ああ、またか――――。

 何の嫌がらせなのか。ひとの子とは、どうしてこうもわけのわからないことをするのだろうか。
 
 数年に一度、上からこの谷底に落ちてくるモノ(・・)に、この谷に棲む龍は嘆息する。

 時に悲痛な悲鳴を上げ、時に「死にたくない!」と叫びながら。落ちてくる、モノ。
 この谷はそうやって落ちてきた、少女たちの血で染まっていく。

 その度にその不浄なるモノを洗い流すため、雨を降らす。数日降らせても消えないこともあった。
 本当にいい迷惑だ。
 時間が経って肉が腐り、骨になって朽ちる少女(ひと)だった、モノ。そんな白い骨がこの谷底には何十体も転がっている。

 そしてまた、それは降ってきた。

 たまたま谷底を龍の姿で飛んでいた時だった。

 それは、いつもの少女たちとは違い、悲鳴など上げず、ただ目を閉じて祈るように落ちてきた。そのひとの子の姿を目にした時、龍は思わず化身の姿となり、谷底に叩きつけられる前に、細い身体を抱き止めていた。

 落ちてきたひとの子は、すでに気を失っており、龍の化身は金眼を細める。腕の中のひとの子には見覚えがあった。この先の村の近くに在る、今はもう忘れ去られた小さな古い祠。その祠に時々花や供物を供えてくれている、信心深い子だった。

 巫女装束を纏っているのは今までの少女たちと同じだったが、このひとの子は、どうやら少女ではないようだ。上で何が起こっているのか、このひとの子はなぜ自ら谷底に身を投げたのか。

 そもそもどういう理由で、少女たちはその身をここに投げているのか。

(この者に訊けば、なにかわかるかもしれない)

 龍は、化身としてひとの姿に顕現している。それは衆生(しゅじょう)の前で本来の龍の姿を見せることは、良くないとされているからだ。
 神と名の付く存在は皆そういう考えの者が多く、大概の者はこうやってひとの姿を取る。
 化身とは、ひとの前で神が取るひとの姿のこと。


 龍の化身は、腕の中のひとの子を大事そうに抱き上げたまま、まだ太陽が昇ったばかりだというのに、どこまでも深く薄暗いその谷底から、音もなく姿を消した。


******


 枕元で焚かれた香炉の良い匂い。至る所に飾られた花や足元に自然に生えている草木が、寝台とその横の小さな棚以外なにも置かれていない空間に、彩を添えている。
 壁のない、四本の柱と屋根だけの四阿(あずまや)のような造りの建物のようだ。

 寝台の上で眠る、巫女装束を纏った少年の顔色は悪く、龍の化身はその横に腰掛け、生白い頬に触れた。体温も低いが、一応生きてはいるようだ。

 珍しい色素の薄い茶色がかった長い髪の毛が、少年をより薄命に思わせる。

 頬から手を放すとほぼ同時に、長い睫毛がふるえ、ゆっくりとその瞳が開かれる。その瞳も髪の毛と同じ茶色で、目覚めたばかりのぼんやりとした表情で、こちらを見上げてくる。

「······気が付いたか、ひとの子」

 低いが安堵したかのような声でそのひとは言った。樹雨は大きな瞳を何度か開けたり閉じたりした後、視界に映る知らない青年に対して、思考を巡らせる。

「ここは俺の領域だから、安心していい。動けるようになったら、好きに歩き回ってくれてもかまわない。俺は宮に戻る。嫌でなければ、後で訪ねてくると良い」

 着物に似た、上等な異国の白と青の服を纏う青年の瞳は、月のような静寂を湛えた金眼で、真ん中で分けられた前髪と腰の辺りまである長い黒髪の一部分が、珍しい薄青色をしていた。

 表情は薄く、しかしそれに対して冷たいとは思わなかった。なぜなら、その声はどこまでも穏やかで、心地好かったから。

 横に腰掛けていた青年は寝台から立ち上がると、樹雨の返事を待たずに、衣を翻してどこかへ行ってしまった。

「····私、は······生きて、る?」

 やっと口から出た声はか細く、思った以上に小さくなってしまった。
 樹雨は身体を起こし、辺りを見回す。よく見れば、花や草木で彩られた四阿(あずまや)の周りは池になっており、その先には赤い橋が架けられていた。

 さらに奥に広がるのは、見たこともない美しく立派な白い宮のような建物。そして建物と今いる場所の周りを囲うように、ごつごつとした岩壁が広がっている。
 その間から、大きな水飛沫を上げて流れ落ちる滝があった。下に溜まった滝の水が、この池に流れ込むような構造になっているようだ。

 流れる滝の所々に架かった五色の虹に、まるで別世界にでも来てしまったかのような錯覚を覚えた。

「ここは、もしかして······あの世? ではあの方は、神様?」

 首を傾げ、樹雨はひとり言を呟く。
 もしそうなのだとしたら、自分はちゃんと贄としての役目を果たせたのだろうか?

 背中を押され、谷底へと落ちていくあの間隔を思い出し、背中がひやりと冷たくなった。途中から意識は途絶え、なにも憶えていない。

「私······ちゃんと贄になれたんでしょうか?」

 寝台の敷物の滑らかさや飾られている花々の匂い、澄んだ空気や頬を撫でる風の心地好さも、死んでしまったにしては鮮明すぎる。しかし死んだ経験などないので、これが"死"だと言われたら、納得してしまうだろう。

 寝台から降り、裸足のまま歩き出す。
 自由に見ても良いとあのひとは言ってくれた。

 樹雨は四阿(あずまや)を後にし、赤い橋を渡る。その先に在る、宮の方へと自然に足が向いていた。あのひとなら、なにか知っていそうだった。ここの主のようだし、ここがどこなのかも教えてくれるだろう。

 春と夏の間くらいの心地の良い爽やかな風と、遠くの岩壁の間に見える大きな滝の音に、思わず足を止めて見入ってしまう。なんて美しい場所なのだろう、と樹雨は眼を細めた。

 ここには水もあり、日照りで困ることもないのだろう。

「村の皆にも、龍神様の恵みの雨が届いていればいいのですが、」

 樹雨はひとり、胸に手を当てて祈るように瞼を閉じる。


 どうか、恵みの雨が村に降り注ぎますように。
 そう、願うばかりであった。


******


 幼い頃から、ひとりでよく行っていた場所があった。村の外れ、谷の近くで見つけた小さな祠。見た目も古く、最初に見つけた時は酷い有様だった。

 小さな幼い手で草を毟ったり、転がっている石を移動させたり、毎日通って少しずつ綺麗にしていき、どうにか元の姿を取り戻す。

 来る途中、道端で見つけた白い花を摘み、お供え用として持っていこうと胸元で握りしめる。
 供物は自分が食べるはずだった餅をひとつ、袖に忍ばせて。

 谷に向かう道から右に逸れ、木々に囲まれた獣道を歩く。着物から覗く膝から下の素足は枝や草で切れてしまい、薄っすらと付いたいくつもの傷に血が滲んでいた。

 この数日、ここに来ることができなかった。

 母親が病で帰らぬ人となった。父親も二年前に亡くなったばかりで、元々身体の弱かった母親の負担が多くなり、とうとう倒れてしまったのだ。それからはあっという間で、樹雨が七つになったばかりの数日前に、亡くなってしまったのだ。

 孤児となった樹雨を不憫に思った村長が、村の人たちに樹雨を助けるように言ってくれたおかげで、母親の簡易的な葬儀も埋葬も終わり、悲しい気持ちを秘めたまま、気付けばこの祠の前に来ていた。

 祠の小さな扉を開け、そこに納められている透明な玉の前に、道端で摘んだ白い花を添え、袖から小さな餅を取り出し、手を合わせる。

「龍神様、お母さんが天の国に行けるように、どうかお導きください」

 この祠に祀られているのがなんの神様なのか知らなかったが、この近くにある深い谷に棲むという、龍神様の祠だと信じて今まで祈ってきた。

 この祠にあるその透明で美しい玉は、どれだけ眺めていても飽きない。いつからここに在ったのか、そしてどれだけの間忘れ去られていたのか、樹雨には知る由もなかった。

 それからまた数年経って、十二歳になった。時間を見つけてはここに来て、少ない供物と花を供える。良くしてくれていた村長が亡くなった。

 すぐに新しい村長が決まり、住んでいた家を追われた。新しい家は物置小屋だったが、樹雨は特に気にならなかった。
 元の家はひとりでは広すぎて、寂しい気持ちが常に付きまとっていた。

 しかし、今の物置小屋はひとりであれば十分な広さで、屋根さえちゃんと修理すれば、雨風も防げるだろう。

「龍神様、ごめんなさい。これからは、あまりここに来れなくなるかもしれません。今日は供物もこれだけで······あ、お花はたくさん咲いている場所を見つけたので、いつもよりも多く持ってきました」

 自分が食べるものすら今は少なく、善意で助けてくれる村の人たちのおかげで、なんとか生きていられた。
 今年はあまり作物も獲れず、皆自分の家のことでいっぱいいっぱいだった。樹雨は元々細身だったが、前以上に腕も足も細くなってしまっていた。

 数日に一度がひと月に一度、ひと月に一度が数ヶ月に一度。


 そして、それから二年の年月が流れた――――。