納得などしないだろうなと思いつつ聞いた問いに、吟は力なくそう呟いた。俯く吟の様子を見つめ、ユキも小さく息を吐く。
 実質的には自分の負けだ。しかし勝敗はどちらかが負けを認めたときと決めた。考えていた展開とはだいぶ違ってしまったが、とにかくこちらの勝ちだ。
 内心で安堵と傷心の溜息をつきながら、ユキは項垂れたままの吟の隣に胡坐座で座り込んだ。
「ならこれで仕舞いやな、やれやれや……お前もそこ、座れ」
「はい……」
 吟は言われるまま、おずおずと座り込む。ユキはズボンのポケットから煙草を取り出し、口に咥えた。だが相変わらず火がない。
 近くには吟しかいないので、しかたなく、吟へ火をよこせと目配せをした。だが煙草を吸わない吟は、ライターなど持っていない。どうしたらいいのかわからずにうろたえる。ユキは、その生真面目さに苦笑しながら、道場の端にある棚を指して、そこにあると教えた。彼は慌てて取りに走り、駆け戻って火を点す。その火を受け、深呼吸するように煙を吸い込んでは、吐き出した。
 そして黙ったまま、静かに煙草を吹かし、一本目の煙草が燃え尽きる頃、ようやくゆっくり口を開く。

「しばらくオッサンとこに行ってくるわ」
「本気ですか……?」
「ああ」
 いつもなら冗談ではないと断っているところだ。それがどうしたことだと吟も驚く。まあ当然の反応だなと納得しながら、今回は特別だと答えた。
「向こうも本気で困っとるらしい、しゃーないやろ、少しかかるで、その間、お前は休んどけ」
「や、それは……けど、危なくないんですか」
「そんなたいした仕事やない、二、三日で片付く」
 これは嘘ではない、本当に大した仕事ではないだろう。
 だが問題は、その大したことのない仕事すら、今の自分では手に余るかもしれないということだ。そこはなんとかしなければならないが、それを言うわけにはいかない。
 言えば反対されるだろうし、それでもやると通せば、吟はまた身体を張ってでも止めようとするだろう。それは困る。
「軽い仕事やで、遊びみたいなもんや」
 わざと気軽そうに話すその言葉を、信じたのか信じようとしてくれたのか、吟はそれ以上反対しなかった。
「わかりました、けど今は女性なんですから、くれぐれも、気をつけてくださいよ」
「ああ」
本当は止めるべきだと思っているのだろうに、自分の思いを酌み、納得したふりをしてくれる。吟の情けを小癪な奴と感謝しながら、ユキも静かに頷いた。とにかく今は、いかにしてこれを切り抜けて戻るか……それだけを考えなければならない。


 **


「は、まいったな……」
 自室に戻ると全身の力が抜け、呆然と座り込んだ。
 結局、最後まで吟は、本気で打ち込んでは来なかった。自分は手加減され、勝ちを譲られたのだ。完全に自分の考えが甘かった。どんなに努力しても付け焼刃、このボディでは以前と同じには動けない。スピードは追いついても力自体が決定的に弱い。そこらのモヤシ野郎になら勝てても、それなりの力を持つ者には敵わない。
 癪だが認めるしかない。今の自分では何かあったとき、防ぎきれない。少しでも追いつくためには、鍛錬するしかないが、それもどこまで通用するか……。

 せめてもう少し上背と体重があれば、なんとかやりようもあるのにと、ユキは改めて鏡を見た。小さく細い華奢な身体をした、生意気そうな娘が映っている。そのアンバランスな姿を眺めてると幼い頃を思い出す。
 母の愛人に殺されかけ、家出を決意した小学生の頃、今と同じように母の鏡台に映る自分を見た。みすぼらしく小さな子どもが、目だけをギラギラと光らせて立っていた。あの時の失望は忘れない。
 なんで自分はもう少し大きく生まれなかったんだと泣きたくなった。
 何をしてもなにを話しても、お笑いにしかならないくらい小さな自分に、一人で生きていく力があるのかと、怒鳴りたくなった。
 気分はそのころと同じだ。違うのは、あのときの自分には、そこから育ち、大きくなれる可能性があったということだ。
 今の自分にそれはない。できるのは、鍛錬して体力と筋力を上げることくらいだ。
「クソッ……」
 忌々しく舌打ちをし、鏡を睨んだ。だがそれで事態が変わるわけではない。飛田にもやると返事をしてしまっている。いまさら無理でしたとは言えないし、言いたくもない。とにかく少しでも有利になるよう、自分を鍛え上げなければ……。

 翌朝ユキは吟に暇を出し、店は休みにして自室に篭った。もちろん身体は鍛えるつもりだが、それはすぐに成果がでるような物ではないし、今回の仕事には間に合わない。なにか仕込みが必要だ。自分はもう極道でも喧嘩屋でもないので、こんな話はそうそうないとは思うが、またなにかあったとき、後悔したくない。とにかく、なるべく無傷で勝ちを得る。そのために出来ることはなんでもしておく。
 殴り合いになった場合を考えると、落ちた力を補うためのなにかが必要だ。メリケン代わりに、ごつい指輪で間に合わそうかなと考えたが、手持ちのものはどれもシンプルに出来ていて役にはたたない。元々、アクセサリーをゴチャゴチャつけるタイプではなかったので、それは仕方がない。それに、考えてみたらサイズが合わない。
 ユキは仕方なく、別の仕掛けを考えた。

 そこであらためて鏡を見つめ、自分の容姿を観察する。
 自分的にはあまり好みのタイプではないが、一般的に考えてみれば、見栄えは悪くはない。というか、おそらくいいほうに入るのだろう。なにしろ、若い頃の母親にそっくりだ。

 母親は、子どもの自分が言うのもなんだが、とても美しい人だった。
 白い肌に整った顔立ち、憂いを帯びた瞳と、媚を含んだ赤い唇が印象的な、儚く脆く、ただ綺麗な女だ。その容姿のおかげで男の影は切れなかったが、あまり男運がなかったらしく、いつも泣いていた。
 今のユキの顔つきは、その頃の母とよく似ている。
 違うのは目だ。
 母の目は弱々しくどこか怯えを含み、見る者の加虐心をそそった。だがユキの瞳は生意気そうできつい光を放ち、母より品がなく見える。体つきも、母親には女らしく丸みがあったが、ユキにはあまりがない。というか、ちょっと細過ぎだ。お前は電柱かと言いたくなる。
 その分、言い寄ってくる馬鹿は少ないはずだが、物好きもいるかもしれない。昨晩の体たらくを考えれば、なにか対策がいる。
 腕力が当てに出来ないとなると、使えるのは極道時代に使っていた武器《えもの》、「針」しかないが、そうなるといつもどこかに針を持っていなければならない。昔対戦したことのあるやつの中には、服の襟元につける飾りピンを武器の代用にしたモノもいたが、自分はそういうものをつけるような服装はしたことがない。となるとあとは髪飾りくらいしかない。
 ユキはなんとか不自然でなく、針をしのばせる方法はないかと思案し、それを考案するのに一日を費やした。
 そしてそのさらに翌日、飛田から連絡が入る。