「最悪……」
薄暗い部屋の中で、重たい布団に包まれる日が来るなんて誰が想像していたか。
両親からの支援を受けていた頃の、軽い羽根布団の感触を思い出す。
空気のように軽い羽根布団は体に優しく寄り添ってくれたのに、今の重たい布団はまるで自分の身体を押し潰すためにあるようなもの。その重さが、自分の心と重なっていく。
「っ」
健康管理がなっていなかったことを悔やんでも、いまさら遅い。
職場に迷惑をかけた自分を責める気持ちだけでなく、同じ職場で働く人たちに迷惑をかけたことへの後悔が浮かんできて、益々心が沈んでいく。
(もうこれで、信用してもらえなくなる……)
体調不良は誰にでも起こり得るものだけど、今回ばかりは違う。
日頃の不摂生が祟っての体調不良なんて、誰も許してくれない。
(私って、なんにも持ってないんだ……)
枕に顔を埋め、涙が零れ落ちるのを感じた。
体調を崩した自分は化粧が疎かになっていて、きちんと着飾った自分でいられないことにも情けなさが生まれる。
心細さと孤独感に襲われていると、手際よく料理を進めていく音がキッチンから響いてくる。
(……お母さん?)
自力で母親に連絡した記憶はないものの、自分が住んでいるマンションで料理を作ることができる人間なんて限られている。
きっと『できる』若芽さんが、母親の電話番号を見つけて連絡してくれたって流れになったのだと思い込んで瞳を伏せる。
「大丈夫ですか? 少しでも食べられるように、体に優しいものを作ってみたんですけど……」
力なく横たわっていたはずなのに、脳はぱちっと電源が入れられたかのように覚醒した。
「若芽さん!?」
「はい、若芽です」
部屋中に優しい香りが広がり、碌にご飯を食べなくなったテーブルの上に色とりどりの品々が並んでいく。
色彩豊かな食事は、若芽さんのお弁当の中身を思い出させる。
「まずは、お粥ですね」
自分がお粥を作りなさいと言われたら、水にご飯を入れて煮込ばいいんですねと返すくらいの知識しかのないお粥の登場。
でも、若芽さんが作ってくれたお粥は柔らかく仕上がっているのが一目で分かってしまう。
「凄いね、若芽さんは……」
「え?」
「視覚にも優しいご飯なんて……私、作れない……」
「え、森永さん!?」
お粥の中には、細かく刻まれたネギの緑。
ふわっふわの黄色いたまごに包まれたお粥を見ているだけで、目頭が熱くなってしまった。
「えっと、あの、召し上がれ」
「いただきます……」
一筋の涙が頬を伝った。
けれど、『できる』若芽さんは、溢れた涙を見ないフリしてくれた。
「っ」
「お口に合いますか」
舌が、想像していた塩味を感じ取ることはなかった。
「え、え、何、これ……」
「あ、お口に合わなかったですよね! 今、普通のお粥を作ります……」
「すっごく美味しい……」
実家で両親が作ってくれたお粥とは、味がまったく違う。
塩味のお粥が不味いと言っているわけではなく、お粥はシンプルな塩味だという思い込みが覆された。
「本当ですか? 無理なさらなくても……」
「本当に美味しい……美味しい! 美味しすぎる……!」
病み上がりの人間が、お粥を爆食してもいいものなのか。
そんな疑問が湧き上がるものの、若芽さんが作ってくれたお粥を食べる手は止まらない。
「何、これ? 何が入ってるの?」
「ホタテの水煮や、すりおろした生姜……あとは」
もったいぶった言い方をしてくる若芽さんに疑問を抱いたのも束の間、彼女が私を見つめる瞳があまりにも柔らかくて優しくて、また涙が溢れてきそうになる。
「中華スープの素ですね」
「……中華スープの素!? え、なんで、あの粉って、スープを作るための素じゃないの?」
「スープ以外にも応用できちゃう優れ物なんですよ」
確かに味わえば味わうほど、スープで飲んだことのあるような味が口いっぱいに広がっていく。
でも、そこにホタテの水煮とかが加わっているせいか、ただの中華スープの素で留まらないところに感動してしまう。
「若芽さん、こっちは」
若芽さんが運んできてくれたお夕飯は、お粥だけに終わらなかった。
「あ、森永さん、食べすぎですよ! こっちの添え物は、明日以降……」
「食べたい」
「……少しだけですよ?」
まるでお粥が食前酒の役割を担っているかのように、私の食欲は一気に増進していく。
お粥の横に添えてあったのは野菜スープで、にんじんやじゃがいも、玉ねぎ、ベーコンがみじん切りに刻まれているのが確認できる。
「欲を言うなら、キャベツが欲しかったんですけど……」
「いただきます」
さっきは弱々しい声で紡がれた『いただきます』の言葉。
今度は、ちゃんと自分の声で若芽さんに『いただきます』の言葉を届けられた気がする。
「カレーの材料とほぼ変わらないのに、美味しい……」
「ありがとうございます。野菜を煮込んだだけですけどね」
「その、煮込むっていう手間を、私のためにやってくれたんだよね」
「……はい」
野菜なんてざく切りでもいいと思っている私と違って、若芽さんは丁寧にみじん切りにしてくれた。
私の胃に配慮して、なるべく消化に優しくなるように工夫してくれたんだと思う。
「ありがとう、若芽さん」
二十何年もの間に積み重ねられた呪いの言葉は、きっと一生、私の記憶と心に張りついたまま。
でも、心まで呪いの言葉に汚染されないように、私は素直な気持ちを若芽さんに伝えた。
「早く森永さんが元気になりますようにって……そんな願いを込めてみました」
でも、素直な言葉を向けたら向けたで、若芽さんが返してきた笑顔があまりにもきらきらと輝いていたことに、二十代後半の私は打ちのめされました。
薄暗い部屋の中で、重たい布団に包まれる日が来るなんて誰が想像していたか。
両親からの支援を受けていた頃の、軽い羽根布団の感触を思い出す。
空気のように軽い羽根布団は体に優しく寄り添ってくれたのに、今の重たい布団はまるで自分の身体を押し潰すためにあるようなもの。その重さが、自分の心と重なっていく。
「っ」
健康管理がなっていなかったことを悔やんでも、いまさら遅い。
職場に迷惑をかけた自分を責める気持ちだけでなく、同じ職場で働く人たちに迷惑をかけたことへの後悔が浮かんできて、益々心が沈んでいく。
(もうこれで、信用してもらえなくなる……)
体調不良は誰にでも起こり得るものだけど、今回ばかりは違う。
日頃の不摂生が祟っての体調不良なんて、誰も許してくれない。
(私って、なんにも持ってないんだ……)
枕に顔を埋め、涙が零れ落ちるのを感じた。
体調を崩した自分は化粧が疎かになっていて、きちんと着飾った自分でいられないことにも情けなさが生まれる。
心細さと孤独感に襲われていると、手際よく料理を進めていく音がキッチンから響いてくる。
(……お母さん?)
自力で母親に連絡した記憶はないものの、自分が住んでいるマンションで料理を作ることができる人間なんて限られている。
きっと『できる』若芽さんが、母親の電話番号を見つけて連絡してくれたって流れになったのだと思い込んで瞳を伏せる。
「大丈夫ですか? 少しでも食べられるように、体に優しいものを作ってみたんですけど……」
力なく横たわっていたはずなのに、脳はぱちっと電源が入れられたかのように覚醒した。
「若芽さん!?」
「はい、若芽です」
部屋中に優しい香りが広がり、碌にご飯を食べなくなったテーブルの上に色とりどりの品々が並んでいく。
色彩豊かな食事は、若芽さんのお弁当の中身を思い出させる。
「まずは、お粥ですね」
自分がお粥を作りなさいと言われたら、水にご飯を入れて煮込ばいいんですねと返すくらいの知識しかのないお粥の登場。
でも、若芽さんが作ってくれたお粥は柔らかく仕上がっているのが一目で分かってしまう。
「凄いね、若芽さんは……」
「え?」
「視覚にも優しいご飯なんて……私、作れない……」
「え、森永さん!?」
お粥の中には、細かく刻まれたネギの緑。
ふわっふわの黄色いたまごに包まれたお粥を見ているだけで、目頭が熱くなってしまった。
「えっと、あの、召し上がれ」
「いただきます……」
一筋の涙が頬を伝った。
けれど、『できる』若芽さんは、溢れた涙を見ないフリしてくれた。
「っ」
「お口に合いますか」
舌が、想像していた塩味を感じ取ることはなかった。
「え、え、何、これ……」
「あ、お口に合わなかったですよね! 今、普通のお粥を作ります……」
「すっごく美味しい……」
実家で両親が作ってくれたお粥とは、味がまったく違う。
塩味のお粥が不味いと言っているわけではなく、お粥はシンプルな塩味だという思い込みが覆された。
「本当ですか? 無理なさらなくても……」
「本当に美味しい……美味しい! 美味しすぎる……!」
病み上がりの人間が、お粥を爆食してもいいものなのか。
そんな疑問が湧き上がるものの、若芽さんが作ってくれたお粥を食べる手は止まらない。
「何、これ? 何が入ってるの?」
「ホタテの水煮や、すりおろした生姜……あとは」
もったいぶった言い方をしてくる若芽さんに疑問を抱いたのも束の間、彼女が私を見つめる瞳があまりにも柔らかくて優しくて、また涙が溢れてきそうになる。
「中華スープの素ですね」
「……中華スープの素!? え、なんで、あの粉って、スープを作るための素じゃないの?」
「スープ以外にも応用できちゃう優れ物なんですよ」
確かに味わえば味わうほど、スープで飲んだことのあるような味が口いっぱいに広がっていく。
でも、そこにホタテの水煮とかが加わっているせいか、ただの中華スープの素で留まらないところに感動してしまう。
「若芽さん、こっちは」
若芽さんが運んできてくれたお夕飯は、お粥だけに終わらなかった。
「あ、森永さん、食べすぎですよ! こっちの添え物は、明日以降……」
「食べたい」
「……少しだけですよ?」
まるでお粥が食前酒の役割を担っているかのように、私の食欲は一気に増進していく。
お粥の横に添えてあったのは野菜スープで、にんじんやじゃがいも、玉ねぎ、ベーコンがみじん切りに刻まれているのが確認できる。
「欲を言うなら、キャベツが欲しかったんですけど……」
「いただきます」
さっきは弱々しい声で紡がれた『いただきます』の言葉。
今度は、ちゃんと自分の声で若芽さんに『いただきます』の言葉を届けられた気がする。
「カレーの材料とほぼ変わらないのに、美味しい……」
「ありがとうございます。野菜を煮込んだだけですけどね」
「その、煮込むっていう手間を、私のためにやってくれたんだよね」
「……はい」
野菜なんてざく切りでもいいと思っている私と違って、若芽さんは丁寧にみじん切りにしてくれた。
私の胃に配慮して、なるべく消化に優しくなるように工夫してくれたんだと思う。
「ありがとう、若芽さん」
二十何年もの間に積み重ねられた呪いの言葉は、きっと一生、私の記憶と心に張りついたまま。
でも、心まで呪いの言葉に汚染されないように、私は素直な気持ちを若芽さんに伝えた。
「早く森永さんが元気になりますようにって……そんな願いを込めてみました」
でも、素直な言葉を向けたら向けたで、若芽さんが返してきた笑顔があまりにもきらきらと輝いていたことに、二十代後半の私は打ちのめされました。