「未咲ちゃん?」
 ……え?
 包み込むような深みのある声に、まさかと思いゆっくり振り返る。
 目の前に立っていたのは、ラフなシャツにワイドパンツと呼ばれる服装に身を包んだお母さん世代と思われる女性。髪を一つにまとめていて、細めた目元は皺があり、柔らかな笑顔をこちらに見せてくれ、全体を通して優しい雰囲気を漂わせていた。

「……京子……先生」
 瞬きを忘れ、放たれた声はどんどんと小さくなっていく。
 突然のことに胸が詰まっていき、震える唇をキュッと結ぶ。

「またこっちに戻って来たの、やっぱ海は良いわね。そう思って浜辺を歩いていたら、同じ顔の子が二人居るからもしかしてと思ったの。すっかり大人になって」
 そう弾んだ声を出す先生は、より目を細めてこちらを凝視してくる。
 先生はというと、元々線が細い人だったけどより細くなっており、背が高いと思っていたけどそれほどにも感じない。
 それは、この五年で私の背が伸びたからだろうか?

 京子先生の気に留めるような目線に、私も気付いてそっちに目をやる。すると顔が綻んでいる私に相反し、姉は目を見開き唇を震わせていた。
 京子先生と姉は何度か対面しているけど、記憶の引き出しが少ない姉が五年前に会った人を当然覚えていない。
 よって親交があった相手でも次会う時は初対面になってしまうことがあり、相手に親しみを持つことが出来ない姉はより人見知りが加速していた。

「佐伯京子です。未咲ちゃんが保育園に通っていた時の先生です。このボウシ可愛いね」
 怯える姉との距離を詰めず、言葉だけでなく身振り手振りで説明してくれる。何度自己紹介をしても姉は忘れてしまうのに、先生はまた話しかけてくれた。

「……うん、みーちゃんと一緒」
 お気に入りのピンクの麦わら帽子を褒められたことで、姉はボソッとそう返せた。
「そっか。みーちゃんと仲良しなんだね?」
「うん。仲良し」
「あなたの名前、教えてくれないかな?」
「渡辺……明日香」
 姉はチラッと京子先生の目を見る。

「明日香さんね。どうやって呼んで良いかな?」
「あーちゃん」
「ありがとう、あーちゃんと呼ばせてもらうね。先生のことは何て呼んでくれる?」
「京子先生」
「ありがとう、あーちゃん」
 姉は初対面や記憶にない人とは全く話せないけど、京子先生とはいつも話せる。
 それは姉と無理矢理距離を詰めようとせず、私の知り合いであることを話して不安を解き、姉が話しやすい内容で関わりを持ってくれるからだろう。
 そして京子先生は私達の母親世代の女性で、この柔らかな笑顔が母にそっくりだった。

「……ところで今日、平日だよね? 確か学年的には高校三年生だろうし、夏休みにしては早い。こんなところで、どうしたの?」
 私をとらえる目は鋭く、もっともな疑問だろう。

「ちょっと今日は休んでて……」
 私はそんな目から逸らし、ははっと笑う。だって、笑うしかないのだから。
「もしかして、一緒に休んだの?」
 そう言葉にした京子先生の表情は、どんどんと険しくなっていく。
「……ごめんなさい」
 気付けば、そんな言葉が出てくる。高校生が学校に通わず遊んでいるなんて、やっぱりいけないことだよね。

「ごめんね、怒ってるんじゃないよ。……未咲ちゃん、少し二人で話せないかな?」
 耳元でボソッと呟き、私にだけ聞こえる声。
「お姉ちゃん、目が離せないので」
「明日香ちゃんはお昼寝とかするの?」
「学校に通ってる時は一時四十分から二十分ほどです。そうしないと後に疲れてくるようなので」
「そう……」
 私に視線を送ってくることから、何が言いたいのかは分かる。

「あーちゃん。先生車で来てるんだけど、良かったら乗ってかない? 家まで送るよ」
「え? いいの?」
 車に乗るのが大好きな姉は、目を輝かせてそう問う。

「うん。……それで良い? 未咲ちゃん?」
「あ、ありがとうございます」
 和やかに進んでいく会話。先生が車を停めている駐車場に立ち入る前に、姉に手を繋いで良いか聞き意思を確認してくれる。

「家の場所変わってない?」
「はい」
 覚えてくれているんだと思っているとガチャと施錠の音がし、駐車場を出た車はゆっくり海岸線を走り出す。
 家なら五分もなく着くけど、遠回りしてくれているようだ。

「綺麗」
「そうだね」
 私達は海町住みだけど、最近はあまり海岸には来なくなった。
 小さい頃はお父さんの運転でドライブに連れて行ってくれたけど、お母さんが亡くなってからパッタリ。仕方がないよね。それどころじゃなくなったんだから。

 そんなことをぼんやりと考えていると、姉はいつの間にか私の肩に頭を預けスヤスヤと眠っていた。