「いつから未咲ちゃんが明日香ちゃんを見てるの? ケアマネさんは居るよね?」
「はい」
 ケアマネさんはケアマネジャーさんの略称であり、障害を抱える人や認知症などで支援が必要な人の世話について相談に乗ってくれる人を指す。
 ケアマネさんが支援サービスを色々と紹介してくれ、利用契約を手伝ってくれ、他にも困っていることがないかも気に掛けてくれる。心強い存在だ。


 私達が小学二年生の時に、母が血を吐いて倒れ癌が発覚し入院治療が始まった。
 うちは元々共働きで、母は育休後に復帰予定だったらしい。だけど姉の障害が分かり、手を掛けて育てなければならない子だと退職したらしい。
 父が仕事で家計を支え、母が家事と私達を育てると役割分担したのだろう。

 その母が入院となれば姉を見る人が居なくなる。
 そこでお世話になったのはヘルパーさんと呼ばれる訪問介護士さんで、姉が通う支援学校まで車で迎えに行ってくれ、渡してある合鍵で家に入ってもらい留守番してもらう。父が仕事を終え帰ってくるまで、勉強や遊びをしながら世話をしてくれた。
 治療が一旦落ち着くも送迎サービスや、放課後デイサービスと呼ばれる障害がある子の放課後の預かり場を利用するようになっていった。
 今考えると母は先が長くないことを悟ってて、姉の預かり先を広げる為に動いていたのだと分かる。

 私達が小学五年生の春。母は急変し亡くなった。
 また明日ねと、入院していた病院から家に帰り夕飯を作っていた時。父が帰ってきて何も言わずに姉と私を車に乗せて、行き先も告げずに車を走らせていた。
 あの日の海岸道路から見た夕日は今でも覚えている。

 病院に着いた時に母は口元に人工呼吸器を付けられていて、医師より心臓マッサージと呼ばれる救命処置を受けていた。体は脱力しきっていて目は半目、先程着ていたパジャマはハサミで切られ上半身は剥き出しだった。
 そんな姿を見た父は医師より処置を継続するかを問われて、もう充分頑張ったから楽にしてあげて欲しいと処置の中断を頼み母はそのまま亡くなった。

 家族が亡くなっても、当然ながら私達は生きていかなければならない。
 朝から始まる姉の世話に学校準備。スクールバス停留所まで送迎して、その後出勤。姉は週三で放課後デイサービス、送迎と留守番のサービスを週二で利用。父は十八時に仕事を終わらせて、十九時までの迎えの為に毎回走っていたらしい。

 しかし、状況が変わったのは中学校入学した頃。姉が、父や外部の支援サービスの人を拒むようになった。
 元々より前兆はあったが、顔を見た途端に走って逃げてしまったり、大声で泣いたり、酷い時は自分や相手を叩いたり引っ掻いたりするもあった。
 主治医の先生が言うには思春期に入ると精神が不安定になりやすく、普通の中学生が反抗するのと同じようなものらしい。
 しかし姉は、学校の先生と双子の私だけは受け入れてくれて関わりを許してくれる。
 だからスクールバスまでの送り出しに私も付いて行き、家に帰ってくるとヘルパーさん相手に泣く姉の側にいることにした。
 そうしていくうちに減っていく通所サービスに、ヘルパーさんに居てもらう時間。
 いつの間にか、私が姉の世話をしている状況となっていた。

 私達が中学二年生になる前。あの世界を騒がす流行り病が蔓延し、学校は休校。支援サービスも受け入れが縮小していき、それをキッカケに籍は置いたまま利用は中止したいとケアマネさんに話した。
 それなら私が見ると。
 私が居ないと泣き叫ぶ姿を目の当たりにしていたケアマネさんは、何かあったら連絡してと言ってくれ月一で電話をしてくれる。
 いつでも利用は再開出来ると、その都度声をかけてくれながら。

 そんな時に、もっと大きなことが起きてしまった。
 父の会社が流行り病による不景気で倒産してしまい、再就職もままならない状況が続いた。貯蓄はあったらしいけど、生活は不安定になった。

 幸い一年半後に運送業に再就職してくれ、生活は安定。お米を買えなくなったらどうしようと、悩むことはなくなった。

 先生と別れて五年、うちであったことを話した。
 初めて誰かに話せた私は心に溜まっていた何かが、軽くなったような気がした。