「美鶴様、今日の花は萩でございます」

 御簾越しに、可愛らしい赤紫の花のついた枝葉を掲げた時雨。
 近付き受け取った小夜は、慣れた仕草でしずしずと美鶴の元へ来て萩を手渡してくれる。

「ありがとうございます。……萩はもう見納めでしょうか」

 死ぬはずだったところを助けられ、妖帝の妻となったあの日からはや三月(みつき)が経とうとしていた。
 夏の盛りだった暑さも、朝晩が辛くなる寒さになってきている。
 あの日から弧月とは一度も会えていない。
 だが、あの日言った通り毎日花は欠かさず使いの者が持ってきてくれていた。

(でも、その使いが次期右大臣と言われている時雨様だというのはやはり畏れ多いと思うのだけど……)

 そう、弧月と親しい様子から見てもかなり近しい立場だと思っていたが、時雨は弧月の従兄であり次期右大臣となることがほぼ決定している側近でもあったのだ。
 いずれは左大臣にもなるだろうと言われている方だと初めて知ったときは、何という方とお話していたのだろうかと青くなった。自分の行動を思い返し、粗相をしていなかっただろうかと頭を悩ませた。

 小夜には「謙虚すぎる美鶴様が時雨様を怒らせるほどの粗相をしたとは思えませんが?」と呆れられたが。

 ちなみに小夜はそのまま美鶴の腰元となっていた。
 小夜も妖で、当然ながら貴人である。
 そんな貴い身分の人が妖帝の妻となったとはいえ平民である自分に仕えるなど畏れ多いと言ったのに、妖帝の妻に一人も腰元がつかない方がおかしいでしょうと逆に(たしな)められてしまった。

 聞けば、小夜は美鶴の教育係も兼ねているらしい。
 内裏に住むというのに、内裏のことを何も知らないというのは困るだろうと弧月が采配してくれたのだそうだ。
 弧月の計らいは素直に嬉しかったため、教育係ならばと納得したのだ。

 そうして教えられた様々なことは美鶴にとって驚きの連続だった。
 時雨のこともそうだが、何と弧月に妻は自分一人だけだというのだ。
 妖帝ともあろう者の妻が平民出の自分だけとは。あり得ない事実に本気で眩暈がしたのを覚えている。

 だが、だからこそ更衣という妻の中では下の身分でありながら七殿の一つを賜ることが出来たらしい。
 どういったわけなのか詳しく聞くと、弧月は妖力が強すぎて子が望めないだろうと言われているそうだ。
 そのため、強い妖を産んでくれる姫達を自分に縛り付けるよりも有力な公卿と子を成して欲しいと望んだ。
 妖帝は妖力の強い者がなるのだから、と。

 そこにも美鶴は驚いた。妖帝は世襲ではなかったのかと。
 流石にそれくらいは平民でも知っていると思っていたと、その時も小夜に呆れられてしまったが。

 本当に自分は無知なのだなと恥じ入る思いで日々を過ごしている。
 そんな様子で小夜は呆れてばかりだったが、美鶴の予知の異能を目の当たりにすることで見方を改めたらしい。
 最近では教育係として厳しくありつつも、仕える主として敬い尊重されてるように感じることが増えた。

 更衣として宣耀殿に住んでからというもの、美鶴は自分の死の予知は視なくなった。弧月の思惑通り、死の運命からは逃れられたようだ。
 その代わり、弧月の身の回りのことや内裏のこと。時には都の中で起こる火事のような大事な事件を予知するようになった。

 思えば、以前までも自分の身の回りのことや知っている人物に関しての予知ばかりだった。
 自分の予知は、身近な人や物事に左右されるらしい。
 つい先日も、弧月の薬子(くすりこ)といわれる毒見役が毒を食し苦しむ様子を視たことを伝えると、その後七日間は薬子が食す前に小鳥に食べさせていたそうだ。
 おかげで貴重な薬子を失わずに済んだと礼の文が届いたことは美鶴にとっても嬉しいことだった。

(それにしても、主上の運命をねじ伏せるお力は私以外にも適用されるものなのね)

 予知は覆らないものだった。
 だから、本来ならその薬子も毒を食してしまう運命だったはずだ。
 だが、結果として薬子は毒を食らわず苦しむこともなく無事だ。
 それは弧月の近くにいるからなのだろう。
 予知を視ても美鶴にはどうすることも出来なかったこれまでと違い、今は弧月に伝えることで運命を変えることが出来る。
 それは何よりも嬉しいことだった。

(主上にお仕え出来たことは、私にとっても僥倖だったのだわ)

 弧月が手ずから手折ってくれたという萩を見つめながら、美鶴は幸せを噛みしめるように微笑んだ。

「さて、本日は主上にお伝えすることはございますか?」

 毎日の贈り物を美鶴が受け取ったのを見届けて、時雨は本題に入った。
 美鶴は微笑んだまま「いいえ」と首を振る。

「本日は夢見もありませんでしたし、予知はございません」

 時雨がご機嫌伺いと称してこの宣耀殿へ来るのは二つの目的があるからだ。
 一つは弧月から贈られる花を届けるため。そしてもう一つは美鶴の予知を聞くためである。
 美鶴の予知の能力は秘匿されているらしく、周囲の者には珍しい異能持ちの娘としか伝えていないのだとか。
 もし知られてしまえば、邪魔に思ったり逆に利用しようとする者達に攫われるなど、危険が及ぶ可能性があると説明された。

 自分にそこまでの価値があるのかと疑問ではあったが、弧月の指示だというならば素直に従う。
 そういうわけなので、美鶴の予知を知っているのは妖帝である弧月とその側近の時雨。そして美鶴の腰元である小夜だけなのだそうだ。

「そうですか、分かりました。……では他に伝えたいことはございますか?」
「え?」

 いつもならば予知の有無を聞いて、無ければそれで終わりだったはずだ。
 また明日、と言って帰るはずの時雨の問いに美鶴の方が聞き返してしまう。

「他に、でございますか?」
「ええ。例えば“主上にお会いしたい”とか」

 具体的な例を出されたが、それは美鶴が思ってもいなかったことゆえ首を横に振ることしか出来ない。

「いいえ、ございません。主上はお忙しいお方です。私に会うためだけに貴重なお時間を割いて頂くわけにはいきません」
「とはいえ三か月もお渡りがないのですよ? 不安には思わないのですか?」

 尚も食い下がる時雨には戸惑うが、美鶴の意志は変わらなかった。

「元より寵を賜るために妻となったわけではございませんし……。私の力があのお方のお役に立っていて、こうして毎日花を頂けるだけで幸せでございます。これ以上は罰が当たってしまいますわ」

 そう、毎日花を贈るという約束を違えず続けてくれている。自分を忘れていないという証を贈ってくれている。
 それだけで十分なのだ。

「……そう、ですか」

 時雨は残念そうな面持ちで嘆息すると小夜を見る。
 目が合った小夜も同じように息を吐く様子を見て、美鶴は不思議そうに首を傾げた。
 そんな美鶴にまた目を向けた時雨は改めて口を開く。

「では、せめて返歌を頂けないでしょうか? 本日も文が添えられているでしょう?」
「返歌を……?」

 時雨の催促に美鶴はうっと詰まる。

 毎日ではないが、時折花と共に文が添えられていた。
 通常は文に花や枝を添えるのだが、美鶴の場合は花を求めているため文の方を添えるという形になっている。

 たまに添えられている文にはいつも素晴らしい短歌がしたためられており、花と共に美鶴の心を癒してくれた。

「美鶴様、失礼致しますね」

 小夜が断りを入れて横から萩の枝に結ばれている文を解き、美鶴に手渡す。
 文を開き、流れるような美しい文字に弧月を思い出した。
 とくりと優しく跳ねた心の臓がそのままとくとくと温かく胸を打つ。

「散り……ちて……もる……」

 黒墨の文字を指先でなぞりながら詠もうとするが、まだまだ勉強途中なのでちゃんと詠むことができない。
 小夜には貴族の娘はカナ文字が読めていれば十分なのだから無理に覚える必要はないと言われている。
 だが、弧月からの文を自分で読みたいと思う美鶴はカナ文字だけではなくかな文字や漢文も教えてもらえるよう頼んでいた。

 とはいえ、まだまだ勉強不足。
 詠めるほどにはなっておらず、諦めて小夜へと文を渡した。

「では、詠ませていただきます」

 一言断りを入れた小夜はすぅ、と軽く息を吸い込み柔らかな聞き心地の良い声で歌を詠んだ。