「委任状だぁ? そんなモンがいるなんて聞いてねーよ」
カウンター越しに、不機嫌そうな声をぶつけられ、私の胸の動悸がイヤ~な感じに速まる。
「こうやって身分証も出してんだろーが」
イライラしながら言って、見たところ五十代後半くらいの男は、カウンターに放り出した自分の免許証を指さした。
あ~あ、また”怒れる市民”に当たってしまった……。
この人、最初は穏やかに「非課税証明書ください」って言ってきたのに、すっかり豹変してしまった。自身の証明書じゃなくて、親戚の分を代理で取りに来たことがわかった時点から、雲行きが怪しくなったんだよね。
「ご本人様と同居されていない場合、委任状が必要になっておりまして……」
同じ説明を繰り返しつつ、必要以上に眉を下げて、精一杯、申し訳なさそうな表情をつくった。相手の怒りのボルテージが上がらないように祈るしかない。
だけど、そんな祈りが通じる相手ではなかった。
「だからさ、そんなの知らなかったっつーの。このまま手ぶらで帰れって言ってんの、アンタ?」
――そうだよ、帰れ! 委任状を持って出直してこい!
……って言えたら、どんなにスカッとするだろう。
私は、高校を出てすぐN市役所の正職員になった。三回目の人事異動で市民税課配属になってから二年が過ぎていた。
基本的に、窓口対応は非正規の臨時職員が担当するけれど、時間帯によっては来庁者で混み合うので、そんなときは正職員だろうが窓口対応に出なきゃいけない。
……で、混んでるときに限って、面倒な市民がやって来る。
「申し訳ございません。規則で、どうしても委任状が必要になりますので……」
委任状のサンプルを載せている用紙を差し出したが、怒れる市民は一瞥をくれて鼻を鳴らした。
「規則、規則って、アンタら公務員は杓子定規に言うけどよ、こっちだって忙しいんだよ。免許証を出してんだからさ、チャチャッと調べりゃ、親戚関係だってわかんだろ。ちったあ融通きかせろや」
だから、本人の意思が確認できない以上、発行できないんだよ!
怒りをぐっと堪えようとして、両手を握り込む。
その刹那、私の頭のなかで、緊急事態を告げるサイレンが鳴り響いた。
「ポイントCB-06RZ! 機雷獣が出現しました!」
切羽詰まった声で叫んだのは、モニターを覗き込んでいた若い男性だ。
「よし! ハイパーフォース出動!」
白い制服姿も眩しい女性が立ち上がって、凛とした声で命じる。
同時に、勇壮なテーマ曲が流れてきた。
私の意識は、薄暗くて息苦しい市役所を離れ、あの懐かしい作戦本部へと飛んでいた。
「ラジャー!」
心のなかで叫んだ私はもう無敵だった。
「おい、聞いてんのか!?」
私の目の前にいる男が声を荒げた。
ひっきりなしにやって来る来庁者で混み合ったフロアが、水を打ったように静まり返る。隣のカウンターで手続きをしている高齢の女性が、不安気にこちらの様子をうかがっているのが目に入った。
もはやこの男は、平和を乱す害悪でしかない。
「出たわね、機雷獣カスハラス!」
ポイントCB-06RZに到着した私は、ビシッと機雷獣を指さした。
「これ以上は好きにさせないわ!」
「来やがったな、ハイパーフォース! だが、お前ひとりで俺さまと戦うつもりか?」
せせら笑う機雷獣に、私はニヤリとして言い放つ。
「このあたしを舐めてると、痛い目に遭うわよ」
そこへ通信機になっているゴテゴテしたブレスレットから、司令官の声が流れた。
「ピンクフォース! レッドたちもそっちに向かわせたが、少し遅れそうだ。あまり無理はするな」
「あら、司令官までお言葉ね。レッドたちが来る前に、あたしがひとりでやっつけちゃうから!」
私は、ブレスレットのボタンを押した。
そう、これこそがハイパーフォースの変身ブレス!
リズミカルなBGMが流れ、私は瞬く間に、ピンク色の全身スーツとヘルメットをまとった姿になった。
こちらを睨みつけている男――機雷獣カスハラスに向かってパンチ、キックを繰り出す。さらにはハイパーブレードで斬りかかる。
「ぐわっ!」
無様に地面を転がる機雷獣。
「さあ、トドメよ!」
私はハイパーガンを取り出して構えたのだけれど……。
「チッ、お役所はコレだからよ……」
機雷獣ならぬ、”怒れる市民”は舌打ちして、捨て台詞を吐きながら帰っていった。
とりあえず言いたいこと言ってスッキリしたのか、あるいは、どんなに凄んでも怯まず謝罪を繰り返す女が不気味だったのか……? きっと後者だろうけどね、と自嘲気味に笑みを浮かべる。
私は幼いころ、特撮ドラマの『機甲団ハイパーフォース』に夢中になった。ヒーローたちがチームを組んで、悪に立ち向かう、子どもに大人気の勧善懲悪モノ。
中でも、紅一点の夢咲アミ・ピンクフォースに憧れたものだ。
その影響か、強いストレスを感じる状況に陥ったとき、自分が夢咲アミになって、ピンクフォースに変身して戦う様子を妄想するようになった。そうすると、不思議と乗り越えられるのだった。
「日高さん、大丈夫でした?」
ようやくカウンターが落ち着いたころ、臨時職員の関さんがコソッと声を掛けてくれた。
関さんは四十代後半で、元々は一般企業の営業部にいた人だ。結婚を機に仕事を辞めたが、子どもの手が掛からなくなったからと、去年から市民税課で働きはじめた。
口を開けば旦那さんの愚痴が飛び出すが、仕事はキッチリこなすタイプ。営業畑だっただけあって、私よりずっと接客が上手だ。人当たりがよく、気が利いていて、来庁者とも気さくに話すので、クレーマーに絡まれているのをほとんど見たことがない。
私のようにマニュアル通りの対応は無難ではあるけれど、一方で、クレーマー気質の人間に狙われやすくもある。
それは自覚しているが、結局、接客の上手下手は生来の性格に左右されるのであって、こればかりは仕方ないと諦めている。どうしたって、関さんのようには上手くやれっこない。
「ええ、大丈夫です。もう慣れてしまいましたから……」
苦笑いを浮かべながら応じると、関さんは感心したように頷く。
「いつも思いますけど、日高さんはしっかりしてますねえ。怖そうな人にカラまれても、毅然としていて凄いというか……」
ハイパーフォースのお陰なんです、なんて死んでも言えない。
「いえいえ、そう見えるだけですよ。ホントは『早く終わんないかな』なんて思ってますから」
「あはは。……でも、危なそうだったら、男の人に任せちゃったほうがいいですよ? 最近は、窓口で刃物出して刺したりとか、よく聞くでしょう?」
「ですねえ」
そうはいっても、ウチの課の男性職員はアテにならない。「自分に割り振られた仕事さえやってりゃいいだろ」ってタイプばかりで、同僚をサポートするという意識に乏しい。
そもそも課長からして、どんなに窓口が混んでようが、お構いなしで自分のデスクに張り付いたままだ。
それに比べると、ハイパーフォースの面々はチームワークが素晴らしいし、和気あいあいとした雰囲気なんだよね。そんな彼らを率いる司令官は女性で、威厳に満ちあふれ、部下想いの理想的な上司だ。
ハイパーフォースは国の組織という設定だから、いわば公務員みたいなもの。嫌でも自分の職場環境と比べてしまう。
本当にピンクフォースに変身できたら……。
刃物を持った狂人が暴れたところで、捻じ伏せることは容易いだろう。
だけど現実の私は、なんとも冴えない二十七歳の女なのだった。
◆ ◆ ◆
「整理番号11番から20番の方は、こちらにお並びくださーい」
係員の誘導に従って、私はドキドキしながら移動した。
「整理券の番号を見せあって、番号順にお願いします」
手短に言うと、係員はせわしなく離れていった。
私が住み、働いているN市から電車で30分ほど――S市の繁華街にあるファッションビル。フロアの大半をレディースファッションのショップが占めていたのは昔の話。今やアニメのグッズを展開しているポップアップショップが盛況で、オタ向けに舵を切ったように思える。
最上階の飲食店のフロアも、ほとんどがカフェになり、アニメとのコラボメニューが大人気だ。
私は、その最上階にあるカフェに並んでいたが、お目当てはアニメではない。
女優・上村舞衣子のイベントに参加するためだった。
今年は、『機甲団ハイパーフォース』が放送開始してから二十年目の年に当たる。いわゆる【戦団シリーズ】自体は五十年も前にスタートし、一年ごとにタイトルや内容が一新されてきた。
子どもの頃からの視聴習慣はずっと途切れることはなく、大人になってからもシリーズを追ってきたが、やはり『機甲団ハイパーフォース』以上にワクワクできる作品とは出会っていない。
二十年目を記念して、『ハイパーフォース』の新作映画の製作が発表されたのを皮切りに、様々なイベントが一年を通して全国各地で催されることになった。
自分が公務員であることをこれほどまでに喜んだことがあっただろうか?
イベントは大抵、土日に開催されるものであり、余程のことがない限り、土日に休めるのは有難いことだった。
私は既に、ショッピングモールで開催されたヒーローショーと、竜崎カイト・レッドフォースを演じた大隅卓也のトークイベントに参加済みだ。
そして、今日は私が最も楽しみにしていた日――。
夢咲アミ・ピンクフォースを演じた上村舞衣子のイベントだ。
放送当時は現役の高校生だった彼女も、いまや三十八歳。『ハイパーフォース』終了後は、正直なところ女優として成功したとは言い難く、数年後にひっそりと引退し、一般人男性と結婚。
そして、『ハイパーフォース』新作の製作発表と合わせて、上村舞衣子の女優復帰が発表され、世間を驚かせたんだ。
「すみませーん! あたし14番なんですけどー!」
小走りでやってきた金髪のギャルが、係員に整理券を見せている。
「あちらの列ですね」
係員が私の並んでいる待機列を指さすと、ギャルは礼を言って、こちらへ駆けてきた。
「14番でーす!」
躊躇いなく大きな声で告げたギャルに、私は自分の整理券を見せた。
「あの……私15番ですので……」
おずおずと言って少し後ろに下がると、ギャルはニコッと微笑んで、
「ありがとうございまーす」
と礼を言うと、スタイル抜群の身体を列に潜り込ませた。
彼女は全身淡いピンクで統一したコーディネートだ。肩とお腹が丸見えになっているトップスに、ゆったりしたパンツを合わせ、ハンドバッグまでピンク色。ピンクフォーズのイベントだから、きっと、それに合わせたものだろう。
5月に入って汗ばむような陽気が続いているとはいえ、あんなに肩やおへそを出して、寒くないのだろうか?
それに引きかえ、私はストライプのシャツに、ネイビーのロングスカートを合わせた無難なファッション。
それにしても……。
やたら目立っているピンクコーデのギャルは、見るからに陽キャそうな人だけれど、どうやら私と同じく一人参戦のようで、それは意外でもあり、ちょっと安心もしていた。
待機列を見回してみれば、友人同士とか、カップルとか、あるいは子連れの家族ばかりで、おひとり様はほとんど見ないのだ。
通常のイベントであれば、いざ始まってしまえば、ひとりぼっちであることなんて忘れちゃうけど、今回のイベントは形態が特殊すぎる。
会場がカフェという特性を活かして、参加者はバイキング形式で食事を楽しみ、そこへ上村舞衣子もやってきて一緒に食事するという変わった流れだ。ひとりだと、かなり手持ち無沙汰になるのは容易に想像できた。
まあ、少なくとも、私の前にいるギャルもおひとり様だし、そんなに肩身の狭い思いはしなさそう……。スマホを弄りつつ、そんなことを思っていたら。
「あの~、アナタもひとり?」
ふいに声を掛けられ、顔を上げると、グレーのカラコンを入れた大きな瞳で、ギャルが私を見つめていた。
「えっ? ああ、そうですけど……」
戸惑いながら頷くと、ギャルは人懐っこい笑顔になった。
「このイベント、食事するんでしょう? よかったら、一緒に食べない?」
唐突なお誘いだけど、こちらとしても渡りに船だ。断る理由もない。
「ええ、いいですよ」
「よかったあ。あたし、望月愛奈っていうの。アイナって呼んで」
「えっと、私は……日高です」
流石にいきなりフルネームを教えるのは憚られたので、こちらは苗字だけを告げたが、アイナは気にする様子もない。
「日高ちゃんね。よろしく~」
「は、はい。よろしくお願いします」
アイナは見た目通り、グイグイくるタイプだ。距離感バグってる気がしないでもないし、何気にタメ口だけど、不思議とイヤな気はしなかった。
「お待たせしました! 整理番号順にご案内します」
カフェの入口が開け放たれ、順番に参加者が入っていく。
急に緊張が高まってきた。
ついに、憧れのピンクフォースに会えるんだ!
「緊張するね~、日高ちゃん!」
「は、はい。緊張しますね~」
言葉とは裏腹に、緊張よりもワクワクが勝っているのか、らんらんと輝いているアイナの瞳は、あどけない女児のそれだ。
アイナもまた、かつてはテレビに噛りついて『ハイパーフォース』に夢中になっていたのだろう。
そして、ようやく私たちの並んでいる列が動きはじめた。
「あっ、あっ!?」
アイナが素っ頓狂な声を出した。
「グリーティングだあ!」
「えっ? ああっ、ホントだ!」
アイナの肩越しに、受付で参加者を出迎えている女性の姿が目に入った。
ピンク色のゴージャスなワンピースに身を包んだ美しい人――上村舞衣子が、たしかにそこにいたんだ。
う、嘘でしょ!?
いきなり舞衣子さんがグリーティングに出てくるなんて! そんなの事前にアナウンスされてなかったし、完全にサプライズ!
ぽーっとなっていたら、瞬く間にアイナの番になった。
「こんにちはー。あら、ピンクでおそろいね」
アイナに手をのばした舞衣子さんが、にっこりと微笑む。
「そうなんです! あたし、ピンクフォース推しなんで! ピンクで合わせてきましたあ!」
がっしと舞衣子さんの手を握り、声を張りあげるアイナ。
「ありがとう。今日は楽しんでいってね」
「はいっ!」
係員に促されて歩きだしたアイナと入れ替わりで、私は舞衣子さんの前に立った。
『ハイパーフォース』放映時は高校生だった舞衣子さんも、今やアラフォーだ。すっかり大人の色香の漂う女性になっていた。しかも、ずっと芸能界から離れていたというのに、彼女が本来持っている”華”なのか、圧倒されるようなオーラがある。
「こんにちは!」
ああ……ずっと憧れ続けた夢咲アミ――ピンクフォースが、私に声を掛けてくれた!
「こ、こんにちは……」
震える手を伸ばすと、舞衣子さんは柔らかな手で握ってくれた。
温かな体温が伝わってきて、もう夢見心地だ。
「あ、あの、私、ずっとファンです!」
たどたどしく、やっとのことでそれだけ伝えると、舞衣子さんは満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう! とっても嬉しい!」
その場で卒倒しそうになるのを必死に堪える私だった。
そのあと、参加者はそれぞれ好きな円卓を選び、バイキング形式で自由に食事を楽しんだ。
私はアイナと同じ円卓に隣り合って座ったが、適当に皿に盛ってきたパスタやローストビーフ、サラダなんかを前にしても、なかなか食が進まない。
舞衣子さんと握手できた、言葉をかわせた、という事実でお腹いっぱいだったのだ。
アイナも箸はあまり動いていないが、テンションが上がっていて、お喋りに忙しいという感じだ。
「舞衣子さん、めっちゃ美人じゃん! オーラが凄いよね!」
「え、ええ……」
緊張で固くなっている私の反応が薄いと見るや、アイナは同じ円卓の男性二人にも話しかけた。見るからに特撮オタクといった風体の二人は、グイグイ距離を詰めるギャルに困惑気味だ。
すると、普段はバンド演奏なんかをするのだろう、こじんまりしたステージがスポットで照らされ、イベント司会者がマイクで呼び込んだ。
「大変お待たせしました。上村舞衣子さんの登場です。どうぞ!」
拍手に迎えられ、ステージに登場した舞衣子さんは、ゆっくり会場を見回したあと、簡単に挨拶をした。
そして、ステージに用意されたテーブル席に着き、運ばれてきたチキンカレーを食べ始めたのだった。
「ヘンな感じだけど、みんなで一緒に食べましょう」
どっと、会場に笑いが起こった。
推しと一緒に食事できるなんて、神イベでしょ!?
舞衣子さんはカレーを食べながら、時折、マイクでトークを挟んだ。
「もうすぐ『ハイパーフォース』の新作が二週間限定で劇場公開されるから、ぜひ観てくださいね」
「死んでも行きます!」
アイナが叫ぶと、関西出身の舞衣子さんは関西弁で、
「死なんといてや~」
と返して、また笑いが起きた。
アイナの度胸が心底、羨ましい。
「急遽、N市でイベントやるって決まってね、SNSで急に告知したんだけど、これだけたくさんの方々に集まってもらえて、本当にうれしい! ……というか、ここで食べてても、みんなと距離あるよね」
おもむろに立ち上がった舞衣子さんは、カレーの皿を手にステージを降りた。
思ってもいなかった行動に、参加者からどよめきの声が上がる。
「テーブルを順番に回っていこうかな。一緒に食べながら、お話ししましょう。じゃあ、こっちから」
悪戯っぽい笑みを浮かべた舞衣子さんが、私たちの円卓へと歩みを進めた。
「えっ……ええっ!?」
この瞬間、胸のうちに必死に堰き止めていたものが、一気に溢れだした。
◆ ◆ ◆
「本当にごめんなさい!」
泣き腫らした目を抑えながら謝る私に、「いいよ、いいよ」とアイナが首を振る。
上村舞衣子のイベント終了後、私たちはチェーン店のカフェに移動していた。
アイスラテを一口飲んだあと、アイナは心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「もう、大丈夫そう?」
「ええ、だいぶ落ち着きました」
ソイラテのホットを一口すすって、ほっと息をつく私を見て、アイナは表情を崩した。
「でもさ~、びっくりしたよー。いきなり大泣きするんだもん!」
「ご、ごめんなさい……」
恥ずかしい。穴があったら入りたい。
舞衣子さんが私たちの円卓にやってきて、間近でカレーを食べながらお話ししてくれたのだけれど……。あまりの感動で感極まった私は子どもみたいに泣きじゃくり、いかに自分が『ハイパーフォース』に支えられたか、どれほどピンクフォースに憧れたか――を切々と訴えたのだった。
といっても、その記憶はおぼろげで、いっそ夢だったらいいのにと思える醜態を晒してしまった。
「日高ちゃんは、ホントにピンクフォースが好きなんだね」
「はあ……。でも、舞衣子さんにも迷惑かけてしまって……」
「迷惑だなんて思ってるワケないって! 泣くほど想われてるってことだから、きっと嬉しかったと思うよ。まあ……同じテーブルの人たちはドン引きしてたけどね」
「うぅ……ですよねー」
なんてイタいことをしてしまったのか……。
「あたしもピンクフォース推しだけど、日高ちゃんはレベルが違うっていうか、きっと思い入れが段違いなんだろうね」
感心したようにまじまじとアイナに見つめられ、私はうつむいた。
「ええ。私にとってピンクフォースは……」
本当の意味でヒーローだったんだ。
私が物心つく前に両親は交通事故で他界し、親戚をたらい回しにされたあと、私は児童養護施設に預けられた。
施設の子たちと一緒に夢中になったのが、日曜日の朝に放送している子ども向けのアニメや特撮ヒーロー番組だった。
私は女児向けのアニメよりむしろ、男児向けの特撮ヒーローものである【戦団シリーズ】の虜になった。
とりわけ思い入れが強いのが、小学一年生の時に見た『機甲団ハイパーフォ―ス』で、それは今も変わらない。両親がいない寂しさと、小さいなりに感じていた漠然とした不安を和らげてくれる力が、たしかにあったのだ。
あのとき憧れたお姉さん――夢咲アミが目の前にいて、私と一緒に食事をしている。そんな夢のような光景を、施設にいた頃の自分に見せてやりたい。
そう思ったら、私の瞳からは止めどなく涙が流れたんだ。
気がつけば、私は自分の事情を初対面のアイナに話してしまっていた。人一倍、警戒心の強い私だから、こんなことは珍しい。
おまけに、私たちは同じ二十七歳で、学年も同じだと知ったあとは、ぐっと距離が近くなった。
アイナって、下手したら学生に見える容姿だから驚きだ。
さらに、驚くことはもう一つあった。
「ええっ! ウィッグなの!?」
目に鮮やかな金髪がウィッグだと教えられたんだ。
「あたし、運送会社の事務をやっててさ~、そこは結構カタい雰囲気だし、あんまり明るい髪色はダメって言われるし」
ため息を吐いて、肩をすくめるアイナ。
「自分のやりたいようにやろうと思ったら、誤魔化さなきゃいけないもんね。生きづらい世の中だわ~」
思わず、クスッと笑ったら、アイナは嬉しそうな表情になった。
「やっと笑ってくれた~。日高ちゃんの笑顔、初めて見るよ?」
「ええっ、そうだっけ?」
ああ、よく考えたら緊張しっぱなしで、一度も笑っていなかったかも……。
アイナは残っていたアイスラテを一気に飲みきると、眉をしかめた。
「生きづらいといえばさ、『ハイパーフォース』が好きなんて言ったら、『いい年して』なんて馬鹿にされちゃうもんね。今日のイベントだって、彼氏にはナイショで来たし」
ああ、それは痛いほどわかる。
「大変だよね」
うんうんと頷いたら、アイナは目を丸くした。
「日高ちゃんの彼氏も同じ感じ?」
「あっ、えっと……私はもうとっくに別れてるんだけどね。私が特撮好きなの良く思わない人だったなあ……って」
結婚まで考えていた恋人がいたが、寸前で別れることになった。私の部屋で別れ話をしたあと、並んでいる『ハイパーフォース』のDVDやソフビ人形を見て、「前から思ってたけど……いい年してやめろよ、みっともない」と捨て台詞を吐いていったのだ。
それ以来、恋愛には臆病になっている自分がいる。
「ヒドイ! 人の趣味にごちゃごちゃ言うなってハナシだよね。あたしも彼氏と別れよっかな~?」
「どんな人なの?」
「消防士。めっちゃイケメンなんだよ。でも、あたしが今でも【戦団シリーズ】好きなの知ったら、やたら馬鹿にするしさ~。最近、競馬にハマったらしくて、やたら『金貸せ』って言うようになったんだよね」
「えっ、それって大丈夫なの?」
私が小声で訊くと、アイナは慌てて言った。
「大丈夫、大丈夫。いくら恋人でも、金の貸し借りはイヤだからさ。ちゃんと断ってるから。……でも、もう潮時かもね」
「…………」
気まずい沈黙が流れると、気を取りなおしたようにアイナが口を開いた。
「日高ちゃんは、『ハイパーフォース』のグッズ、どれくらい持ってるの? あたし、もっと集めて並べたいんだよね」
「私は基本的にネットで買ってるけど、中古ショップを覗くのも楽しいよ。意外と掘り出し物が……」
そこまで言って、私はまだアイナに下の名前を教えてないことに気づいた。
「あの……私、日高悠里っていうの。ユウリって呼んで」
「ユウリ……ユウリ……」
アイナは、私の名前を繰り返した。その感触を確かめるように……。
そして、屈託のない笑顔を見せた。
「よろしくね、ユウリ」
◆ ◆ ◆
「だからさ~、交換してくれって言ってんじゃん!」
混雑しているフロアのなか、茶髪の若者が口を尖らせながら訴える。
市民税課の窓口では、原付のナンバープレートの交付手続きも行っている。覚えやすいナンバーとか語呂合わせに拘る人は一定数いて、「気に入らないから交換しろ」と無茶を言われることは多い。
「生憎、交換に応じることは出来かねますので、ご容赦くださいませ」
私はいつものように、申し訳なさそうな表情を貼りつけて、マニュアル対応を貫く。
「うぜーな」
若者が眉間にしわを寄せたのを見て、これは長くなりそうだと覚悟する。
「ハイパーフォース出動!」
私の心の中で司令官の声が響きわたり、私はダッシュした。
今日もまた、ピンクフォースに変身して、このクレーム対応を乗り切らなければ!
だけど、このところ、妄想でピンクフォースに頼る回数は減ったような気がしていた。プライベートが充実して、心に余裕ができたのかも……?
あれからアイナとは、一緒に中古ホビーショップ巡りをしたり、ショッピングモールのヒーローショーに行ったりしている。『ハイパーフォース』の新作映画も一緒に観に行ったんだ。
そして、アイナは彼氏とはキッパリ別れた。
「日高さん、大変でしたね」
長々と愚痴ってから若者が帰っていくと、関さんが心配そうに声を掛けてくれた。
「大丈夫でしたよ」
にっこりと微笑むと、関さんは目を丸くした。
「日高さん、何かイイことありました?」
「えっ……?」
「とっても表情が柔らかいものですから……」
図星だった。
さっきのクレーム対応でピンクフォースに変身したとき、イイことを思いついたのだ。
私がいま住んでいるアパートは手狭だし、『ハイパーフォース』のグッズを並べるスペースが足りなくなっていたんだ。
ちょうどアイナも、「彼氏と別れたし、心機一転、どっかに引っ越そうかな」と言っていた。どこか広い部屋を探して、アイナとルームシェアできたら……って。
アイナはきっとノリノリで「そうしよう!」って言ってくれるだろう。
さっそく、今夜にでも提案してみよう。
「ええ、イイことありました。何かはナイショですけど……」
悪戯っぽく関さんに微笑みかけると、私は変身を解除して、自分のデスクに戻った。
了
カウンター越しに、不機嫌そうな声をぶつけられ、私の胸の動悸がイヤ~な感じに速まる。
「こうやって身分証も出してんだろーが」
イライラしながら言って、見たところ五十代後半くらいの男は、カウンターに放り出した自分の免許証を指さした。
あ~あ、また”怒れる市民”に当たってしまった……。
この人、最初は穏やかに「非課税証明書ください」って言ってきたのに、すっかり豹変してしまった。自身の証明書じゃなくて、親戚の分を代理で取りに来たことがわかった時点から、雲行きが怪しくなったんだよね。
「ご本人様と同居されていない場合、委任状が必要になっておりまして……」
同じ説明を繰り返しつつ、必要以上に眉を下げて、精一杯、申し訳なさそうな表情をつくった。相手の怒りのボルテージが上がらないように祈るしかない。
だけど、そんな祈りが通じる相手ではなかった。
「だからさ、そんなの知らなかったっつーの。このまま手ぶらで帰れって言ってんの、アンタ?」
――そうだよ、帰れ! 委任状を持って出直してこい!
……って言えたら、どんなにスカッとするだろう。
私は、高校を出てすぐN市役所の正職員になった。三回目の人事異動で市民税課配属になってから二年が過ぎていた。
基本的に、窓口対応は非正規の臨時職員が担当するけれど、時間帯によっては来庁者で混み合うので、そんなときは正職員だろうが窓口対応に出なきゃいけない。
……で、混んでるときに限って、面倒な市民がやって来る。
「申し訳ございません。規則で、どうしても委任状が必要になりますので……」
委任状のサンプルを載せている用紙を差し出したが、怒れる市民は一瞥をくれて鼻を鳴らした。
「規則、規則って、アンタら公務員は杓子定規に言うけどよ、こっちだって忙しいんだよ。免許証を出してんだからさ、チャチャッと調べりゃ、親戚関係だってわかんだろ。ちったあ融通きかせろや」
だから、本人の意思が確認できない以上、発行できないんだよ!
怒りをぐっと堪えようとして、両手を握り込む。
その刹那、私の頭のなかで、緊急事態を告げるサイレンが鳴り響いた。
「ポイントCB-06RZ! 機雷獣が出現しました!」
切羽詰まった声で叫んだのは、モニターを覗き込んでいた若い男性だ。
「よし! ハイパーフォース出動!」
白い制服姿も眩しい女性が立ち上がって、凛とした声で命じる。
同時に、勇壮なテーマ曲が流れてきた。
私の意識は、薄暗くて息苦しい市役所を離れ、あの懐かしい作戦本部へと飛んでいた。
「ラジャー!」
心のなかで叫んだ私はもう無敵だった。
「おい、聞いてんのか!?」
私の目の前にいる男が声を荒げた。
ひっきりなしにやって来る来庁者で混み合ったフロアが、水を打ったように静まり返る。隣のカウンターで手続きをしている高齢の女性が、不安気にこちらの様子をうかがっているのが目に入った。
もはやこの男は、平和を乱す害悪でしかない。
「出たわね、機雷獣カスハラス!」
ポイントCB-06RZに到着した私は、ビシッと機雷獣を指さした。
「これ以上は好きにさせないわ!」
「来やがったな、ハイパーフォース! だが、お前ひとりで俺さまと戦うつもりか?」
せせら笑う機雷獣に、私はニヤリとして言い放つ。
「このあたしを舐めてると、痛い目に遭うわよ」
そこへ通信機になっているゴテゴテしたブレスレットから、司令官の声が流れた。
「ピンクフォース! レッドたちもそっちに向かわせたが、少し遅れそうだ。あまり無理はするな」
「あら、司令官までお言葉ね。レッドたちが来る前に、あたしがひとりでやっつけちゃうから!」
私は、ブレスレットのボタンを押した。
そう、これこそがハイパーフォースの変身ブレス!
リズミカルなBGMが流れ、私は瞬く間に、ピンク色の全身スーツとヘルメットをまとった姿になった。
こちらを睨みつけている男――機雷獣カスハラスに向かってパンチ、キックを繰り出す。さらにはハイパーブレードで斬りかかる。
「ぐわっ!」
無様に地面を転がる機雷獣。
「さあ、トドメよ!」
私はハイパーガンを取り出して構えたのだけれど……。
「チッ、お役所はコレだからよ……」
機雷獣ならぬ、”怒れる市民”は舌打ちして、捨て台詞を吐きながら帰っていった。
とりあえず言いたいこと言ってスッキリしたのか、あるいは、どんなに凄んでも怯まず謝罪を繰り返す女が不気味だったのか……? きっと後者だろうけどね、と自嘲気味に笑みを浮かべる。
私は幼いころ、特撮ドラマの『機甲団ハイパーフォース』に夢中になった。ヒーローたちがチームを組んで、悪に立ち向かう、子どもに大人気の勧善懲悪モノ。
中でも、紅一点の夢咲アミ・ピンクフォースに憧れたものだ。
その影響か、強いストレスを感じる状況に陥ったとき、自分が夢咲アミになって、ピンクフォースに変身して戦う様子を妄想するようになった。そうすると、不思議と乗り越えられるのだった。
「日高さん、大丈夫でした?」
ようやくカウンターが落ち着いたころ、臨時職員の関さんがコソッと声を掛けてくれた。
関さんは四十代後半で、元々は一般企業の営業部にいた人だ。結婚を機に仕事を辞めたが、子どもの手が掛からなくなったからと、去年から市民税課で働きはじめた。
口を開けば旦那さんの愚痴が飛び出すが、仕事はキッチリこなすタイプ。営業畑だっただけあって、私よりずっと接客が上手だ。人当たりがよく、気が利いていて、来庁者とも気さくに話すので、クレーマーに絡まれているのをほとんど見たことがない。
私のようにマニュアル通りの対応は無難ではあるけれど、一方で、クレーマー気質の人間に狙われやすくもある。
それは自覚しているが、結局、接客の上手下手は生来の性格に左右されるのであって、こればかりは仕方ないと諦めている。どうしたって、関さんのようには上手くやれっこない。
「ええ、大丈夫です。もう慣れてしまいましたから……」
苦笑いを浮かべながら応じると、関さんは感心したように頷く。
「いつも思いますけど、日高さんはしっかりしてますねえ。怖そうな人にカラまれても、毅然としていて凄いというか……」
ハイパーフォースのお陰なんです、なんて死んでも言えない。
「いえいえ、そう見えるだけですよ。ホントは『早く終わんないかな』なんて思ってますから」
「あはは。……でも、危なそうだったら、男の人に任せちゃったほうがいいですよ? 最近は、窓口で刃物出して刺したりとか、よく聞くでしょう?」
「ですねえ」
そうはいっても、ウチの課の男性職員はアテにならない。「自分に割り振られた仕事さえやってりゃいいだろ」ってタイプばかりで、同僚をサポートするという意識に乏しい。
そもそも課長からして、どんなに窓口が混んでようが、お構いなしで自分のデスクに張り付いたままだ。
それに比べると、ハイパーフォースの面々はチームワークが素晴らしいし、和気あいあいとした雰囲気なんだよね。そんな彼らを率いる司令官は女性で、威厳に満ちあふれ、部下想いの理想的な上司だ。
ハイパーフォースは国の組織という設定だから、いわば公務員みたいなもの。嫌でも自分の職場環境と比べてしまう。
本当にピンクフォースに変身できたら……。
刃物を持った狂人が暴れたところで、捻じ伏せることは容易いだろう。
だけど現実の私は、なんとも冴えない二十七歳の女なのだった。
◆ ◆ ◆
「整理番号11番から20番の方は、こちらにお並びくださーい」
係員の誘導に従って、私はドキドキしながら移動した。
「整理券の番号を見せあって、番号順にお願いします」
手短に言うと、係員はせわしなく離れていった。
私が住み、働いているN市から電車で30分ほど――S市の繁華街にあるファッションビル。フロアの大半をレディースファッションのショップが占めていたのは昔の話。今やアニメのグッズを展開しているポップアップショップが盛況で、オタ向けに舵を切ったように思える。
最上階の飲食店のフロアも、ほとんどがカフェになり、アニメとのコラボメニューが大人気だ。
私は、その最上階にあるカフェに並んでいたが、お目当てはアニメではない。
女優・上村舞衣子のイベントに参加するためだった。
今年は、『機甲団ハイパーフォース』が放送開始してから二十年目の年に当たる。いわゆる【戦団シリーズ】自体は五十年も前にスタートし、一年ごとにタイトルや内容が一新されてきた。
子どもの頃からの視聴習慣はずっと途切れることはなく、大人になってからもシリーズを追ってきたが、やはり『機甲団ハイパーフォース』以上にワクワクできる作品とは出会っていない。
二十年目を記念して、『ハイパーフォース』の新作映画の製作が発表されたのを皮切りに、様々なイベントが一年を通して全国各地で催されることになった。
自分が公務員であることをこれほどまでに喜んだことがあっただろうか?
イベントは大抵、土日に開催されるものであり、余程のことがない限り、土日に休めるのは有難いことだった。
私は既に、ショッピングモールで開催されたヒーローショーと、竜崎カイト・レッドフォースを演じた大隅卓也のトークイベントに参加済みだ。
そして、今日は私が最も楽しみにしていた日――。
夢咲アミ・ピンクフォースを演じた上村舞衣子のイベントだ。
放送当時は現役の高校生だった彼女も、いまや三十八歳。『ハイパーフォース』終了後は、正直なところ女優として成功したとは言い難く、数年後にひっそりと引退し、一般人男性と結婚。
そして、『ハイパーフォース』新作の製作発表と合わせて、上村舞衣子の女優復帰が発表され、世間を驚かせたんだ。
「すみませーん! あたし14番なんですけどー!」
小走りでやってきた金髪のギャルが、係員に整理券を見せている。
「あちらの列ですね」
係員が私の並んでいる待機列を指さすと、ギャルは礼を言って、こちらへ駆けてきた。
「14番でーす!」
躊躇いなく大きな声で告げたギャルに、私は自分の整理券を見せた。
「あの……私15番ですので……」
おずおずと言って少し後ろに下がると、ギャルはニコッと微笑んで、
「ありがとうございまーす」
と礼を言うと、スタイル抜群の身体を列に潜り込ませた。
彼女は全身淡いピンクで統一したコーディネートだ。肩とお腹が丸見えになっているトップスに、ゆったりしたパンツを合わせ、ハンドバッグまでピンク色。ピンクフォーズのイベントだから、きっと、それに合わせたものだろう。
5月に入って汗ばむような陽気が続いているとはいえ、あんなに肩やおへそを出して、寒くないのだろうか?
それに引きかえ、私はストライプのシャツに、ネイビーのロングスカートを合わせた無難なファッション。
それにしても……。
やたら目立っているピンクコーデのギャルは、見るからに陽キャそうな人だけれど、どうやら私と同じく一人参戦のようで、それは意外でもあり、ちょっと安心もしていた。
待機列を見回してみれば、友人同士とか、カップルとか、あるいは子連れの家族ばかりで、おひとり様はほとんど見ないのだ。
通常のイベントであれば、いざ始まってしまえば、ひとりぼっちであることなんて忘れちゃうけど、今回のイベントは形態が特殊すぎる。
会場がカフェという特性を活かして、参加者はバイキング形式で食事を楽しみ、そこへ上村舞衣子もやってきて一緒に食事するという変わった流れだ。ひとりだと、かなり手持ち無沙汰になるのは容易に想像できた。
まあ、少なくとも、私の前にいるギャルもおひとり様だし、そんなに肩身の狭い思いはしなさそう……。スマホを弄りつつ、そんなことを思っていたら。
「あの~、アナタもひとり?」
ふいに声を掛けられ、顔を上げると、グレーのカラコンを入れた大きな瞳で、ギャルが私を見つめていた。
「えっ? ああ、そうですけど……」
戸惑いながら頷くと、ギャルは人懐っこい笑顔になった。
「このイベント、食事するんでしょう? よかったら、一緒に食べない?」
唐突なお誘いだけど、こちらとしても渡りに船だ。断る理由もない。
「ええ、いいですよ」
「よかったあ。あたし、望月愛奈っていうの。アイナって呼んで」
「えっと、私は……日高です」
流石にいきなりフルネームを教えるのは憚られたので、こちらは苗字だけを告げたが、アイナは気にする様子もない。
「日高ちゃんね。よろしく~」
「は、はい。よろしくお願いします」
アイナは見た目通り、グイグイくるタイプだ。距離感バグってる気がしないでもないし、何気にタメ口だけど、不思議とイヤな気はしなかった。
「お待たせしました! 整理番号順にご案内します」
カフェの入口が開け放たれ、順番に参加者が入っていく。
急に緊張が高まってきた。
ついに、憧れのピンクフォースに会えるんだ!
「緊張するね~、日高ちゃん!」
「は、はい。緊張しますね~」
言葉とは裏腹に、緊張よりもワクワクが勝っているのか、らんらんと輝いているアイナの瞳は、あどけない女児のそれだ。
アイナもまた、かつてはテレビに噛りついて『ハイパーフォース』に夢中になっていたのだろう。
そして、ようやく私たちの並んでいる列が動きはじめた。
「あっ、あっ!?」
アイナが素っ頓狂な声を出した。
「グリーティングだあ!」
「えっ? ああっ、ホントだ!」
アイナの肩越しに、受付で参加者を出迎えている女性の姿が目に入った。
ピンク色のゴージャスなワンピースに身を包んだ美しい人――上村舞衣子が、たしかにそこにいたんだ。
う、嘘でしょ!?
いきなり舞衣子さんがグリーティングに出てくるなんて! そんなの事前にアナウンスされてなかったし、完全にサプライズ!
ぽーっとなっていたら、瞬く間にアイナの番になった。
「こんにちはー。あら、ピンクでおそろいね」
アイナに手をのばした舞衣子さんが、にっこりと微笑む。
「そうなんです! あたし、ピンクフォース推しなんで! ピンクで合わせてきましたあ!」
がっしと舞衣子さんの手を握り、声を張りあげるアイナ。
「ありがとう。今日は楽しんでいってね」
「はいっ!」
係員に促されて歩きだしたアイナと入れ替わりで、私は舞衣子さんの前に立った。
『ハイパーフォース』放映時は高校生だった舞衣子さんも、今やアラフォーだ。すっかり大人の色香の漂う女性になっていた。しかも、ずっと芸能界から離れていたというのに、彼女が本来持っている”華”なのか、圧倒されるようなオーラがある。
「こんにちは!」
ああ……ずっと憧れ続けた夢咲アミ――ピンクフォースが、私に声を掛けてくれた!
「こ、こんにちは……」
震える手を伸ばすと、舞衣子さんは柔らかな手で握ってくれた。
温かな体温が伝わってきて、もう夢見心地だ。
「あ、あの、私、ずっとファンです!」
たどたどしく、やっとのことでそれだけ伝えると、舞衣子さんは満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう! とっても嬉しい!」
その場で卒倒しそうになるのを必死に堪える私だった。
そのあと、参加者はそれぞれ好きな円卓を選び、バイキング形式で自由に食事を楽しんだ。
私はアイナと同じ円卓に隣り合って座ったが、適当に皿に盛ってきたパスタやローストビーフ、サラダなんかを前にしても、なかなか食が進まない。
舞衣子さんと握手できた、言葉をかわせた、という事実でお腹いっぱいだったのだ。
アイナも箸はあまり動いていないが、テンションが上がっていて、お喋りに忙しいという感じだ。
「舞衣子さん、めっちゃ美人じゃん! オーラが凄いよね!」
「え、ええ……」
緊張で固くなっている私の反応が薄いと見るや、アイナは同じ円卓の男性二人にも話しかけた。見るからに特撮オタクといった風体の二人は、グイグイ距離を詰めるギャルに困惑気味だ。
すると、普段はバンド演奏なんかをするのだろう、こじんまりしたステージがスポットで照らされ、イベント司会者がマイクで呼び込んだ。
「大変お待たせしました。上村舞衣子さんの登場です。どうぞ!」
拍手に迎えられ、ステージに登場した舞衣子さんは、ゆっくり会場を見回したあと、簡単に挨拶をした。
そして、ステージに用意されたテーブル席に着き、運ばれてきたチキンカレーを食べ始めたのだった。
「ヘンな感じだけど、みんなで一緒に食べましょう」
どっと、会場に笑いが起こった。
推しと一緒に食事できるなんて、神イベでしょ!?
舞衣子さんはカレーを食べながら、時折、マイクでトークを挟んだ。
「もうすぐ『ハイパーフォース』の新作が二週間限定で劇場公開されるから、ぜひ観てくださいね」
「死んでも行きます!」
アイナが叫ぶと、関西出身の舞衣子さんは関西弁で、
「死なんといてや~」
と返して、また笑いが起きた。
アイナの度胸が心底、羨ましい。
「急遽、N市でイベントやるって決まってね、SNSで急に告知したんだけど、これだけたくさんの方々に集まってもらえて、本当にうれしい! ……というか、ここで食べてても、みんなと距離あるよね」
おもむろに立ち上がった舞衣子さんは、カレーの皿を手にステージを降りた。
思ってもいなかった行動に、参加者からどよめきの声が上がる。
「テーブルを順番に回っていこうかな。一緒に食べながら、お話ししましょう。じゃあ、こっちから」
悪戯っぽい笑みを浮かべた舞衣子さんが、私たちの円卓へと歩みを進めた。
「えっ……ええっ!?」
この瞬間、胸のうちに必死に堰き止めていたものが、一気に溢れだした。
◆ ◆ ◆
「本当にごめんなさい!」
泣き腫らした目を抑えながら謝る私に、「いいよ、いいよ」とアイナが首を振る。
上村舞衣子のイベント終了後、私たちはチェーン店のカフェに移動していた。
アイスラテを一口飲んだあと、アイナは心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「もう、大丈夫そう?」
「ええ、だいぶ落ち着きました」
ソイラテのホットを一口すすって、ほっと息をつく私を見て、アイナは表情を崩した。
「でもさ~、びっくりしたよー。いきなり大泣きするんだもん!」
「ご、ごめんなさい……」
恥ずかしい。穴があったら入りたい。
舞衣子さんが私たちの円卓にやってきて、間近でカレーを食べながらお話ししてくれたのだけれど……。あまりの感動で感極まった私は子どもみたいに泣きじゃくり、いかに自分が『ハイパーフォース』に支えられたか、どれほどピンクフォースに憧れたか――を切々と訴えたのだった。
といっても、その記憶はおぼろげで、いっそ夢だったらいいのにと思える醜態を晒してしまった。
「日高ちゃんは、ホントにピンクフォースが好きなんだね」
「はあ……。でも、舞衣子さんにも迷惑かけてしまって……」
「迷惑だなんて思ってるワケないって! 泣くほど想われてるってことだから、きっと嬉しかったと思うよ。まあ……同じテーブルの人たちはドン引きしてたけどね」
「うぅ……ですよねー」
なんてイタいことをしてしまったのか……。
「あたしもピンクフォース推しだけど、日高ちゃんはレベルが違うっていうか、きっと思い入れが段違いなんだろうね」
感心したようにまじまじとアイナに見つめられ、私はうつむいた。
「ええ。私にとってピンクフォースは……」
本当の意味でヒーローだったんだ。
私が物心つく前に両親は交通事故で他界し、親戚をたらい回しにされたあと、私は児童養護施設に預けられた。
施設の子たちと一緒に夢中になったのが、日曜日の朝に放送している子ども向けのアニメや特撮ヒーロー番組だった。
私は女児向けのアニメよりむしろ、男児向けの特撮ヒーローものである【戦団シリーズ】の虜になった。
とりわけ思い入れが強いのが、小学一年生の時に見た『機甲団ハイパーフォ―ス』で、それは今も変わらない。両親がいない寂しさと、小さいなりに感じていた漠然とした不安を和らげてくれる力が、たしかにあったのだ。
あのとき憧れたお姉さん――夢咲アミが目の前にいて、私と一緒に食事をしている。そんな夢のような光景を、施設にいた頃の自分に見せてやりたい。
そう思ったら、私の瞳からは止めどなく涙が流れたんだ。
気がつけば、私は自分の事情を初対面のアイナに話してしまっていた。人一倍、警戒心の強い私だから、こんなことは珍しい。
おまけに、私たちは同じ二十七歳で、学年も同じだと知ったあとは、ぐっと距離が近くなった。
アイナって、下手したら学生に見える容姿だから驚きだ。
さらに、驚くことはもう一つあった。
「ええっ! ウィッグなの!?」
目に鮮やかな金髪がウィッグだと教えられたんだ。
「あたし、運送会社の事務をやっててさ~、そこは結構カタい雰囲気だし、あんまり明るい髪色はダメって言われるし」
ため息を吐いて、肩をすくめるアイナ。
「自分のやりたいようにやろうと思ったら、誤魔化さなきゃいけないもんね。生きづらい世の中だわ~」
思わず、クスッと笑ったら、アイナは嬉しそうな表情になった。
「やっと笑ってくれた~。日高ちゃんの笑顔、初めて見るよ?」
「ええっ、そうだっけ?」
ああ、よく考えたら緊張しっぱなしで、一度も笑っていなかったかも……。
アイナは残っていたアイスラテを一気に飲みきると、眉をしかめた。
「生きづらいといえばさ、『ハイパーフォース』が好きなんて言ったら、『いい年して』なんて馬鹿にされちゃうもんね。今日のイベントだって、彼氏にはナイショで来たし」
ああ、それは痛いほどわかる。
「大変だよね」
うんうんと頷いたら、アイナは目を丸くした。
「日高ちゃんの彼氏も同じ感じ?」
「あっ、えっと……私はもうとっくに別れてるんだけどね。私が特撮好きなの良く思わない人だったなあ……って」
結婚まで考えていた恋人がいたが、寸前で別れることになった。私の部屋で別れ話をしたあと、並んでいる『ハイパーフォース』のDVDやソフビ人形を見て、「前から思ってたけど……いい年してやめろよ、みっともない」と捨て台詞を吐いていったのだ。
それ以来、恋愛には臆病になっている自分がいる。
「ヒドイ! 人の趣味にごちゃごちゃ言うなってハナシだよね。あたしも彼氏と別れよっかな~?」
「どんな人なの?」
「消防士。めっちゃイケメンなんだよ。でも、あたしが今でも【戦団シリーズ】好きなの知ったら、やたら馬鹿にするしさ~。最近、競馬にハマったらしくて、やたら『金貸せ』って言うようになったんだよね」
「えっ、それって大丈夫なの?」
私が小声で訊くと、アイナは慌てて言った。
「大丈夫、大丈夫。いくら恋人でも、金の貸し借りはイヤだからさ。ちゃんと断ってるから。……でも、もう潮時かもね」
「…………」
気まずい沈黙が流れると、気を取りなおしたようにアイナが口を開いた。
「日高ちゃんは、『ハイパーフォース』のグッズ、どれくらい持ってるの? あたし、もっと集めて並べたいんだよね」
「私は基本的にネットで買ってるけど、中古ショップを覗くのも楽しいよ。意外と掘り出し物が……」
そこまで言って、私はまだアイナに下の名前を教えてないことに気づいた。
「あの……私、日高悠里っていうの。ユウリって呼んで」
「ユウリ……ユウリ……」
アイナは、私の名前を繰り返した。その感触を確かめるように……。
そして、屈託のない笑顔を見せた。
「よろしくね、ユウリ」
◆ ◆ ◆
「だからさ~、交換してくれって言ってんじゃん!」
混雑しているフロアのなか、茶髪の若者が口を尖らせながら訴える。
市民税課の窓口では、原付のナンバープレートの交付手続きも行っている。覚えやすいナンバーとか語呂合わせに拘る人は一定数いて、「気に入らないから交換しろ」と無茶を言われることは多い。
「生憎、交換に応じることは出来かねますので、ご容赦くださいませ」
私はいつものように、申し訳なさそうな表情を貼りつけて、マニュアル対応を貫く。
「うぜーな」
若者が眉間にしわを寄せたのを見て、これは長くなりそうだと覚悟する。
「ハイパーフォース出動!」
私の心の中で司令官の声が響きわたり、私はダッシュした。
今日もまた、ピンクフォースに変身して、このクレーム対応を乗り切らなければ!
だけど、このところ、妄想でピンクフォースに頼る回数は減ったような気がしていた。プライベートが充実して、心に余裕ができたのかも……?
あれからアイナとは、一緒に中古ホビーショップ巡りをしたり、ショッピングモールのヒーローショーに行ったりしている。『ハイパーフォース』の新作映画も一緒に観に行ったんだ。
そして、アイナは彼氏とはキッパリ別れた。
「日高さん、大変でしたね」
長々と愚痴ってから若者が帰っていくと、関さんが心配そうに声を掛けてくれた。
「大丈夫でしたよ」
にっこりと微笑むと、関さんは目を丸くした。
「日高さん、何かイイことありました?」
「えっ……?」
「とっても表情が柔らかいものですから……」
図星だった。
さっきのクレーム対応でピンクフォースに変身したとき、イイことを思いついたのだ。
私がいま住んでいるアパートは手狭だし、『ハイパーフォース』のグッズを並べるスペースが足りなくなっていたんだ。
ちょうどアイナも、「彼氏と別れたし、心機一転、どっかに引っ越そうかな」と言っていた。どこか広い部屋を探して、アイナとルームシェアできたら……って。
アイナはきっとノリノリで「そうしよう!」って言ってくれるだろう。
さっそく、今夜にでも提案してみよう。
「ええ、イイことありました。何かはナイショですけど……」
悪戯っぽく関さんに微笑みかけると、私は変身を解除して、自分のデスクに戻った。
了