前。
 小学生の子供三人が海で遊んでいて、溺れてしまったとニュースで報道されていた。
 あの日は夏休み前の終業式である学校が多く、あの地域の学校も午前授業だったらしい。
 だからなのか。
 学校が午前中で終わり、昼からプールに遊びに行っていた高校生が帰宅時に事故を目撃。助けようとした当時高校三年生だった生徒も共に溺れてしまった。
 結果、小学生三名、高校生一名。計四名が亡くなってしまったという痛ましい事故。

 終業式の日に起きた悲劇。
 そう報道されていたのを、私の頭に残っていた。

 ゾクッ。
 こんなにも外気も体も暑いのに、全身に走る寒気。
 普通に生きていた人達でも死がこんなに近いなんて、考えたことがなかった。
 だったら、姉は? 危険が分からない姉はどうなるの?
 そう思った私はずっと続いていく海岸沿いを駆ける。ほんの一時でいい、時間を止めて。ひたすらにそう願った。
 広がる夕陽に、上空を流れる入道雲に、波を立てる海に、音を鳴らす海風に。

 しかし時は平等に、無情にも過ぎていく。
 太陽は容赦なく西の空へと傾き、いつしかオレンジ色の夕日は茜色へと変わり、周囲は薄暗くなっていく。
 あと一時間で日没というところだろうか。
 どこ? どこに行ったの?
 最近の出来事をゆっくり思い返す。

『ここ、小さい時にお母さんとお父さんで来た場所なんだよ』
 前にお弁当を持って行った時、私は姉にそう声をかけた。
 まさか、あの休憩所?
 いや、姉があの時話した内容を覚えているわけ。
 それに場所だって、分かるわけ……。

 その方面と反対に走っていた私は、気軽に引き返すことなど出来ない。だって、この先に迷子の姉がいるかもしれないのだから。

 ……そもそも、姉はどうして居なくなった?
 それは、今まで開けれなかった鍵を開けれるようになったから。
 まさか、本当に?

 日没までの貴重な時間を使い、私は引き返す。一抹の希望を乗せ、家族の四人での思い出の場所へ。