無月はひとり、邸の裏手から見える鎮守の森を見つめていた。赤や黄色に染まっていく木々の葉に、思いを馳せるかのように。夕刻。暁色に染まった空。あの日から、もう一年が経っていた。
何事もなかったわけではなく、桂秋の周りはいつも慌ただしかった。隣国の度重なる侵攻のために、自ら戦に出る事もあった。
無月はそんな桂秋を止めることはなく、寧ろ一緒について行き、戦術を考えてその侵攻を防ぐのに貢献した。
その献身さに、桂秋はもちろん、彼の周りの信頼も得ていった。元老たちも最初の頃は試すようなことばかりしていたが、今では静かなものだった。
「こんな所にいたのか?」
「桂秋様こそ、お話は済みましたか?」
「····すまない、気を悪くしただろう?釣書の件、全部丁重に断ってきた」
今日は朝からこの時刻まで、釣書、つまりお見合いの相手の絵姿と紹介文が書かれた資料を積まれ、元老や臣下たちに「この娘は気立てがよくて良い」だの、「ここの家柄が相応しい」だの、一枚ずつ説明されていたのだ。
おかげで、今日の見回りは鈴たちだけで行い、先程ちょうど帰って来た時に顔を合わせた。
げんなりしていた桂秋に対して、少し上の鈴とまあまあ上の昂が苦笑いを浮かべていた。
「私は、桂秋様が伴侶となる方と幸せになれるなら、それだけで嬉しいです。お子ができたら、きっと、もっと幸せになるでしょう。この地が侵攻に怯えることなく平穏になれば、使いとしての私の役目も終わりです」
微笑んで、無月は自分の想いを口にする。夕陽に染まった色白の頬が、同じ色に染まっていて、余計に儚く、美しく見えた。
「俺は、顔も知らない"他の誰か"じゃなくて、あなたがいい」
真っすぐなその瞳で見つめ、少しの曇りもない言葉でそんなことを言う桂秋に、無月はその碧い瞳を細める。
気持ちは、知っていた。自分に向けられるものが、ただの信頼ではないことも。
けれども、応えられないのも事実。無月は女でもなければ、ひとでさえないのだから。
抱きしめられてもその鼓動は桂秋のものしかなく、伝わってくるその心臓の音が心地好いと思いつつも、ただの化身である自分の中には響かない音だと知ると、悲しくさえあった。
そのぬくもりも。熱も。自分にはないのだ、と思い知らされる。
今も。これから先も。
抱きしめられた肩越しに、ちらりと影が見えた。もしかして誰かがいたのだろうか?こんな姿を見られたら、誤解されてしまう。悪い噂など特に、誇張されて都合のいいように広まってしまうのだ。
「······すみません。私は、」
腕の中から逃れようとしたその時、桂秋がけほけほと咳き込み、自ら無月を解放すると、そのままその場に蹲ってしまったのだ。
「桂秋様!?」
「····だい、じょうぶ、······少しすれば、たぶん、治まる、か····ら、」
げほげほと先ほどよりも酷い咳をして、息苦しそうに言葉を紡ぐ桂秋の傍に膝を付き、無月はそっとその背中をさすった。
肺の辺りをぎゅっと鷲掴みにして蹲るその姿に、嫌な予感を覚える。
この数日、この咳き込むような症状が桂秋を悩ませていた。それは、かつての領主、彼の父の病と似ているという。
この一年ずっと傍にいたが、このような症状は今までなかっただけに、無月は不安になった。
(······気の流れが、なにかおかしい。病というより、これは、)
思うところがあった無月は、桂秋が落ち着いた後、念のため部屋まで付き添った。
夕餉の頃には、何事もなかったかのように元気な様子の桂秋が目の前にいて、食欲もあるというので膳を運んでもらった。
秋の旬物が並べられた小皿がいくつもあり、見た目も中身も全く同じ膳が、ふたりの前に並べられている。
手を合わせて膳に手を付けようとしたその時、無月は桂秋にある"お願い"をする。
「別にかわまないけど、どうして?」
「桂秋様の膳の方が、私の膳よりも少ない気がするので。最近、体調も優れないようですし、たくさん食べて元気になってもらいたいのです」
本当はそんなことはないのだが、無月はあることを確かめるためにそうする必要があったのだ。
それから数日間、同じような理由を付けては膳を交換した。その結果、すべての要因が判明することになる。