ちくちくと、途中だったハンケチーフへの刺繍を進めていく。
無心で針を刺していたが、ふとした瞬間記憶が甦る。
日の光が反射し煌めく銀糸。
その隙間から見える血のように赤い紅玉。
通った鼻筋に、白磁のように滑らかな肌。
そして薄い唇が近付いて……。
「っっっ!」
朱縁に口づけされたときのことを鮮明に思い出してしまった琴子は、刺繍針を別の場所に刺してしまいハッとした。
「ああ、もう……これではまったく進まないわ……」
愚痴を呟きながら針を抜き生地をならす。
すでに夫婦ではあるが、屋敷のことは少しずつ慣れていけば良いということで特に何かをすることの無い琴子。
メイドの利津もいるので、実際にしなくとも屋敷のことは回る。
来客でもあれば別だろうが、そもそも人とあまり交流のないらしい朱縁を訪ねてくる者はいなかった。
なので一先ず手がけていた刺繍をしているのだが……。
刺繍を再開しようとした針を止め、ふぅ……と罪悪感のような心持ちでため息を吐く。
本来ならば率先して料理などをすれば良いのだが、それをしてしまうと本当に夫婦になろうとしている気がして出来なかった。
視線を上げて見た文机の上には、毎日届く父からの手紙。
『しばらくかかると言うがいつになるのか』
『桐矢家からもどういうことだと苦言があったぞ。早くするんだ』
早く離縁しろと催促する手紙の数々。
父の言い分も、お役目としての桐矢との婚姻も理解出来る。
だが、朱縁は離縁を許してはくれない。
(それに……)
琴子自身、朱縁や利津と共に過ごすこの屋敷での生活がとても心地よく感じ始めていた。
厳しい父に意見を押さえつけられることもなく、異能持ちを産み育てるお役目を望まれている訳でもない。
ただ、朱縁の側にいて欲しいと願われるだけ。
それはとても穏やかで、心地の良い時間だった。
そのため、この二日ほど父への手紙の返事を出せていない。
せめてもう少し、この穏やかなときを過ごしていたかった。
……だが、このままの状態であの父が何もしないということはあり得なかったのだ。
数日後、琴子はそれを思い知ることとなった。
***
その日は、帝に呼ばれたとのことで午後から朱縁は留守にしていた。
刺繍もなんとか形になり、利津に手伝って貰いながら仕上げのアイロンをしようとしていたときだった。
「さ、そろそろ温まってきたようです」
真新しい電気アイロンの様子を見ていた利津に勧められ、琴子は火傷しないよう気をつけながら刺繍したハンケチーフにアイロンをさっとかけた。
「これくらいで良いかしら……でも本当に便利ね? 炭を用意しなくていいなんて」
使用したアイロンを立て置きながら、琴子は感心する。
電気アイロンが出回り始めたのは本当に最近で、今もほとんどの家では炭を入れる炭火式アイロンが主流のはずだ。
どんどん現世に興味を無くしていく朱縁のために、少しでも興味を持ってもらえるよう新しいものを率先して取り入れたという利津。
それはメイド服や着物に留まらなかったらしい。この電気アイロンしかり、この屋敷には他にも様々な新しいもので溢れかえっていた。
流行や新しいものにとても興味のある琴子にとって、この屋敷での生活は心躍るものだ。
穏やかで、楽しい驚きのある日々。
朱縁の望む通り離縁しなければ、この生活がずっと続くのだろうか。
長い時を共に生きなければならないという不安はあれど、存外悪くないのかもしれない、と琴子は思い始めていた。
「本当に、特にこの数十年は目まぐるしいです。黒船来航の折も慌ただしかったですが」
「は?」
しみじみといった様子の利津に琴子は思わず目を瞬かせる。
黒船来航といえば六十年以上前の出来事だ。
その時代をまるで見てきたかのように語る利津に、琴子は思考が追いつかない。
七十にもなる老人ならば分かるが、利津はどう見ても二十代といったところだろう。少なくとも老女には見えない。
「えっと……失礼かもしれないけれど、利津さんはおいくつなのかしら?」
「え? そうですね、百を超えた辺りから数えるのは止めましたが……百三十くらいだと思います」
澄ました顔で告げる利津に、琴子はやっと理解する。
「……利津さんは、あやかしなのですね?」
「ええ、妖狐です。朱縁様には百年ほど前からお仕えしておりますね」
妖狐であるという証拠のように、利津は人差し指を立てるとその上に青い炎――狐火を出現させた。
「申し訳ありません。驚かれましたか?」
「少し……でも逆に納得しました。鬼である朱縁様に、只人が仕えていられるのか疑問もありましたから」
普段の生活であやかしと関わることなど無いため人だと思い込んでいたが、確かに人ならざる者に人が仕えるには限界があるだろう。
利津があやかしであることはむしろ理に適っていると思えた。
「――御免! 御主人はおられるか!?」
そのとき、玄関の方から野太い男の声が響く。
「珍しいですね、誰かが訪ねてきたようです」
不思議そうに立ち上がった利津は琴子に部屋で待つように告げ、玄関へと向かった。
「確かに珍しいこと」
琴子がこの朱縁の屋敷で世話になってからまだ十日ほどしか経っていないが、その間も誰かが訪ねてくるということはなかった。
一体どのような客だろう? と思いながらアイロン台などを片していると、玄関の方からドンッと大きな音が聞こえてきた。
続いて利津の叫ぶような声が聞こえ、尋常ではなさそうな様子に鼓動が早まった。
「なに? どうしたというの……?」
ドクドクと心臓の鳴り響く音を鼓膜でも感じながら、琴子は自室の襖をそろりと開ける。
「琴子! どこにいる!? 帰るぞ!」
「っ!」
聞き覚えのある声に、琴子は思わず身を固めた。
何故? と疑問に思うが、同時に納得もする。
手紙の返事が無ければ、あの父は強硬手段に出ると予測出来たはずなのだから。
父への返事も、朱縁に対しての答えも先延ばしにしたいがために考えないようにしてしまっていたのだ。
だが、そのことに今気付いても遅い。父は来てしまったのだから。
「勝手をされては困ります! ここは守護鬼・朱縁様のお屋敷ですよ!?――あうっ!」
「あやかし風情が口やかましい! それくらい承知の上だ。私は自分の花嫁を迎えに来たのだ、返していただく!」
父の声の後に、利津ともう一人男の声がした。
知らぬ声に警戒心が沸く。
これは一体どういう状況なのか。
「琴子!」
父の前に出て行けば良いのか、隠れれば良いのか。迷っているうちに見つかってしまった。
「あ……お父様」
久方ぶりに対面した父に、琴子は金縛りにでも遭ったかのように動けなくなる。
父の厳しい眼差しは、琴子の中に恐怖として植え付けられていたようだ。
「まったく、手紙も返さずにどうしているのかと思えば元気にしているではないか。さあ帰るぞ、そして桐矢家へ嫁ぐ準備をするのだ」
「で、ですが……朱縁様は離縁しないと……」
手を伸ばす父に、琴子は行けぬ理由を口にする。
鬼花の本当の役目のことは一通り手紙で伝えていたはずだ。
毎日来ていた手紙にそれに関しての言葉は無かったが、知らないということはないだろう。
だが、父はどうでも良いというように鼻を鳴らした。
「鬼のもくろみなぞ知ったことか。櫻井の娘は異能持ちの家に嫁ぎ強い異能持ちを産み育てることが勤め。その勤め以上に大事なことなど無い」
「なっ……」
あくまでも人が作り出したお役目が大事だと口にする父に、琴子は絶句する。
そのお役目は朱縁が妖力を分け与えているからこそ成立するものだと分かっているのだろうか?
その朱縁の望みを『知ったことか』などと口にするなど、理解に苦しむ。
「何にせよ、あなたは私の妻になるのだ。それを覆すことは許されぬ」
父の背後から、軍服を身に纏うたくましい体つきの男が現れる。
父以外の異性の存在に気分が悪くなった琴子は思わず眉を寄せた。
「お前の婚約者、桐矢真継殿だ。若君自ら迎えに来て下さったのだぞ? 行けぬとは言うまい?」
「む、無理です。この数珠が外せない以上、お父様以外の殿方の側にはいられません」
未だ右手首にある紅玉の数珠を見せながら訴えると、真継がスラリと帯剣していた軍刀を抜く。
何をするのかと思った瞬間、その刃が琴子へと振り下ろされた。
無心で針を刺していたが、ふとした瞬間記憶が甦る。
日の光が反射し煌めく銀糸。
その隙間から見える血のように赤い紅玉。
通った鼻筋に、白磁のように滑らかな肌。
そして薄い唇が近付いて……。
「っっっ!」
朱縁に口づけされたときのことを鮮明に思い出してしまった琴子は、刺繍針を別の場所に刺してしまいハッとした。
「ああ、もう……これではまったく進まないわ……」
愚痴を呟きながら針を抜き生地をならす。
すでに夫婦ではあるが、屋敷のことは少しずつ慣れていけば良いということで特に何かをすることの無い琴子。
メイドの利津もいるので、実際にしなくとも屋敷のことは回る。
来客でもあれば別だろうが、そもそも人とあまり交流のないらしい朱縁を訪ねてくる者はいなかった。
なので一先ず手がけていた刺繍をしているのだが……。
刺繍を再開しようとした針を止め、ふぅ……と罪悪感のような心持ちでため息を吐く。
本来ならば率先して料理などをすれば良いのだが、それをしてしまうと本当に夫婦になろうとしている気がして出来なかった。
視線を上げて見た文机の上には、毎日届く父からの手紙。
『しばらくかかると言うがいつになるのか』
『桐矢家からもどういうことだと苦言があったぞ。早くするんだ』
早く離縁しろと催促する手紙の数々。
父の言い分も、お役目としての桐矢との婚姻も理解出来る。
だが、朱縁は離縁を許してはくれない。
(それに……)
琴子自身、朱縁や利津と共に過ごすこの屋敷での生活がとても心地よく感じ始めていた。
厳しい父に意見を押さえつけられることもなく、異能持ちを産み育てるお役目を望まれている訳でもない。
ただ、朱縁の側にいて欲しいと願われるだけ。
それはとても穏やかで、心地の良い時間だった。
そのため、この二日ほど父への手紙の返事を出せていない。
せめてもう少し、この穏やかなときを過ごしていたかった。
……だが、このままの状態であの父が何もしないということはあり得なかったのだ。
数日後、琴子はそれを思い知ることとなった。
***
その日は、帝に呼ばれたとのことで午後から朱縁は留守にしていた。
刺繍もなんとか形になり、利津に手伝って貰いながら仕上げのアイロンをしようとしていたときだった。
「さ、そろそろ温まってきたようです」
真新しい電気アイロンの様子を見ていた利津に勧められ、琴子は火傷しないよう気をつけながら刺繍したハンケチーフにアイロンをさっとかけた。
「これくらいで良いかしら……でも本当に便利ね? 炭を用意しなくていいなんて」
使用したアイロンを立て置きながら、琴子は感心する。
電気アイロンが出回り始めたのは本当に最近で、今もほとんどの家では炭を入れる炭火式アイロンが主流のはずだ。
どんどん現世に興味を無くしていく朱縁のために、少しでも興味を持ってもらえるよう新しいものを率先して取り入れたという利津。
それはメイド服や着物に留まらなかったらしい。この電気アイロンしかり、この屋敷には他にも様々な新しいもので溢れかえっていた。
流行や新しいものにとても興味のある琴子にとって、この屋敷での生活は心躍るものだ。
穏やかで、楽しい驚きのある日々。
朱縁の望む通り離縁しなければ、この生活がずっと続くのだろうか。
長い時を共に生きなければならないという不安はあれど、存外悪くないのかもしれない、と琴子は思い始めていた。
「本当に、特にこの数十年は目まぐるしいです。黒船来航の折も慌ただしかったですが」
「は?」
しみじみといった様子の利津に琴子は思わず目を瞬かせる。
黒船来航といえば六十年以上前の出来事だ。
その時代をまるで見てきたかのように語る利津に、琴子は思考が追いつかない。
七十にもなる老人ならば分かるが、利津はどう見ても二十代といったところだろう。少なくとも老女には見えない。
「えっと……失礼かもしれないけれど、利津さんはおいくつなのかしら?」
「え? そうですね、百を超えた辺りから数えるのは止めましたが……百三十くらいだと思います」
澄ました顔で告げる利津に、琴子はやっと理解する。
「……利津さんは、あやかしなのですね?」
「ええ、妖狐です。朱縁様には百年ほど前からお仕えしておりますね」
妖狐であるという証拠のように、利津は人差し指を立てるとその上に青い炎――狐火を出現させた。
「申し訳ありません。驚かれましたか?」
「少し……でも逆に納得しました。鬼である朱縁様に、只人が仕えていられるのか疑問もありましたから」
普段の生活であやかしと関わることなど無いため人だと思い込んでいたが、確かに人ならざる者に人が仕えるには限界があるだろう。
利津があやかしであることはむしろ理に適っていると思えた。
「――御免! 御主人はおられるか!?」
そのとき、玄関の方から野太い男の声が響く。
「珍しいですね、誰かが訪ねてきたようです」
不思議そうに立ち上がった利津は琴子に部屋で待つように告げ、玄関へと向かった。
「確かに珍しいこと」
琴子がこの朱縁の屋敷で世話になってからまだ十日ほどしか経っていないが、その間も誰かが訪ねてくるということはなかった。
一体どのような客だろう? と思いながらアイロン台などを片していると、玄関の方からドンッと大きな音が聞こえてきた。
続いて利津の叫ぶような声が聞こえ、尋常ではなさそうな様子に鼓動が早まった。
「なに? どうしたというの……?」
ドクドクと心臓の鳴り響く音を鼓膜でも感じながら、琴子は自室の襖をそろりと開ける。
「琴子! どこにいる!? 帰るぞ!」
「っ!」
聞き覚えのある声に、琴子は思わず身を固めた。
何故? と疑問に思うが、同時に納得もする。
手紙の返事が無ければ、あの父は強硬手段に出ると予測出来たはずなのだから。
父への返事も、朱縁に対しての答えも先延ばしにしたいがために考えないようにしてしまっていたのだ。
だが、そのことに今気付いても遅い。父は来てしまったのだから。
「勝手をされては困ります! ここは守護鬼・朱縁様のお屋敷ですよ!?――あうっ!」
「あやかし風情が口やかましい! それくらい承知の上だ。私は自分の花嫁を迎えに来たのだ、返していただく!」
父の声の後に、利津ともう一人男の声がした。
知らぬ声に警戒心が沸く。
これは一体どういう状況なのか。
「琴子!」
父の前に出て行けば良いのか、隠れれば良いのか。迷っているうちに見つかってしまった。
「あ……お父様」
久方ぶりに対面した父に、琴子は金縛りにでも遭ったかのように動けなくなる。
父の厳しい眼差しは、琴子の中に恐怖として植え付けられていたようだ。
「まったく、手紙も返さずにどうしているのかと思えば元気にしているではないか。さあ帰るぞ、そして桐矢家へ嫁ぐ準備をするのだ」
「で、ですが……朱縁様は離縁しないと……」
手を伸ばす父に、琴子は行けぬ理由を口にする。
鬼花の本当の役目のことは一通り手紙で伝えていたはずだ。
毎日来ていた手紙にそれに関しての言葉は無かったが、知らないということはないだろう。
だが、父はどうでも良いというように鼻を鳴らした。
「鬼のもくろみなぞ知ったことか。櫻井の娘は異能持ちの家に嫁ぎ強い異能持ちを産み育てることが勤め。その勤め以上に大事なことなど無い」
「なっ……」
あくまでも人が作り出したお役目が大事だと口にする父に、琴子は絶句する。
そのお役目は朱縁が妖力を分け与えているからこそ成立するものだと分かっているのだろうか?
その朱縁の望みを『知ったことか』などと口にするなど、理解に苦しむ。
「何にせよ、あなたは私の妻になるのだ。それを覆すことは許されぬ」
父の背後から、軍服を身に纏うたくましい体つきの男が現れる。
父以外の異性の存在に気分が悪くなった琴子は思わず眉を寄せた。
「お前の婚約者、桐矢真継殿だ。若君自ら迎えに来て下さったのだぞ? 行けぬとは言うまい?」
「む、無理です。この数珠が外せない以上、お父様以外の殿方の側にはいられません」
未だ右手首にある紅玉の数珠を見せながら訴えると、真継がスラリと帯剣していた軍刀を抜く。
何をするのかと思った瞬間、その刃が琴子へと振り下ろされた。