「ユキさん!」
 声をかけると、ユキは、なんでこんなところにと不思議そうな顔をした。真顔でなにかあったんですかと訊ねられ、ちょっと照れる。
「ユキさんに会いに来たんです」
「わたしに、ですか?」
 なぜ? と彼女は首を傾げる。それはあなたのことが気になって仕方ないからだ。一目惚れかもしれない……とはさすがに言えず、曖昧に笑った正志は、ユキの手からスーパーの袋を取った。
「持ちますよ、重いでしょう?」
「そうでもないです」
「いや、重いはずだ……というか、ホントに重いじゃないですか」
 少し強引に取った荷物は、正志が思っていたよりもずっと重かった。ズシリと重量感があり、ユキの細い腕ではとても持ち運べそうもない。よくこんな重い荷物を持って、四十分近い道のりを歩いて来たなと感心する。
「買い物ですか? 最近出来たというあのモールでしょう? なにを買ったんです?」
 荷物を奪い取られ、少しムッとした表情になったユキの機嫌を取ろうと、正志は殊更にこやかに話しかけた。すると彼女は無表情に、野菜と魚ですと答えた。まだ怒っているのか、少し拗ねたような唇が可愛い。
「夕食の材料? にしてもずいぶんたくさん買い込んだんですね」
「あかまちのいいのが出ていたので、煮つけを造ってみようかと思って……それに今日は野菜もいいのが出てましたから」
「それで買い過ぎた?」
「過ぎてはいません」
「そうですか? でも一人で食べるには多過ぎやしませんか?」
 ちらりと覗いた袋の中には、里芋や人参、ごぼうにレンコンといった根菜類から葉物まで、すべて丸のまま入っている。それも、一つではなく、二個、三個、多いモノになると十近くありそうだ。いくらなんでも多いだろう。だがそれを指摘するとユキは一つや二つでは作りたいものも作れませんからと答えた。ずいぶんと拘るなと考えた正志は、そこではたと気づいた。あれだけ美味い料理を作る人だ、もしかしたらそういう仕事をしているのかもしれない。
「もしかしてユキさん、料理研究家かなにかですか?」
「研究はしてません」
「あ、じゃあ、料理学校の講師さんかなにか?」
 身を乗り出して訊ねると、ユキはふいっと視線を下げ、聞えないふりをした。話しかけた言葉が宙に浮き、無視されたような気がして気分が沈む。するとユキは、暫くの沈黙のあと、躊躇いがちに顔を上げた。
「正志さんは? どんなお仕事をなさってるんですか?」
「僕ですか? 特別職公務員ってやつですね」
「公務員?」
「非常勤ですよ、普段は町のニュースとかトピックスを扱うタウン誌の編集をしてます」
 その一環で、本膳料理の取材をしたので、日本料理についても少しはわかるし、味にも結構うるさいんですよと話すと、ユキは興味深気に正志を見返した。彼女の目は一点の淀みもなく、あまりに邪気のない瞳で、見つめられるとそれだけで心拍数が上がる。早くなにか言ってくれないと、呼吸まで乱れそうだ。
「どんな店を取材したんですか?」
「あ、そうですね、定食屋から割烹までいろいろですが……そうだ、六花亭にも行きましたよ、知ってます? 六花亭」
「六花亭」
 ドキドキしながら答えると、ユキは興味深げに問い返して来た。いつも落ち着いていて、あまり大きく表情を変えないユキにしては珍しい。
「よく取材できましたね、あそこのご主人はそういうの、嫌がるでしょう?」
「そうですね、正面から行ったらNGですよ、でも友だちのお父さんがあそこの常連さんで、話を通してくれたんで、なんとかやらせてもらいました」
「それは幸運でしたね」
「ええ、まあ……」
 追及されたくなくて、つい、語尾をぼかした。その気配を察したのか、彼女はそれを追求することなく、味はどうでしたかと尋ねて来た。
「どんな?」
「ええ、なにか食べたでしょう? 品書きはどんなでしたか?」 
 彼女は、聞きたくて仕方がないというように、いつもより少し早口で話す。正志はその勢いに押されながら、ゆっくり答えた。
「一般的な本膳と、お薦め、それに、若いOLとか学生でも食べられるようなリーズナブル価格のランチメニューを見せてもらいましたよ」
「で、味は?」
「そりゃ美味しかったですよ、さすが高いだけあります、リーズナブルランチでも千五百円しますからねえ」
 当たり障りなく答えると、ユキはそうかと呟き、視線を下げた。なにか思惑あり気なのが気にかかる。どうかしたんですかと訊ねかけたが、先に彼女から聞き返された。
「その雑誌、今持ってますか?」
「いや、今は……でも記事を書いたのは僕ですから、なにか聞きたいならお話できますよ」
「それではお願いします」
 お願いしますと言うわりに、有無を言わさぬ勢いで、ユキは袖を引く。そのまま引き摺られるように彼女の家に入り、奥の六畳間へ通された。彼女はそこで、六花亭の取材メニューを詳しく聞き、味付けはどんな感じだったのか、歯触りはどうだったかなど、正志が引くくらい根掘り葉掘り訊ねる。そして聞くだけ聞くと、今度はちょっと待っててくださいと台所に消えた。
 そこで待つこと一時間半。ユキは、さっき正志が話したのとほぼ同じ膳を調えて来た。
「凄い、これ、今作ったんですよね」
「そうです、食べてみてください」
 百合根と枝豆の茶巾、真丈椀、鰆の手まり、穴子の白焼などが形良く盛られた一膳に、思わず見惚れる。どうぞと促され箸をつけると、上品な甘味があり、あっさり風味ながら、とても美味かった。最初の日と同じく、美味いと唸る。しかしユキは表情も変えず、次の膳を運んできた。
 焼き物は鯖、煮物はさきほど仕入れて来たあかまちと根菜の含め煮、揚げ出汁豆腐、揚げ物は白魚と葱のかき揚げにエビ、季節の野菜が三品。松葉銀杏が添えられ、いい感じだ。材料が揃わなかったのでと、少し消沈した口調で、六花亭とは少し違う品も出て来たが、どれもこれも素晴らしく美味しかった。だから、どうですかと聞かれ、凄く美味しいと答えたのだが、ユキは言葉どおりに取れないようだ。納得出来ないという表情で下がっていく。そして、最後の茶請けと薄茶を出し終え、ユキもようやく正志の前に腰を下ろした。

「ご馳走様でした、美味かった」
「お粗末さまです」
 美味いと褒めても、ユキはまだなにか引っかかっていのか、浮かない表情をしていた。つい気になって、どうしたんですかと訊ねる。すると彼女は六花亭の主には昔世話になったことがあるのだと話した。
「世話にって、え、もしかしてユキさん、あちらのお弟子さんかなにかですか?」
「違います、ただ……」
「ただ?」
「いえ、あそこのご主人は引退したと聞いていたので、今は誰が回してるのか、気になって」
「ああたしか、磯村さんとおっしゃる方ですよ、ずっと前のご主人についてらした方だとか」
「磯村……由吉さん」
「ユキさん、磯村さんのこともご存知で?」
 フルネームでは言わなかったのに、ユキは六花亭の板長の名を知っていた。それはつまり、かなり懇意だったということになる。思わず突っ込むと、彼女は何でもありませんと真顔で答え、磯村由吉と比べて自分の作はどうだったかと訊ね返した。なぜそこに拘るのかわからず、正志も戸惑いながら答える。
「ユキさんの料理は本当に美味しいですよ、今ランキングを作るなら、僕は一位に押します」
「本当にそう思いますか? 由吉さん……いえ、今の六花亭と比べても、そうだと言えます?」
「うぅん、そこは難しいですね、六花亭は老舗ですからね、さすがに味は完璧です、でもなんか少し、余所余所しいんですよね、そこへ行くと、ユキさんの料理は温かい」
「それは、出来立てだから……」
「いや、そうじゃなく、相手をもてなそうという、ユキさんの心が感じられるんです、食べてて、ホッとする、本当に美味いです」
 何度も美味しいと話すと、ユキはようやく納得出来たのか、ありがとうと少し笑った。その微笑みにつられ、正志も笑う。
 それから彼女は始終静かな瞳で話し、二人で本膳の残りを突きながら、少し酒も飲んだ。温かい空気が流れ、気持ちが穏やかになる。ずっと探していた人と出会えたような、ユキが運命の相手のような気になり、帰りたくなくなった。
 しかし、ここは女性の一人暮らしだ、いつまでも居座るわけにはいかない。仕方なく立ち上がると、彼女は玄関先まで送ってくれた。
 気をつけてと話すユキの唇を見つめ、心が逸る。まだ会って二日しか経っていないのに、愛しくて仕方がない。あなたが好きです。つい、口から跳び出そうになるその言葉を押しとどめ、正志は違う言葉を探した。
「また来ても、いいですか?」
 あなたに会いたいんですと思いをこめて訊ねる。するとユキは、いつでもどうぞと少し笑って答えてくれた。
「またなにか作ります、いつでも食べに来てください」
「そんなこと言うと、毎日来ちゃいますよ?」
「いいですよ、どうぞ」
 ふざけて言った言葉に、ユキは笑顔で答える。優しくて温かい、可愛らしい笑顔だ。すぐにでも抱き締めたくなる。だがまさか会って二日目でそうも出来ないので、ぎこちない笑顔を作りながら、毎日あんなに美味い料理が食べられるなんて夢みたいだと答えた。すると、ユキも嬉しそうに笑う。付き合ってすでに数週間も経つ恋人同士のような気がして心は温かい。
「じゃ、また明日」
「はい、明日」
 軽く会釈して背を向ける。チラリと振り返ると、薄暗くなった海沿いの町に、白い作務衣がぼんやりと浮かんで見えた。月の下、昼間の喧騒から隠れるようにひっそりと咲く、月下美人の花のようだと思った。

――友だちのお父さんがあそこの常連さんで。

 ユキの家を出て、実家に向かう中、ふと、後ろめたさが胸を締め付ける。
 自分は嘘をついた。六花亭に話を通してくれたのは、友だちの父親じゃない、彼女の……律子の父親だ。だがそれを言うと、自分には恋人がいると宣言しているのと同じで、ユキは引いてしまうだろう。今だって別に付き合っているわけでも告白したわけでもない。ただ家主の息子と貸家の住人というだけの関係だ。
 だが嫌だった。ユキに、引かれたくない、(恋愛)対象外になりたくない。
 今はなんの繋がりもない関係だとしても、これから繋がることだってある。その可能性だけは残しておきたい。
 姑息だなと自嘲して、ふと気づいた。彼女《ユキ》に、恋人はいるのか?
 結婚……は、していないだろう。指輪はなかったし、どう見ても一人暮らしだ。室内を見たところも、女性の一人暮らしにしては飾り気がなさ過ぎるが、男の持ち物と見えるものはなかった。と言っても、彼女の持ち物と言えるほどのモノもなかった。
 あの家には、生活観がない。玄関入ってすぐの和室もカラだったし、いつも通される六畳間にも卓袱台と小さな棚が置いてあるだけ。物がなさ過ぎる。あんな何もない家に、彼女一人……。
 一人で買い物に行き、一人で料理を作り、一人で食べる。
 いったいどんな気持ちで……毎日なにを考えて暮らしていたんだろう? 小さな平屋といっても、一人で住むには広い。あの家でたった一人。
 味気ない一人の食事、ついつい作りすぎてしまう料理を、一緒に食べてくれる人もいない。淋しくないわけがない。だから彼女は、誰とも知れない自分の、大家の息子だという話を疑いもせず、食事に誘ったのかもしれない。
 想像したら切なくなった。これは自分の都合のいい思いこみ、妄想なのかもしれない。だが、そんな気がして仕方がない。
 彼女は誰かを待っている。一緒にいてくれる相手を、用意した食事を一緒に食べ、ただ一言、美味しかったよと言ってくれる誰かを、待ち続けている、のではないか?
 もしそうなら、それが自分であってはダメだろうか? いや、ダメなはずはない。それなら最初から受け入れてはくれなかっただろう。彼女《ユキ》は、初対面の自分に、理由も聞かず、食事を作ってくれたのだ。

――すぐ出来ます、食べていってください。

 あのとき、ユキはそう言った。
 食べていってくださいと言うのは、文字通り、ユキの希望、願いだったのかもしれない。淋しくて、人恋しくて、誰かと食事をしたかったのは、ユキのほうだったのかもしれない。
 だとすれば望みはある。彼女《ユキ》も、多少なりと、こちらに好意を持ってくれているはずだ。
 少々主観的過ぎるかとも思ったが、きっとそうだと結論した正志は、次にユキの家に行ったときにでも、こちらが好意を持っていることを伝えようと思った。
 しかし、そうと決めると、逆に不安になってくる。ユキに男はいるのかいないのか……。
 旦那はいないだろう、だが恋人、彼氏となるとわからない。自分だって、恋人がいながら、一人で故郷に戻り、勝手ながら彼女に恋をした。

 そうだ、恋を、したんだ。

 自分で言った、「恋」という言葉を、心の中で重く深く受け止めながら、正志はユキを思った。思いを打ち明けるにはまだ早過ぎる。会って三日目で好きですなどと言っても、軽々しいだけだ。ましてや自分には、まだ完全に別れたというわけではない恋人がいる。彼女《ユキ》のほうにだってなにかあるかもしれない。
 だいたいこんな辺鄙な場所に、女性が一人で暮らしているというのも変な話だ。
 働いている感じもしないし、家賃や食費、金はどこから出てるのだ? 預金か、援助か……いずれにしても、わけありと考えるほうが自然だろう。彼女が何者なのか、なんの事情があってあそこに一人で住んでいるのか、それが知りたい。