ここで別れたら、また暫くこの疑問を訊ねることが出来なくなる。そう考えた裕二は、再度口を開いた。
「あの、ちょっと聞いてもいいでしょうか」
「どうぞ、あなたは坊ちゃんの友人だ、できるだけ便宜は図るつもりです、質問も答えられる範囲でお答えしますよ」
「ありがとう」
斎藤は慧のことを坊ちゃんと呼んだ。それは組織のリーダーを指す言い方ではない。つまり斎藤にとって慧は祭り上げられたリーダーではなく主、もしくは主の息子という扱いになるのだろう。では斎藤の仕えるモノはなんだ? そこが一番気がかりだった。
そもそもここは何なのだろう? 学生やチンピラの集まりとも見えない、では本物のヤクザ、暴力団かと言えば、そうでもなさそうだ。だが裕二には、そんなこと以上に気になることがあった。
「曽我部って、誰ですか?」
その名を出すと斎藤も一瞬表情を変えた。実際はほんの少し眉を顰めただけなのだが、普段が無表情なので少しの変化でもすぐにわかる。
斎藤はそのまま口を閉ざし、しばらく裕二を見返していた。それは戸惑うとか躊躇うとかでなく、なにか図っているかのようだ。図るとしたらそれは裕二の覚悟かもしれないと、その真剣な表情を見ながら思った。
「曽我部さまは、慧坊ちゃんの御学友でした」
「でした?」
「はい、もうすでにお二人とも学生ではありませんから」
「そうですね」
なるべくなら詳しい話はしたくない、斎藤の顔にそう書いてあるような気がした。だがそれだけの説明ではなにもわからない。
「で、今、彼は……?」
「ここにはいません」
「どこにいるんです?」
「それは我々も知りません、探させていますが未だ不明です」
日ごろから必要以上のことは喋らない習慣なのだろう、斎藤の返事は端的で取り付く島もない。だが迫力がある外見に反して、話す言葉は意外に誠実そうだ。真剣に聞けば教えてくれるかもしれないと思った。
「慧と曽我部さんとの間になにがあったんですか? なぜ彼はここにいないんです? 結衣子さんと慧と曽我部さんはいったいどういう関係なんですか?」
裕二は再び、今度は勢いをつけて訊ねた。すると壁に凭れていた斎藤は少し身を屈め、ジロリと睨むように目線を上げる。腹の底を探るような鋭い視線にギクリとした。命のやり取りをして来た者だけが持つ本物の迫力がそこにはある。
殺される? 一瞬本気でそう思った。
だがピリピリと壁が振動するような圧力を漂わせながらも、斎藤はニコリと笑った。
「なぜ、それをお知りになりたいんです?」
「え、ぁ……」
斎藤の笑顔は上辺だけのものだ。相手を信用していない。必要とあればすぐにでも身を翻すことの出来る、そんな冷徹な笑顔に見えた。
有無を言わさないその迫力に裕二は黙り込む。お前は部外者だ、余計なことは探るなと言われているような気がした。
裕二が黙り込むと斎藤は階段の白い壁に背をあずけ、顔を上げた。高窓から見える空を、目を細めて見つめるその横顔は、どこか哀しそうに見える。
「結衣子さまは、曽我部さまの恋人でした」
「え?」
これは事情を聞くのは諦めたほうがいいのかなと思いはじめた頃、斎藤は静かに話しだした。なぜ話してくれる気になったのかはわからない。もしかしたら慧だけでなく、斎藤にも、なにか後悔する部分があるのかもしれないと思った。
「最初、結衣子さまは曽我部さまと坊ちゃんを分け隔てることなく、同じ友人として接してくださってました、本当に、お三方とも仲のいい御学友だったんですよ」
「あぁ、はい……でもじゃあなんで」
これ以上は部外者が興味本位で立ち入っていい話ではない。そんな気はしたが、裕二もそこで引っ込む気になれない。
慧とは会ったばかりで彼のことはなにも知らない。だがあの日、屋上から散歩に行くと言って飛んだ慧と、ヤクザな連中に傅かれて虚勢をはる慧が、あまりに違い過ぎて腑に落ちない。放っておけない。
もはやお節介者の勘でしかないが、慧は壊れかけている。いつまた飛び立つかわからないくらい、彼は追い詰められている。先ほど見た慧の凶行は、それだけ慧が追い詰められ、余裕をなくしているからだ。もしかしたら半分は自身でも制御不能なのかもしれない。
だとすればそれはもう心身症だ。たぶんそれは結衣子にもわかるのだろう、だからあんなに必死で慧を探しに来たのだ。そう信じた裕二は、話してくださいと斎藤に迫った。
裕二の形のない覚悟を見取ったのか、斎藤はチラリと階段の上を見上げ、誰も聞いていないことを確かめてから壁に預けていた背を離した。そして視線だけで裕二を呼び、階段から一番離れたそのフロアで一番端の部屋の扉を開ける。たぶん他の人間に聞かせたくない話なのだろうと理解し、裕二も黙ってその後に続いた。
「そこへ、お座りください」
その部屋の中にはアップライトタイプのピアノがおかれてあった。元々はそのビルに入っていたピアノ教室の所有だったらしいが、家賃が払えず出て行くときに、溜まった賃代かわりにおいていったものらしい。
ピアノの横にある応接用の長椅子へ裕二を導いた斎藤は、ここは防音になってるんですよと小さな声で呟きながら、その正面へと座った。
「裕二さんは、坊ちゃんのことをどの程度ご存知ですか?」
そう聞かれると返事に困る、実際、慧とは会ったばかりでなにも知らないのだ。
「なにも知りません、彼とは会ったばかりなんです、でも、知りたいと思いました、それだけではダメですか?」
裕二が正直にそう答えると、斎藤はそれでもかまいませんと静かに答えた。
「曽我部さまがいなくなった今、坊ちゃんには友人がいません。坊ちゃんは裕二さんを気に入っているようですし、あなたが坊ちゃんのお友達になっていただけるなら歓迎します」
「なれたら、いいと思います」
友人はいないと斎藤はあっさり言った。たぶんそれは本当なのだろう。石田や遠藤では友人とは言えない、彼らは、(たぶん)部下だ。実際の関係がどうであれ、形としてはそうだろう。部下は友人とは言えない。だから慧は裕二をあくまでも部外者としたのかもしれない。
身内にしてしまえば裕二は立場上、慧の部下ということになり、対等性は保たれない。それでは意味がない。慧が欲しいのは友人。部下ではなく、友が必要なのだ。
裕二はここへ自分を連れて来ずにはいられなかった慧の支えになりたいと思った。斎藤はそんな思いを感じとったのかもしれない、長くなりますよと前置きをしてから話し出した。
***
慧の父親、藤宮力也《りきや》は、関東でも屈指の勢力を誇る暴力団の会長をしていた。そして長い独身時代を過ごし、晩年ともいえる歳、長年思い続けた、孫とも言えるほど歳の離れた若い女性を娶って所帯をもつ。そのときすでに六十近かった力也が、長男、慧をもうけたのは、その四年後だ。
よく歳をとってからの子供は格別に可愛いものだと言うが、力也もそうだったのだろう、慧が生まれたことを機に、ヤクザ家業から足を洗うことを決意、組は解散した。生まれたときに具合の悪いことがあったのか、慧が長く保育器の中にいたことも一因していたかもしれない。
一人息子だった慧は年老いた、曽祖父と見紛うばかりの父と、逆に姉と言ってもおかしくないほど若く美しい母の元、最初、溺愛された。だがすぐに悲劇は起きる。慧は力也の子供ではなかったのだ。
力也の妻は年老いて権力と財産だけが魅力だった力也に隠れ若い男に熱を上げた。男は力也の部下で、男にとってその女は自分の主の妻だ。当然最初は拒んでいたが、いつしか女の熱意に負け、二人は恋仲になった。そして慧が生まれた。もちろんそれは隠されたし、力也とその男の血液型が同じだったこともあって、絶対にばれないと思われていた。
しかし秘密はばれるものなのだ。二人の仲を知っていた第三者が、力也にそっと耳打ちし、事態は一転する。
妻の裏切りに怒った力也はその場で妻の首を切り惨殺してしまった。女の身体から放たれた血飛沫は、まるで火災を検知したスプリンクラーのように、細く長く勢いよく部屋中に飛び散ったと聞く。
男のほうはもっと酷かった。捕まえられ、引き立てられて行った部屋で、生きたまま手足と男根を切り落とされたのだ。
その後、力也は、医療の心得がある部下に命じて止血させ、治療をほどこし、リンゲル液を満たした水槽に漬けさせた。
男は死ぬまでの数日間(飲まず食わずで数日間、よく持ったものだ)そのままその部屋に捨て置かれ、力也は毎朝毎晩、水槽を眺めに現れたという。そして、逃げることも出来ない男の、唯一水槽から出ている顔面を弄り続けたと言うから、その執念と怨念の深さが窺われる。
「驚かれましたか?」
あまりのことに裕二は言葉を失った。斉藤はそれを見返し、静かに声をかける。
当然驚いた。あまりに酷い話だ。人が人にしていいことではない。いや、人でなくても、生き物にそんな仕打ちをして許されるはずがない。
「慧は……それを知っているんですか?」
思わず聞いた。すると斉藤は、はいと言葉少なに答える。その低く静かな声に、ことの重大さを知った。
慧の絶望の元はここかもしれない。
自分が生まれたことで両親は殺されたのだ。それも、およそ人間の考えることとは思えない残虐なやり方で……平静でいられるはずがない。生まれなければ良かった。彼がそう思ったとしても不思議はない。
だから彼は、何度も何度も、死に奔ろうとしたのだ。自分が見る前にも、小林紗枝が見る前にも、おそらく彼はもう何度も死のうとしている。それを止めたのが、ここに集う若者達、あの手帳に書かれている女たち、そして、曽我部、なのかもしれない。
唯一の友人だという曽我部という男が慧の支えだったとしたら、彼が消えたことで堪えられなくなり、再び死ぬことに安息を求め始めたと考えても不自然ではない。
もし本当にそうだとすると、曽我部はなぜ、今ここにいないのだ?
そこが肝心な話だぞと考え、裕二は、大丈夫です、先を続けてくださいと答えた。斉藤はその覚悟を見つめ、再び話し始める。