「それに、これでそなたを寵愛しても苦言を口にする者はいないだろう。本当に嬉しく思う」
 愛おし気に、艶を取り戻した美鶴の髪を撫でる弧月。
 いつも安心を与えてくれる手であったが、彼の口にした言葉への驚きの方が強かった美鶴は安らぐどころではなかった。
「え? あの、寵愛……ですか?」
 戸惑う美鶴の顔を柔らかな微笑みで覗き込む弧月は、もはや溢れる思いを隠そうとはしていない。
「ああそうだ、余はそなたを愛している。この三月(みつき)、会いたくてたまらなかった」
「っ!」
 言葉と共に思いが伝わってくる。戯言ではなく、本気なのだと。
 美鶴は戸惑いの中に確かな喜びを感じた。
(ああ、そうなのね。私も、主上に会いたかったのだわ……)
 会えなくても花を贈られるだけで十分だと思っていた。
 だが久しぶりに弧月に会い、こうして会いたかったと言われて自分の想いも自覚する。
 本当は会いたかったのだ。この美しい紅玉の瞳に、自分を映して欲しかったのだ。
 仕えることが出来るだけで幸せだと思っていたから、そのような畏れ多い望みを抱くこともなかった。
 だが、心の奥底では願っていたのかもしれない。
 それほどに、弧月の想いを受け美鶴は喜びに打ち震えた。

 だが、次に告げられたことは美鶴の想いを遥かに飛び越えていて戸惑いが戻る。
「頃合いを見て弘徽殿(こきでん)への引っ越しを進めよう。出来る限り早く余の近くに来て欲しい」
「え? 弘徽殿、ですか? でもそちらは……」
 弘徽殿は帝の住まう清涼殿からほど近く、中宮や皇后となる者が住まう殿だ。女御ですらない更衣の自分が足を踏み入れてよい場所ではない。
「大丈夫だ。美鶴には中宮の位を授ける」
「……」
 驚きすぎて口を開けたまま固まってしまう。
 今、何と言ったのだろうか。
 平民出の自分に、妖帝の中宮――妃としての最高位を授けると言ったのだろうか。
(有り得ない)
 有り得なさ過ぎて聞き間違いだとしか思えなかった。
 もしくは夢を見ているのだろうか。……そうかもしれない。きっと、身籠ったという辺りから夢を見ていたのだろう。
 有り得ないことが続き通しで、美鶴は現実逃避をしてしまう。
 だが弧月は容赦なく引き戻した。
「何を呆けている? 余は本気だぞ?」
「……申し訳ありません。流石にそれは、分不相応すぎます」
 あまりのことの大きさに震える。

 愛されることを諦め、ただ生きるだけの人生だった。
 その生すらも終わりを迎えると思っていたのに、弧月に救われた。
 そして気味が悪いと言われてばかりだった自分を必要としてくれた彼のお役に立てれば、それだけで十分幸せな人生なのだ。
 それなのに愛しているとまで言ってくれた。彼の子を身籠ったことを喜んでくれた。
 既に十分すぎる幸福だというのに、弧月はこれ以上を与えると言う。
 流石にもう、幸せを通り越して恐ろしかった。
「……すまぬが、もう決めた。余の子を身籠った、愛しい女を守らせて欲しい。余の一番近くにいて欲しいのだ」
「主上……」
「弧月と呼べ。そなたには、そう呼んでもらいたい」
「……はい、弧月様」
「ああ……美鶴、愛している」
 言葉と共に、甘い吐息が唇に触れる。三か月ぶりの口づけは熱く、触れただけで溶けてしまいそうだった。
 だが、それでも美鶴は恐ろしかった。
 平民である自分を中宮にするとまで言う弧月。その愛を受け入れる覚悟が持てない。
 唇が離れて開いた目に映った紅玉は強い意思が込められていて、美鶴も強くなれるような気がする。
 だがやはり気がするだけなのだ。
「弧月様……お名前の件は承りました。ですが、弘徽殿への引っ越しと中宮の位のことはお待ちいただけないでしょうか?」
「何?」
「申し訳ありません。畏れ多くて、恐ろしいとしか思えないのです。せめてもう少し、覚悟が出来るまでお待ちいただければ、と……」
 出来るならば弧月の望みに応えたい。だが、この恐ろしさをそのままにしてただ流されてはいけない気がした。

「だが、近くにいてくれた方が守れるのだ」
 それでも食い下がらない弧月に心が揺れる。
 やはり彼の願いを聞いた方がいいのだろうか、と。
 だが、そこに御簾の向こう側から第三者の声が掛かった。
「主上、お気持ちは分かりますがその辺りでお止めください。美鶴様も懐妊したとなってお心の整理がつかないのでしょう。少しばかり待つことも必要では?」
 弧月と共に来ていたらしい時雨が美鶴に助け舟を出してくれる。
 側近の進言に、弧月は「そうだな」と納得の声を上げた。
「美鶴、余はそなた以外の妃を娶るつもりはない。だから弘徽殿への引っ越しも中宮の位も承諾して欲しい。……だが、今はただ体を大事にしてくれ」
「ありがとうございます」
 望みはしっかり口にしつつも、美鶴の思いを汲み取ってくれた弧月に感謝する。
 最後にもう一度口づけを落とした弧月は、今日の所はこれで、と時雨と共に帰って行った。