桂秋(けいしゅう)は頬を殴られると同時に、地面に思い切り突き飛ばされる。精神的にすでに大きく動揺していただけに、その一撃はさらに重くのしかかるものだった。俯いたままの状態で、殴った者の顔を見上げることさえできない。

「本当に、最低ですね! あの方が間者? 馬鹿も休み休みに言ってくださいよ!」

 (りん)は赤く腫れた拳を握り締めたまま、治まらない怒りを露わに、桂秋(けいしゅう)を睨みつけた。(こう)はそんな(りん)を止める様子もなく、ふたりの後ろに静かに控えている。

 夜も深い、四半刻(しはんとき)前。

 ふらふらとした足取りで戻って来た桂秋(けいしゅう)の様子があまりにもおかしかったので、(りん)は何があったのか問い詰めた。

 先程までの自分と無月(むげつ)との間で起こった一部始終をその覇気のない口で語った矢先、冒頭のやり取りに戻る。

「······叔父上がそういうなら、間違いない。無月(むげつ)も否定しなかった」

 その言葉に、(りん)は中腰になって自分の主の胸ぐらを遠慮なく掴み、呆れたように吐き捨てる。

「あなたはあのひとが無月(むげつ)様を"殺せ"と言ったら、なんの疑問もなく殺すんですか? 無月(むげつ)様の言葉は全部嘘で、あのひとの言葉は全部本当なんですか? 何を根拠に? 証拠は? あのひとが絶対に間違っていないという確証は、その基準はいったい、どこにあると言うんです?」

 桂秋(けいしゅう)は思考が上手く働かないまでも、(りん)の言い方に違和感を感じた。逆にどうしてそこまで、無月(むげつ)を擁護するような言葉ばかり並べるのだろうと。彼は自分の従者で、無月(むげつ)との関りなどほんの少しだけのはずなのに。

「····お前たちも、俺を裏切るのか? ずっと騙してたのか?」

「本当、どうしてそういう考えになるんです?」

「じゃあ、なんで、叔父上を否定して、あのひとの味方をする····? 俺が間違ってるなんて言うんだ?」

 (りん)(こう)と視線だけ合わせ、掴んでいた衣を放して真っすぐに立つと、肩を竦め嘆息した。

「俺たちは、白の神を守護する従者。あの森で長く生き精霊となった存在で、元を辿れば俺は熊、(りん)は狼だった。この身はひとではなく、化身。そして、無月(むげつ)様こそが、鎮守の森の守人である白の神。つまり、俺たちの本当の主ということになる」

「あなたの周りにいる味方の半分は、森の民なんですよ。もう誰も知らない事ですが、ひとがこの地にやって来た際、つまりこの地の最初の領主と白の神とで交わした盟約により、ひとが森を信仰する代わりに、森がこの地を守護するという約束。それを長きに亘って律儀に守っていた森に対して、やがてひとはそれを忘れ、森を穢すこともあった。あなたの尊敬する宰相サマが裏で何をしていたか、あなたは知らないでしょう?」

 畳みかけるように言葉を紡がれ、桂秋(けいしゅう)は呆然としていた。頭が追い付かない。幼い頃からずっとそばにいてくれている従者であるふたり、その他の、いつも味方でいてくれた者たち。それがひとではなく、森の民だったと?

 いや、それよりも。

無月(むげつ)が、白の神?」

「ええ、······そうです。まあ、あの姿は本来の姿ではなく、化身ですから、もうじき消えてなくなってしまうでしょうけど」

「消える······なんで、」

 そんな桂秋(けいしゅう)の態度に、(りん)がその秀麗な顔に苛立ちをわかりやすく浮かべる。

「あの方はあなたが盛られていた毒を何度も受け、挙句、信徒に疑われるわ身を穢されるわ、もう限界なんですよ。形を成しているだけでも奇跡です。いいですか?さっさとあの方の居場所を私たちに話してください。取り返しがつかなくなる前に」

 桂秋(けいしゅう)はその(りん)の言葉で、やっと自分が犯した罪を思い知る。疑いの言葉を吐き捨てたあの時の、無月(むげつ)の表情が今更甦る。あれは、毒を盛った事がバレて動揺していたのではなく、代わりに毒を受けていた自分が疑われたことを酷く悲しんでいたのだ。

「俺は······無月(むげつ)に、白の神になんてこと、」

 青ざめた表情で、己の罪の重さを自覚した桂秋(けいしゅう)を見下ろし、ふたりはやれやれと首を振った。

「間違いは正せばいい。あの方はすべてを赦すだろう。そういうお方だからな」

 (こう)は、低い、けれども優しい声音で言った。

桂秋(けいしゅう)様、私たちは確かに白の神の従者です。けどね、あなたもまた、私たちの主なんです。疑うことを知らない馬鹿でお人好しな、そんなあなただからこそ、これからもついて行こうと思ってるんですよ。だから、こんな所で座り込んでる暇があったら、自分の足で立って前に進んで欲しいんです」

 (りん)は困ったように眉を寄せながらも、そんな言葉を桂秋(けいしゅう)に投げかける。少し間をおいて、桂秋(けいしゅう)は腕に力を入れ、ゆっくりと立ちあがる。そして、ふたりをそれぞれ見つめ、確かめるように頷いた。

「····罪人牢。叔父上が、あのひとをそこに連れて行くと言っていた」

 三人と、他に外で控えていた何人かの従者たちと共に、罪人牢のある地下へと急ぐ。なにが待っていようと、もう、迷わないと決めた。それが、どんな真実であろうとも――――。