勧められるまま、箸をつけた正志は、その美味さに息を呑んだ。
最初の椀である青菜の汁は関西風の澄まし汁で、上品な味わいだ。ほんのり磯の香りがする。出汁は蛤《はまぐり》と、おそらく石蓴《あおさ》、それに鰹節も入っているかもしれない。濁りなく仕上げるのは難しい合わせのはずだが、樽出しの清酒のように澄み切っている。それに、温かい。口にする者を包み込むような柔らかい母性を感じ、ほっとした。
根菜の焚き合わせは色合いも形も良く美しい。きちんと面取りされた八角の里芋は箸で割るとふんわり蒸気が舞い、出汁の香りが広がって来る。一気に食欲がわき、思い切りかぶりついた。醤油と出汁の甘味と塩味が絶妙に旨い。続けて口に入れた牛蒡《ごぼう》もしっかり味が沁みている。口の中に広がる甘辛い煮汁が堪らなく、ついつい欲張って次々と頬張りたくなる。見た目は色合いが自然そのままのように美しいので、味は薄いのかなと思っていたので意外だった。これならご飯が何杯でも行ける。
そのご飯がまた旨い。薄く色づいた紫飯《ゆかりめし》なのだが、これが白飯の上に、紫蘇《しそ》の香りだけを纏わせたように上品で、副菜主菜の邪魔にならない。それどころか、さっぱりした紫《ゆかり》の風味で口の中が洗われ、また次々と食べたくなる。いいコンビネーションだ。箸休めの膾《なます》や漬物も甘過ぎず濃過ぎず、ちょうどいい塩梅だし、鰆《さわら》はふっくらと焼き上がっていて魚自体の香りと、絡めた香味が混ざり合って絶妙の域だ。
すべてが温かく、一口食べる毎に、心の棘が抜け落ち、胸の痞えが溶けていくような、愛情深い料理だ。最後の吉野汁に至っては、口の中に僅かに残る優しい甘味に心を揺さぶられ、満足感と幸福感で涙が出そうになった。
美味いと唸り、顔を上げると、ユキはニコリと微笑んだ。さっきまで、仮面のように動かない表情だったのが嘘のように優しい笑顔だ。
「良かったです」
言葉少なに答えるユキの声が、幾分か明るく、優しくなる。和らいだ空気に心がすうっと軽くなるのを感じた。
恋人と喧嘩して、仕事にも躓き、周囲が敵だらけに見えて、居場所をなくし、追い立てられるように逃げて来た。彼女の料理は、そんな自分に、大丈夫ですよと優しく囁いてくれる。
無言で食べ続け、自然と流れ出た涙のわけを、ユキは聞かなかった。ただ向かい合い、食事を取り、時々微笑んでくれる。その心遣いが胸に沁みた。
「美味しかったです、ご馳走様でした」
「お粗末さまです」
取材として、何軒もの日本料理店や割烹、懐石料理店などを訪ねたが、彼女の味はそれらに決して劣っていない。いや、劣るどころか、かなり美味しい。ランキングをつけるなら、ベスト5には入る味だと褒め称え、さらに礼を言おうとすると、ユキは静かに微笑み、それを制した。
口を利く機会をなくした正志が黙り込む。その途端、彼女は綺麗に平らげられた膳を盆に乗せ、すいっと立ち上がった。
キュッと畳の鳴る音がして、盆を持ったユキが背を向ける。一連の動作が日本舞踊の振り付けのように美しく、正志の目前で残像を描く。心臓が高鳴るのを感じた。
盆を持ち、部屋から出て行く彼女の背を見つめていると、切なさでいたたまれなくなる。
行かせたくない。
咄嗟にそう思い、正志も立ち上がった。
「待ってください」
「なんですか?」
その声に、ユキは振り向かずに答える。あとを追った正志は、彼女の横に立ち、盆を持つ手を取った。
「食べさせていただいたんですから、片付けくらいは僕がしますよ」
「え? でも……」
自分がやりますと話すと、ユキは戸惑い、少し困った表情になった。その仕草が、思いがけず可愛らしい。
「ユキさんは座っててください、洗い物くらい僕にも出来ます」
「でも、あなたはお客、ですから……」
「なにが、客じゃないですよ、ただの押しかけ大家です、いや、大家の息子か……とにかく、ご馳走になったお礼です、片付けくらいはやらせてください」
あくまでも、自分がやると言い張ると、ユキはそうですかと呟き、頷いた。
「ではお願いします」
「はい、任せてください」
素直に引いたユキの、押し付けがましくない優しさが、胸に沁みる。正志は高鳴る動悸を気にしながら、食器や鍋を手早く洗った。
洗いながらも、ユキのことばかり考える。
細い指、細い首筋、華奢な肩。だが決して弱々しい印象ではない、強い光を放つ瞳。意思の強そうな、それでいて情の深そうな唇。深く澄んだ声。すべてが胸を擽り、動悸はさらに増した。
あんなに美しい人は見たことがない。
いや、見掛けの美醜だけで言うなら、彼女より綺麗な女性はたくさんいるかもしれない。だがそれでも、彼女には敵わないような気がする。表面の美しさというだけでなく、内面から滲み出す美が、彼女にはある。
「ユキさん、ちょっといいですか?」
ひと段落つけたところで、食器の収納場所がわからず、声をかけた。すると彼女はなんの警戒心もなく、正志の横に並んだ。美人が横に立つと、それだけで空気が変わる。薄っすらと、爽やかなハイビスカスのような香りが漂い、気が逸る。
だが、手際よく皿や鍋を仕舞う様子を見ているうちに、だんだん不安になってきた。女一人の住まいで、見知らぬ男と二人きりになるなんて、危険だと思わないのだろうか。自分だからいいが、もしこれが下心ある悪人だったらどうするのだろう。ご馳走になっておいて言うのもおかしいが、少し注意したほうがいい。
義侠心に燃え、説教したくなった正志は、片づけを終えたばかりのユキの手首を固く掴んだ。
「……?」
なんですか? と聞きたそうな目で、ユキが顔を上げる。まるでわかってなさそうなその瞳に、少し腹が立った。
「ごちそうになっておいて言うことじゃないですけどユキさん、知らない男と無闇に二人きりになるもんじゃないですよ」
「別に、無闇には、なってません」
「なってるでしょ、僕みたいなの信用して、食事まで作って、もしこれが凶悪犯だったらどうずるんですか」
「あなたは、凶悪犯じゃない、です、から」
彼女はたどたどしい口調ながら、きっぱりそう答えた。その返事に戸惑う。たしかにそうだが、それは自分だからわかることで、彼女からしてみれば、初対面だ。わかるわけがない。世の中、見るからに悪人面した悪人ばかりじゃない。善人面した悪い奴だっている。見た目で判断するのは危険だ。だがそう諭すと、彼女はでもあなたは違いますと即答した。なぜそこまで言えるのかわからない。
「なんでそう言えるんですか、なんの根拠があって……」
「顔を見ればわかります」
「顔?」
「はい」
顔なんて一番当てにならない。事実、自分はいい人ではない。そう反論しかけた正志を、ユキの言葉が遮る。
「とても、疲れた顔をしていました、何があったかまではわかりませんが、あなたは疲れ果てて帰って来た人、それだけはわかります」
「……」
その通りだと驚き、正志は言葉を失う。
たしかに自分は疲れていた。疲れ果て、自暴自棄だったかもしれない。それを、彼女の料理が癒してくれた。だからおこがましくも、他人に説教などする気になったのだ。
「疲れたときは、美味しいものを食べて、ゆっくりお風呂に入って、たっぷり眠るのが一番です」
「そうですね」
「でも、現代人はみんな忙しいですから、そうも出来ない場合が多いでしょう? だから、全部は無理でも、せめて食事だけは、温かくて美味しいものを食べてもらいたい、と、思います」
「あ……ぁりがとうございます」
ユキの優しい言葉と笑顔に、胸が熱くなる。思わず頭を下げると、ユキは美味しかったですかと聞き返してきた。もちろんそれは即答だ。美味しいに決まっている。それどころか、東京の老舗と比べても引けを取らない、素晴らしいものだったと話した。その答えに、彼女は嬉しそうに微笑む。
「良かったです」
ほっとしたように笑った彼女が、とても可愛らしく見えた。
***
ユキと別れ、実家に戻ると、案の定、妹には嫌味を言われた。恋人と喧嘩をして逃げて来た。それだけでも妹からしてみればいい加減な男なのに、喧嘩の原因が彼女の妊娠だったからなお更だ。お兄ちゃん最低だわ、男のクズよと罵られ、さらに落ち込む。
もちろん、妊娠は女の一大事だろう。恋人との間に出来たのなら結婚へのいい切欠にもなる。しかし肝心の男のほうには、まだそんな覚悟がない。
身体を重ね、愛し合い、その結果として子供が出来る。そんな当たり前のことを、男は身近な話として考えていない。もちろん、避妊するのを忘れた自分が悪い。だが女のほうだって、それはわかっていたはずだ。わかっていて許したということは、その時点で女は、子供が出来てもいいと思っていたことになる。それはつまり、煮え切らない男にうんと言わせるための陰謀だと言っても過言ではないのではないのか? だとしたら、責任はむしろ女のほうにある、男ばかりが責任を取らなきゃならないのは理不尽だ。そう反論すると、妹は火のように怒った。
「子供を生むってことがどれだけ大変か、お兄ちゃんにわかる? 身体を痛めるのも、傷付くのも、全部女なのよ? 女にも責任がある? よくそんなこと言えたわね! 好きな男に言い寄られて、嬉しくない女がいる? 好きで好きでしょうがないのに、抱き合うときに、ねえ避妊してって、女に言えって言うの? 言えるわけないでしょ! 馬鹿!」
妹の言葉はしごくごもっともで、そう言われてしまえば反論の余地もない。だがやはり釈然としなかった。なんで男が悪者にされなきゃならないんだ? やった行為そのものは対等なはずだし、それなら責任も半々ではないか。
もちろん、身体に変化が起きるのは女のほうだし、傷つくのも女だけなのはわかっている。正志だってそのまま放り出すとは言っていない。手術代だっては払うし、休業中の面倒くらいは見てやるつもりもある。ただ、子供が出来ました、だから結婚……というのに納得出来ないだけだ。
彼女が嫌いなわけではない。だが、一生涯を共にするほど好きかと聞かれると自信はない。
別に他の女でもよかったのだ。いや、彼女より美人で彼女より価値のある女が振り向いてくれるなら、そっちのほうがいい。ただ問題は、その女に見合うだけの価値が自分にあるかということだ。
彼女より美人で、彼女より価値のある女。
そう考えたとき、ふと、ユキの横顔を思いだした。
なぜだろう? ちゃんと正面からも見たはずなのに、彼女を思い浮かべようとすると、思い出されるのは横顔だけだ。どこか遠くを見ているような、静かな瞳……彼女は、ユキは、誰を見ているのだろう?
……そのとき、ふと、帰り際にユキが言った言葉を思い出した。
――お腹が空いたら、いつでもどうぞ。
なにも出来ませんが、食事くらいは出せますよと、ユキは微笑んでくれた。それは社交辞令なのかもしれないが、今はそれにさえ縋りたい。
自分が故郷へ戻って来た本当のわけを話したら、彼女はどう思うだろう? 軽蔑するだろうか? 妹と同じように、最低だと怒るだろうか? 彼女にだけは嫌われたくない。
だが、会いたい。
彼女なら……見ず知らずの男に、なにも聞かず食事を用意してくれるユキなら、わかってくれるかもしれない。ふと、そんな身勝手な思いが頭に浮かんだ。
ユキに会いたい。
その思いだけを抱え、正志は家を出た。
正志の家から彼女の家までは、少し遠い。歩いて行けば二十分ほどはかかる。家を出たのが午後二時過ぎだったので、ユキの家につくころには、三時近かった。だがまだ日は高い。一人暮らしの女性の家に訪ねて行ってもおかしくはないはずだ。だが、肝心のユキがいない。昨日と違い、玄関は鍵がかかっているし、何度呼んでみても返事がない。家の外側から中の様子を窺ってみたが、人のいる気配はなかった。
どこに行ったのだろう……勢いこんで訪ねて来たのに、肩透しな気分で元来た道を戻り始める。
そのとき……海岸沿いの砂利道を、細い影が歩いて来るのが見えた。
ユキだ。
姿が見えたことで胸が熱くなり、うっかりと見惚れる。すると彼女が両手になにか持っているのに気づいた。スーパーのビニール袋だ。どうやら買い物に出ていたらしい。パンパンに膨らんだ買い物袋を両手に歩いて来る姿が健気で、微笑ましい。女性の買い物は長いというが、なにをあんなに買い込んできたのだろう? 両手で掴んでいるビニールの袋は、とても重そうだった。
正志の故郷は本当に田舎で、店と言えるほどの店も少ない。このあたりでまともな買い物が出来る場所と言えば、最近出来たばかりの大型ショッピングモールくらいなものだ。だが、そのモールもこの家からは少し遠い。歩いて行けば三十分、いや、女性の足なら四十分はかかると思われた。
その道のりを、彼女はあの重そうな荷物を持ち、歩いて来たのか……そう考えると妙に胸がざわつく。なにを買って来たかは知らないが、大変だっただろう。そう気づいた正志は、ゆっくり歩いてくるユキに向かって走り出した。
最初の椀である青菜の汁は関西風の澄まし汁で、上品な味わいだ。ほんのり磯の香りがする。出汁は蛤《はまぐり》と、おそらく石蓴《あおさ》、それに鰹節も入っているかもしれない。濁りなく仕上げるのは難しい合わせのはずだが、樽出しの清酒のように澄み切っている。それに、温かい。口にする者を包み込むような柔らかい母性を感じ、ほっとした。
根菜の焚き合わせは色合いも形も良く美しい。きちんと面取りされた八角の里芋は箸で割るとふんわり蒸気が舞い、出汁の香りが広がって来る。一気に食欲がわき、思い切りかぶりついた。醤油と出汁の甘味と塩味が絶妙に旨い。続けて口に入れた牛蒡《ごぼう》もしっかり味が沁みている。口の中に広がる甘辛い煮汁が堪らなく、ついつい欲張って次々と頬張りたくなる。見た目は色合いが自然そのままのように美しいので、味は薄いのかなと思っていたので意外だった。これならご飯が何杯でも行ける。
そのご飯がまた旨い。薄く色づいた紫飯《ゆかりめし》なのだが、これが白飯の上に、紫蘇《しそ》の香りだけを纏わせたように上品で、副菜主菜の邪魔にならない。それどころか、さっぱりした紫《ゆかり》の風味で口の中が洗われ、また次々と食べたくなる。いいコンビネーションだ。箸休めの膾《なます》や漬物も甘過ぎず濃過ぎず、ちょうどいい塩梅だし、鰆《さわら》はふっくらと焼き上がっていて魚自体の香りと、絡めた香味が混ざり合って絶妙の域だ。
すべてが温かく、一口食べる毎に、心の棘が抜け落ち、胸の痞えが溶けていくような、愛情深い料理だ。最後の吉野汁に至っては、口の中に僅かに残る優しい甘味に心を揺さぶられ、満足感と幸福感で涙が出そうになった。
美味いと唸り、顔を上げると、ユキはニコリと微笑んだ。さっきまで、仮面のように動かない表情だったのが嘘のように優しい笑顔だ。
「良かったです」
言葉少なに答えるユキの声が、幾分か明るく、優しくなる。和らいだ空気に心がすうっと軽くなるのを感じた。
恋人と喧嘩して、仕事にも躓き、周囲が敵だらけに見えて、居場所をなくし、追い立てられるように逃げて来た。彼女の料理は、そんな自分に、大丈夫ですよと優しく囁いてくれる。
無言で食べ続け、自然と流れ出た涙のわけを、ユキは聞かなかった。ただ向かい合い、食事を取り、時々微笑んでくれる。その心遣いが胸に沁みた。
「美味しかったです、ご馳走様でした」
「お粗末さまです」
取材として、何軒もの日本料理店や割烹、懐石料理店などを訪ねたが、彼女の味はそれらに決して劣っていない。いや、劣るどころか、かなり美味しい。ランキングをつけるなら、ベスト5には入る味だと褒め称え、さらに礼を言おうとすると、ユキは静かに微笑み、それを制した。
口を利く機会をなくした正志が黙り込む。その途端、彼女は綺麗に平らげられた膳を盆に乗せ、すいっと立ち上がった。
キュッと畳の鳴る音がして、盆を持ったユキが背を向ける。一連の動作が日本舞踊の振り付けのように美しく、正志の目前で残像を描く。心臓が高鳴るのを感じた。
盆を持ち、部屋から出て行く彼女の背を見つめていると、切なさでいたたまれなくなる。
行かせたくない。
咄嗟にそう思い、正志も立ち上がった。
「待ってください」
「なんですか?」
その声に、ユキは振り向かずに答える。あとを追った正志は、彼女の横に立ち、盆を持つ手を取った。
「食べさせていただいたんですから、片付けくらいは僕がしますよ」
「え? でも……」
自分がやりますと話すと、ユキは戸惑い、少し困った表情になった。その仕草が、思いがけず可愛らしい。
「ユキさんは座っててください、洗い物くらい僕にも出来ます」
「でも、あなたはお客、ですから……」
「なにが、客じゃないですよ、ただの押しかけ大家です、いや、大家の息子か……とにかく、ご馳走になったお礼です、片付けくらいはやらせてください」
あくまでも、自分がやると言い張ると、ユキはそうですかと呟き、頷いた。
「ではお願いします」
「はい、任せてください」
素直に引いたユキの、押し付けがましくない優しさが、胸に沁みる。正志は高鳴る動悸を気にしながら、食器や鍋を手早く洗った。
洗いながらも、ユキのことばかり考える。
細い指、細い首筋、華奢な肩。だが決して弱々しい印象ではない、強い光を放つ瞳。意思の強そうな、それでいて情の深そうな唇。深く澄んだ声。すべてが胸を擽り、動悸はさらに増した。
あんなに美しい人は見たことがない。
いや、見掛けの美醜だけで言うなら、彼女より綺麗な女性はたくさんいるかもしれない。だがそれでも、彼女には敵わないような気がする。表面の美しさというだけでなく、内面から滲み出す美が、彼女にはある。
「ユキさん、ちょっといいですか?」
ひと段落つけたところで、食器の収納場所がわからず、声をかけた。すると彼女はなんの警戒心もなく、正志の横に並んだ。美人が横に立つと、それだけで空気が変わる。薄っすらと、爽やかなハイビスカスのような香りが漂い、気が逸る。
だが、手際よく皿や鍋を仕舞う様子を見ているうちに、だんだん不安になってきた。女一人の住まいで、見知らぬ男と二人きりになるなんて、危険だと思わないのだろうか。自分だからいいが、もしこれが下心ある悪人だったらどうするのだろう。ご馳走になっておいて言うのもおかしいが、少し注意したほうがいい。
義侠心に燃え、説教したくなった正志は、片づけを終えたばかりのユキの手首を固く掴んだ。
「……?」
なんですか? と聞きたそうな目で、ユキが顔を上げる。まるでわかってなさそうなその瞳に、少し腹が立った。
「ごちそうになっておいて言うことじゃないですけどユキさん、知らない男と無闇に二人きりになるもんじゃないですよ」
「別に、無闇には、なってません」
「なってるでしょ、僕みたいなの信用して、食事まで作って、もしこれが凶悪犯だったらどうずるんですか」
「あなたは、凶悪犯じゃない、です、から」
彼女はたどたどしい口調ながら、きっぱりそう答えた。その返事に戸惑う。たしかにそうだが、それは自分だからわかることで、彼女からしてみれば、初対面だ。わかるわけがない。世の中、見るからに悪人面した悪人ばかりじゃない。善人面した悪い奴だっている。見た目で判断するのは危険だ。だがそう諭すと、彼女はでもあなたは違いますと即答した。なぜそこまで言えるのかわからない。
「なんでそう言えるんですか、なんの根拠があって……」
「顔を見ればわかります」
「顔?」
「はい」
顔なんて一番当てにならない。事実、自分はいい人ではない。そう反論しかけた正志を、ユキの言葉が遮る。
「とても、疲れた顔をしていました、何があったかまではわかりませんが、あなたは疲れ果てて帰って来た人、それだけはわかります」
「……」
その通りだと驚き、正志は言葉を失う。
たしかに自分は疲れていた。疲れ果て、自暴自棄だったかもしれない。それを、彼女の料理が癒してくれた。だからおこがましくも、他人に説教などする気になったのだ。
「疲れたときは、美味しいものを食べて、ゆっくりお風呂に入って、たっぷり眠るのが一番です」
「そうですね」
「でも、現代人はみんな忙しいですから、そうも出来ない場合が多いでしょう? だから、全部は無理でも、せめて食事だけは、温かくて美味しいものを食べてもらいたい、と、思います」
「あ……ぁりがとうございます」
ユキの優しい言葉と笑顔に、胸が熱くなる。思わず頭を下げると、ユキは美味しかったですかと聞き返してきた。もちろんそれは即答だ。美味しいに決まっている。それどころか、東京の老舗と比べても引けを取らない、素晴らしいものだったと話した。その答えに、彼女は嬉しそうに微笑む。
「良かったです」
ほっとしたように笑った彼女が、とても可愛らしく見えた。
***
ユキと別れ、実家に戻ると、案の定、妹には嫌味を言われた。恋人と喧嘩をして逃げて来た。それだけでも妹からしてみればいい加減な男なのに、喧嘩の原因が彼女の妊娠だったからなお更だ。お兄ちゃん最低だわ、男のクズよと罵られ、さらに落ち込む。
もちろん、妊娠は女の一大事だろう。恋人との間に出来たのなら結婚へのいい切欠にもなる。しかし肝心の男のほうには、まだそんな覚悟がない。
身体を重ね、愛し合い、その結果として子供が出来る。そんな当たり前のことを、男は身近な話として考えていない。もちろん、避妊するのを忘れた自分が悪い。だが女のほうだって、それはわかっていたはずだ。わかっていて許したということは、その時点で女は、子供が出来てもいいと思っていたことになる。それはつまり、煮え切らない男にうんと言わせるための陰謀だと言っても過言ではないのではないのか? だとしたら、責任はむしろ女のほうにある、男ばかりが責任を取らなきゃならないのは理不尽だ。そう反論すると、妹は火のように怒った。
「子供を生むってことがどれだけ大変か、お兄ちゃんにわかる? 身体を痛めるのも、傷付くのも、全部女なのよ? 女にも責任がある? よくそんなこと言えたわね! 好きな男に言い寄られて、嬉しくない女がいる? 好きで好きでしょうがないのに、抱き合うときに、ねえ避妊してって、女に言えって言うの? 言えるわけないでしょ! 馬鹿!」
妹の言葉はしごくごもっともで、そう言われてしまえば反論の余地もない。だがやはり釈然としなかった。なんで男が悪者にされなきゃならないんだ? やった行為そのものは対等なはずだし、それなら責任も半々ではないか。
もちろん、身体に変化が起きるのは女のほうだし、傷つくのも女だけなのはわかっている。正志だってそのまま放り出すとは言っていない。手術代だっては払うし、休業中の面倒くらいは見てやるつもりもある。ただ、子供が出来ました、だから結婚……というのに納得出来ないだけだ。
彼女が嫌いなわけではない。だが、一生涯を共にするほど好きかと聞かれると自信はない。
別に他の女でもよかったのだ。いや、彼女より美人で彼女より価値のある女が振り向いてくれるなら、そっちのほうがいい。ただ問題は、その女に見合うだけの価値が自分にあるかということだ。
彼女より美人で、彼女より価値のある女。
そう考えたとき、ふと、ユキの横顔を思いだした。
なぜだろう? ちゃんと正面からも見たはずなのに、彼女を思い浮かべようとすると、思い出されるのは横顔だけだ。どこか遠くを見ているような、静かな瞳……彼女は、ユキは、誰を見ているのだろう?
……そのとき、ふと、帰り際にユキが言った言葉を思い出した。
――お腹が空いたら、いつでもどうぞ。
なにも出来ませんが、食事くらいは出せますよと、ユキは微笑んでくれた。それは社交辞令なのかもしれないが、今はそれにさえ縋りたい。
自分が故郷へ戻って来た本当のわけを話したら、彼女はどう思うだろう? 軽蔑するだろうか? 妹と同じように、最低だと怒るだろうか? 彼女にだけは嫌われたくない。
だが、会いたい。
彼女なら……見ず知らずの男に、なにも聞かず食事を用意してくれるユキなら、わかってくれるかもしれない。ふと、そんな身勝手な思いが頭に浮かんだ。
ユキに会いたい。
その思いだけを抱え、正志は家を出た。
正志の家から彼女の家までは、少し遠い。歩いて行けば二十分ほどはかかる。家を出たのが午後二時過ぎだったので、ユキの家につくころには、三時近かった。だがまだ日は高い。一人暮らしの女性の家に訪ねて行ってもおかしくはないはずだ。だが、肝心のユキがいない。昨日と違い、玄関は鍵がかかっているし、何度呼んでみても返事がない。家の外側から中の様子を窺ってみたが、人のいる気配はなかった。
どこに行ったのだろう……勢いこんで訪ねて来たのに、肩透しな気分で元来た道を戻り始める。
そのとき……海岸沿いの砂利道を、細い影が歩いて来るのが見えた。
ユキだ。
姿が見えたことで胸が熱くなり、うっかりと見惚れる。すると彼女が両手になにか持っているのに気づいた。スーパーのビニール袋だ。どうやら買い物に出ていたらしい。パンパンに膨らんだ買い物袋を両手に歩いて来る姿が健気で、微笑ましい。女性の買い物は長いというが、なにをあんなに買い込んできたのだろう? 両手で掴んでいるビニールの袋は、とても重そうだった。
正志の故郷は本当に田舎で、店と言えるほどの店も少ない。このあたりでまともな買い物が出来る場所と言えば、最近出来たばかりの大型ショッピングモールくらいなものだ。だが、そのモールもこの家からは少し遠い。歩いて行けば三十分、いや、女性の足なら四十分はかかると思われた。
その道のりを、彼女はあの重そうな荷物を持ち、歩いて来たのか……そう考えると妙に胸がざわつく。なにを買って来たかは知らないが、大変だっただろう。そう気づいた正志は、ゆっくり歩いてくるユキに向かって走り出した。