「痛っ」
久しぶりの休日を、満喫し、映画館から出てきた草薙は、出口横にある看板につま先をぶつけ、小さく舌打ちをした。一か月前から楽しみにしていた映画は大満足の出来映えで、鼻歌交じりに飛び出してきた矢先だ。暗い上映室からいきなり野外に出たので、明るさに目が眩んだのかもしれない。
「ついてないな」
新調したばかりの白いバッシュに黒い筋がついた。傷になっているかもしれない。確認しようと草薙は身を屈める。指でそっと擦ってみると、筋は少し滲んで薄くなる。どうやら看板についた汚れが移っただけのようだ。これなら洗えば落ちるだろう。気を取り直し、顔を上げた。その瞬間、風が頬を通り抜けた。
「え……?」
それは妙にくすぐったい感覚で、草薙はきょろきょろとあたりを見回した。
行き交う見知らぬ人々、華やいだ明るい街並み。見慣れたごく普通の光景だ。だがそのありふれた景色の中に一つ、小さな異物があるのを見つけた。それは薄汚れたカーキ色のフード付きロングコートを着た少年だ。
少年はスクランブル交差点の端にある時計台に背を預け、町行く人々の群れを見ていた。だがその視線には一片の同情もなく、酷く冷たい。三月だというのに、彼の周りだけ真冬のようだ。
暦の上では春、まだまだ寒い日はあるが、今日は小春日和で暖かい。気温は十七度を上回っている。草薙も浮かれて白いバッシュを下ろした。気の早い者は半袖だというのに、ロングコートは不自然だ。この気温であれでは、中で大汗だろう。
何者だ?
つい注目して見つめた。すると少年は視線に気づき、僅かに表情を変えた。眉が少し歪んだ程度の小さな変化だが、元が無表情だったので、その意味はストレートに伝わる。
お前も死ぬか?
憎しみの籠った目が、そう囁いているように見えた。ドキリとして、心臓が凍り付く。冷たい汗が背中を伝い、真昼だというのに、あたりが薄暗くなった気がした。
カーキ色のコートを羽織った少年は、フードを目深に被り、顔は半分以上隠れている。どんな顔をしているかなどわからない……はずだ。
だがその憎しみだけはヒシと伝わった。少年の憎しみで世界が歪んで見える。
目を開けたまま夢を見ているような、悪夢に魘され、目覚める寸前のような嫌な感じがして、草薙は瞬きを繰り返した。そして、何度目かの瞬きのあと、少年の姿がないことに気づいた。
目を離していたのは一瞬だ、その一瞬で、彼は消えた。そんな馬鹿なとあたりを見回す。だがざわめく雑踏のどこにも、彼の姿はなかった。まるで魔が通ったようだ。
腑に落ちない思いはそれから暫く続いたが、せっかくの休日だ、もやもやしてばかりいるのは勿体無い。気を取り直した草薙は、前日から下調べしておいたヒーローカフェへ向かい、そこで軽い昼食をとった。
いい歳をした大人がヒーロー好きなんて、他人が聞いたら呆れるかもしれないが、草薙はそれが好きだった。先ほど観てきた映画も子供に大人気の特撮ヒーローモノだ。
特別そのヒーローが好きと言うのではない。ヒーローという存在自体が好きなのだ。子供のときからの憧れで、その頃は自分もいつかヒーローになるんだと信じていた。
ヒーローになる方法は二つある。一つはオーデションを受けて、特撮ヒーローの主人公を演じる俳優になるという道。もう一つは、実際に弱き者、助けを求める者を救う職業に付くことだ。警察官や消防士、医者などがそれにあたるかもしれない。あいにくそのどれにもなれなかったが、何かのときに率先して助けに走れる、そういう人間でいたい。それが草薙の信条だった。
ヒーローカフェのあとはデパートの玩具売り場や、パソコンショップを回ってヒーロー玩具やゲームを物色した。夕食も外で済ませ、そのまま酒を飲む。そしてだいぶ過ごしてから店を出る。
時刻はすでに真夜中で、昼間交差点で少年を見かけてから十二時間が過ぎていた。
***
過ごしすぎた酒のせいか、少し足元がふらつく。久しぶりの休暇ではしゃぎ過ぎたらしい。酔いを醒まそうと、草薙は当てもなくふらふらと町を歩き出した。
ネオン輝く繁華街を彷徨っていると、どこかで怒鳴り声がする。真夜中の繁華街、酔っ払い同士の喧嘩など珍しくはない。最初は無視しようかと思った。しかし怒鳴る声は一人や二人ではないようだ。昼間見た映画の影響か、放ってはおけないという気になった草薙は、声のするほうへ歩きだす。
「ブッ殺されてえのか、ああ?」
突如、物騒な台詞が聞え、ギクリとして足を早める。
細くて暗い道には、小料理屋や怪しげなスタンドバー、屋台などが軒を連ねている。一流店が立ち並ぶ繁華街と違って、裏通りは如何わしい雰囲気に溢れ、どこか余所の国に来たかのようだ。道が狭い上に入組んでいて、声がどこからなのか、わかり難い。
ようやく声のする場所に行き当たると、あたりには外灯もなく薄暗かった。突き当りの薄暗い路地際に小さな稲荷の祠があり、大柄な男が四人、大声をあげ、拳を振り上げている。
男らに囲まれているのは、十二歳くらいに見える子供だった。暗い色のフード付きロングコートを着ている。昼間見たあの少年に似ている? ふとそう感じたが、その子は、昼間の少年より幼い感じがした。人違いかもしれない。
子供は、出来るだけダメージを軽減させようとしているのか、身体を丸めて蹲っていた。蹴られても泣き出さないところは凄いというか、根性だけはありそうだが、いかんせん多勢に無勢、さらに、大人と子供では相手にもならない。
「おい! なにをしてるんだ、やめろ!」
思わず叫ぶと、男たちが一斉に振り向く。一瞬ドキリとしたが、そこで引っ込むわけにもいかない。深酒の勢いも借り、草薙は男たちに向かって行った。
「子供相手に寄って集って、大人げないと思わないのか!」
「なんだテメエは?」
「引っ込んでろ! 殺すぞ!」
男たちは口々に罵る。だがそんな事で臆してもいられない。相手は子供だ、どんな事情があろうとも、悪いのは連中のほうだ。
「どういう事情か知らないが、子供相手に大の大人が四人がかり、卑怯だろ」
「うるせえんだよ、てめえ酔っ払いか?」
「怪我しねえうちにさっさと帰れ」
怖い物知らずに正論をかます草薙を、男たちは胡散臭そうに睨む。酒が入って気が大きくなっていた草薙も、負けずに睨み返した。気分は昼間見たヒーロー映画の主人公だ。
「ここらで止めておくのが、利口だぞ、今なら見逃してやる……」
しかし、思い上がった快進撃もそこまでだった。最後の決め台詞を言い終わらないうちに、先頭にいた男に殴り飛ばされる。
「なにふざけてんだ? すっこんでろっつったろ!」
男は怒鳴り、その後は袋叩きだ。腕には少し自信があったのだが、飲み過ぎた酒が災いしたらしい、身体は思うように動かない。
やられっぱなしで蹲る草薙を、男たちは容赦なく殴る。反撃のチャンスを窺いながら、草薙は子供の行方を捜した。
子供は、そこから数メートルと離れていない祠の前に立っていた。殴られ続ける草薙をじっと見ている。その瞳は、子供とは思えないほど冷たかった。無関心というよりは、憎まれてでもいるようだ。
だが恨みを買うような覚えはない。なにしろ、今日初めて会ったのだ。ではなんだと考えたが、繰り返される暴力に考えが纏まらない。やがて瞼も腫れ上がり、目視し難くなる。思考は麻痺し、身体も動かなくなった。
草薙が倒れると、男らは自らの勝利に酔った愉悦に浸る表情で捨て台詞を残し、再び子供に向かって行った。子供はコートのポケットに両手をいれたまま、つっ立っている。異様に落ち着きはらった表情で、動こうともしない。黒く濁った冷たい瞳だけが、ギラギラとして見えた。
その目はなんだ?
ふと感じた薄気味悪さを振り払うように、何度も同じ事を考えながら、草薙はそこで気を失った。
「大丈夫ですか?」
どこからか聞こえてきた声で再び目を開ける。瞼が腫れているので、半開きにしかならないが、声の相手を見返す。そこには一人の制服警官がいた。意識がはっきりしない。時間はだいぶ経っているようだ。辺りは明るくなり始めている。
「すみません、大丈夫です」
たいしたことはないと答えながら、よろよろと立ち上がる。
あの子はどうしただろう?
子供の行方を捜し、あたりを見回す。だがその姿はなく、その代わりのように、昨夜の連中だろう男たちが転がっていた。
なにがあった?
戸惑いながらも草薙は、中の一人に手をかける。ヒヤリと冷たく固い感触がして、血の気が引いた。
死んでいる。
咄嗟に、うつ伏せに倒れているそいつを引き起こすと、なにかが地面にポトリと落ちた。
なんだ?
何気なく目で追い、それが生々しく赤く濡れた、人の眼球だと気づいた。草薙と共に男を覗きこんでいた警官は、情けなく尻餅をつく。どうやら腰を抜かしたらしい。アワアワとわけのわからない声を発しながら後ずさった。
その隙に草薙はほかの男たちの様子も見て回った。倒れているのは三人、だが夕べはたしかもう一人いたはずだ。それに子供を入れれば、あと二人足らない。
「ちょっと、ダメですよ、勝手に現場を弄らないでください、なに探してるんですか?」
ようやく気を取り直したのか、立ち上がって来た警官が訪ねる。草薙は夕べのあらましを簡単に伝えた。
「夕べ、この現場にあと二人いた筈なんだよ、あんた見てないか?」
「二人ですか、そりゃ大変だ」
どれどれと身を乗り出して来た警官と一緒にあたりを探しまわる。そして祠の後ろ側で、四人目を見つけた。
「うわっ!」
それを見た警官が悲鳴をあげる。草薙も、思わず顔を顰めた。そいつは、祠に背を預け、座らされた形で、死んでいた。
抉られたのだろう両目には、L字型に曲がった細い金属の棒が突き立てられている。流れ出た血が、乾いた頬に筋を作っている。
「酷いな」
思わずと、そう呟きながら、男の様子を観察した。目のほかに、背中や腹など数ヶ所からの出血がある。裂かれた腹は血に染まり、黒く変色した臓物が見えた。
胸の傷と腹の傷、それに瞼、そのどれが最初につけられたものかはわからないが、おそらく犯人は、相手が絶命してからも傷つけ続けたに違いない。物凄い執念だ。もしくは怨念か、生半可な思いではこれほど酷く切り裂けないだろう。
「よく平気ですね」
警官は、遺体を観察する草薙に、眉を顰めて呟いた。
「あんたこそ、警官のくせに、そんなに臆病でどうするんだ」
怯えて尻込みする警官を余所に、草薙は他の遺体の様子も見て回った。みな数ヶ所を刺され、絶命しているようだ。致命傷は胸の傷あたりだろう。被害者四人のうち、三人は目を切られるか抉られるかしているが、残り一人の眼球は無事だ。それに、傷の数も他の三人に比べて少ない。殆ど一突きのように見える。
なぜだろう? そこに妙な違和感を持った。
「ああもう、勝手に触らないでください、現場を荒らすと公務執行妨害で逮捕しますよ!」
「ちょっと見てただけだよ」
「今触ってたでしょ、ほら、離れて!」
違和感の理由を探ろうとしたが、警官も職務だ、急に険しい表情で離れなさいと牽制する。つまらないことで逮捕勾留というのもちょっと困るので、草薙も渋々と被害者から離れた。
「これ、もう通報はしたのかい?」
「あ、まだだ」
「早くしたほうがいいんじゃない?」
「今しますよ!」
草薙の指摘で急に気づいたのか、警官は署へ連絡を入れようと慌てる。だが慣れない殺人事件のせいで気が動転したのか、手順を度忘れしたらしい。あたふたと懐を探るだけだ。その隙に、草薙はこそりとその場から立ち去った。
***
「酔っ払って喧嘩、挙句に骨折、なにやってるんだよお前は」
「喧嘩じゃないですよ」
大したことはないと思ったのだが、肋骨にヒビが入っていたらしい。仕方なく医者へ行った草薙を、友人の重田《しげた》は間抜けな奴と笑った。少しムッとしたが、彼は自分より十五も年上だ、とりあえずそれ以上の反論は止めた。
治療を終えると、重田はやれやれというように肩を竦め、総合病院の扉をくぐる。草薙もとぼとぼとその後に続いた。
分厚い硝子板一枚で仕切られた外の世界は、呆れるほど明るい。春先の空は明るく澄み、日差しのせいか、まだ三月だというのに、夏のように暑く感じられた。
こんな明るい世界にいると、今朝見た惨劇が嘘臭く思えてくる。サスペンス映画の予告編を見て来たような気分だ。
「まったく、これからってときになにやってんだか」
「すみませんね」
草薙はつい先日、小さな出版社の小さな賞を受賞して文庫本デビューを果たしたばかりの新人作家だった。物語はSFアクション物で、現代社会に暗躍する羅刹《らせつ》という名の鬼と人知れず戦い、世界を守ろうとする男の話だ。つまり草薙は、ヒーローになりたいという夢を、自分の書く物語の中で実現することにしたわけだ。
重田とは二年前、行きつけのバーで知り合った。元刑事だとかでいろいろと話を聞いているうち親しくなった。今も貴重なアドバイザー兼、保護者のようなものだ。
「ふん、まあいい、ところで、お前、本当になにも見てないのか?」
「なにをですか?」
「犯人をだよ、決まってんだろ」
「見てませんよ、俺はその前に気を失ってたし、気づいたら全員殺されてた」
「チッ、しょうがねえな」
少しでもなにか見ていれば、次回作のヒントになるだろうにと、重田は渋い顔だ。自分としても惜しいことをしたとは思う。だが一応遺体の様子は見れたし、あれ以上はさすがに無理だ。公務執行妨害で逮捕なんて洒落ならないし、下手すると、犯人扱いされてしまう。第一発見者が犯人なんて、よくある話だ。
「で? そのガキはどうしたよ?」
「え?」
「えじゃねえよ、お前が庇ったとかいうガキだよ、いたのか?」
「いや、それは……」
「なにやってんだよ」
続けざまにぼやかれ、草薙は頭を掻いた。元刑事だけあって、重田はこういう話にうるさい。しかし、こちらはただの小説書きで、探偵でも警官でもない。おまけに怪我人だ。たしかに、あの子供のことは気になるが現場を観察できただけでも褒めて欲しいくらいだと思った。
「あれ……?」
「どうした?」
「ああ、いや……」
腐りながらもふと、昨夜の子供のことを思い返そうとしたのだが、どうしたことか、その顔が思い出せない。
かなり大きめのロングコートを着ていたのは覚えている。だがどんな顔だったのかまでは思い出せない。
背格好は、小六から中学入りたてくらいだったと思う。思うが、具体的な顔は出てこない。
「なんでもないです」
犯人を見ていないどころか、庇ったはずの子供の顔も覚えていないと話したら、また大げさにぼやかれそうだと思い、草薙は言葉を濁した。
「しかしまあ、お前も呑気に気絶してたお陰で死なずに済んだってこった、よかったな」
「僕はいいですよ、でもあの子が心配だ」
だいたい小学生が外に出歩く時間ではなかった。しかもあんな繁華街の路地裏、一人でいること自体おかしい。もしかしたら家出少年かもしれない。いや、あの状況だ、誘拐ということも考えられる。
「誘拐かもしれないとは思いませんか?」
「ならお前を殴った連中が誘拐犯か? じゃあそいつらは誰が殺したんだ、まさかそのガキじゃねえだろ」
「当たり前じゃないですか」
「じゃあ誰だ?」
「もしかしたら、正義の味方じゃないですかね、密かに活躍しているヒーローが、子供を助けたとか」
「漫画じゃねえぞ、だいたい子供を助けるためなら人を殺してもいいのか? そんなのヒーローじゃねえよ」
「……ですね」
テレビのヒーローは、子供たちが狙われているとわかれば、相手の怪人を容赦なく倒す。命を奪うのはよくないと、怪人を逃がしてやるヒーローはいない。
だがそれはあくまでも子供向けヒーローアニメや特撮での話で、実際はそう出来ない。
しかも、相手は正体不明の怪人ではなく、人間だ。子供を助けるためとはいえ、殺すわけにはいかない。それは殺人だ。
草薙もそれはわかっていた。だがどこかで割り切れない。
もしも本当に、そいつが極悪人で、そいつを殺さなければ自分の大事な人が殺されるとわかっているなら、どう働きかけても改心など絶対にしないとわかっているなら、殺《や》るしかないのではないのか? たとえそれが犯罪になるとしても、悪を蔓延らせるよりはずっといい。
頭ではそう思った。しかしおおっぴらに殺人を肯定するわけにもいかない。それに、犯人がヒーローとは限らない。
「重田さんは、この事件の犯人はどんな奴だと思いますか?」
思わず聞いたのは、物書きの性か、元刑事だという男の見解を聞いてみたくなったのだ。
「人殺しの考えてることなんか俺にわかるかよ」
すると重田は急に不機嫌になり、ぷいと横を向いた。気のせいか、妙に落ち着きがなく見える。手持無沙汰に片手をポケットに突っ込み、煙草を探すふりだ。
「もしかして、なんか知ってるんですか?」
「なんでそう思うよ?」
「そりゃ長年の付き合いですからね」
なにか気になることがあるとき、なにか隠しているとき、重田は不機嫌になる。自分からは決して言い出さないが、なにがあったかを聞いて欲しいのだ。大抵の場合、突けばすぐに話し出す。
「犯人について、なにか知ってるんでしょ? 教えてくださいよ」
聞けば次回作のヒントにもなるかもしれないでしょうと迫ると、重田は微妙に視線を上げ、暫く間をおいてから口を開いた。
「お前、FOX事件って知ってるか?」
「FOX? 狐ですか? いえ」
知りませんと答えると、重田は少し躊躇うように視線を泳がせ、、歩道の先に見えたコーヒーショップを指した。
「ここじゃなんだ、そこで話そう」
「はい」
草薙もあとに続き、店の中で一番奥まった静かな席を陣取る。重田は席について早々、珈琲を注文し、それが来るまで黙って煙草を吹かし続けた。たぶん、他人に聞かれたくない話なのだろう、草薙が早く話してくださいよとせっついても聞こえないふりだ。そして案の定、ウエイトレスが珈琲を運んで来て立ち去ってから、おもむろに身を乗り出した。
「いいか、これは俺が内々で聞いた話だ、誰にも話すなよ」
「わかりました」
重田が内々に聞いた相手というのは、おそらく昔の同僚、現役の刑事だろう。これはかなり核心に触れる話に違いないと、草薙も息を飲む。重田はまだ湯気を立てている淹れたての珈琲を机の端に追いやり、低い声で話しだした。
「北新宿無差別連続殺人事件、通称FOX事件、被害者数は今年に入ってすでに七人、いや、お前が遭遇した連中も入れれば十一人になる」
FOX事件の被害者は男女半々、年齢も二十代から五十代と幅広い。交友関係を洗ってみても、これといった接点はなく、共通点といえば、殺し方くらいだ。捜査も難航しているらしい。
被害者はすべて、刺殺。それも、何度も何度も執拗に刺されている。浅い傷も数多く、絶命までにはそれなりに時間がかかったと思われる。
直接の死因は、腹や顔面を大きく切り裂いたことによるショック死、失血死だが、それよりも、猟奇的設えが注目された。
内臓が地面に飛び散るほど切り裂かれていたり、目玉が刳り貫かれていたりと、いちいちセンセーショナルだ。現場はいずれも被害者の血で真っ赤に染まっていて、酷い有り様だったらしい。
だが不思議なことに、それほどの失血を伴う残虐な殺害方法にも関わらず、目撃情報がほとんど出ていない。
遺体の様子からして、犯人はそうとう返り血を浴びているはずだ。それが誰にも目撃されていないというのは腑に落ちない。捜査関係者の間でも、犯人は超能力者か幽霊かと、冗談めかして囁かれていると、重田は話した。
それだけ聞くと、手口はたしかに夕べの事件とよく似ている。いや、ソノモノだ。
FOX事件の手口が世間に知れ渡っていれば、模倣犯という考え方もありだが、事件自体のことはともかく、被害者の目が抉られていることが多いという話は報道に載せていないらしい。実際、草薙も知らなかった。
となると、夕べのあれも、FOXである可能性は高い。
「じゃあもしかしたら夕べあそこにFOXが来たかもってことですか?」
「ああ、かもな」
「え、ぇ、でも、じゃあなんで……」
なんでFOXは自分を殺されなかったのだろう? 草薙がそう言いかけると、重田も小さく頷いた。どうやら同じことを考えたらしい。
「そうさ、なんでFOXはお前を殺さなかった? それは標的じゃあなかったからじゃないのか?」
久しぶりの休日を、満喫し、映画館から出てきた草薙は、出口横にある看板につま先をぶつけ、小さく舌打ちをした。一か月前から楽しみにしていた映画は大満足の出来映えで、鼻歌交じりに飛び出してきた矢先だ。暗い上映室からいきなり野外に出たので、明るさに目が眩んだのかもしれない。
「ついてないな」
新調したばかりの白いバッシュに黒い筋がついた。傷になっているかもしれない。確認しようと草薙は身を屈める。指でそっと擦ってみると、筋は少し滲んで薄くなる。どうやら看板についた汚れが移っただけのようだ。これなら洗えば落ちるだろう。気を取り直し、顔を上げた。その瞬間、風が頬を通り抜けた。
「え……?」
それは妙にくすぐったい感覚で、草薙はきょろきょろとあたりを見回した。
行き交う見知らぬ人々、華やいだ明るい街並み。見慣れたごく普通の光景だ。だがそのありふれた景色の中に一つ、小さな異物があるのを見つけた。それは薄汚れたカーキ色のフード付きロングコートを着た少年だ。
少年はスクランブル交差点の端にある時計台に背を預け、町行く人々の群れを見ていた。だがその視線には一片の同情もなく、酷く冷たい。三月だというのに、彼の周りだけ真冬のようだ。
暦の上では春、まだまだ寒い日はあるが、今日は小春日和で暖かい。気温は十七度を上回っている。草薙も浮かれて白いバッシュを下ろした。気の早い者は半袖だというのに、ロングコートは不自然だ。この気温であれでは、中で大汗だろう。
何者だ?
つい注目して見つめた。すると少年は視線に気づき、僅かに表情を変えた。眉が少し歪んだ程度の小さな変化だが、元が無表情だったので、その意味はストレートに伝わる。
お前も死ぬか?
憎しみの籠った目が、そう囁いているように見えた。ドキリとして、心臓が凍り付く。冷たい汗が背中を伝い、真昼だというのに、あたりが薄暗くなった気がした。
カーキ色のコートを羽織った少年は、フードを目深に被り、顔は半分以上隠れている。どんな顔をしているかなどわからない……はずだ。
だがその憎しみだけはヒシと伝わった。少年の憎しみで世界が歪んで見える。
目を開けたまま夢を見ているような、悪夢に魘され、目覚める寸前のような嫌な感じがして、草薙は瞬きを繰り返した。そして、何度目かの瞬きのあと、少年の姿がないことに気づいた。
目を離していたのは一瞬だ、その一瞬で、彼は消えた。そんな馬鹿なとあたりを見回す。だがざわめく雑踏のどこにも、彼の姿はなかった。まるで魔が通ったようだ。
腑に落ちない思いはそれから暫く続いたが、せっかくの休日だ、もやもやしてばかりいるのは勿体無い。気を取り直した草薙は、前日から下調べしておいたヒーローカフェへ向かい、そこで軽い昼食をとった。
いい歳をした大人がヒーロー好きなんて、他人が聞いたら呆れるかもしれないが、草薙はそれが好きだった。先ほど観てきた映画も子供に大人気の特撮ヒーローモノだ。
特別そのヒーローが好きと言うのではない。ヒーローという存在自体が好きなのだ。子供のときからの憧れで、その頃は自分もいつかヒーローになるんだと信じていた。
ヒーローになる方法は二つある。一つはオーデションを受けて、特撮ヒーローの主人公を演じる俳優になるという道。もう一つは、実際に弱き者、助けを求める者を救う職業に付くことだ。警察官や消防士、医者などがそれにあたるかもしれない。あいにくそのどれにもなれなかったが、何かのときに率先して助けに走れる、そういう人間でいたい。それが草薙の信条だった。
ヒーローカフェのあとはデパートの玩具売り場や、パソコンショップを回ってヒーロー玩具やゲームを物色した。夕食も外で済ませ、そのまま酒を飲む。そしてだいぶ過ごしてから店を出る。
時刻はすでに真夜中で、昼間交差点で少年を見かけてから十二時間が過ぎていた。
***
過ごしすぎた酒のせいか、少し足元がふらつく。久しぶりの休暇ではしゃぎ過ぎたらしい。酔いを醒まそうと、草薙は当てもなくふらふらと町を歩き出した。
ネオン輝く繁華街を彷徨っていると、どこかで怒鳴り声がする。真夜中の繁華街、酔っ払い同士の喧嘩など珍しくはない。最初は無視しようかと思った。しかし怒鳴る声は一人や二人ではないようだ。昼間見た映画の影響か、放ってはおけないという気になった草薙は、声のするほうへ歩きだす。
「ブッ殺されてえのか、ああ?」
突如、物騒な台詞が聞え、ギクリとして足を早める。
細くて暗い道には、小料理屋や怪しげなスタンドバー、屋台などが軒を連ねている。一流店が立ち並ぶ繁華街と違って、裏通りは如何わしい雰囲気に溢れ、どこか余所の国に来たかのようだ。道が狭い上に入組んでいて、声がどこからなのか、わかり難い。
ようやく声のする場所に行き当たると、あたりには外灯もなく薄暗かった。突き当りの薄暗い路地際に小さな稲荷の祠があり、大柄な男が四人、大声をあげ、拳を振り上げている。
男らに囲まれているのは、十二歳くらいに見える子供だった。暗い色のフード付きロングコートを着ている。昼間見たあの少年に似ている? ふとそう感じたが、その子は、昼間の少年より幼い感じがした。人違いかもしれない。
子供は、出来るだけダメージを軽減させようとしているのか、身体を丸めて蹲っていた。蹴られても泣き出さないところは凄いというか、根性だけはありそうだが、いかんせん多勢に無勢、さらに、大人と子供では相手にもならない。
「おい! なにをしてるんだ、やめろ!」
思わず叫ぶと、男たちが一斉に振り向く。一瞬ドキリとしたが、そこで引っ込むわけにもいかない。深酒の勢いも借り、草薙は男たちに向かって行った。
「子供相手に寄って集って、大人げないと思わないのか!」
「なんだテメエは?」
「引っ込んでろ! 殺すぞ!」
男たちは口々に罵る。だがそんな事で臆してもいられない。相手は子供だ、どんな事情があろうとも、悪いのは連中のほうだ。
「どういう事情か知らないが、子供相手に大の大人が四人がかり、卑怯だろ」
「うるせえんだよ、てめえ酔っ払いか?」
「怪我しねえうちにさっさと帰れ」
怖い物知らずに正論をかます草薙を、男たちは胡散臭そうに睨む。酒が入って気が大きくなっていた草薙も、負けずに睨み返した。気分は昼間見たヒーロー映画の主人公だ。
「ここらで止めておくのが、利口だぞ、今なら見逃してやる……」
しかし、思い上がった快進撃もそこまでだった。最後の決め台詞を言い終わらないうちに、先頭にいた男に殴り飛ばされる。
「なにふざけてんだ? すっこんでろっつったろ!」
男は怒鳴り、その後は袋叩きだ。腕には少し自信があったのだが、飲み過ぎた酒が災いしたらしい、身体は思うように動かない。
やられっぱなしで蹲る草薙を、男たちは容赦なく殴る。反撃のチャンスを窺いながら、草薙は子供の行方を捜した。
子供は、そこから数メートルと離れていない祠の前に立っていた。殴られ続ける草薙をじっと見ている。その瞳は、子供とは思えないほど冷たかった。無関心というよりは、憎まれてでもいるようだ。
だが恨みを買うような覚えはない。なにしろ、今日初めて会ったのだ。ではなんだと考えたが、繰り返される暴力に考えが纏まらない。やがて瞼も腫れ上がり、目視し難くなる。思考は麻痺し、身体も動かなくなった。
草薙が倒れると、男らは自らの勝利に酔った愉悦に浸る表情で捨て台詞を残し、再び子供に向かって行った。子供はコートのポケットに両手をいれたまま、つっ立っている。異様に落ち着きはらった表情で、動こうともしない。黒く濁った冷たい瞳だけが、ギラギラとして見えた。
その目はなんだ?
ふと感じた薄気味悪さを振り払うように、何度も同じ事を考えながら、草薙はそこで気を失った。
「大丈夫ですか?」
どこからか聞こえてきた声で再び目を開ける。瞼が腫れているので、半開きにしかならないが、声の相手を見返す。そこには一人の制服警官がいた。意識がはっきりしない。時間はだいぶ経っているようだ。辺りは明るくなり始めている。
「すみません、大丈夫です」
たいしたことはないと答えながら、よろよろと立ち上がる。
あの子はどうしただろう?
子供の行方を捜し、あたりを見回す。だがその姿はなく、その代わりのように、昨夜の連中だろう男たちが転がっていた。
なにがあった?
戸惑いながらも草薙は、中の一人に手をかける。ヒヤリと冷たく固い感触がして、血の気が引いた。
死んでいる。
咄嗟に、うつ伏せに倒れているそいつを引き起こすと、なにかが地面にポトリと落ちた。
なんだ?
何気なく目で追い、それが生々しく赤く濡れた、人の眼球だと気づいた。草薙と共に男を覗きこんでいた警官は、情けなく尻餅をつく。どうやら腰を抜かしたらしい。アワアワとわけのわからない声を発しながら後ずさった。
その隙に草薙はほかの男たちの様子も見て回った。倒れているのは三人、だが夕べはたしかもう一人いたはずだ。それに子供を入れれば、あと二人足らない。
「ちょっと、ダメですよ、勝手に現場を弄らないでください、なに探してるんですか?」
ようやく気を取り直したのか、立ち上がって来た警官が訪ねる。草薙は夕べのあらましを簡単に伝えた。
「夕べ、この現場にあと二人いた筈なんだよ、あんた見てないか?」
「二人ですか、そりゃ大変だ」
どれどれと身を乗り出して来た警官と一緒にあたりを探しまわる。そして祠の後ろ側で、四人目を見つけた。
「うわっ!」
それを見た警官が悲鳴をあげる。草薙も、思わず顔を顰めた。そいつは、祠に背を預け、座らされた形で、死んでいた。
抉られたのだろう両目には、L字型に曲がった細い金属の棒が突き立てられている。流れ出た血が、乾いた頬に筋を作っている。
「酷いな」
思わずと、そう呟きながら、男の様子を観察した。目のほかに、背中や腹など数ヶ所からの出血がある。裂かれた腹は血に染まり、黒く変色した臓物が見えた。
胸の傷と腹の傷、それに瞼、そのどれが最初につけられたものかはわからないが、おそらく犯人は、相手が絶命してからも傷つけ続けたに違いない。物凄い執念だ。もしくは怨念か、生半可な思いではこれほど酷く切り裂けないだろう。
「よく平気ですね」
警官は、遺体を観察する草薙に、眉を顰めて呟いた。
「あんたこそ、警官のくせに、そんなに臆病でどうするんだ」
怯えて尻込みする警官を余所に、草薙は他の遺体の様子も見て回った。みな数ヶ所を刺され、絶命しているようだ。致命傷は胸の傷あたりだろう。被害者四人のうち、三人は目を切られるか抉られるかしているが、残り一人の眼球は無事だ。それに、傷の数も他の三人に比べて少ない。殆ど一突きのように見える。
なぜだろう? そこに妙な違和感を持った。
「ああもう、勝手に触らないでください、現場を荒らすと公務執行妨害で逮捕しますよ!」
「ちょっと見てただけだよ」
「今触ってたでしょ、ほら、離れて!」
違和感の理由を探ろうとしたが、警官も職務だ、急に険しい表情で離れなさいと牽制する。つまらないことで逮捕勾留というのもちょっと困るので、草薙も渋々と被害者から離れた。
「これ、もう通報はしたのかい?」
「あ、まだだ」
「早くしたほうがいいんじゃない?」
「今しますよ!」
草薙の指摘で急に気づいたのか、警官は署へ連絡を入れようと慌てる。だが慣れない殺人事件のせいで気が動転したのか、手順を度忘れしたらしい。あたふたと懐を探るだけだ。その隙に、草薙はこそりとその場から立ち去った。
***
「酔っ払って喧嘩、挙句に骨折、なにやってるんだよお前は」
「喧嘩じゃないですよ」
大したことはないと思ったのだが、肋骨にヒビが入っていたらしい。仕方なく医者へ行った草薙を、友人の重田《しげた》は間抜けな奴と笑った。少しムッとしたが、彼は自分より十五も年上だ、とりあえずそれ以上の反論は止めた。
治療を終えると、重田はやれやれというように肩を竦め、総合病院の扉をくぐる。草薙もとぼとぼとその後に続いた。
分厚い硝子板一枚で仕切られた外の世界は、呆れるほど明るい。春先の空は明るく澄み、日差しのせいか、まだ三月だというのに、夏のように暑く感じられた。
こんな明るい世界にいると、今朝見た惨劇が嘘臭く思えてくる。サスペンス映画の予告編を見て来たような気分だ。
「まったく、これからってときになにやってんだか」
「すみませんね」
草薙はつい先日、小さな出版社の小さな賞を受賞して文庫本デビューを果たしたばかりの新人作家だった。物語はSFアクション物で、現代社会に暗躍する羅刹《らせつ》という名の鬼と人知れず戦い、世界を守ろうとする男の話だ。つまり草薙は、ヒーローになりたいという夢を、自分の書く物語の中で実現することにしたわけだ。
重田とは二年前、行きつけのバーで知り合った。元刑事だとかでいろいろと話を聞いているうち親しくなった。今も貴重なアドバイザー兼、保護者のようなものだ。
「ふん、まあいい、ところで、お前、本当になにも見てないのか?」
「なにをですか?」
「犯人をだよ、決まってんだろ」
「見てませんよ、俺はその前に気を失ってたし、気づいたら全員殺されてた」
「チッ、しょうがねえな」
少しでもなにか見ていれば、次回作のヒントになるだろうにと、重田は渋い顔だ。自分としても惜しいことをしたとは思う。だが一応遺体の様子は見れたし、あれ以上はさすがに無理だ。公務執行妨害で逮捕なんて洒落ならないし、下手すると、犯人扱いされてしまう。第一発見者が犯人なんて、よくある話だ。
「で? そのガキはどうしたよ?」
「え?」
「えじゃねえよ、お前が庇ったとかいうガキだよ、いたのか?」
「いや、それは……」
「なにやってんだよ」
続けざまにぼやかれ、草薙は頭を掻いた。元刑事だけあって、重田はこういう話にうるさい。しかし、こちらはただの小説書きで、探偵でも警官でもない。おまけに怪我人だ。たしかに、あの子供のことは気になるが現場を観察できただけでも褒めて欲しいくらいだと思った。
「あれ……?」
「どうした?」
「ああ、いや……」
腐りながらもふと、昨夜の子供のことを思い返そうとしたのだが、どうしたことか、その顔が思い出せない。
かなり大きめのロングコートを着ていたのは覚えている。だがどんな顔だったのかまでは思い出せない。
背格好は、小六から中学入りたてくらいだったと思う。思うが、具体的な顔は出てこない。
「なんでもないです」
犯人を見ていないどころか、庇ったはずの子供の顔も覚えていないと話したら、また大げさにぼやかれそうだと思い、草薙は言葉を濁した。
「しかしまあ、お前も呑気に気絶してたお陰で死なずに済んだってこった、よかったな」
「僕はいいですよ、でもあの子が心配だ」
だいたい小学生が外に出歩く時間ではなかった。しかもあんな繁華街の路地裏、一人でいること自体おかしい。もしかしたら家出少年かもしれない。いや、あの状況だ、誘拐ということも考えられる。
「誘拐かもしれないとは思いませんか?」
「ならお前を殴った連中が誘拐犯か? じゃあそいつらは誰が殺したんだ、まさかそのガキじゃねえだろ」
「当たり前じゃないですか」
「じゃあ誰だ?」
「もしかしたら、正義の味方じゃないですかね、密かに活躍しているヒーローが、子供を助けたとか」
「漫画じゃねえぞ、だいたい子供を助けるためなら人を殺してもいいのか? そんなのヒーローじゃねえよ」
「……ですね」
テレビのヒーローは、子供たちが狙われているとわかれば、相手の怪人を容赦なく倒す。命を奪うのはよくないと、怪人を逃がしてやるヒーローはいない。
だがそれはあくまでも子供向けヒーローアニメや特撮での話で、実際はそう出来ない。
しかも、相手は正体不明の怪人ではなく、人間だ。子供を助けるためとはいえ、殺すわけにはいかない。それは殺人だ。
草薙もそれはわかっていた。だがどこかで割り切れない。
もしも本当に、そいつが極悪人で、そいつを殺さなければ自分の大事な人が殺されるとわかっているなら、どう働きかけても改心など絶対にしないとわかっているなら、殺《や》るしかないのではないのか? たとえそれが犯罪になるとしても、悪を蔓延らせるよりはずっといい。
頭ではそう思った。しかしおおっぴらに殺人を肯定するわけにもいかない。それに、犯人がヒーローとは限らない。
「重田さんは、この事件の犯人はどんな奴だと思いますか?」
思わず聞いたのは、物書きの性か、元刑事だという男の見解を聞いてみたくなったのだ。
「人殺しの考えてることなんか俺にわかるかよ」
すると重田は急に不機嫌になり、ぷいと横を向いた。気のせいか、妙に落ち着きがなく見える。手持無沙汰に片手をポケットに突っ込み、煙草を探すふりだ。
「もしかして、なんか知ってるんですか?」
「なんでそう思うよ?」
「そりゃ長年の付き合いですからね」
なにか気になることがあるとき、なにか隠しているとき、重田は不機嫌になる。自分からは決して言い出さないが、なにがあったかを聞いて欲しいのだ。大抵の場合、突けばすぐに話し出す。
「犯人について、なにか知ってるんでしょ? 教えてくださいよ」
聞けば次回作のヒントにもなるかもしれないでしょうと迫ると、重田は微妙に視線を上げ、暫く間をおいてから口を開いた。
「お前、FOX事件って知ってるか?」
「FOX? 狐ですか? いえ」
知りませんと答えると、重田は少し躊躇うように視線を泳がせ、、歩道の先に見えたコーヒーショップを指した。
「ここじゃなんだ、そこで話そう」
「はい」
草薙もあとに続き、店の中で一番奥まった静かな席を陣取る。重田は席について早々、珈琲を注文し、それが来るまで黙って煙草を吹かし続けた。たぶん、他人に聞かれたくない話なのだろう、草薙が早く話してくださいよとせっついても聞こえないふりだ。そして案の定、ウエイトレスが珈琲を運んで来て立ち去ってから、おもむろに身を乗り出した。
「いいか、これは俺が内々で聞いた話だ、誰にも話すなよ」
「わかりました」
重田が内々に聞いた相手というのは、おそらく昔の同僚、現役の刑事だろう。これはかなり核心に触れる話に違いないと、草薙も息を飲む。重田はまだ湯気を立てている淹れたての珈琲を机の端に追いやり、低い声で話しだした。
「北新宿無差別連続殺人事件、通称FOX事件、被害者数は今年に入ってすでに七人、いや、お前が遭遇した連中も入れれば十一人になる」
FOX事件の被害者は男女半々、年齢も二十代から五十代と幅広い。交友関係を洗ってみても、これといった接点はなく、共通点といえば、殺し方くらいだ。捜査も難航しているらしい。
被害者はすべて、刺殺。それも、何度も何度も執拗に刺されている。浅い傷も数多く、絶命までにはそれなりに時間がかかったと思われる。
直接の死因は、腹や顔面を大きく切り裂いたことによるショック死、失血死だが、それよりも、猟奇的設えが注目された。
内臓が地面に飛び散るほど切り裂かれていたり、目玉が刳り貫かれていたりと、いちいちセンセーショナルだ。現場はいずれも被害者の血で真っ赤に染まっていて、酷い有り様だったらしい。
だが不思議なことに、それほどの失血を伴う残虐な殺害方法にも関わらず、目撃情報がほとんど出ていない。
遺体の様子からして、犯人はそうとう返り血を浴びているはずだ。それが誰にも目撃されていないというのは腑に落ちない。捜査関係者の間でも、犯人は超能力者か幽霊かと、冗談めかして囁かれていると、重田は話した。
それだけ聞くと、手口はたしかに夕べの事件とよく似ている。いや、ソノモノだ。
FOX事件の手口が世間に知れ渡っていれば、模倣犯という考え方もありだが、事件自体のことはともかく、被害者の目が抉られていることが多いという話は報道に載せていないらしい。実際、草薙も知らなかった。
となると、夕べのあれも、FOXである可能性は高い。
「じゃあもしかしたら夕べあそこにFOXが来たかもってことですか?」
「ああ、かもな」
「え、ぇ、でも、じゃあなんで……」
なんでFOXは自分を殺されなかったのだろう? 草薙がそう言いかけると、重田も小さく頷いた。どうやら同じことを考えたらしい。
「そうさ、なんでFOXはお前を殺さなかった? それは標的じゃあなかったからじゃないのか?」