小学校へ進んだ慧は、そこで後の親友となる曽我部辰寛と出会った。
一人っ子だった慧と違い、曽我部は三人兄妹の真ん中で、歳の離れた兄と、まだ小学生の妹がいた。仲のいい兄妹で、上の兄は家をでていたので、行方は知れなかったが、妹のことはたいそう可愛がっていたらしい。そして、それ以上に親しくし、思いをよせていたのが幼馴染でもある結衣子だった。
 結衣子と曽我部は家が隣同士で両親も仲がよく、父親同士は友人だった。そんなこともあって親達は、幼い頃から一緒に遊び、仲のよい二人が、将来結婚でもしてくれればいいなと冗談交じりに話し合っていたらしい。
 その二人の間に、慧は入り込んだ。当初は三人共、子供だったので、たいした揉めこともなく上手くやっていた。しかし、思春期に入り、その関係は崩れ始める。
 中学に入り、異性を意識し始めた頃、曽我部は結衣子に恋している自分に気づく。対して、結衣子のほうは、慧と曽我部のどちらをとるでもなく、平等に接していた。少なくとも表面上はそう見えた。
 だが結衣子になにも迫らない慧に対し、曽我部は積極的だった。付き合ってくれと何度も申し入れ、それに靡かないほど、意思の固い女でもなかった結衣子は、やがて熱心な曽我部のアプローチに折れる。
 そして晴れて二人は恋人同士となり、慧はそれを祝福する、二人の友人という立場を貫いた。

「人の心は侭なりません、坊ちゃんは曽我部さまと結衣子さまを思い、黙って身を引いたのです」
「それは、慧も結衣子さんを好きだったってことですか?」
 裕二の問いに斉藤は曖昧に笑った。聞かないでくださいと顔に書いてある。
 仲の良い三人、少年二人に少女が一人、それは当然起こり得る青春のひとコマだ。それで壊れてしまう関係もあれば、そこから続く関係もある。慧と曽我部と結衣子の関係は、そこで終わらなかったということだろう。
 だがそれもそう長くは続かなかったらしい。二人が付き合い始めてから一年半、結衣子が一方的に別れたいと言い出したのだ。
 問い質しても理由を言わず、ただ別れてくれの一点張り。納得のいかない曽我部との間で何度も話し合い待たれ、平行線のまま二人は別れた。
 そして曽我部と別れてから幾日もしないうちに結衣子は「慧の女」という扱いになったらしい。その理由は誰も知らない。

 三人の関係はわかった。だがそれだけではまだ見えてこないものがある。三人がそれぞれに抱えただろう葛藤をそれぞれに克服したからこそ、その先があったはずだ。
 恋と友情、そのどちらも成り立たせようと考えた三人の歯車は、どこで狂ったのだろう。
 結衣子はなぜ、最初曽我部を選び、のちすぐに慧へと乗り換えたのか。一度は身を引いたのだろう慧は、なぜ結衣子の申し出を受け、彼女を自分の女と位置づけたのか。そして曽我部はなぜ、自分の恋人を奪った慧から離れることなくこの組織に居続けたのか……いや、そもそもこの集まりはなんだ?
「あの、じゃあ……ここはどういう集まりなんですか?」
 さっき見た件や紗枝の話しを総合すると慧が法に触れるギリギリのことをしているというのは確かだろう。言ってしまえばヤクザのようなものだ。しかしどうもそのものズバリとは思い難い。ではなんだと聞いた。その問に斉藤は淡々と答える。
「このビルに住む者たちを括る名はありません、ここは元々慧坊ちゃんの住まいでした」
「住まい? 慧はここに住んでたんですか? いつから?」
「中学を卒業したときに、親父さんから譲り受けました」
「お父さんって、あの……?」
「はい、そうです」
 慧の母を惨殺した男、そして慧の本当の父親をこれ以上ないほど残酷に殺害した男、そいつから貰った……ということは、それまで慧はずっと、両親を殺した男と暮らしていたわけだ。知らなかったとしたらそれも残酷な話だが、斉藤は慧が真実を知っていると言った。つまり彼はその男が両親の仇と知っていて父と呼んでいたことになる。
 いったいどんな気持ちで毎日を過ごしていたのだろう。
 たった十五で家を出て、一人で暮らすと決めた彼には、どれだけの葛藤があったのか、それは平凡な毎日をのうのうと送ってきた裕二には予想も出来なかった。
「坊ちゃんはただ自由になりたかったのです、しかしそれを親父さんは許さなかった、どうしてもと食い下がる坊ちゃんに親父さんは一つの条件を出しました」
「条件……どんな?」
「五年間猶予をやる、その五年の間に、十五歳まで育ててもらった恩を返してみろと」
「恩を返せって? だって親なら育てるのは当たり前でしょう」
「親ならそうですが、親父さんは自分が親でないと知ってますからね」
「ぁあ……でも」
 戸籍上は親だ、普通は養育する。手元にいるのなら当然……裕二はそう思ったが、力也からみればそうではなかったのだろう。かけただけの金を返せと言ったらしい。
 子供を養育するには金がかかる。それが首も据わらない赤子ならなお更だ。そこから十五になるまでの十五年間でかかった費用は約五千万。力也は、それを五年で返済しろ、出来なければお前は一生奴隷だと言ったらしい。もちろんそれには利子もつく。ヤクザ方式でトイチと言いたい所だが、それでは可哀想なので、月に一割としてやると恩着せがましく告げたとか。
 トイチになどしたら軽く十億近くなる。利子を滞らせればさらに借金は嵩む。永遠に払えない。それが月に一割ならその三分の一以下、総額で三億五千万程度。それくらいならお前でも稼げるだろうと嘯く力也に、慧は必ず返しますと答えたという。
 つまり慧は、利子だけで毎月五百万を返済しなければならない身なのだ。
 そんな金額、十五の子供に払えるわけがない。力也はそうとわかっていて言い付けたのだ。しかし慧はそれを払うと答えた。それはそう答えなければ家を出られなかったからだが、言うは易し、成し遂げるのは難しだ。
 月に五百万など普通のサラリーマンだって稼げない。稼げるのはごく一部のエグゼクティブだけだ。当然、真っ当なことをしていては利子すら支払えない。だから慧は、あんなヤクザ紛いの真似をしているんだと、裕二はようやく理解した。

「少し、話しすぎましたね、私はそろそろ戻らなければ、坊ちゃんに叱られますので、今日はここで失礼させていただきます」
 動揺する裕二に斉藤は優しい声でそう断わりをいれ、頭を下げた。そこで裕二も我に返る。まだ肝心なことを聞けていない。慧の唯一の友人だったという曽我部は、なぜ消えたのか、そこを聞きたいと食い下がると、立ち去りかけた斉藤は、ドア口付近で止まった。そして背中を向けたまま、ゆっくりと、言葉を選びながら答える。
「曽我部さまは、坊ちゃんの事業に多大な損害を出し、その責めを恐れてその場から逃走した……と、私は聞いております」
「損害って、なにをしたんですか?」
 慧の事業とは、ヤクザ紛いの取立て屋のようなものか、その損害とはどういう話なのだろうとさらに聞いた。だがそのとき、部屋の外でわあわあと怒鳴りあう大きな声が聞こえてきた。それも一人や二人ではない、かなりの大人数だ。
 斉藤も訝しがり、何事かとドアを開けた。どうも一階出入り口付近で複数人が言い争っているようだ。裕二も思わず身を乗り出す。

「バカ、裕二、テメエは出てくんじゃねえ!」
 部屋から一歩出ようとしたところで上の階から駆け下りて来た石田に怒鳴られた。顔を上げると石田は血走った目で駆けて行く。その背には不自然な突っ張りがあり、背中になにか隠していることがわかる。ナイフかなにかではないかと裕二は想像した。
 喧嘩だ……いや、そんな生易しいものではないかもしれない。石田に続いて次々と階段を駆け下りてくる男達は、みな鬼のような顔をしている。さながら修羅の群れだ。その形相を見つめ、身震いした。
「裕二さん、あなたはここにいてください」
 戸惑う裕二に部屋へ戻れと目配せをし、斉藤は駆け下りてくる男らとは反対に、階上を目指す。
「どこへ行くんですか!」
「坊ちゃんの所です」
 短くそう答えた斉藤は、裕二にもう一度、そこにいてくださいと告げ、早足で階段を上って行った。

「どうしよう……」
 震える足で一歩前に進み、裕二は下りるべきか、上るべきか、それとも部屋へ隠れているべきかと迷った。もしもこれが喧嘩や闘争なら、自分はなんの役にも立たない。それどころか足手纏いで邪魔になるだけだ。しかし知りたい。
 迷いながらも一歩、また一歩と階段を下りていくと背後から、腹に響くような靴音が聞こえてきた。
 慧だ。
 そう気づいた途端、背筋がしゃんとして立ち止まる。
 硬い床を叩くような、強く華やかな靴音は、彼の存在ソノモノのようで、姿を見なくともそれが誰であるかすぐにわかる。一歩ずつ近づいて来る彼が現れるのを、裕二は息を呑んで待った。
 階段途中の踊り場に姿が垣間見えただけでもドキリとした。先ほど駆け下りて行った男達を修羅の群れと表現したのがおこがましくなる。そこに立つ彼は、冷たく凍った抜き身の刀のようだった。身も心も凍りつき、身動きできなくなる。
 もしもこの世に本当に鬼や悪魔がいたとしても、彼ほど恐ろしくはないんじゃないかと思える。あれはこの世の生き物ではない……全身に鳥肌が立ち、背中に脂汗が流れた。恐ろしさに目を逸らしたくとも、身体が凍りついてしまい、視線すら動かせない。足は床に張り付いたままだ。
 身動き出来ない裕二の前に慧がやってくる。
 殺される。
 なんの根拠もなくそう感じ、恐ろしさに目を閉じた。