『お姉ちゃんがまた叩いた! ジュース持ってった! 私のなのに!』
物心が付くか付かないかの頃。私は姉が、自他の境界を認識出来ていないという事を知らなかった。
『ごめんね、大丈夫?』
そう眉を下げながら近付いてきて、頭を優しく撫でてくれる母。
……お母さんに謝って欲しいわけじゃない。お姉ちゃんにやめて欲しい。そんな一心だった。
『何で、分かんないの? 人の物を盗ったらダメなんだよね? 叩いたらダメなんだよね? 何でお姉ちゃんは分からないの!』
今までの鬱憤が溜まっていた私は、感情のまま母に詰め寄っていた。
『ごめんね。お姉ちゃんは悪いことだって分かってないの。未咲が分かることでも、お姉ちゃんは分からない。そうゆう脳の病気で……』
『病気? 何それ?』
『お姉ちゃんは、お母さんのせいで……』
言葉に詰まる母の目からはスッと一筋の涙が伝っていて、目元を抑えて俯いてしまう。肩を震わせ嗚咽を漏らし、「ごめんね」の言葉をかろうじて口にしていた。
母を泣かせてしまった。
その事実が母をとらえている視界がグニャリと揺れて、息が苦しくなった。
それほど、いつも明るく姉や私に接してくれている姿からは想像の付かない出来事だった。
その日のことは今でも脳裏にこびり付いていて、今も夢で見るぐらいに後悔している。母は亡くなり、もう謝ることも出来ないのだと。
謝れなかった私だけど、出来ることはある。それは。
『お姉ちゃん泣かないで。こっちあげるから』
保育園のクリスマスプレゼントでもらった、赤とピンクで色分けされた双子うさぎのぬいぐるみ。そのピンクの方を姉に渡す。
泣きながら寝そべって手足をバタバタさせていた姉は泣き止み、パァと明るい笑顔が戻る。
『ありがとう未咲。……本当にピンクを渡して良かったの?』
『良いの。私、ピンクより赤の方が好きだから』
そうやって、何でも姉に譲るようになった。だって、そうしないと。
『うわあああああ!』
姉は激しい癇癪を起こし、その感情を抑えようと自分の手で拳を作り頭を叩き続けるから。
初めて見た時は意味が分からず体の奥より押し寄せる得体の知れない恐怖に震え、姉が何かに取り憑かれたのかと私まで横で大泣きしてしまった。
だけど、どれほど私が怯えても姉は元には戻らない。
両親は姉が癇癪を起こす度にその都度姉を抱きしめていて、背中をトントンと叩き宥めていく。
姉にとってはこれが一番らしく、私も姉が癇癪を起こせばそうするようになった。
だけど、どうしようもないことも当然ながらあった。どれだけ対応してもダメな時は。
『明日香! 明日香!』
体をビクンとさせ、ガタガタと大きく全身が震え出す。
母によって痙攣止めの坐薬を入れてもらうも姉は一向に落ち着かず、母は震える手でスマホを取り救急車を呼ぶ。
それは何度繰り返しても慣れることがなかった。
そうしていく間に私も成長していき、姉は知的障害を抱えているのだと子供用の本を読むことで知識を得た。
知能に遅れがあるから、同じ年の私が分かることでも姉は分からないこと。
感情がコントロール出来ないから、手が出てしまったり泣き叫んでしまうこと。
それは病気であり姉に一切の悪気がないこと。
そして、一番苦しいのは姉自身であること。
知識を得たことにより私は幼少期からの恐怖よりようやく解放され、姉を理解出来た。
そっか。わがままじゃなかったんだ。
こんなことも分からないなんて、そう思って悪かったな。
姉は色々と分からない世界で、一人戦っているんだなって。
だから、私が我慢しなければならない。
だって、私は分かるのだから。
『未咲ちゃんは、えらいね』
『優しいね』
『お姉ちゃんの分も頑張らないとね』
周囲の人より告げられる言葉の数々。
そこで私は、姉が障害を抱えたのは母が妊娠高血圧症になり母の命を守る為に三ヶ月も早く生まれてきたのが原因だという事実を知った。
早く生まれたことにより体が他の子より小さいのは父より聞いていたが、まさかそれが原因で姉が障害を抱えることになったなんて。
幼い頃。私は母に、何故姉は私が分かることが分からないのかを聞いてしまった。
だから母は泣いてしまったんだ。自分のせいだと思っていたことを、娘に聞かれてしまったから。
私達が小学二年生の時。母は姉と私の前で突如倒れ、震えて泣く父より癌だと告げられた。ずっと調子悪かったのに自分より姉ばっかの人だったから、ここまで進行するまで気に留めていなかったのだろう。
早く病院で検査を受けていたら、助かっていたかもしれない。そう思っても時間が巻き戻ることは当然なく、母は三年の闘病生活の末急変により亡くなった。
『明日香、泣いてないかな……』
『大丈夫。お姉ちゃんは私が見るから』
そのやり取りが最後となった。
だから、私は。
物心が付くか付かないかの頃。私は姉が、自他の境界を認識出来ていないという事を知らなかった。
『ごめんね、大丈夫?』
そう眉を下げながら近付いてきて、頭を優しく撫でてくれる母。
……お母さんに謝って欲しいわけじゃない。お姉ちゃんにやめて欲しい。そんな一心だった。
『何で、分かんないの? 人の物を盗ったらダメなんだよね? 叩いたらダメなんだよね? 何でお姉ちゃんは分からないの!』
今までの鬱憤が溜まっていた私は、感情のまま母に詰め寄っていた。
『ごめんね。お姉ちゃんは悪いことだって分かってないの。未咲が分かることでも、お姉ちゃんは分からない。そうゆう脳の病気で……』
『病気? 何それ?』
『お姉ちゃんは、お母さんのせいで……』
言葉に詰まる母の目からはスッと一筋の涙が伝っていて、目元を抑えて俯いてしまう。肩を震わせ嗚咽を漏らし、「ごめんね」の言葉をかろうじて口にしていた。
母を泣かせてしまった。
その事実が母をとらえている視界がグニャリと揺れて、息が苦しくなった。
それほど、いつも明るく姉や私に接してくれている姿からは想像の付かない出来事だった。
その日のことは今でも脳裏にこびり付いていて、今も夢で見るぐらいに後悔している。母は亡くなり、もう謝ることも出来ないのだと。
謝れなかった私だけど、出来ることはある。それは。
『お姉ちゃん泣かないで。こっちあげるから』
保育園のクリスマスプレゼントでもらった、赤とピンクで色分けされた双子うさぎのぬいぐるみ。そのピンクの方を姉に渡す。
泣きながら寝そべって手足をバタバタさせていた姉は泣き止み、パァと明るい笑顔が戻る。
『ありがとう未咲。……本当にピンクを渡して良かったの?』
『良いの。私、ピンクより赤の方が好きだから』
そうやって、何でも姉に譲るようになった。だって、そうしないと。
『うわあああああ!』
姉は激しい癇癪を起こし、その感情を抑えようと自分の手で拳を作り頭を叩き続けるから。
初めて見た時は意味が分からず体の奥より押し寄せる得体の知れない恐怖に震え、姉が何かに取り憑かれたのかと私まで横で大泣きしてしまった。
だけど、どれほど私が怯えても姉は元には戻らない。
両親は姉が癇癪を起こす度にその都度姉を抱きしめていて、背中をトントンと叩き宥めていく。
姉にとってはこれが一番らしく、私も姉が癇癪を起こせばそうするようになった。
だけど、どうしようもないことも当然ながらあった。どれだけ対応してもダメな時は。
『明日香! 明日香!』
体をビクンとさせ、ガタガタと大きく全身が震え出す。
母によって痙攣止めの坐薬を入れてもらうも姉は一向に落ち着かず、母は震える手でスマホを取り救急車を呼ぶ。
それは何度繰り返しても慣れることがなかった。
そうしていく間に私も成長していき、姉は知的障害を抱えているのだと子供用の本を読むことで知識を得た。
知能に遅れがあるから、同じ年の私が分かることでも姉は分からないこと。
感情がコントロール出来ないから、手が出てしまったり泣き叫んでしまうこと。
それは病気であり姉に一切の悪気がないこと。
そして、一番苦しいのは姉自身であること。
知識を得たことにより私は幼少期からの恐怖よりようやく解放され、姉を理解出来た。
そっか。わがままじゃなかったんだ。
こんなことも分からないなんて、そう思って悪かったな。
姉は色々と分からない世界で、一人戦っているんだなって。
だから、私が我慢しなければならない。
だって、私は分かるのだから。
『未咲ちゃんは、えらいね』
『優しいね』
『お姉ちゃんの分も頑張らないとね』
周囲の人より告げられる言葉の数々。
そこで私は、姉が障害を抱えたのは母が妊娠高血圧症になり母の命を守る為に三ヶ月も早く生まれてきたのが原因だという事実を知った。
早く生まれたことにより体が他の子より小さいのは父より聞いていたが、まさかそれが原因で姉が障害を抱えることになったなんて。
幼い頃。私は母に、何故姉は私が分かることが分からないのかを聞いてしまった。
だから母は泣いてしまったんだ。自分のせいだと思っていたことを、娘に聞かれてしまったから。
私達が小学二年生の時。母は姉と私の前で突如倒れ、震えて泣く父より癌だと告げられた。ずっと調子悪かったのに自分より姉ばっかの人だったから、ここまで進行するまで気に留めていなかったのだろう。
早く病院で検査を受けていたら、助かっていたかもしれない。そう思っても時間が巻き戻ることは当然なく、母は三年の闘病生活の末急変により亡くなった。
『明日香、泣いてないかな……』
『大丈夫。お姉ちゃんは私が見るから』
そのやり取りが最後となった。
だから、私は。



