思わず振り向く。チラリと横の斉藤を見ると、彼も焦りの色を浮かべた顔で振り向いていた。一瞬、顔を見合わせる形になり、戸惑ったが、それを気にしている場合ではない。二人で事務所内の音に聞き耳を立てる。扉が閉じられているので細かいニュアンスまでは聞えないが、慧の声は焦りと困惑で震えているように感じられた。

「早過ぎる、今月いっぱいは待つという話だったはずだ!」
「やめてくれ、嫌だ! まだ……っ」
「こっちだってちゃんと考えてる! もう少し待ってくれ、当てもある! だからもう少し」
「違うっ、本当だ、必ず揃える! だからあと二週間……」
「そんなの知ったことか! 勝手に死ねばいいだろ! 嫌だっ!」
 聞いていると電話の主に答える慧の声は、ますます高くなり、張り付いていなくとも、その会話が拾えるようになってくる。
 普段慧は物事にあまり動じない。怒鳴っても凄んでもそれは表面だけのことで、彼が本当に感情的になるところなど誰も見ていない。というより弱音を吐くところを見ていないのかもしれない。
 なにがあったのだ?
 裕二も焦った、ふと視線を上げると、斉藤も何事かと顔を顰めている。そこで二人は瞳を見交わし、小さく頷きあって、その扉を開けることを決意した。ここは聞かねばならないところだ。見て見ぬフリは出来ない。知らなければ、護ることも出来ない。そう決めてドアノブを捻る。
「待ってくれ……嫌だ」
 中へ入ると慧は、泣きそうな声で、受話器の向こうの相手に、縋っていた。だが裕二と斉藤が入ってきたのを認め、ハッとしたように姿勢を正す。そして苛々と少し気まずそうな表情で二人を睨み、話を続けた。
「とにかく、俺は行かない、約束は守ってもらう、あと二週間、待て」
 その言い分に相手はNOと答えたのだろう、慧はさらに忌々しそうに眉をよせ、じゃあ一週間でもいいと譲歩した。

――三日です、それ以上は待てません。
「そんな、一方的だぞ!」
――これでも精一杯の譲歩です、お嫌なら、待つことはしませんよ。
「……わかった、三日でいい、待ってくれ」
――わかりました、では三日後に……お待ちしています。
「ああ……」

 相手の要求に力なく答え、電話を切った慧は、忌々しそうに受話器を見つめていた。よほど悔しいのか、その目は赤く滲み、僅かに濡れて見える。だが勢い顔を上げた慧の目に涙はなかった。燃え滾る炎のような目で力強く話す。
「聞いた通りだ、期限は三日、それまでに二千五百万揃える」
「二千五百万?」
 それはなんだと裕二が聞く前に斉藤がわかりましたと答える。それはどういう金だと訊ねると、慧が父親に返さなければならない金の残金だと斉藤が答えた。
 元々の返済金額は五千万円、それを慧はこの三年で三千万返済している。月に直せば毎月約百万、プラス利子。慧はそれをこの三年間ずっと続けて来た。稼ぎが悪かったり、別口に大金が必要だったりして、元金が揃えられないようなときも、利子だけはずっと支払ってきた。そうしてようやく三千万払い終え、残り二千万をあと二年で返済するはずだった。
 しかしここへきて相手方の事情が変わった。力也の体調が良くないということで、返済期限が大幅に切り上げられたのだ。
 新しく設けられた返済期限は年内、つまり、あと二週間以内だ。だが今回の電話でその期限もさらに短くされた。
「無茶だよ、三日で二千五百万なんて、もう少しなんとかしてもらえないの?」
「無茶は向こうだって承知だ、払えないとわかってて言ってるんだ」
「でも……」
 それでは慧は自由になれない、一生父親の奴隷ということになってしまう。
 だが、そこで思考はとまった。父親の奴隷とはいったいどういうモノなのだ?
 この現代、実際に奴隷を使役するということはまずない。せいぜい無給で働かされるという程度だろう。それにしたって労働基準法というのもあり、よほどの弱みでも握られていない限り訴え出れば慧が勝つ。つまりただの使役ではないということだ。
 力也は慧をどうしようとしているのだろう? 慧はなぜこんなにもそれを嫌がるのだろう? それを考えたとき脳裏にはどす黒い棘に絡めとられる慧の姿態が過ぎった。
 年端もいかない美少女と、血の繋がらない年老いた父親。それは淫靡な匂いを感じさせ、身体が震える思いがする。
 まさか、力也は、慧を……? 思わず慧を見返した。その視線の意味に気づいてか慧は不愉快そうに目を伏せる。
「どいつもこいつも狂ってる……世の中クソ野郎だらけさ」
 力也は慧に五千万は返せないとわかっていてその条件を出した。だが思惑に反し慧はこの三年で三千万を返済している。となるとあと二年で残り二千万作ってしまうかもしれない。だから返済期限を短くした。もしかしたら体調が悪いというのも嘘かもしれない。
「愚痴を言っても始まらない、とにかく曽我部だ、奴を捕まえる」
「はい」
 相変わらず斉藤は無感動な目で忠実な返事を返す。一見なにを考えているのかわからないが、彼の行動の全てが慧のためであること、誰にでもわかる。彼にとって慧はただの主ではないのかもしれない。漠然とそう感じた。
 歩き出す二人に続いて裕二も後を追う。そして三人はそのまま目立たない小型のベンツに乗り山梨へ向かって走り出した。裕二は免許を持っていないので慧と共に後部座席へと座り、運転は斉藤がする。中央道へ入り曲がりくねった道を高速で進む車の中で裕二はずっと思っていた疑問を口に出した。
「ね、慧」
「なんだ?」
「お金が必要なのはわかるけど、それでなんで曽我部くんなの?」
「奴の首に賞金がかかってるからさ」
「え……?」
「鵜飼さんが、息子殺しの犯人を捕まえた者に五百万出すと言ってるんですよ」
 そこで運転席にいる斉藤が口を挟む。驚いて見返すと、斉藤は短いカーブにステアリングを切り返しながら慧の思惑を話した。
「まず犯人を引き渡して五百万と引き換える、そこで坊ちゃんは、鵜飼氏に直接、二千万借して欲しいと話すつもりです」
 そうですよねと斉藤自身、確認をとるように慧を見た。慧は少し不愉快そうながらその話を否定はしなかった。
「もう少し時間があれば、他にも手はあるさ、けど三日じゃ無理だ、鵜飼さんに頼むしかない」
「でも……」
 鵜飼氏は平和主義だというがそれでも一応は暴力団の党首として君臨する人物だ。所詮は極道、そんな人間に借金をするというのはどう考えてもいい話ではない。よくはわからないがここで借りをつくればこの先鵜飼氏に逆らえなくなる。それでは慧の望みである自由は手に入らない。そう話すと慧は仕方ないだろうと半ば自棄のように吐き捨てた。
「三日で二千万出せるのは鵜飼さんだけだ、他に手はないんだよ」
「けど」
「それに、俺の仕事が鵜飼さんに利益を齎してるのは確かだ、せっかくの金づるを潰すとも考え難い、金さえ稼げれば、文句は言って来ないはずだ」
 この方法がベストなんだよと慧は空中を睨む。しかしそれはどこか甘いような気がした。
 鵜飼も積極的に慧を潰そうとは思わないだろうが、それで二千万という大金をぽんと出すとも考え難い。金の取立ては自分の組の三下にでもやらせれば済む話だ。下請けに出せば、仲介料として、上前を撥ねられるし、段階をふむだけ、自分のところに回ってくるのも遅くなる。メリットとしては、何かあったときに自分らは無関係だと言い張ることが出来るという点か、あとはせいぜい自由に動ける手駒がいつでも確保できるということぐらいだろう。そのために二千万出すかどうかは怪しいような気がした。だが他にいい手が思い浮かばないのは裕二も同じだ。仕方なく口を閉ざす。
「ああ、俺だ」
 そのとき急に声が聞こえ、顔を上げた。すると隣にいる慧が誰かに電話をかけている。この一大事に誰と話すのだと裕二は聞き耳を立てた。
「ああそうだ、手柄を譲ってやろうと言ってるんだ、その代わり、一人で来いよ、俺も手伝う」
 狭い車内のことだ、隠れて話しているわけでもないので、慧の言葉は聞える。しかし相手は知れなかった。
「そうじゃない、相手だって警戒してるんだ、そんな大勢引き連れてっちゃあ、気づかれて、すぐ逃げられちまう……それに、あんたと俺がいれば、曽我部一人くらい、すぐ片付く、そうだろ?」
 俺は先に現場へ向かってるからあんたも早く来てくれよと話し、慧は電話を切った。
 慧が誰かを呼びつけた。そいつも曽我部を捕まえにやってくる。その密談とも呼べない密談を聞き、裕二は焦った。第三者が介入するとなれば話は大きくなるばかり、曽我部と慧の関係修復はどんどん難しくなってしまう。慧だって本当は曽我部と仲直りしたいはずだ。だがどうする気なのと訊ねる裕二に、慧はなにも答えなかった。

 やがてベンツは曽我部の潜む山梨県明野村に入る。強行で行き来したが、さすがにもう夜で、当たりは真っ暗だ。星明りだけの暗闇に、曽我部の潜む家だけが浮き上がって見える。
 あたりに他に民家がないわけではないが、お互いに敷地が離れているのでさほど障害にはならないだろう。だが、逆に言えば、近づくものがあれば、すぐ気づかれる。彼の家が近くなるに従い、見つかる危険も増す。三人の乗ったベンツは、曽我部の家の十数メートル前でヘッドライトを消し、停まった。