世界中に『青』はある。
 でも彼女がその日切り取った『青』は、たぶん世界で一番美しい『青』だった。



 大学のキャンパスを抜け出し、駅まで走る。ドアが閉まる直前に体を滑らせて、なんとか電車に乗り込んだ。駆け込み乗車はおやめください、というアナウンスは、きっと葵に向けたものだろう。葵は思わず頭を下げたが、周りの乗客からは白い目で見られてしまった。

 今は夏休み真っ只中。どうせ講義はなくて図書室にいただけなのだから、もっと早く出てくればよかった、と葵は後悔する。
 葵は赤く染まった頰を隠すように、バッグから一冊の本を取り出した。適当なページを開いて顔の前まで持ち上げ、葵は息を整える。
 電車内はほどよく冷房が効いていて、体温の上がった葵の体を少しずつ冷やしてくれた。

 電車に揺られること二十分。
 再び太陽のもとに降り立った葵は、駅の近くの駐輪場に向かった。多くの人が利用する無料駐輪場は、ルールを守らない人ばかりで、無法地帯のようなものだ。
 予想通り葵の自転車は、どこの誰のものかも分からない自転車の下敷きになって倒れていた。
 先週も同じ光景を見たな、と苦笑をこぼしながら、ドミノ倒しになっている自転車を一つずつ起こしていく。自分のだけ引っ張り出すことはできないので、十五台ほど起こしてようやく葵は自分の自転車を取り出すことができた。
 親切な人ならば、他の倒れている自転車も起こしてあげるところだろうが、葵には時間がない。まだ倒れっぱなしになっている自転車に、ごめんね、と心の中で謝り、葵は外へ飛び出していった。


 駅の周辺は人通りが多いので慎重に。信号がなくなる田舎道に入ってからは、自転車を立ち漕ぎして目的地に急ぐ。
 真夏の太陽が葵の肌を焼いて痛いけれど、スピードを上げた分、正面からは涼やかな風が吹いてくる。
 腕時計をしていないので時間は分からない。もうそろそろ時間になってしまうだろうか。
 自転車を漕ぐ葵の背中を押すように、遠くで正午を告げる学校のチャイムが鳴った。

 川辺に着く頃にはすっかり息が切れていた。自転車をとめて、バッグから取り出した水で喉を潤す。
 スマートフォンで時間を確認すると、十二時十分。ギリギリセーフだ。

 まずは息を整え、その間にボディシートで汗を拭く。無香料だと思って購入したものは香りつきで、ふわりとやわらかい石けんの香りが葵を包んだ。
 崩れた髪を軽く直し、もう一度喉を潤せば準備完了だ。川へと繋がる広い階段。日陰になっているところを選んで腰を下ろし、葵はバッグから再び本を取り出した。


「少年はいつも早いね!」

 明るい声が川辺に響き、葵は思わず肩を揺らした。
 来ることは分かっていたし、むしろ待ち望んでいたはずだ。それなのに彼女の声を聞くと、平常心ではいられない。どくんどくんと早く鳴り出した心臓の鼓動を聴きながら、葵は振り返る。

「だから、少年って年じゃないですって」
「いいじゃん。私より年下ならみんな少年だよ」

 おかしな持論を唱える彼女の名前を、葵は知らない。知らないのは名前だけではない。彼女に関する情報を、葵はほとんど持っていない。
 
 毎週火曜日、十二時十五分から四十五分までの三十分間だけ、彼女はこの川辺にやってくる。他の曜日や違う時間にはいない。火曜日のこの時間だけ、と決まっているのだ。
 彼女は毎週川辺にやって来て、写真を撮る。

「少年、今日は何の本を読んでるの?」

 彼女は葵のすぐそばに腰を下ろし、葵が広げていた本を覗き込む。
 肩よりも少し長く伸びた髪が揺れる。ふわりと甘いシャンプーの香りが、葵の鼻腔をくすぐった。
 たったそれだけで、葵の心臓の鼓動はバカみたいに速くなる。

「授業で使う資料ですよ。あんまり面白くないです」
「へぇー。少年は勉強が好きなのかと思ってた。つまらないって思う本とかもあるんだね」
「本は好きですけど、興味のない分野だってありますよ」

 葵が一番好きなのは古典文学だ。大学はもちろん文学部で日本文学を専攻している。とは言ってもまだ大学生活は一年目。専門科目以外にも学ばなければならない必修科目がたくさんあり、今葵の手にある資料もそのうちの一つだ。
 今は夏休みなので、葵が読んでいるのは休み明けに使う資料だ。講義が近づいてから読むのでも問題ないが、嫌なことは先に済ませておいた方が後々楽になる。

「ふーん。勉強が得意な人はどんな科目も楽しく取り組んでるものだと思ってた」

 彼女は笑いながらそう言って、髪を耳にかける。それからバッグを開き、いつものように大きなカメラを取り出す。一眼レフカメラは、細身の彼女が持つとよりゴツく見えた。
 葵の隣でカメラを構え、彼女は空を撮る。今日の天気は晴れ。青々とした空には真っ白な入道雲が泳いでいる。夏らしい空模様だ。

「きれいな青空だね」

 写真を撮りながら、彼女が呟く。カメラのファインダーを覗き込む、彼女の横顔を葵は盗み見る。とても真剣な表情をしていた。
 いつもやわらかい雰囲気の彼女が、写真を撮るときにだけ、キリッとした表情になるのが好きだ。葵はその横顔を脳裏に焼き付けて、目線を空へと移す。
 そして先ほどの彼女の言葉に答えるように、葵も口を開いた。

「…………きれいですね」

 空も、彼女の横顔も、真剣な表情も。
 全部きれいだと思う。もちろんそんなことは言えないので、葵は主語を隠して誤魔化した。
 何が、とは言っていない。伝えているけれど、決して伝わることはない。

 これだから、日本語は美しい。



 葵が彼女に出会ったのは二ヶ月ほど前。六月が終わる頃のことだ。
 その日は離れて暮らしている妹の誕生日だったので、葵はプレゼントを届けに行った。本当は夜にでも一緒に食事に行けたらよかったのだが、あいにくその日は夕方からバイトが入っていた。
 葵は大学を昼前に抜け出し、実家のリビングに妹宛てのプレゼントを置くと、再び来た道を戻っていく。急がなければ昼飯を食いっぱぐれるし、次の講義にも遅れてしまう。

 早足で歩いていた葵の足が止まったのは、川が見通せる小道にさしかかったときだった。
 川の中に、女の人が立っている。その女性は深く俯いていて、膝上まで川の水に浸かっているのが、遠目から見てもすぐに分かった。

 一瞬で葵の全身から血の気が引く。
 入水自殺。頭をよぎったその単語にぞっとして、葵は階段を駆け降りた。焦っているせいでもつれそうになる足を必死に動かし、葵は川のそばまで走る。
 あの! と葵が呼びかけても、女性は反応しなかった。膝の上まで水の中に入っているのに、体を折り曲げて川の中を覗き込むようにしている。そのまま川の中に吸い込まれていってしまいそうだった。
 葵は意を決して靴と靴下を脱ぎ捨て、カーキ色のパンツも雑に捲り上げる。そのまま川の中に足を踏み入れ、水をかき分けるようにしながら女性の元まで歩みを進める。

 ようやく女性の元に辿り着き、葵はその細い腕を掴もうとした。
 しかし葵の手は空を切ることになった。
 ずっと水の奥底を覗き込んでいた彼女が、水面の揺れに気づいて顔を上げたからだ。

「…………え?」

 心底驚いたような表情で、彼女が小さく首を傾げる。アッシュブラウンの髪がふわりと揺れた。
 葵もなぜか釣られて驚いてしまうが、すぐに我に返り、彼女の腕をしっかりと掴んだ。

「入水なんてやめた方がいいです」

 自殺をしようとしている人を止める言葉を、葵は持ち合わせていない。何も事情を知らない他人に止められても、迷惑かもしれない。それでも放っておくことはできなかった。
 もう夏だというのにやけに冷たい彼女の腕は、もしかしたらすでに一度川の中に差し入れられたのかもしれない。想像するだけで恐ろしくて、葵は震える声で「入水は絶対苦しいですよ」と言葉を続けた。
 彼女は首を傾げたまま、数度目をまたたかせる。そして掠れた声で呟いた。

「…………ジュスイ? ジュスイってなに?」
「えっ。……自殺目的で、水に入ること、ですけど」
「ああ! 入水! あれ『ニュウスイ』って読むのかと思ってた」

 ふわりと微笑む彼女の顔には、暗い色は含まれていない。
 それに葵がおそるおそる口にした自殺という単語にも、彼女は反応を示さなかった。
 早とちりだったのかもしれない。川の少し深いところで女性がぽつんと立っていたからといって自殺とは限らない。たとえその人が深く俯いていて、今にも川の中に頭を沈めてしまいそうだったからといって、とそこまで考えて、葵は眉を寄せる。思い返してみても先ほどの光景は自殺現場にしか見えなかったからだ。
 彼女は眉尻を下げ、勘違いさせちゃってごめんね、と笑った。

「入水じゃないよ。『青』をね、探してたの」
「青? 青って、色の話ですか?」

 青色ならば川の中に足を踏み入れなくてもよかったはずだ。空も、空を映す川も、きれいな青色だからだ。水は近寄れば近寄るほど透明に見えてしまうものだ。川の水も遠くから見た方が、空と同じくらいきれいな青色をしているだろう。

「うーん。色、なのかな。色だと思ったけどもしかしたら違うのかも」

 彼女の回答はふわふわとしていて掴みどころがなかった。葵が困っていると、彼女はやわらかく笑った。

「ごめんね。私のせいで、服が濡れちゃったね」

 彼女の視線を追って目線を下げると、捲っていたパンツの左足の方がずり落ちて、ぐっしょりと濡れていた。
 自殺を止めなくては、と必死だったせいで、葵自身も気づいていなかった。

「とりあえず、川から出ましょう。いくら夏だからってあんまり身体を冷やしすぎると、お姉さん風邪ひきますよ」
「…………ふふっ、少年は優しいね!」
「いや、少年ってほどガキじゃないですけど」

 そんな会話をしながら彼女の腕を引き、葵は慎重に歩みを進めていく。身体を冷やすなと言った手前、ここで転ぶわけにはいかない。
 無事に川辺に辿り着くと、日陰に彼女の荷物が置いてあることに葵はようやく気がついた。バッグの上にタオルが準備してあるので、本当に自殺ではなく少し川に入っただけらしい。
 早とちりして川に入る前に、もっと周りを見ておけばよかった。同じように事情を知らなくても、ちょっと視点を変えるだけで、簡単に誤解は解けたのだ。

 勝手に自殺志願者だと決めつけてしまったことが気まずくて、葵はずぶ濡れのまま立ち去ろうとした。しかし葵を引き止めたのは彼女のやわらかい声だった。

「少年、これ使って」

 差し出されたのはふわふわの水色のタオル。彼女はもう一枚タオルを持っているようだったので、葵は厚意に甘えることにした。
 カーキ色のパンツは、左半分だけぐっしょり濡れていた。軽く絞って水を落としてから、葵は借りたタオルでとんとん叩くようにして水気を払った。

「本当にごめんね。紛らわしかったよね」
「いや、俺も全然周りを見てなかったので……。荷物とか見れば一目で違うって分かる話でしたね」
「でも自殺しようとしてる人が目の前にいたら、焦って当然だよ」

 白い足を丁寧にタオルで拭き上げて、彼女はシュシュで束ねていたスカートを下ろした。スカートが濡れないように対策をしていたらしい。
 露わになっていた太ももが隠れ、紺色のスカートの裾が膝下で揺れる。目のやり場に困っていたので、葵はバレないようにそっと息を吐いた。

 改めて彼女を見ると、整った顔立ちをしているのが分かった。
 薄めのメイクに落ち着いた髪色。葵と同じ大学の女子は、派手に魅せるメイクをする人が多いが、彼女は違った。元の素材を活かしたナチュラルメイクのせいか、知り合いの女子よりも大人びて見えた。

 彼女は葵のことを『少年』と呼んでいた。互いに名乗っていないので名前を呼ぶことができないのは当然のことだが、初対面の男に対して『少年』と呼びかけるくらいだ。葵の見た目の年齢より、彼女の方が少し年上なのだろう。

「ところでお姉さん、青を探してるって言ってましたけど、どういうことですか?」

 服が乾くまで電車には乗れない。それに、葵は少しだけ目の前の女性に興味があった。
 葵の問いに微笑む彼女は、優しそうなきれいな女性に見える。きっと街ですれ違っても、きれいだな、と思ってすぐに忘れてしまうような、普通の人。
 そんな普通に見える彼女だが、先ほどまで服を着たまま川の中に入り込んでいたのだ。

 奇行の理由を訊ねると、彼女は少し照れたような顔で笑った。

「私、写真を撮るのが好きなんだ。次に目指してるコンテストのテーマが『青』なの」
「ああ、それで青……。青いものなら何でもいいんですか?」
「うーん、どうなんだろう。あなたの思う一番美しい青をフィルムにおさめてください、って書いてあったけど」

 漠然としてるよね、と彼女は困ったように笑う。
 あなたの思う一番美しい青。なかなか難しいテーマだな、と葵は心の中で呟く。

「私、昔から写真を撮るのが好きなんだけど、コンテストはいっつも入賞止まりなんだよね」
「入賞って十分すごくないですか」
「最優秀賞が欲しいんだよ、少年」

 彼女はバッグの中から大きなカメラを取り出した。葵からすればスマートフォンのカメラでも十分きれいに撮れると思うが、こだわる人はやはり一眼レフカメラなのかもしれない。
 カメラのレンズを川の方に向け、彼女はファインダーを覗き込む。一瞬で真剣な表情に変わったのを見て、葵は思わず彼女に見惚れてしまった。

「テーマに対する理解が浅い、とか。きれいだけどありきたり、とか。読解力が足りない、とか。周りの人に言われるんだけど、あんまりよく分からないんだよね」

 国語、苦手だからかな。と彼女は苦笑をこぼす。
 写真の世界について、葵は詳しくないけれど、ただ美しいものが撮れればいいわけではないらしい。テーマを読み解く力が必要だというのは意外な話だった。

「…………テーマに沿っていても、何かしらの驚きがある写真じゃないと一番は取れないってことですか?」
「そうそう! そういうこと!」

 少年は頭がいいんだね、と彼女が葵を見て笑う。葵は気恥ずかしくなって目を逸らした。
 頭がいいわけではなく、文章を読み解くのが好きなだけだ。

「少年だったら、『青』っていうテーマがあったら何を撮る?」

 真剣な表情で葵に問いかける彼女は、本当に困っているようだった。
 葵とて正解が分かるわけではない。幼い頃から本が好きで、人よりたくさん文章に触れてきた。国語は現代文、古文、漢文どれも得意だ。しかし、彼女の求めているフォトコンテストにおけるテーマへのアプローチは、国語の問題と違って答えがないように思えた。

「分かりませんよ……。過去のテーマと受賞の傾向とかを見て、求められている方向性を探った方が確実だと思いますけど」
「うん、それもやってみる。でも私、少年の思う『青』も聞いてみたいな」

 写真に関して知識のない人間の答えですからね、と前置きをした上で、葵は答えた。

「学校、です」

 学校? と葵の答えを繰り返し、彼女は首を傾げた。
 葵は頷いて、自分の考えを丁寧に説明する。

「青春って青い春って書くじゃないですか。その頃は何気ないと思っていた日常も、もう戻れないかけがえのないものだったって気づいたときに、『青春』になるのかなって。期間限定の特別な日常、というか……。その象徴は学校じゃないかな、と思うんです」

 話しているうちにだんだん恥ずかしくなってきて、葵は「もしかしてありきたりすぎます?」と彼女に訊ねる。
 彼女は大きな目を丸くして、首を横に振った。

「そんなことないよ。私は思いつかなかった。そっか、青春……それも『青』だ」
「正しいかは分かりませんよ?」
「うん、もちろん。最後に選ぶのは私だから、少年に責任を負わせたりしないよ」

 そう言って笑って、彼女は肩をすくめてみせた。空とか海とか川とか信号とか、目に見える分かりやすい『青』しか思い浮かばなかった、と眉尻を下げている。

「これだから私の写真は、きれいだけどありきたり、なんて言われちゃうんだね」

 返す言葉が見つからず、葵は俯く。まだ服は湿っていたが、強い日差しのおかげか、かなり水気が飛んでいた。左半分だけ色の変わっていたカーキ色のパンツも、通常の色を取り戻しているように思えた。

「あっ、ごめんね。引き止めちゃって。そろそろ帰る?」
「…………あ、はい。そうですね……」

 次の講義には間に合わないかもしれないが、まだ二つ必修科目の講義が残っているので、大学に戻らなければならない。それに夕方にはバイトの予定も入れている。
 帰らなければ、と思う一方で、葵はためらった。『青』を探す彼女の表情が、とても真剣だったからかもしれない。

「あの、俺、来週も同じ時間にここに来る予定があるんです。だからもしそれまでに青い何かを見つけたら報告しますよ」

 きっと葵の頰はほんのり赤く染まっているだろう。
 勇気を振り絞って紡いだ嘘は、「別にきみの協力なんていらないよ」と言われてしまえばそれまでだ。
 いつもより速く鼓動する心臓の音を聞きながら、葵は彼女の答えを待った。
 断られるだろうかと緊張する葵に、彼女はやわらかい笑顔を向けてみせた。

「私も来週、同じ時間にここに来るね。やっぱり空とか川とか、そういう青も撮っておきたいし」
「…………! は、はい! じゃあ、来週……」
「うん、また来週」

 また、という響きがとても心地よく感じて、葵は口元が緩みそうになるのを堪えながら頭を下げた。
 駅に向かう足取りは不思議と軽くて、走り出したいくらいだった。葵は浮き足立つ心を抑えながら、いつもより眩しく見える景色の中に、『青』を探した。


 翌週はとても緊張した。約束はしていたが、所詮名前も知らない他人との口約束だ。守られない可能性は十分あり得るし、そもそも約束したことすら彼女は覚えていないかもしれない。
 火曜日のお昼頃に着くよう時間を計算し、葵は大学を抜け出した。電車に揺られ、駅に着いたら川辺の方まで歩いていく。
 歩くたびに心臓の鼓動が速くなるような気がして、目的地に着く頃には葵の心臓はバクバクとうるさいくらいに主張していた。

 彼女はきっといるはずだ、と期待していたら、いなかったときに落ち込むことになる。だから葵は、彼女はいないかもしれない、という考えを頭の片隅に置いておいた。
 しかし、彼女はいた。今日は川の中には足を踏み入れず、水に手が届くギリギリの距離でしゃがんでいた。

「こ、こんにちは」

 間の抜けた葵の第一声に、彼女はくるりと振り返る。アッシュブラウンの髪が揺れて、彼女の瞳が葵を捉えた。

「こんにちは、少年」

 葵を見た瞬間に彼女はふわりと微笑んだ。たったそれだけで、葵の胸はうるさく騒ぎ出す。
 さっそく見つけてきた『青』の報告をすべきか、それとも何か世間話でもしてからがいいのか。葵が迷っていると、彼女は手招きをしてみせた。
 おそるおそる近づいて、彼女の隣に立つ。葵よりも小柄な彼女は、葵を見上げて一週間ぶりだね、と笑った。
 そして濡れた指先で頰にかかった髪を耳にかけると、彼女は川の中を指差して言った。

「見て。きれいじゃない?」

 細い指が示す先には、もちろん川がある。浅いところなので、水が透き通って底までよく見える。川底に一瞬きらりと何かが光った気がして、葵はしゃがんで川の中を覗き込んだ。
 水の中にはラムネの瓶が二本沈んでいる。驚いて葵が顔を上げると、彼女はいたずらっぽく笑ってみせた。

「今日は少年が『青』を探してきてくれるって話だったから買ってきたんだ。飲みながら話そうよ」

 彼女は川の中に手を入れて、ラムネの瓶を取り出した。それを持っていたタオルで軽く拭うと、水色のラムネ瓶を葵に差し出す。
 ありがとうございます、と言いながら受け取ってみると、ラムネの瓶はしっかり冷えていた。キャンプなどでは川の水を使ってスイカやビールを冷やす、と聞いたことがあるが、実際かなり冷却効果はあるようだ。自然の冷蔵庫だな、と葵が考えていると、彼女が葵の手に触れる。
 突然のことに驚いたせいだろうか。心臓がうるさく鳴り出して、葵は戸惑いながら「な、なんですか」と情けない声を上げてしまった。

「ん? ここじゃ暑いから、日陰で話そうよ」
「あ、ああ…………。そうですね」

 確かに暑いのは嫌だし、彼女の前で汗だくになるのもなんとなく抵抗があったので、葵は素直に頷いた。
 くるりと背を向けて、膝丈のスカートを揺らしながら日陰に向かう彼女の後ろ姿を、葵は慌てて追いかけた。

 日陰になっている階段に並んで腰を下ろし、ラムネを開ける。川の流れを眺めながら飲むラムネはとても夏らしくて、葵の身体を冷やしてくれる気がした。
 シュワシュワと口の中に広がる炭酸の感覚を楽しんでいると、彼女が先に口を開いた。

「それでは報告会を始めます。まず私から! とにかく青いものをいっぱい探しました!」

 彼女はバッグからメモ帳を取り出して、青にまつわる単語を読み上げていく。

 空。海。湖。川。信号機。魚。地球。イルカ。クジャク。蝶。猫。
 どんどん挙げられていく『青』を頭の中に思い浮かべていたが、葵は気になる単語に思わず声を上げてしまった。

「えっ、今、猫って言いました?」
「うん、言ったよ」
「青い猫なんているんですか?」
「いるんだよ。でもたぶん少年が想像してる青じゃないかな」

 彼女はスマートフォンで検索した猫の画像を葵に見せてくれる。そこにはグレーの毛色にエメラルドグリーンの瞳のかわいい猫が映っていた。

「…………青?」
「この子、ロシアンブルーっていう種類の猫なんだよ。他にもブリティッシュショートヘア……この猫とかも毛色がブルーなんです」

 得意気に話す彼女は、なんだか少し子どもっぽく見える。年上の女性に対して失礼かもしれないが、なんだかかわいいな、と葵は心の中だけで呟いた。

 葵は猫を飼ったことがないので知らなかったが、猫のグレーの毛色は、一般的にブルーと呼ばれるらしい。ロシアンブルーという猫は、知らない人が見ればグレーがかった毛色の猫だが、知っている人からすればブルーの猫という認識になるわけだ。
 彼女が見せてくれた二枚目の写真のブリティッシュショートヘアという猫は、いろんな毛色のパターンがあるらしい。白や茶色、もちろんブルーが入っていることもある。

「ブルーの猫ってなんかかわいいですね。上品な感じがしますし」
「だよね、猫なら絶対にかわいいし、景色と合わせればいい『青』が撮れるかなって思ったんだ」

 無邪気に微笑む彼女は、猫が好きなのだろうか。家に帰ればかわいい猫が彼女を出迎えてくれるのかもしれない。
 葵は彼女の名前も、年も、どこに住んでいるのかも知らない。もちろん好きな動物も、飼っているペットがいるかどうかなんて、知るはずもない。

 そんなことを考えて、葵はラムネを口に含んだ。さっきは心地よく感じた微炭酸が、今はなぜか少し痛い。
 弾ける炭酸を無理矢理喉の奥に飲み込んで、葵が彼女の方を見ると、丸い目が葵を見つめていた。

「少年の見つけた『青』も教えて」

 まっすぐな瞳に見つめられて、葵は思わず喉を鳴らした。恥ずかしくなって目を逸らし、葵も自分が探してきた『青』のメモに目を落とす。

「俺が見つけたのは、お姉さんが見つけたのとはちょっと種類が違って……言葉遊びみたいな感じなんですけど」
「うん、聞きたい」
「たとえば、気持ちが沈んでるときに『気分がブルーだ』なんて言いますよね」
「あ! 本当だ、言うね!」
「他にも芝生。パッと見た印象だと緑なんですけど、青々と生い茂る、とか、隣の芝生は青く見える、とか。なぜか『青』として表現するんですよね」

 彼女の目がキラキラと輝いて、すごいすごい、と感嘆の声を上げながら葵の意見をメモしていく。
 さらさらと走り書きをしているようなのに、彼女の文字はきれいだ。字まできれいなのかよ、と何気なく考えて、葵は思わず赤面した。こんな考え方は、まるで葵が彼女の全部をきれいだと思っているみたいだ。
 葵はまだ彼女のことを、ほとんど何も知らない。知らないはずなのに、葵から見えている表情や仕草や態度、一つ一つが葵の胸を鷲掴みにするのはなぜなのだろう。

 ほとんど気づいているはずのその問いの答えには気づかないふりをして、葵は熱い頰にラムネの瓶を押し付けた。

「あー…………あと、実る前の果実のことも、青いって言いますね」

 赤く染まった葵の頰に気づくことなく、彼女は『実る前、果実』とメモを続ける。そこに実るという単語について調べる、と彼女が書き足しているのを見て、葵は思わず笑みをこぼした。
 勉強熱心な人だ。それだけコンテストに対して本気なのだろう。

 彼女が顔を上げて、笑っている葵に気がついた。どうしたの? と不思議そうな顔で首を傾げるので、葵は誤魔化すように言葉を紡ぐ。

「よかったです。俺の探してきた『青』、もしかしたら的外れかもって不安だったので」
「そんなことないよ。私じゃ絶対に思いつかないし、おもしろいなって思ったよ」

 おもしろい、という意味が分からず、今度は葵が首を傾げることになった。
 彼女は「ロシアンブルー、気分がブルー、芝が青い、青い果実」と指折り数えながら先ほど挙がった『青』を並べていく。

「定義されている青色とは違うのに、青って呼ぶのはなんだかおもしろいよね。少年も言ってたけど、言葉遊びみたいで」
「…………! そう、そうなんですよね……! 言葉っておもしろいんですよ」

 彼女が自分の好きな分野に興味を持ってくれたことが嬉しくて、葵は思わず前のめりになって語り出す。

「たとえばこの間お姉さんが言ってた、水に入るっていう漢字を何て読むかって話ですけど。あれ、『ニュウスイ』も正しいんですよ」

 こんなのはフォトコンテストのテーマには関係ないただの雑談だ。それでも彼女は興味津々に目をまたたかせ、小さく首を傾げた。

「えっそうなの? でも少年は『ジュスイ』って」
「はい、どっちも読むんです。プールとか海とかに、自殺以外の目的で入るなら『ニュウスイ』。自殺目的なら『ジュスイ』になるんですよ」
「へぇー! おもしろいね、読み方で意味が変わっちゃうんだ!」

 彼女がラムネを片手にやわらかく笑う。からん、と瓶の中でビー玉の動く音が響いた。爽やかな夏の音だった。
 彼女は楽しそうに笑ってくれたが、葵は我に返って自分のラムネ瓶に視線を落とす。

 言葉が好きだ。日本語が好きだ。
 言葉の中に込められた感情を探すのが好きで、葵は昔から本ばかり読んでいた。小学校でも中学校でも、スポーツより読書が好きで、クラスでは少し浮いていた。運動ができないわけではないけれど、それよりも文字を追う時間が好きだった葵は、たぶん少し変わっていたのだ。
 高校はそれなりの偏差値のところに入学したので、読書ばかりしていても浮くことはなかった。そして大学生になった今は、好きな学科を選んで入学できたおかげで、周りも同じような人ばかりだ。

 そんな環境に慣れていたせいで忘れていた。普通の人はこんな風に言葉について熱く語ったりしない。
 中学生のとき、ラブレターをくれた女子に引かれてしまったのを葵は思い出した。当時の葵は、ラブレターをもらったことよりも、ラブレターの文章の中に緻密に隠された感情を見つけたことに浮かれていた。それを嬉々として送り主に語ったところ、「そんな深い意味はなかったんだけど……。ていうか葵くんなんかオタクっぽい。気持ち悪いよ」と言われて、結局返事をする前に振られてしまったのだ。

 彼女も引いてしまっただろうか。どうでもいい知識をひけらかす、ダサい男だと思われてしまったかもしれない。
 葵の不安は、あっさりと彼女が振り払ってくれた。

「ねぇ、少年。『青』にまつわることじゃなくてもいいから、また教えてよ」
「えっ?」
「言葉遊び? 日本語の豆知識? おもしろいと思う。私はそういうの好きだよ」

 とくん、と葵の心臓が存在を主張する。今度は不意打ちだったせいで、赤くなった頰を隠すことができなかった。
 彼女の瞳に映る葵は、真っ赤な頰で嬉しさを噛み締めたような顔をしている。

「私、毎週この時間にここにいるから。気が向いたらまた来てよ」

 いたずらっぽく笑う彼女の真意は、葵には分からない。
 分かっているのは、葵がこれから毎週火曜日に、この川辺に来ることが決まった、ということだけだった。



 あれから約二ヶ月。
 まだ暑さは続いているが、八月はもう終わりを迎えようとしている。彼女が応募しようとしているフォトコンテストの応募締切も、目前に迫っていた。

 互いにさまざまな理由を持ち出して、毎週火曜日に三十分だけ会っていた。でも葵はまだ彼女の名前すら知らない。当然連絡先も知らないし、年齢も分からないままだ。
 それでも葵は知っていた。フォトコンテストの締切は八月末日。そしてまだ彼女は、納得のいく写真が撮れていない、ということを。

 カレンダーで確認したところ、応募締切の前に葵が彼女と会えるのは、今日が最後だった。彼女は『青』を探しにこの川辺に来ていたので、もしかしたら来週以降はここに来ることはないかもしれない。
 どうにか名前と連絡先を聞きたい。それが葵の今日の目標だった。そしてできることならば、この短い三十分の間に、彼女が『青』をテーマにした写真が撮れますように。そんな欲張りなことを考えながら、葵は隣でカメラを構える彼女の横顔を盗み見た。

「今日もここから見る『青』はきれいだね」

 彼女は嬉しそうな声を上げながらも、真剣な表情を崩さない。ファインダーを覗くときはいつだってそうだ。
 撮りたい景色を追い求める彼女の横顔は、いつもきれいだ。撮った写真を確認して、やわらかく微笑む瞬間とのギャップがたまらないことを、葵は知っている。

「……コンテストの写真、もう決まりました?」
「んー。これから撮るよ」
「やっぱりここの景色にしたんですか?」

 テーマである『青』について、葵と彼女は何度も意見を交わした。
 この川辺から空と川の『青』を撮れば、きっときれいな写真になるだろう。実際に彼女が撮った写真を何度も見せてもらったが、どれも息を呑むほど美しかった。
 しかしただ『青』色の景色を撮るのでは、初めて会ったときに彼女が言っていた課題はクリアできない。

 テーマに対する理解が浅い。きれいだけどありきたり。読解力が足りない。テーマに沿ってはいるけれど驚きがない。

 最優秀賞を取りたいという彼女が、文字通り『青』の景色を撮るとは思えなくて、葵は彼女の言葉を待った。
 彼女は葵の予想通り「違うよ」と答えた。それからカメラを一度置くと、バッグから三脚を取り出して組み立て始めた。

「三脚? 珍しいですね」
「そう。ちゃんと構図は考えてきたんだ。少年、そこから動かないでね」
「…………えっ。まさか俺も映るんですか!?」
「お願い! 横顔だけだから!」

 彼女は顔の前で両手を合わせて、葵を見上げる。かわいい顔をしておねだりしているが、彼女の中ではすでに決定事項なのだろう。
 葵は自分の中にある羞恥心と彼女のおねだりを天秤にかけ、あっさり折れた。

「う…………まぁ、横顔くらいなら……」
「よかった。実は少年がいないと撮れない構図なんだよね」

 仮に葵が一度断ったとしても、二段構えのおねだりだったわけだ。そこまでしなくても、きっと葵は彼女に頼まれればお願いを聞いてしまっていたというのに、用意のいいことだ。しかし葵が彼女に弱いのは、惚れた弱みという類のものなので、彼女が気づいていないのも無理はない。

 川と青空が背景になるように、彼女は葵の斜め後ろ、少し離れたところに三脚を設置する。カメラをセットして、何度か試し撮りをされて、葵は恥ずかしさに頰が熱くなっていくのを感じた。

「まさか『青』の答えが俺なんですか?」

 本に目線を落としたまま、葵は彼女に訊ねる。本当は顔を見て話したかったが、彼女の方を向いてしまえばカメラ目線になってしまうので、意識的に本を見るようにしていた。
 彼女は「まだ画角チェックだよ」と答える。写真を撮る角度、ということだろう。葵はふーん、と相槌を打って、興味のない本を目で追ってみる。彼女とカメラのことばかりが気になって、残念ながら本の内容は頭に入ってこなかった。

 十分。いや、十五分かもしれない。
 時計を見ていたわけではないので正確な時間は分からないが、葵の体感ではそのくらい経っていた。
 彼女はカメラと葵の隣を何度も行き来して、細かくカメラの向きを調整する。そしてようやく納得のいく画角が決まると、そこからは怒涛の撮影タイムになった。

 彼女は撮り始めてからも何度もカメラと葵の隣を行き来し続けている。どうやら彼女自身も写真に写るつもりのようだ。
 横顔だけでいいと言われたが、どんな表情をしていればいいか分からず、葵はずっと手元の本に目線を落としていた。

「えっ、本当にこれでいいんですか? どこか見た方がいい、とか指示があったら……」
「ううん。少年はいつも通りでいいよ。あ、ほらまたそろそろ撮られるよ」
「は、はい」

 まだ写真を確認していないが、きっと葵の顔はこわばっているに違いない。モデルにするならば、絶対にもっといい人がいたはずだ。葵のように、大学生くらいの特徴のない地味な男なんてどこにでもいる。葵の知り合いだけでも十人は思い浮かぶくらいだ。きっときれいで優しそうな彼女が声をかければ、みんな喜んでモデル役を務めるに違いない。
 しかし葵がそれを言うと、彼女はくすくすと小さな声で笑った。

「俺なにか変なこと言いました?」
「ううん。写真苦手なんだね、ごめん。でも少年と私じゃないと、『青』にならないんだよ」

 彼女の言葉に、葵の胸がきゅんと鳴いた。
 初めて出会ったときに葵が『青』から思い浮かべた、『青春』という二文字が頭をよぎる。葵と彼女でなければならない、というのは『青春』を撮ると決めたからではないか。
 そんな期待が葵の胸を膨らませる。ドキドキとうるさい心臓の音を聞いていると、再び彼女が口を開いた。

「ねぇ、少年」
「はい……?」
「今日、撮影が終わったらさ、名前、教えてよ」

 葵は驚いて顔を上げてしまった。ずっと手元の本を睨むように見つめていたのに、ついに彼女の顔を見てしまった。
 彼女の頰は、ほんのり赤く染まっていた。冗談めかした言い方に、いたずらな笑顔。しかしその瞳には期待の色がにじんでいる。
 葵は頰が熱くなっているのを感じながら、答えを返した。

「…………名前だけじゃなくて、連絡先も聞いてくださいよ」

 俺も知りたいし、と加えた言葉に、さらに体温が上がった気がした。

 いつのまにかシャッター音がしなくなっている。葵がおそるおそるカメラの方へ振り向くと、「あ、撮り終わってる?」と彼女がカメラに駆け寄った。
 熱い頰にペットボトルを押し当てるけれど、葵の買ってきた飲み物はすでに常温まで戻ってしまっていた。

 日陰にいるはずなのにやけに頭が熱いのは、夏の暑さのせいか。それとも、小悪魔のような彼女に振り回されているからだろうか。
 まだ彼女の返事は聞けていない。名前と連絡先を教えてもらえるのか。それとも、彼女は葵の名前だけ知ることができれば満足なのか。分からないままだ。

「あ、すごくいい。…………絶対これだ」

 呟かれた声に、葵は彼女の表情を確認する。すごく嬉しそうな、宝物を見つけたような笑顔。葵の胸がまたうるさく騒ぎ出す。彼女といると、いつもこうだ。
 ささいな仕草。ふとしたときに見せる表情。何気なく紡がれた言葉。
 一つ一つが、葵の心を揺さぶる。どうしようもなく意識してしまうのだ。

「…………いいの、撮れました?」
「うん。少年のおかげ。ありがとう」
「いや、座ってただけなんで」

 カメラを抱きしめて、彼女は小走りに葵の隣に戻ってきた。いつもならすぐに写真を見せてくれるのに、今日はそのままカメラをバッグにしまってしまう。
 見せてほしい、と言いたい気持ちと、自分が写っているから恥ずかしいという気持ちがせめぎ合う。葵が言葉を発するより先に、彼女がバッグからスマートフォンを取り出し、やわらかく笑った。

「連絡先、教えてくれる? 応募する写真、少年にも送りたいから」
「…………ずるいですよ、そんなの」

 出会った頃からずっと、彼女の言動には振り回されてばかりだ。でもそんなところも含め、葵は彼女に強く惹かれている。
 スマートフォンに自分の連絡先のQRコードを表示し、葵は画面を彼女の方に向けた。彼女は連絡先を読み取り、「へー、葵くんって言うんだね」と初めて葵の名前を呼んだ。
 メッセージアプリで彼女が送ってきたのは、何度も見ている景色の写真だ。今も葵たちの目の前に広がる、空と川を切り取った写真。彼女の撮った写真は、葵の目に映る景色よりもずっときらきらと輝いて見えた。

「…………俺が見てるのとは違う景色みたいです」
「お、いい感想。ありがとう、葵くん」

 名前を呼ばれ、葵もメッセージから彼女のプロフィールを開く。絵空、と名前の欄には書かれている。葵はおそるおそる、「えそら、さん?」と呼んでみると、あたり! と彼女は嬉しそうに笑った。

「当て字とかだと読めないもんね。あれ、待って、『あおい』くんで合ってる? もしかして『あお』くん?」
「『あおい』で合ってますよ。絵空さん」

 葵は緊張しながら彼女の名前を呼んだ。いつも通りのやわらかい笑顔のはずなのに、いつもよりも嬉しそうに見えるのは、葵の気のせいだろうか。

「コンテストに出す写真、確認も兼ねて後で葵くんに送るね」
「はい。…………最優秀賞、撮れるといいですね」
「うん、ありがとう」

 絵空は笑顔を見せた後、そろそろ行かなくちゃ、と立ち上がった。気づけばいつもより二十分も長くここにいたらしい。葵は夏休み中なので講義に遅れる心配もないが、絵空は何か予定があるのかもしれない。

 せっかく名前を聞いて、連絡先も交換して。二人の距離は少し縮まったかもしれない。でもそれ以上距離を詰めていいのか、葵には判断できなかった。
 しかし、絵空と会うのはきっと最後になるだろう。コンテスト用の写真を撮り終えたのだから、絵空はこの川辺に用はなくなる。葵と会う理由も、なくなってしまう。
 そう考えると名残惜しくて、残りわずかな時間でもそばにいたいと葵は思ってしまった。

 いつもは絵空が帰るのを見送ってから駅に向かっていたが、今日は葵も同じタイミングで帰ることにする。荷物をまとめて自転車に手をかけると、絵空と共に駅に向かって歩き出した。
 葵が自転車に乗らずにわざわざ手押ししていることに、絵空は触れずにいてくれた。もう少し一緒にいたいという葵の気持ちに、絵空は気づいているのだろうか。
 気づいていて何も言わないのだとしたら、脈がないのかもしれない。葵の片想いなら、連絡先は教えてもらったけれど、無理に連絡を取ったりせずに身を引くべきだろう。

「ねぇ、葵くんは国語、得意だよね?」
「え? …………まあ、他の科目に比べれば」
「そうだよね。いろんな単語知ってるし、テーマから読み取る力……読解力? もすごいもんね」

 何の話だろうか、と葵が首を傾げると、絵空は得意気に笑った。

「コンテストに出す写真は、タイトルも含めて作品なんだよ」
「ふーん……。そうなんですか?」
「そう、だからタイトルにも一捻り加えるんだ」

 楽しみにしててね、と絵空は無邪気に笑う。彼女を応援したいという気持ちは本物なのに、もう会えなくなるのが寂しいという想いが邪魔をして、葵はうまく笑顔を作ることができなかった。



 絵空から一枚の写真が送られてきたのは、八月三十日。フォトコンテストの応募締切の前日だった。

 葵は届いた写真に見入ってしまった。約二ヶ月の間、毎週通い続けた川辺。知っているはずの景色が、まるで初めて見る風景のように印象を変えていた。

 カメラのピントは、頰を染めて目を合わせる二人の男女に合っている。もちろん葵と絵空の二人だ。葵は真っ赤な顔で絵空を見つめていて、彼女はどこかいたずらっぽく笑っている。
 その表情には覚えがあった。絵空が名前を教えて、と言ったときに違いない。あのときは彼女に目を奪われて気が付かなかったが、空はとてもきれいな青色だ。白い雲をトッピングした青空は、川にも色を映している。川は優しい水色で、きらきら光っているように見えた。
 写真の右手前にはなぜかピントの合わない自転車が写っている。葵の自転車だ。言ってくれればどかしたのに、と葵は思ったが、すぐに考え直す。
 絵空はあれほど画角にこだわっていたのだ。自転車も演出の一つなのかもしれない。

 見つめていると、写真の世界に吸い込まれてしまいそうだった。知っているはずの景色も、葵の記憶の中にある絵空の笑顔も、鏡で見慣れた自分の顔も、全てが初めて見るもののようだ。
 絵空の前で自分がこんな表情をしていたことを、葵は知らなかった。誰がどう見ても恋をしている表情だ。目の前の彼女に夢中な男と、男の好意に気づいているけれど駆け引きを楽しんでいるきれいな女性。そんな構図だ。

 感動と落胆が入り混じり、スマートフォンを持つ葵の手が震えた。
 あの何気ない日常のワンシーンを、美しく切り取った彼女のセンスに胸が震える。でも同時に、やっぱり相手になんてされていなかったんだな、と失恋を確信して泣きたくなってしまう。
 それでも写真を見つめたまま目が離せずにいると、スマートフォンが震え、メッセージの通知が届いた。葵は何も考えないようにしながら写真の画面を一旦閉じて、メッセージ一覧を表示する。
 メッセージを送ってきたのは絵空だった。

 謝られたりするのだろうか。
 少年の好意に気づいてたのに利用してごめんね、と。
 そんなのは切なすぎる。どうか写真の感想を訊くメッセージであってくれ。祈る気持ちでトーク画面を開くと、そこには予想外のメッセージが届いていた。

『葵くん。これが応募写真です。タイトルは』
『まだ実る前の「 」』

 二回に分けて送られてきたそれに、葵の目は釘付けになる。

 まだ実る前の「 」。

 心臓が大きく騒ぎ出した。さっきよりもさらに手が震えて、今度は全身の体温が上がった気がする。葵は熱い頰と緩んだ口元を無意識に押さえて、一人呟いた。

「………………マジですか」

 あの写真からの、一発逆転があるなんて思ってもいなかった。でも、絶対にそういうことだ。だって葵は自信がある。誰よりも本を読んできた。言葉が好きで、日本語が好きで、言葉に隠された感情を探すのが好きだ。

 実る。これは青にかけている言葉だろう。
 葵が挙げた、実る前の果実は青い、という例からの応用問題。そうだ、あのとき絵空は『実る』という単語について調べる、とメモをしていた。

 実るのは、果実に限らない。
 一番に思い浮かぶのは努力だ。それから、恋。

 二人の男女が見つめあっている。ここに努力という単語は似合わない。もちろん絵空がフォトコンテストのために努力をしてきたことは知っているが、それならば葵をフレームに収める必要はなかったはずだ。
 何より写真を撮るあのとき。絵空は言ったのだ。
 少年と私じゃないと『青』にならない、と。
 二人揃って初めて完成する『青』。まだ実る前の「恋」。これが空白の答えだ。

 ここで思考を止めてしまったなら、一発逆転とまではいかなかっただろう。
 実る前の果実が青いように、実る前の恋も青い。それは間違いない。だって葵の恋が実っていないのは事実で、おそらく絵空は葵の好意に気づいているのだから。
 でも葵はやっぱり日本語が好きなのだ。それこそ、ラブレターの差出人を引かせてしまうほど、行間を読み取ってしまうくらいには。

 このタイトルで、浮いている単語。
 それはもちろん、『まだ』だ。

 実る前の「 」。それだけでもタイトルとしては十分だったはずだ。過不足なく審査員には伝わる。少なくとも葵はそう思う。
 それでも絵空が『まだ』という単語を入れた理由。それは、考えるまでもない。

 葵はメッセージの返信を始める。まずは写真に対する感想を認めた。長々と語った文章は、もしかしたら気持ち悪いと思われるかもしれないが、葵の素直な感想だった。
 そしてタイトルに対してのコメント。これはもう、葵の中で返信の内容を決めていた。

『まだなら、次の色に進みませんか』

 抽象的で、もしかしたら少しだけ文学的かもしれない。絵空に葵のメッセージの意図は伝わるだろうか。少し待っていると、彼女から返信がきた。
 メッセージを読んで、思わず葵の口元に笑みが浮かぶ。

『染めていいよ?』

 これだから日本語は、美しくて、不思議で、おもしろい。
 隠された言葉の端々から伝わってくる、絵空の恥じらいと思い切りの良さ。そして、彼女も葵と同じ気持ちを抱いている、という確信。
 どこにもそんなことは書いていないのに。どこまでも抽象的な言葉のやりとりをしているはずなのに、伝わってくるのだから不思議な話だ。

 国語は苦手だ、と言っていた絵空だが、彼女から送られてくるメッセージは不思議と心地よかった。葵はやわらかな笑みを浮かべ、想像を広げる。
 実る前の恋が青いとしたら、両思いになったらその恋は何色と表現されるのだろう。ケンカをしたら? 仲直りをしたら? 手を繋いでキスをして、関係が深まったら、何色になるのだろう。

 二人の関係はどんな色に変わっていくのだろう。まずはもう一度会って、告白をしなければならない。そのためには会う約束を取り付けなければ、と葵は文字を打ち込んでいく。

『来週の火曜日、お昼ごろ空いてたら、ご飯に行きませんか。場所は絵空さんの都合のいいところで大丈夫なので』

 さっきまでは詩のような言葉遊びをしていたのに、現実的な誘いは途端に直接的な表現になるのもまた、日本語のおもしろいところだ。現実に約束を取り付けるときに曖昧な日本語を使うと、すれ違いが起きかねないからだ。
 きっと画面の向こうでは、絵空が目をまたたかせているに違いない。そう考えていたのも束の間、すぐに来た返信に、葵は危うくスマートフォンを落としそうになった。

『私も会いたいって思ってた!』

 結局どんな言い回しも、言葉遊びも。
 ストレートに好意を伝える言葉には敵わないのだ。

 一つ勉強になったな、と葵は笑みをこぼし、先ほどもらった写真を保存した。待ち受け画面に設定したいところだが、それは次の火曜日までおあずけだ。
 絵空に気持ちを伝え、青い関係から卒業したならば、そのときは待ち受けにしてもいいかもしれない。

 葵は保存した写真を見つめながら、告白の言葉をゆっくり考えるのだった。