はるか昔、この日の本の国は国外からの脅威にさらされていた。
主に被害を受けるのは力なき人間たち。
哀れに思った神々が、強き者であるあやかしたちと契りを交わすよう五体の龍と五人の人間に告げた。
龍は神に連なるあやかし故に荒ぶる神の御霊をその身に宿す。
その御霊を契りを交わした人間が神和ぎとして鎮める事で、日の本の国に神の霊力が行き渡り結界の役割を持つだろう、と。
陽の者である男の覡ならば側にいることで、陰の者である女の巫なら肌を合わせることで御霊は鎮まるのだという。
それ故、契りを交わした人間は男なら側近として、女なら花嫁として龍に仕えるのだ。
その契りは百年、千年の時を越え現在に至る。
今代も梓の兄である招が当主である竜輝に側近として仕えるはずだった。
だが、そのための準備を進めていたある日彼は失踪した。
『私は竜輝様の神和ぎとして相応しくない』
そんな一文だけを残し、両親と共に住む家から忽然と姿を消したのだ。
彼が何故『相応しくない』などと書置きをしたのか、梓には分からなかった。
(昔から竜輝様に心酔していたのに……)
初めて顔合わせのために対面した十歳の頃。
招はあの頃から自分は竜輝様に仕えるのだと自慢げに口にしていた。
ここ二年ほどは梓自身遠方の大学に通っていたため招ともあまり会えてはいなかったが、あの心酔っぷりがそうそう変わるとも思えなかった。
自室に案内された梓は、一人になるとひと仕事を終えた気分でベッドに腰を下ろしふぅ、と息を吐く。
男装のため胸に巻いているさらしが苦しい。
極端に大きいわけではないが、押さえつけなければ分かってしまう程度にはある。
一部の者以外には知られるわけにはいかないのだ。自室だからと油断して外すわけにはいかない。
眠るとき以外はずっとこのままでいるのが無難だろうと結論付けた。
それにしても、と部屋の中を見回す。
竜輝も和装であったし、龍見家の方々はほとんどが和服を着用しているから邸宅の方も昔ながらの日本家屋のような作りなのかと思っていた。
実際先ほど竜輝と対面した部屋は和室で、達筆な掛け軸と優美な龍が描かれた絵皿が飾られた床の間があった。
だが、自分に与えられた部屋は洋室。何と言うべきか……和洋折衷な屋敷だと思った。
この国は国外からの脅威にさらされているとはいえ、それは主に神やあやかしなど霊的な意味で高位の存在によるもの。
そういう意味で下位に当たる人間は、結界に弾かれることなく行き来している。
そのため外国の文化などは結構入って来ていたりするのだ。
まさか結界を守る五龍の一つ、金龍の本邸までその文化を取り入れているとは思わなかったが。
とりあえず荷物を整理しなければと思い、腰を上げる。
するとコンコンと部屋のドアがノックされ男性の声が聞こえた。
「招、今大丈夫かな?」
聞き覚えのある声に、梓はすぐにドアへ近付き開ける。
「大丈夫ですよ、叔父さん。入って下さい」
ドアの向こうにいたのは梓の叔父である竜ヶ峰宗次だった。
父の弟である彼は竜輝の父、先代当主の神和ぎでもある。
そして、現在この屋敷で梓の事情を知る唯一の人物でもあった。
目元以外はあまり父に似ていない叔父は、部屋に入りドアを閉めると途端に心配顔になる。
「梓……本当にお前が来たんだな……」
宗次とは年に一、二度は会っているため梓と招の見分けはつく。
「招は見つからなかったのか? どうして失踪など……」
その疑問は梓含め両親も抱いているものだ。やはり身近な者ほど思う疑問であった。
「どこに行ったのか、何も手がかりになる様なものはなくて……。友達や知り合いに片っ端から聞いてみても痕跡すらなかったの」
「ちゃんと見つかるのか? 見つからなければ、お前がそんな形までして来た意味がないんだぞ?」
「……」
宗次の言うことはもっともで、梓は言葉を返せない。
「やはりちゃんと事情を話して、巫――花嫁として来た方が良かったんじゃないか?」
「駄目よ。それは竜輝様のご迷惑になるわ。ご婚約者様がいるのに……」
自分で口にして、ずきりと胸が痛む。
そう、どんなに想いを募らせても竜輝には既に婚約者がいるのだ。
だから諦めたはずなのに……再び会ってしまったことでやはり鍵を掛けていたはずの想いが顔を出して来てしまった様だ。
龍は一途だ。一人を愛すると決めたら、その愛を貫き通す。
だから婚約者が決まったと聞いたときから、梓は竜輝に会うのを止めた。
これ以上想いを育ててはいけないと理解したから。
……竜輝がその婚約者を一途に愛するのだろうと思ったから。
「だとしても覡と巫は違う。お前は竜輝様に直接触れなければあのお方の荒御霊を鎮めることが出来ないんだぞ?」
「うん、分かってる」
「分かってるって……はぁ……」
諭すように色々言っていた宗次だが、梓の意志が変わりそうにないと取ったのか諦めのため息を吐いた。
「全く……大体兄さんも兄さんだ。いくら男の覡の方が推奨されているとはいえ、梓を身代わりにするなんて……」
嘆く叔父に梓は苦笑を浮かべる事しか出来ない。
一途に一人を愛するのが龍だ。
もし龍が巫として嫁いできた花嫁以外を好きになってしまったら、それは悲惨な状況となるだろう。
そのような婚姻は不幸なため、契りを交わした当初からどうしても竜ヶ峰本家に男が産まれなかったというときのみ花嫁を受け入れると取り決められていた。
それに、少数とはいえ龍の一族に人間の血が入ることを厭う者達がいるとも聞く。
そういった理由から、両親は何としてでも招を神和ぎとして送り出したいと思っているようだった。
何か理由をつけて仕えるのを待ってもらうという手段もあったが、招が大人になるまでとすでに一年待ってもらっている状態だ。
先程見た竜輝の状態を見ても、これ以上待ってもらうことは出来ない。
結果、梓が男装して招の身代わりとして赴くこととなったのだ。
梓としても、辛い結婚になるよりはその方がいいと思っている。
だから無茶だと思いつつも身代わりを引き受けたのだ。
「いいの、私も納得していることだから。……叔父さんもこの一年招の代わりをしてくれてありがとうね」
「いや……。私は先代当主の神和ぎだから、あのお方の専属になってしまっている。出来る限り竜輝様のお側にはいたが大して霊鎮めは出来ていない」
「それでも、ありがとう」
神和ぎは長く一人の龍に仕えると、その龍との繋がりが強くなるそうだ。そのため他の龍の霊鎮めがほとんど出来なくなる。
だとしても、宗次がいなければ竜輝はすでに龍となってこの世にはいなかったかもしれない。
それを思うと、やはり感謝の念しか湧いてこなかった。
「……花嫁になる気は無いんだな?」
「うん。……辛くなるもの」
「……そうか」
宗次も姪を愛されない花嫁にしたいとは思っていないのだろう。最後には静かに納得してくれる。
「だが、お前は竜輝様に触れなければ霊鎮めが出来ないことに変わりはない。覡として側に控えるだけの状態で、本当にお役目を全う出来るのか?」
「分からない……でも、とにかく触れるように頑張ってみるつもりよ」
右手で握りこぶしを作りやる気を見せる梓に、宗次は仕方なさそうな笑みを浮かべた。
「……分かったよ。とにかく竜輝様の神和ぎが来たからには私は別邸にいる先代の元に戻らなくてはならない。近くにはいられないが、何かあったら連絡を寄越しなさい」
「うん、ありがとう叔父さん」
「それと、側近としての仕事に関しては砂羽殿に聞くと良いだろう」
砂羽とは、竜輝の従兄に当たる青年だ。
先ほどの挨拶のときにも竜輝の傍に控えていたし、梓をこの部屋に案内してくれたのも彼だった。
要は側近としての先輩といったところだろう。
亜麻色の髪を持つ竜輝より三つ年上だという砂羽は、和装の多い龍見家の者にしては珍しくスーツ姿だった。
その眼鏡の奥の茶色い目には厳しそうな色が乗せられていて、少し冷たさすら感じたのを覚えている。
(実際に厳しい方じゃなければ良いけど……)
そんな不安を胸にしたまま、宗次と別れ初日は終了した。
主に被害を受けるのは力なき人間たち。
哀れに思った神々が、強き者であるあやかしたちと契りを交わすよう五体の龍と五人の人間に告げた。
龍は神に連なるあやかし故に荒ぶる神の御霊をその身に宿す。
その御霊を契りを交わした人間が神和ぎとして鎮める事で、日の本の国に神の霊力が行き渡り結界の役割を持つだろう、と。
陽の者である男の覡ならば側にいることで、陰の者である女の巫なら肌を合わせることで御霊は鎮まるのだという。
それ故、契りを交わした人間は男なら側近として、女なら花嫁として龍に仕えるのだ。
その契りは百年、千年の時を越え現在に至る。
今代も梓の兄である招が当主である竜輝に側近として仕えるはずだった。
だが、そのための準備を進めていたある日彼は失踪した。
『私は竜輝様の神和ぎとして相応しくない』
そんな一文だけを残し、両親と共に住む家から忽然と姿を消したのだ。
彼が何故『相応しくない』などと書置きをしたのか、梓には分からなかった。
(昔から竜輝様に心酔していたのに……)
初めて顔合わせのために対面した十歳の頃。
招はあの頃から自分は竜輝様に仕えるのだと自慢げに口にしていた。
ここ二年ほどは梓自身遠方の大学に通っていたため招ともあまり会えてはいなかったが、あの心酔っぷりがそうそう変わるとも思えなかった。
自室に案内された梓は、一人になるとひと仕事を終えた気分でベッドに腰を下ろしふぅ、と息を吐く。
男装のため胸に巻いているさらしが苦しい。
極端に大きいわけではないが、押さえつけなければ分かってしまう程度にはある。
一部の者以外には知られるわけにはいかないのだ。自室だからと油断して外すわけにはいかない。
眠るとき以外はずっとこのままでいるのが無難だろうと結論付けた。
それにしても、と部屋の中を見回す。
竜輝も和装であったし、龍見家の方々はほとんどが和服を着用しているから邸宅の方も昔ながらの日本家屋のような作りなのかと思っていた。
実際先ほど竜輝と対面した部屋は和室で、達筆な掛け軸と優美な龍が描かれた絵皿が飾られた床の間があった。
だが、自分に与えられた部屋は洋室。何と言うべきか……和洋折衷な屋敷だと思った。
この国は国外からの脅威にさらされているとはいえ、それは主に神やあやかしなど霊的な意味で高位の存在によるもの。
そういう意味で下位に当たる人間は、結界に弾かれることなく行き来している。
そのため外国の文化などは結構入って来ていたりするのだ。
まさか結界を守る五龍の一つ、金龍の本邸までその文化を取り入れているとは思わなかったが。
とりあえず荷物を整理しなければと思い、腰を上げる。
するとコンコンと部屋のドアがノックされ男性の声が聞こえた。
「招、今大丈夫かな?」
聞き覚えのある声に、梓はすぐにドアへ近付き開ける。
「大丈夫ですよ、叔父さん。入って下さい」
ドアの向こうにいたのは梓の叔父である竜ヶ峰宗次だった。
父の弟である彼は竜輝の父、先代当主の神和ぎでもある。
そして、現在この屋敷で梓の事情を知る唯一の人物でもあった。
目元以外はあまり父に似ていない叔父は、部屋に入りドアを閉めると途端に心配顔になる。
「梓……本当にお前が来たんだな……」
宗次とは年に一、二度は会っているため梓と招の見分けはつく。
「招は見つからなかったのか? どうして失踪など……」
その疑問は梓含め両親も抱いているものだ。やはり身近な者ほど思う疑問であった。
「どこに行ったのか、何も手がかりになる様なものはなくて……。友達や知り合いに片っ端から聞いてみても痕跡すらなかったの」
「ちゃんと見つかるのか? 見つからなければ、お前がそんな形までして来た意味がないんだぞ?」
「……」
宗次の言うことはもっともで、梓は言葉を返せない。
「やはりちゃんと事情を話して、巫――花嫁として来た方が良かったんじゃないか?」
「駄目よ。それは竜輝様のご迷惑になるわ。ご婚約者様がいるのに……」
自分で口にして、ずきりと胸が痛む。
そう、どんなに想いを募らせても竜輝には既に婚約者がいるのだ。
だから諦めたはずなのに……再び会ってしまったことでやはり鍵を掛けていたはずの想いが顔を出して来てしまった様だ。
龍は一途だ。一人を愛すると決めたら、その愛を貫き通す。
だから婚約者が決まったと聞いたときから、梓は竜輝に会うのを止めた。
これ以上想いを育ててはいけないと理解したから。
……竜輝がその婚約者を一途に愛するのだろうと思ったから。
「だとしても覡と巫は違う。お前は竜輝様に直接触れなければあのお方の荒御霊を鎮めることが出来ないんだぞ?」
「うん、分かってる」
「分かってるって……はぁ……」
諭すように色々言っていた宗次だが、梓の意志が変わりそうにないと取ったのか諦めのため息を吐いた。
「全く……大体兄さんも兄さんだ。いくら男の覡の方が推奨されているとはいえ、梓を身代わりにするなんて……」
嘆く叔父に梓は苦笑を浮かべる事しか出来ない。
一途に一人を愛するのが龍だ。
もし龍が巫として嫁いできた花嫁以外を好きになってしまったら、それは悲惨な状況となるだろう。
そのような婚姻は不幸なため、契りを交わした当初からどうしても竜ヶ峰本家に男が産まれなかったというときのみ花嫁を受け入れると取り決められていた。
それに、少数とはいえ龍の一族に人間の血が入ることを厭う者達がいるとも聞く。
そういった理由から、両親は何としてでも招を神和ぎとして送り出したいと思っているようだった。
何か理由をつけて仕えるのを待ってもらうという手段もあったが、招が大人になるまでとすでに一年待ってもらっている状態だ。
先程見た竜輝の状態を見ても、これ以上待ってもらうことは出来ない。
結果、梓が男装して招の身代わりとして赴くこととなったのだ。
梓としても、辛い結婚になるよりはその方がいいと思っている。
だから無茶だと思いつつも身代わりを引き受けたのだ。
「いいの、私も納得していることだから。……叔父さんもこの一年招の代わりをしてくれてありがとうね」
「いや……。私は先代当主の神和ぎだから、あのお方の専属になってしまっている。出来る限り竜輝様のお側にはいたが大して霊鎮めは出来ていない」
「それでも、ありがとう」
神和ぎは長く一人の龍に仕えると、その龍との繋がりが強くなるそうだ。そのため他の龍の霊鎮めがほとんど出来なくなる。
だとしても、宗次がいなければ竜輝はすでに龍となってこの世にはいなかったかもしれない。
それを思うと、やはり感謝の念しか湧いてこなかった。
「……花嫁になる気は無いんだな?」
「うん。……辛くなるもの」
「……そうか」
宗次も姪を愛されない花嫁にしたいとは思っていないのだろう。最後には静かに納得してくれる。
「だが、お前は竜輝様に触れなければ霊鎮めが出来ないことに変わりはない。覡として側に控えるだけの状態で、本当にお役目を全う出来るのか?」
「分からない……でも、とにかく触れるように頑張ってみるつもりよ」
右手で握りこぶしを作りやる気を見せる梓に、宗次は仕方なさそうな笑みを浮かべた。
「……分かったよ。とにかく竜輝様の神和ぎが来たからには私は別邸にいる先代の元に戻らなくてはならない。近くにはいられないが、何かあったら連絡を寄越しなさい」
「うん、ありがとう叔父さん」
「それと、側近としての仕事に関しては砂羽殿に聞くと良いだろう」
砂羽とは、竜輝の従兄に当たる青年だ。
先ほどの挨拶のときにも竜輝の傍に控えていたし、梓をこの部屋に案内してくれたのも彼だった。
要は側近としての先輩といったところだろう。
亜麻色の髪を持つ竜輝より三つ年上だという砂羽は、和装の多い龍見家の者にしては珍しくスーツ姿だった。
その眼鏡の奥の茶色い目には厳しそうな色が乗せられていて、少し冷たさすら感じたのを覚えている。
(実際に厳しい方じゃなければ良いけど……)
そんな不安を胸にしたまま、宗次と別れ初日は終了した。