澤田に渡された紙ナプキンには、山梨県明野村と書かれてあった。車は持っていないので、電車で現地へ向かう。最寄駅までは中央線一本だからわかり易い。しかしそこからが遠かった。
 駅からは公営バスを二度も乗り継がねばならならい。浄居寺と書かれたバス停で降りて、そこからさらに山道を三十分近く歩く。なかなか辺鄙なところのようだ。
 ようやく近くまで辿り着くと、そこは緑と土の匂いに溢れていた。段々畑が一面に広がり、小高いその土地からは、山梨全土が見えるのではないかと思えるような絶景が広がっている。見晴らしは素晴らしく良かった。
 慧のいる灰色の街を出たのが澤田と話をした翌日の朝、今は昼過ぎになる。太陽は真上近くにあり、すべての緑を眩しく照らしていた。
「凄いな……」
 誰に言うともなく呟いた。あまりに緑が鮮やか過ぎて動悸がする。まるで子供が描いたクレヨン画のようだ。その鮮やかさにドキドキした。
 緑が多いせいだろう、あたりに漂う大気さえ濃く温かく湿っているように感じる。うっかりすると溺れそうだ。バス停近くの立て看板に日本一日照時間が長い村と書かれてあったがあながち嘘でもないかもしれない。裕二は明野の濃い空気に驚きながら目的の家を探した。

 程なく見つけられたその家は、時代を何十年か間違えたような、昔式の茅葺屋根《かやぶきやね》だった。外壁も土塀になっていて、雨風にやられたのか、所々削られてへこんでいる。植木と自然の木の区別もつきにくく、道は土と雑草で出来た自然道、どこからが庭でどこからが道なのか、どこに隣との境があるのかさえわからない。
 住居にはその開けた庭に面して広い縁側がある。縁側の向こう側、部屋の境は古風な障子一枚のようだ。とても隠しごとが出来る雰囲気ではない。しかし、家人が不在なら普通は閉まっているだろう雨戸は開けられているので誰かいるに違いない。
 そっと近づいて澤田の言うとおり電気のメーターをさがしてみた。メーターは回っている。ここが使われている証拠だ。雨戸が開いているのだからそれだけで使われているのは確実だが、問題はここを使っているのが誰なのか、だ。
 内部を窺うように中庭を徘徊していると、いきなり裏の勝手口が開いて人が出てきた。慌てて物陰に隠れようとしたが間に合わず、鉢合せになる。
「誰だ、お前?」
 出てきたのは間違いようもない、澤田に渡された写真に写っている曽我部だった。
「なんだ、うちに用か? ばあちゃんなら今はいないぜ」
「え、いや、僕は……」
「ばあちゃんに用じゃないのか? ならなんだ?」
 まるでこちらを疑っていならしい曽我部の問いに困った。ここで慧の名を出していいものか迷う。初めて対面する曽我部はとても真面目そうで、身体は大きいが好青年に見えた。写真映りが悪いのか、写真ではちょっと怖い顔に見えたが、実際見ればそれほどでもない。結構二枚目だ。女子受けは悪くなさそうに見えた。
 澤田は曽我部がいるかいないかを確かめるだけでいいと言っていたが、すでに顔を合わせてしまったので知らん顔もし難い。裕二は覚悟を決めて曽我部に本当のことを話すことにした。
 自分は慧に命を救われ、慧のためになんでもしたいと考えている。その慧は今とても苦しんでいて原因の一端は曽我部にもあると自分は思っている。だから真相を訊ねに来たと話した。すると途端に曽我部の表情が変わる。
「藤宮の信奉者か、それで俺を捕まえて鵜飼に突き出そうって腹だな?」
「そうじゃないよ、っていうか、丈一郎さん殺しは、本当にキミなの?」
「ふざけるな! 藤宮の使いなら知ってるだろ、殺ったのは俺じゃない!」
「じゃあ、誰が……」
「誰が? 白々しい、わかってるんだろ、あそこには藤宮と丈一郎さんしかいなかった」
「……まさか」
「まさかじゃない、俺も見たわけじゃないから断言は出来ないけどな」
 曽我部は、苦渋に満ちた顔をしていた。その表情は親友を落とし入れようというよりは、親友の悪事を追及できなかったことを悔やんでいるかのようだ。
「……慧、なの?」
「俺じゃないんだ、他に誰がいるよ」
「じゃあ、なんで逃げたの?」
 訊ねると、曽我部は気まずそうに視線を下げた。都合の悪いことを隠そうとしているように見える。しかし、殺人よりも都合の悪いこととはなんだろう?
 思い及ばなかった裕二は、曽我部の逸らされた顔を追いかける。すると彼はあきらかに動揺し、きょろきょろと視線を彷徨わせた。なにを隠してるんだと好奇心が膨らむ。
「なにか事情があるなら、話してくれないかな」
 力になりたいんだと話す裕二に、だが曽我部は頑なだった。話すことはなにもないと逃げようとする。ここで逃げられたら困る。澤田ではないが自分の手では探せなくなるだろう。とにかく話してくれと食い下がった。
「誰にも言わないよ、慧の力になりたいんだ、キミは慧の唯一の友人だって聞いてる、キミがいなくなって、慧はとても気を落してる、助けたいんだ」
「話してどうかなる話じゃない」
「でも、聞かなきゃどうにも出来ないじゃないか、キミだっていつまでも逃げてるわけにはいかないだろ」
 本当に逃げるつもりならこんなすぐ見つかるような場所にはいないはずだ。母方の祖母の別荘なんて、探そうと思えばすぐに見つかってしまう。そんな場所に立てこもっているのは見つけて欲しいからじゃないのか。本当は誰かに話してしまいたいんだろうと詰め寄った。
 すると暫く考えていた曽我部は、辺りを窺ってから中へ入れと裕二を招いた。つられて勝手口から中へ入っていく。

 そこは土間敷きの台所で、流し台は大きいが古臭く、あちこち欠けたタイル張りだ。ガスはプロパン式が引かれてあるようで、大きなコンロが二つ並んでいたがこれもひどく古いものだ。五徳が焼けて錆び、壊れかけている。壁際には大きな樽や瓶がいくつか並び、水道もついてはいるが、その横には手漕ぎ式の井戸らしきモノまである。いったい何時代なんだと驚いた。
「どうした早く来い」
「ああごめん」
 声をかけられ慌ててついて行く。曽我部は振り向きもしないで先へと歩いた。

「そこに座れ」
 案内されたのは家の一番奥で、三方を別の部屋に囲まれ、窓がない和室だ。薄暗く陰気な感じの部屋だった。一面だけ塗り壁になっている北側には、箪笥かと見紛うような大きな仏壇がある。部屋をぐるりと取り囲む鴨居には、おそらく先祖のモノだろう色褪せた白黒写真がいくつも掲げられてあり、見知らぬ侵入者である裕二を見下ろしていた。
 窓がないせいか、仏壇や写真のせいか、外の明るさとは正反対にじめじめした陰湿さを感じる。曽我部の顔も外で見たときより意地が悪そうに見えた。
 曽我部は部屋を取り囲む重々しい襖を全て閉ざしてから、裕二の前へどっかりと腰を下した。ジッと見つめてくる彼の目はどす黒く濁って見えてどこか不気味だ。慧と同い年の十八には、とても見えない。
「で、なにが聞きたいんだ?」
「キミと、慧の関係っていうか……えっと、仲良かったって聞いてるけど、どんな感じだったのかなって」
「関係ねえ……なんかやらしい言い回しだな」
「え、そんなつもりじゃ」
「いいさ、まあたぶんお前が考えてる通りだろうからな」
「え……?」
 さらりと話された言葉に裕二は伏せていた顔を上げた。考えている通りとはどういう意味だと見つめ返す。曽我部は淡々としていた。

「あいつに初めて会ったのは小一のときだ、入学式のすぐあとだった」

 入学式を終えた教室で曽我部は美少女に出会った。それまで幼馴染の結衣子が一番可愛いと思っていたが、それが見事に覆されるほどその子は可愛らしかった。と言っても自分の斜め前の席にいたので正面は見えない。見たのは横顔だけだ。自己紹介のときも見とれていただけでなにを言っているのかさえ聞いていなかった。かろうじて「ふじみやけい」という名前を覚えただけだ。
 だが、同じクラスに可愛い子がいる。それだけで気分はいい。学校へ行くのも楽しみになった。
 そして入学式翌日、真っ先に慧のもとへ走り、嬉々として話しかけようとしたとき自分の思い違いに気づいた。美少女だと思ったその子は男の子だったのだ。
 昨日は横顔と教室から出て行く後姿しか見ていなかった。だから勘違いしたのだ。だいたい名前もよくない。「ふじみやけい」なんて女みたいじゃないか。

 自分が勝手に勘違いしたにもかかわらず、騙された気分になった曽我部は、それから一方的に慧をライバル視するようになった。
 こんな女の子みたいなやつに負けるとは露ほども思わず挑みかかり、そこで曽我部は大いなる挫折を味わう。何度やっても慧に勝てなかったのだ。
 勉強でダメ、それならと挑んだ体育も負け。悔しくて、情けなくて、とにかく勝つまではと挑み続けた。おかげでいつの間にか曽我部の成績は上がり、気づけば二人は勉強でも運動でも首位を争う仲となっていた。
 周りでは二人のことを文武両道の友人同士と認識したようで、どこでも特別視されたが、実際はプライベートな会話などほとんど交わしたこともなく、お互いの家さえ知らなかった。
 それが覆ったのは二年に上がってからだ。
 その日、曽我部は日直で、クラスの給食費を集めて回った。せっかちな性格だったので、休み時間のうちに全員のぶんを集め終わり、さらに失くすといけないのでほとんどそのまま職員室まで届けに行った。だが担任は留守だった。仕方なく一度は教室まで持ち帰り、次の休み時間に再び届けに行った。直接担任に手渡したところまでばっちりのはずだった。ところがその直後、集金額が足らないと担任に言われ慌てる。
 ある生徒の集金袋がカラだったという。
 そんなはずはない、自分はちゃんと全員ぶんを集めたし中身を取り出しもしてない。あるはずだ。もしないとしたらそれはその誰かが集金袋に金を入れ忘れたのだ。そう主張したがなかないか聞き入れられなかった。集金袋がカラなら出すときに本人が気づくだろう、カラの袋だけを出すのはおかしい。
 たしかにその通りだが事実はそうとしか思えない。お前が入れ忘れたんだろうとその生徒を責めた。すると相手の子はそんなことはない、ちゃんと入っていた、お前が盗ったんだと言い返す。たちまち乱闘、大騒ぎだ。
 曽我部はその頃から体格もよく、顔つきも大人びて怖かったので、みな知らず知らずに相手の子のほうを応援した。暴力は良くないということで担任もその子のほうを庇う。いつの間にか空気は曽我部が悪いという方向になっていた。
 口下手なほうではないが、さすがに全員敵ではやりにくい。曽我部は歯噛みして周りを睨んだ。そして誰もが曽我部を悪と決め込んだように見えたその空間で、手を挙げて発言したのが慧だった。