やわらかな朝の陽射しを感じ、炊屋姫(かしきやひめ)は辺りを見渡した。彼女がいる大殿(おおとの)内には、どうやら初春の風も一緒に入ってきているようだ。
※大殿:大王の寝殿

 炊屋姫は自身の玉座(ぎょくざ)に座ったまま、手元にある団扇(だんせん)を仰ぎ、ふと独り言のようにして呟いた。

「これは初春の訪れを告げる風のよう」

 彼女の頭上にある金の髪飾りが、風に吹かれ、少し揺れている。

 前の大王であった泊瀬部大王(はつせべのおおきみ)が亡くなり、自身が即位したあの日から、幾度この季節を迎えてきたことか。

 これまでも国の(まつりごと)を滞りなく行っていくため、彼女は他の皇族や周りの有力豪族達をほどよくまとめ上げてきた。

 さらには他国とも積極的に交流を図り、そちらにも目を光らせて。

 だが彼女一人で、これだけのことをなし得るのは到底無理な話である。

 そこで炊屋姫は、彼女の甥である厩戸皇子(うまやどのみこ)や、大臣(おおおみ)蘇我馬子(そがのうまこ)といった、他の諸臣(しょしん)達の協力のもとに、この国をこれまでおさめてきていた。
※諸臣:多くの臣下達

 また厩戸皇子に至っては、さらに政をしっかりとした体制にするため、彼はまず【冠位十二階】を制定する。そしてその4ヶ月後には【憲法十七条】を決めた。

「大和の大王として、私がもっと毅然とした態度を取らなければ……」

 炊屋姫はふと玉座から立ち上がると、()を少し引きずりながら、そのままゆっくりと大殿の出口へと歩いていく。
※裳:腰から下にまとった衣服

 彼女が外に出て辺りを見わたせば、宮仕えの者達が皆それぞれに、己の仕事に精をだして働いている様子がうかがえる。

 彼女のいるこの場所は小墾田宮(おはりだのみや)と呼ばれ、飛鳥の(いかつち)の地域に置かれていた。

 入口には南門が立てられ、入った先の左右には、大臣(おおおみ)大夫(まえつきみ)が政務を行っている(ちょう)と呼ばれる建物がそびえ立つ。

 そしてその間の朝庭(ちょうてい)は公式な行事等を行う場となっている。また朝庭の奥にはさらに大門があり、その先に炊屋姫の住まう大殿が置かれているかたちだ。

 彼女が物思いに耽りながら眺めていると、ふと誰かの走ってくるような音が聞こえてくる。

 炊屋姫は一体誰だろうかと気になり、走ってくる者の姿を見る。どうやらこちらに向かってくるのは、わりと若い娘のようだ。


(まずい、炊屋姫様の元に行くのが遅くなっちゃう!!)

 その少女は、少しゆったりめな上着と、下は複数の色の入った()を、ヒラヒラとなびかせながら走ってくる。

 頭の上では髪の毛を一つに結わえ、両耳の横には輪っかを作っている。そして彼女が手に持っているのは木簡(もっかん)だろうか。

 またこの時代においては、隣の大陸の宮廷から様々なものが伝来している。そして彼女のように、その中には髪型や服装なども含まれていた。


 彼女は炊屋姫の前までやってくると、急に足を止め「ぜーはーぜーはー」と呼吸を整えだした。

(とりあえずは、何とか来れた……)

 その様子を見ていた炊屋姫も、相手が誰だか分かり、少し呆れたような口調で話す。

稚沙(ちさ)、あなたはまたそのように走ってきて。もっと女官としての振る舞いを正しくなさい」

 炊屋姫に稚沙と呼ばれたその娘は、何とか呼吸をおちつかせようとする。そして彼女の腕の中には沢山の木簡が見えかくれしていた。

「炊屋姫様、申し訳ありません。ここにくるのが遅くなってしまい、それでつい……」

 炊屋姫はそんな彼女の返事を聞き、思わずため息をつく。もっと彼女に女官としての立ち振舞いを覚えさた方が良さそうだ。

 炊屋姫に稚沙と呼ばれた少女は、今年で14歳になる。そしてここ小墾田宮に女官としてやってきてからは、早1年半程がたっていた。

 また彼女は豪族平群(へぐり)氏の額田部(ぬかたべ)一族の娘である。平群氏の同族である額田部は、馬飼部(うまかいべ)として主に(うまや)と馬の管理に従事していた。

 元々馬飼の技術は渡来人によってもたらされている。つまり平群氏とは、朝鮮半島との関係を持ち、騎馬技術を持つ馬飼部を支配している豪族で、軍事力も持ち合わせていた。

 また額田部は湯坐(ゆえ)も担っていた。湯坐とは皇族の人間の養育を行う人々のことで、炊屋姫がまだ額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)と呼ばれていた頃、彼女の養育に従事していた。

 そんな一族の生まれである稚沙は、炊屋姫が見るに少々危なっかしい性格の娘のようで、仕事でも度々失敗を起こしている。