「でもそれじゃあ世の中、泥棒だらけになっちゃうじゃないか」
「そうさ、世の中泥棒と殺人鬼だらけなんだよ、大人しくしてたら奪われるだけの人生になる、だから俺は、娘たちに奪われるだけの人生じゃなく、奪う快感も味合わせてやってる」
 それのなにが悪いんだと聞き返す慧に、裕二は言葉を失った。
 泥棒や強盗、殺人が悪いなど誰もが知っている。恐喝や誘拐は犯罪だ。しかし世の仕組みはそれと殆ど同じ、法の網を潜るように、ある一定のルールに従ってさえいればなにをしても許される世界だ。それはたしかにその通りだし、裕二もそれに対する反論は思いつかなかった。だがどこか釈然としない。それではこの世は成り立たない。それに、そんな人間ばかりじゃないはずだ。いい人だっているよと小声で話すと、慧はそういう奴らはたいてい弱者、負け組だと答えた。
「人助けばかりしてる奴に、裕福な奴や著名人がいるか? いないだろ? それは人助けなんかしてたらそこまで行けないからさ、所詮弱者の寄せ集め、傷を舐め合ってるだけに過ぎないんだ、そういう奴らだって、本当にドン底に来たら豹変する、百人の人間が処刑されるとき、その中の一人だけ助けてやると言われたら、誰でも自分だけが助かろうとするんだ、そのために隣の人間を刺し殺せとナイフを渡されたら、そいつは昨日までの隣人、友人を刺す、最後まで相手を信じて武器を取らなかった者が、真っ先に死ぬんだ、そう思わないか?」
 そんなことないよと、裕二は答えられなかった。それはたしかにその通りだと思うからだ。
 個人的には最後まで相手を信じて武器を取らない人間のほうが好きだ。だがそうするのが本当に正しいと他人に説くことは出来ない。そうすることでその人が死んだりしたら、それは自分のせいだ。世界中が武器を取らない人間だけになればいいとは思うが、それは絵空事でしかない。もしそうなっていたら、そもそも戦争も飢餓もないだろう。
 自分だって他人のことは言えない。誰かが不利益をこうむるとわかっていても、それを止めることで自分にその不利益が降りかかってくると思ったら止められない。現に、さっき坂崎が暴行されているときも慧が金庫から金を奪ってくるときも自分は止めなかった。正義を説く資格はない。

 裕二が消沈するのを見て、慧はなにを思ったのか、優しい目をして、ぽんと裕二の肩を叩いた。お前はそれでいいんだと肯定してもらえたような気がして、少しだけ心が軽くなる。

 それにしても、なぜ慧は、こんな考え方をするようになったのだろう?
 十八歳ならば少しくらい世の中や大人に反感を持つのは普通だし、斜めに構えている若者も多い。しかしたいていは口先だけの反抗であり、誰も自分が犯罪を犯してまで世の仕組みに一矢報いようとは考えない。慧にそれをさせる、そもそもの理由はなんだ?
 慧と彼の仲間たちはいったいどんなつながりで、彼らはなんなのか、それは聞いたら答えてくれるんだろうか?
 疑問を抱えたままベンツは廃ビルに帰りついた。

 車から降りた慧は酷く疲れた表情で階段を上がっていった。まるで死刑台に繋がる十三階段を上るように、その足取りは重い。
 本当はやりたくないんじゃないのか? ふとそんな気がして、裕二は階段を駆け上がる。そして丁度階段の真ん中、踊り場あたりで捕まえて訊ねた。
「慧、もしかしてキミ、嫌なんじゃないの? 他人を傷つけたり脅したり、そんなことやりたくないんだろ?」
 訊ねると慧は一瞬救いを求める少女のような儚い表情を見せた。今にも泣き出して、縋ってきそうに見えた。しかしそれはほんの一瞬で、すぐにムッとしたような真顔になり、裕二の手を振り払う。
「やりたいね、他人を脅すのも、金を奪うのも、殴るのも、楽しくてしかたない、やりたくてうずうずしてるよ」
「嘘だ」
「本当だ」
「嘘だよ! やりたくないって顔に書いてある、嘘はやめてくれ!」
「知ったふうな口、利くな! お前になにがわかる?」
 怒鳴り返して来た慧は、激昂し、今にも殴りかかって来そうだった。しかしその顔は、どこか泣きそうだ。
 間違いない、彼は嫌がっている。そう確信した裕二がさらに攻める。
「わからないよ! わからないから知りたいんだろ!」
 慧が何者で、この組織がどんな存在で、何をしているのか、そして話の端々に出てきた曽我部という男が何者なのか、結衣子と慧と曽我部の関係はなんなのか、全てがわからない。だからそれを聞かせてくれと、胸座を捕まえるようにして叫んだ。だがそこで後ろから襟首をつかまれ凄い力で引き離される。あまりに勢いが強すぎて眩暈がしたほどだ。
 離されてすぐに強烈な膝蹴りが入った。内臓が捻じ切れ、破裂したんじゃないかと思うような激痛で、胃液が逆流してくる。噎せて吐き出そうとしたが、その前にもう一発、今度は脇腹を蹴られ、裕二は血反吐を吐きながら、踊り場に倒れた。霞む意識で薄目を開けると、殴りかかって来たのは石田だった。
「調子に乗ってんじゃねえぞ、藤宮に意見しようなんざ三千年早えんだよ!」
「でも……僕は」
「なにが僕だ! 特別扱いされてんと思って生意気なんだよ、殺されてえのか!」

 石田の怒りは、子供じみていた。たぶん半分は嫉妬だ。
 一番後から来たくせに、慧の関心を攫い、大事にされていると、裕二を妬んでいるのだ。そして後の半分は純粋に、心配なのかもしれない。なぜと問うことで、慧が堪えられなくなることを恐れている。だがそれこそが知りたいのだ。
 この様子だと石田は全てを知っているのだろう。しかし彼がそれを打ち明けてくれるとは思えない。石田には慧を護りたいという思いの他に、慧を独占しておきたいという邪な欲望がある。自分から慧を取り上げる可能性のある人間に真実は話さないだろう。となれば、慧本人に聞くしかない。
 裕二が蹲りながらも果敢に睨み返したとき、慧の低い声が響いた。
「石田!」
 まるで地の底から響いてくるような声に、石田も顔色を変えて黙る。怯える石田に、慧はゆっくりと近づいていった。その歩みは陽炎のようで、周りの空気さえ歪ませる。石田と慧の間だけ、空間は捻じ曲がり、僅かに霞んで見えた。
「何度も言わせるな、裕二は部外者、俺の客人だ」
「けどな! こう何度もじゃ目潰れねえぞ、このままあいつをのさばらせておいたらどうなるか……」
 反論する石田の語尾は徐々に小さくなり、仕舞いには震え声になった。言い方もやり方も乱暴だが彼は本当に慧を心配しているのだ。
 だがそれでは解決にならない。石田では慧を救えない。ではどうすればいいのか、慧を救うための鍵はどこにある? そう考えたとき、石田もその糸口に気づいたのか、顔を上げた。
「お前、こいつを曽我部の代わりにでもする気か?」
 曽我部の名を出すと慧は再び激昂した。かっと燃えるような目で石田の襟首を掴んで殴りつける。その一撃は強烈で石田は踊り場から階段下まで転げ落ちた。全身を強く打ったらしい石田は、呻きながらよろよろと立ち上がり、階段上に立つ慧を見上げる。
「そいつは無理だぞ、こんな青白い野郎に負いきれるわけねえだろ」
 切々と訴える石田を、慧は冷たい目で睨んでいた。もう諦めろと石田は言い、慧は押し黙る。
 だがやがて根負けした石田が視線を下げると、慧は裕二に手を出すなとだけ告げて話を打ち切った。そして踊り場に倒れこんだままの裕二に話しかける。
「知りたいことがあったらいつでも聞いていい、それに俺が答えるかどうかはわからないが、聞く権利だけは与えてやる」
「慧……」
 その表情を見て気づいた。もしかしたら慧自身にもなにか呪縛があり、答えられないのかもしれない。その呪縛が組織的、現実的なにかなのか、それとも精神的なモノなのかは別にして、彼には理由も経緯も説明できないのだ。

「斎藤」
「はい」
 裕二があらぬ想像を巡らせていると、慧は一番後ろに控えていた他の連中より少し年上に見える男を呼んだ。斎藤と呼ばれたそいつは、慧に呼ばれてから初めてその傍により、畏まる。
「裕二を部屋まで送ってってやれ、この調子じゃ歩けないだろ」
「わかりました」
 今時珍しい角刈りの斎藤は慧の言うことにいちいち畏まって頷く。だがやはりその態度は敬っているというよりは、溺愛する孫を見守る祖父のようだ。いや、斎藤はどう見ても四十前、慧は十八だから、孫と祖父というほど歳は離れていない、せいぜい親子か、歳の離れた兄弟だ。
 兄貴分でありそうな斎藤が、弟分であろう慧に傅いている。その光景が奇妙だった。
「裕二、聞きたいことは斉藤に聞いていいぞ、俺は無理でも斉藤ならなにか答えられるかもしれないからな」
「え……?」
 急な話に裕二も戸惑ったが、斉藤も戸惑っているように見えた。強面、という言葉がぴったりの迫力ある男の背に僅かな動揺が窺える。
「キミは教えてくれないの?」
「俺にもいろいろ立場ってもんがあるのさ、だが斎藤が喋るぶんには咎めない」
 慧の立場、というモノはなんとなく理解出来る。慧はこのよくわからない組織のたぶんトップで、そして囚人だ。自由なんてないも同然なのだろう。そう納得した。
「わかったよ」

 斉藤に支えられながら階段を上り出した裕二は、慧のおかれた立場を想像していた。
 しかしいくら考えてもすべては想像の域を出ない。疑問は膨らむばかりで好奇心があふれ出す。話しかけるには少し勇気がいるが、ここはやはり斎藤に聞くしかない。
「あの……」
「裕二さん」
「え?」
「あ」
 同時に口を開いてしまい、二人とも先が出なくなった。大柄で強面に似合わず、遠慮深いらしい斎藤は、なにか言いたそうな表情で、しばらく裕二を見ていたが、やはりなにも言わずに口を閉ざす。そのまま二人とも口を利けなくなり、あっという間に裕二の部屋についてしまった。