***

 不機嫌そうな父と妹の表情。
 それは平民として生きてきた間ずっと見ていたもので……。
 一瞬、今までのことが全部夢だったのではないかと錯覚してしまう。

 心穏やかな日々。
 身籠り、愛されるということを知り、守りたいと強く思った。

 それらの大切なことが父と春音の顔を見ただけで夢幻のように儚く消えそうな感覚に陥る。

「とう、さん?」
「ふん、ちゃんと覚えているじゃないか。こんなところにいて、親の顔を忘れたのかと思ったぞ?」

 不機嫌に皮肉を口にする様はやはり父だ。
 美鶴を我が子とも思っていなかったことを棚に上げる傲慢さも、父そのものだった。

「何でもいいから、帰るわよ姉さん。姉さんがいなくなってから母さんが大変なことになったんだから」
「え……?」

 母のことを面倒そうに語る春音に、一体何があったのかと戸惑う。
 仲の良い母子であった二人。このようにうんざりした様子で語られるようになるとは。

「大門の火事の後、お前はいなくなった。死人はいないと聞いたが、状況的に死んだと判断した」

 淡々と語る父の様子を見るに、父本人はやはり自分が死んだとなっても特に何も思わなかったのだなと知った。
 それを寂しいと思うくらいには、かつての家族を美化していたのかもしれない。
 愛されていたときもあったのだ、と。

「父さんと私はまあ仕方ないなとしか思わなかったけれど、母さんは違ったわ。ずっと泣きながら『ごめんなさい』って謝り続けて、病んでしまった」
「っ!」

(母さんが?)

「その母さんの世話を私がしているのよ? どうして私がそんなことをしなきゃならないのかしら。姉さんが原因なんだから、姉さんが世話をすればいいのよ」

 父に続いて母のことを語る春音の様子もうんざりといった様子で、あれほど可愛がられていたというのに母を労わる様子が感じられない。
 父と春音は似ている。
 昔から度々思っていたが、ここまで家族の情に薄いとは……。

「だそうだ。そういうわけだからお前はこの者達に引き渡す」

 軽く呆れた様子で告げた碧雲は、美鶴の腕を強く引き二人の方へ差し出した。
 それを受け取る様に、今度は父が反対側の腕を掴む。
 碧雲以上に容赦のない力で引かれた。

「いっつ」

 その強さに、思わず顔を歪める。
 だが容赦がないのは手の力だけではなかった。

「その腹の子を無くしてから連れて行きたかったが、仕方ないな。碧雲様の言う通り生まれてから殺すしかない」
「なっ⁉」

 あまりな言葉に絶句する。
 たとえ望んでいなかったとしても、腹の子は父にとって孫にあたる。
 それを平然と『殺す』などと……。

「なんだその顔は? 利用することも出来ぬ妖の孫などいらんぞ。大体、お前の異能とて妖に勝手に植え付けられたものらしいではないか」
「え?」

(異能を植え付けられた?)

 父は何を言っているのか。
 理解出来ない美鶴に、今度は碧雲が語りかける。

「弧月に印を与えられただけの憐れな娘。その異能のせいで蔑ろにされ続けてきたのだろう? 自分を不幸にした男の子など産まずともいいのだぞ?」
「何を⁉」

 振り返り見た顔には先ほどまでとは打って変わって憐れみの色が見える。
 その変わりように言葉を続けられずにいると、碧雲は続けて話し出した。

「弧月のように強い妖力を持ってしまった妖には子が出来ぬ。その妖力を受けきれる姫がおらぬからな」

 弧月が以前話してくれた受け皿の話だろう。
 強大な妖力を受け止め子を成すために必要な妖力の器。

「だからそのような強い妖は、妖力を持たぬ人間に自身の力を分け与え(つがい)の印を刻むのだ」
「番の印……?」
「そう、それが異能として現れる」
「っ⁉」

 はじめて聞く話に、美鶴だけではなく小夜たちも驚きの表情で固まっている。
 妖の貴族の間でも知らぬ者が多いということだろう。

「で、でも、私と弧月様は大門の火事のときに初めてお会いしました。いつ印を刻んだというのですか⁉」

 有り得ないと反論しようとするが、碧雲は何でもないことのように答える。

「さて、いつであろうな? 大方お前が母の腹にいるときにでも牛車ですれ違ったのだろう」
「なっ⁉」

 あまりにも大雑把な答えに絶句する。
 だが、碧雲は別にふざけているわけではないようだ。

「この答えは不服か? だが実際そういうものだ。番の印は無意識に刻んでしまうものらしいからな」
「無意識に……」

 繰り返し呟きながら思う。
 無意識にというのであれば碧雲の言った通りすれ違っただけということもあるのだろう。

「帝や東宮にだけ語り継がれる話だ。奴が東宮になった頃は先代妖帝の父は病床であったし、私も話してはいないから弧月は知らぬはずなのだがな。よくまあ自力で見つけ出したものだ」

 少し呆れを含ませた碧雲の言葉を聞きながら、美鶴は呼吸を乱した。
 どくどくと、早まった脈の音が耳奥に響く。

(今の話が本当なら、私の異能は弧月様に与えられたということ?)

 異能があったせいで両親から愛されなくなり、周囲の人達からも異様なものを見る目を向けられていた。
 異能がなければと何度呪ったことか。

 その異能を与えたのが弧月だというならば、恨みを抱いてもおかしくはないだろう。

 だが弧月と出会い、必要とされ、愛されることで逆に異能を持っていて良かったと思うことが増えた。
 大切な子も出来て、幸福を知った。

 その幸せを与えてくれたのも弧月だ。

 恨みたい気持ちと愛しい気持ちが水と油のように混ざり合うことなく共に渦巻いている。
 どうしたらいいのか分からない。

 だが、続けられた碧雲の言葉にはっとする。

「お前を不幸にした男は始末してやる。腹の子も産まれたら処分してやろう。事情を知ったお前の父は前とは違いお前を必要としている。迷わずあるべき場所に戻るといい」
「っ⁉」

 憐みの言葉。
 だが、その言葉に美鶴は強い拒絶を覚えた。

(弧月様を始末する? 子も産まれたら処分する? 父さんが、私を必要としている?)

 弧月が死ぬのも、子が死ぬのも駄目だ。絶対にあってはいけない未来だ。
 それに、父が必要としているのは愛する娘ではなく病んだ母の世話をする道具としての娘だろう。
 腕を掴む容赦のない力強さからも、優しさなど欠片も感じられないのがその証拠だ。

(この子を守らなくては)

 迷いようもない子を守りたいという気持ち。
 その純粋な強い思いを自覚して、全ての迷いが吹き飛んだ。

 不幸の原因である異能を与えたのが弧月だとしても、死ぬ運命だった自分を救いあげ愛してくれたのも弧月だ。
 自分を不幸にしようという意図を持って番の印を刻んだわけではないのだから、そのことを責めても仕方のないこと。

 変えられぬ過去を思い悩んでなどいられない。
 大切なのは今と未来だ。
 今の自分は幸せであり、その幸せが未来まで続くための選択をする。
 そして今の幸せを形作っているのは弧月だ。
 彼の方無くして自分の幸福はあり得ない。

 水と油だった、恨みたい気持ちと愛しいという感情。
 恨みはやはり消えないが、小さくなり愛情が包み込む。

 そうして、美鶴は決意した。
 今の幸福を形作る全てのものを愛し守ろうと。

「いいえ……いいえ、戻りません。私の居場所はここです。帰る場所は弧月様のお側以外にありません」

 決意を言葉に込めて、足に力を入れる。
 天に引かれるように背を伸ばし、真っ直ぐ金の目を睨み返した。

 もう一時たりとも迷わない。

「私は妖帝・弧月様の妻にしてその御子の母。今の私を形作るものは、それが全てです」
「……愚かなっ!」

 途端、憐憫(れんびん)の情を張り付けていた碧雲の顔に憎しみの色が戻る。
 今この瞬間、碧雲にとって美鶴は憐れむべき弱き者ではなく敵となった。

「力を与えられただけの平民風情が……今すぐ腹の子ごと殺してもいいのだぞ?」

 地を這うような低い声に気圧(けお)されそうになる。だが、迷わないと決めた。
 美鶴は負けぬように顎を引き、揺るがぬ意思を視線に込める。

「そんな! それでは話が違います」

 叫んだのは父だ。
 碧雲の殺気を感じ取ったのかもしれない。

「ならばさっさと連れて行くのだな。目障りだ」
「は、はは! そら、早く行くぞ美鶴」
「いやっ!」

 慌てて引く父に抵抗すると、黙って見ていた春音も近付いて来た。

「我が儘言わないで姉さん! 本当に殺されるわよ? 私たちは家族として助けてあげようとしてるんじゃない」

 つい先ほど病んだ母の世話をしろと言った口で恩着せがましいことを言う春音に呆れる。
 生まれたときから見ているのだ。どちらが本音なのかは問い質さずとも分かる。

「これ以上失望させるな! 前までと違って今はお前を必要としてやっているんだぞ⁉」
「い、やっ!」

 抵抗するが、怒り出した父の力は強く春音も加わった。
 重い衣を纏っていても引きずられてしまう。

「美鶴様!」
「美鶴様を離しなさい!」
「おやめなさい! 連れてなど行かせません!」

 灯と香、そして小夜が叫ぶ。
 だが、三人の前には碧雲が立ち塞がった。

「お前たちこそ邪魔をするな。あまりに煩いと貴族の娘であろうと始末するぞ」
「くっ!」

 碧雲の圧に三人は動けない。
 このまま連れ去られてしまうのかと思いかけたそのとき、父と春音の袖に青い炎が突如現れた。

「ひっ⁉ 何だ⁉」
「やだっ、熱いっ!」

 炎に驚き美鶴を離した二人は床に伏し火を消そうとのたうつ。
 その様子を驚き見ていた美鶴の耳に、愛しい声が届いた。

「俺の妻をどこに連れて行くつもりだ?」

 静かで冷ややかな声音。
 怒りを内包した声はそれほど大きな声でなくともその場に響いた。
 直後に美鶴の身を包んだ腕は温かく、怜悧な声とは裏腹に優しい。

「弧月様……」

 必ず来てくれると信じていた存在の登場に、美鶴は安堵の息を吐いた。