「ゼノが迷ってる、キミはそう思うんだね」
「そうよ」
「なぜ迷ってるのか、それもわかってるのか?」
「だから! あんたのせいだって……!」
「俺のせい? 俺がなにをした? なんでゼノは迷ってる?」
 確信をもって問い詰めた。それにフィーンはさっきよりもずっと辛そうに叫び返して来る。
「あんたが優しくするから!」
「優しくって……」
「中途半端に甘えさせないで、優しくなんかしないでよ! どうせ最後は見捨てるくせに!」
「なんでっ……見捨てたりなんかしない、俺はゼノを助けたいんだ、護りたいんだよ、いやゼノだけじゃない、キミが苦しいなら、キミのことも助けたい」
「あたしを助ける? ふざけないで、出来るわけないでしょ」
「出来る、いや、少なくとも、出来るだけのことはする、本当だ」
「出来るだけ? なにそれ、できるとこだけやって、出来なくなったらやめるってこと? 同じじゃない、あんたもっ!」
 草薙の言葉に、彼女は激昂した。震わせ叫ぶ姿に怒りと哀しみと人恋しさが滲んでいる。胸が痛んだ。
「違う! 見捨てたりなんか……ぇ」
 キミを護ると言おうとして、途中で重大なことに気づいた。彼女の語尾だ。彼女の真実憎む者、その原動力、それがなんなのかがその先の言葉に隠されている。そう思った途端、物書きの悪い癖が顔を出した。
 知ることですべてが壊れるとしても、それを知りたい。
「同じって、なにと……?」
 黒い塊が胸に閊えている。飲み込み損ねた餅が食道あたりに詰まっているかのような嫌な感覚を意識しながら、かろうじて問い返す。その問に、フィーンは冷たく答えた。

「ラウ……」

「ラウ? なんだそれは?」
「わからない? そうでしょうね、あんたはなんにも見てないんだから」
「何もって、なにを……?」
「すべてよ、世界だわ」
「世界……? どういう意味だ? つまりキミはキミを苦しめた世界に復讐しているってことか?」
「復讐? バカ言わないで、これは制裁、審判であり警告よ、命が惜しければ、今すぐ悔い改めること、でもラウはバカだからそれが出来ない、殺すしかないでしょ?」
 殺すとはっきり口にしながら、それでも彼女は悔いているように見えた。続く言葉も自身への言い訳のように聞こえる。
「仕方ないでしょ、自分たちが悪いのよ、やり直せるチャンスはいくらでもあったはずよ、それが出来ないならアメーバと同じ、生きる価値ないわ」
「価値なんて、そんなのキミが決めることじゃないぞ、キミにとっては無価値でも、誰かにとっては大切な人かもしれない、キミにそれを奪う権利はないだろ」
「説教する気? ふざけないで、あんたになにがわかるっての!」

 髪を振り乱し、フィーンは叫ぶ。正論が通用する相手とは最初から思っていなかったが、少しでもわかって欲しいと願った。散々苦しい思いをし、世の理不尽に泣いて来た者が、今度は別の理不尽を自分が生んでしまうなんて、救いがなさすぎる。
「キミは自分が間違っているとわかってるんだ、そうだろ?」
「バカなの? あたしは間違ってなんかない」
「いいや、間違ってる、キミはそれを知ってる」
「知らないわよ!」
「知ってるよ、少なくともオウガやゼノはわかってる、それはキミもわかってる、そうだろ」
「ふざけないで!」
 彼女の髪は怒鳴り声とともにが赤く燃え舞い上がっていった。風も吹いていないのに蠢き踊る髪は、その一筋ひとすじが意思を持つ別の生き物のようだ。邪悪なまでに生き生きとうねり、踊り狂う。
「あんたが余計なことするから、ゼノを惑わすから、全てぶち壊しだわ! 善人ぶって餌と寝床さえ与えとけばおとなしくしてると思ってんでしょ、偽善者!」
「違う! 俺はただゼノを護ってやりたいと思っただけだ」
「護る? は、今更? そういうのを手遅れって言うのよ!」
「手遅れなもんか、キミだって、今からでも遅くはない、もうやめよう」
 草薙は、自分が必ず助けになるからもうやめようと必死に話した。しかしフィーンは聞かない。激昂し、あんたさえいなければと襲い掛かってくる。だがそこに最初の勢いはなかった。
 もしかしたら、彼女らの行動理念が分かれ始めているのが原因かもしれない。
 下調べをし、お膳立てを整えるのがゼノの役目。対象を威圧し、足止めするのがオウガの役目。そして実際手を下すのがフィーンだとしたら、二人を欠いたフィーンには目的を遂げる力が足りないことになる。今この場面でオウガが助成しないとなれば……。
 そこまで考えてふと、気づいた。
 オウガはどこだ?
 感じた疑問を、草薙は無意識に、躊躇いなく口にした。
「オウガは? 彼は今どこに?」
 襲い掛かって来るフィーンの手首を取り、瞳を合わせて真剣に訊ねた。フィーンは草薙の手を逃れようともがく。それでも離さずにいると、彼女は呼吸を荒げ、全身を震わせた。
 ヒステリックに我儘に身を捩って叫ぶ姿は、癇癪を起した幼児同然だ。そこには言えばわかるという大人同士の常識、理屈は入り込めそうもない。
 仕方がないので、要点だけを聞こうと草薙は暴れるフィーンを押さえ付けながら問いただした。
「オウガどこだ?」
「どこ? さあね、地獄じゃないかしら」
 必死の問いに、フィーンはニヤリと口の端を上げて答えた。その答えに草薙は息を飲む。
 まさか……。
 死んだのか? いや、彼は精神体なのだから、それは死でなく、成仏というべきなのだろうが、そうとも思えない。あえて言うなら除霊、もしくは消滅、とか?
 あれこれ考えを巡らせながらも、チラチラとフィーンの表情を追う。彼女は笑っていた。口角を吊り上げ、自分の夢が全て叶ったかのように嬉々とした、不気味な笑みを浮かべていた。背筋に冷たい汗が流れる。
「……キミが?」
 息を飲み、慄きながら訪ねると、彼女は蛇のような目をしてニタリと笑った。不気味さに手の力も抜ける。それを無にせず、彼女は離れた。大きく手を振り草薙の手を逃れ、壁際まで下がる。
「そうよ、ウザいことばっか言うし、邪魔だから消えてもらったの」
 彼女は人差し指を翳し、得意げにそう話した。瞳を見開いて満面の笑みだ。だが少しも嬉しそうではない。
 顔の表面に張りついたような笑みは、べろりと皮膚一枚剥ぎ取ったその下に、爛れた体液と血の滲んだ泣き顔が見えるようで、いっそう不気味だ。

 彼女の言う事が本当なら、彼女は自身の半身を殺したのだ。無粋で獰猛な刃で己が半身を切り離した。切り落とされた半身は、自分自身かもしれない。それでもそうした。そうせざるを得なかった。それだけ、彼女の闇は深いのだ。
 私の勝ちよと高らかに笑う少女は、血塗れでありながらどこまでも美しかった。舞い上がる長い髪も、血のように赤い瞳も、白い肌も、どれをとっても地上ものとは思われない。まるで「魔」だ。その首を刈り取り、天上の神殿に飾ってしかるべき美。その美に、草薙も見惚れた。
 ゼノはこの美に魅せられたのだ。彼女のためなら自分を殺してもいいと、全世界を敵にしても、彼女以外の全てを地獄に堕すとしても、その望みを叶えてやりたい。そう願ったのだ。
 それは確信だった。そうに違いない、そうとしか思えない。なぜなら、自分もそう思ってしまったからだ。それで彼女が楽になるなら、彼女の望みが叶うなら、ここで殺されてやってもいい。そんな思いが胸の中に巣食い、疼く。
 だがそれこそが偽善、欺瞞だ。そんなことで彼女は救われない。
「それで? どうするつもりだ? ゼノは消えた、オウガも消した、キミ一人だ、それでいいのか? それが望みだったのか?」
「違うわ、これは通過点よ、本番はこれから、あんたも世界も全部ぶち壊してやるわ、見てなさい」
「バカ言え、キミはマークされてる、ゼノとオウガなしで何が出来る、警察だって馬鹿じゃない、すぐに捕まるぞ」
「なら殺すまでよ、あたしの邪魔をするなら警察だろうとなんだろうとブチ殺す、みんな地獄で後悔すればいいんだわ」
「出来るわけないだろ!」
 彼女になら出来るのかもしれない。半分そう思いながら、全力で否定した。彼女もそれを全力で否定する。
「出来るわよ!」
「無理だって、もし出来たとしても、上手くなんか行かないぞ、すぐ捕まる」
「出来るって言ってんでしょ!」
 瞳を固く閉じ、はち切れそうな表情で彼女は叫んだ。その必死さに胸が痛む。なにがどうなってもいい、すべて彼女の思い通りになって欲しい。思わずとそう願った。
 俯き加減のフィーンの身体は、ふるふると大きく震えている。 怯えているのか、恐れているのか、いや、怒りだ。吐き出しきれない怒りを溜め込んだ身体が、噴き出す出口を求めて身慄いしている。

「やっぱあんたウザいねえ……」

 そのとき、突然発せられたその一言でいきなり空気の色が変わった。
 戦慄が奔る。

「ごちゃごちゃと正論かましていい気分かい?」
 その声はさっきまでの未熟で幼いモノではなく、ただ苛々と殺伐と、そしてどこか楽しそうな表情を湛えた男の声だ。
 冷たい声で話すそいつはゆっくりと顔をあげた。紅い髪と紅い眼球、そして雪のように白い肌。手には大ぶりのサバイバルナイフ。
 それはそれまでそこにいた彼女《フィーン》ではない。初めて見る、別の誰かだ。
「あんたわかってねえよ、腐った泥水啜ったことねえだろ?」
「フィーン……じゃ」
 そいつの顔を見たとたん、室内の電球が全て切れたかのように世界は明度を落とした。近づいてくる闇が背中に伸し掛かる。
「いいか? この世には二種類の人間がいる、得する奴と損する奴だ、得する奴はどんなときも勝組だ、好き放題楽しんでその陰で泣いてる奴いるなんてこと考えちゃいない、いや、そんな人間がいるとも思ってない」
 ゆらゆらと輪郭を滲ませ、せむしのように身をかがめたそいつが歩みを進める。赤黒い蒸気が立ち上り、周りの空気は歪んで見えた。
「損する人間はどこまでも損すんだ、どっかの誰かが食い飽きたステーキをゴミ箱に捨ててるとき、じめついた暗闇で泥水啜って腐れ死んでく人間がいんだよ、え? どうだ、理不尽だと思わねえか? 思うだろ?」
「ぇ……いや」
「だからやんだよ、俺が、この俺が!」
 大きなナイフを指差し棒のように翳し、そいつは草薙に迫る。切実な危機感に追いたてられて足は自然と逃げ出そうとしていた。だが動かない。
 黒く湿った空気が纏わりつき、身体が重い。そいつのいる空間、半径三メートル内だけ、重力が数倍に増している。内外からの圧力で押しつぶされそうだ。
「お、俺を殺しても、なんの解決にもならないぞ」
 喉が潰れそうで言葉が上手く吐き出せない。意地と持ち前の正義感でようやく絞り出した。
「ピィピィうるせえよ!」
 草薙の言葉に、そいつは耳もかさなかった。問答無用、ただ目の前の標的をブチ壊す。それだけを目的とし、大きなナイフを振り回す。
 グィンッ!
 重力の増した空気が大きく動く。その圧力で後頭部を殴られたような衝撃が奔った。耳の奥で高音質の金属音が鳴り響き、眩暈と吐き気が同時に襲ってくる。
「待っ……てく」
 話を聞いてくれと言おうとして息が詰まった。息苦しくて思わず咳き込むと、床に赤い塊が落ちた。
 なんだ?
 なにが落ちた?
 頭がずきずきと痛み、視界がぼやける。
「ハッハ、ァ、ハハッ」
 真っ赤な目をしたそいつは笑っていた。楽し気に鬼気迫る笑い声をあげ、ただナイフを突き下ろす。

 ブラッディフォックス──────血塗れキツネ。

 ふとそんな単語が頭に浮かび、ようやく腑に落ちた気がした。
 フィーンじゃない。オウガじゃない。もちろんゼノでもない。第四の存在、ブラッディフォックス。
 彼が、彼らを突き動かす魔物だったのだ。
「お前が……やった、んだな?」
 今にも途絶えそうな呼吸を整えながら問い質す。そいつは無言で笑っていた。
 いや、無言ではない、なにか言っている、嬉々とした表情で怒鳴っている。だが聞こえない。
 そのときすでに、草薙の耳は役目を終えようとしていた。流れては落ちる血の、脈打つ音だけが耳骨に響く。
 もうやめろ、ゼノを、彼らを自由にしてやってくれ。
 闇に閉ざされていく視界を見据えながら、草薙はただそう願った。声にならない声で力強く訴え続けた。
 ゼノ、もう、逃げろ……。

「ゼ……ノ」

 消えゆく薄墨の世界で、誰かが叫んでいる。


 ***


 遠くでなにか音がする。ぼそぼそかちゃかちゃ音がする。なんの音かわからない。なんなのか考えようとしても、頭の中に霞がかかったようで纏まらない。
 眠い。眠くて堪らない。なにも考えられない。
 自分は寝ているのかもしれない。そして近くに誰かいる。誰かいて動き回ってる。この音は話し声だ。じゃあ、そこにいるのは複数人か……。
 だれかしゃべってる。だれかいる。でもねむくて……かんがえるのは、また、あとで。

「……で」

「おい、こいつ喋ったぞ、気が付いたんじゃないのか? おい! おまえ! 看護婦さん!」

 今度は遠くではなく、近くで、それもほとんど耳元で、怒鳴り声が聞こえた。あの声は重田だ。相変わらず声がでかい。役者ばりのいい声だが、とにかくでかい。うるさくて眠れやしない。
 やれやれと心の内で溜息をつき、草薙は瞼をひらいた。久しぶりの光が差し込み目が痛い。眩しくて部屋の様子もよく見えない。薄目を開けてまた辺りを覗う。
 白い壁に白っぽいカーテン。簡素な室内。自宅《いえ》ではない。どこだろうと考えながら何気なく通った視線の中で、四十がらみの渋い二枚目が泣いていた。重田だ。
 重田とはもう数年の付き合いになるが、泣いているところは初めて見る。渋い顔に似合わない。なにかあったのか?
 それにしても……。
「意外にいい男だったんですね」
「ハぁ?」
 思わず声に出すと、重田は頓狂な顔をした。当然の反応だ。どこかほっとするような温かいものを感じながら、草薙はあたりを見回した。
 簡素なパイプベッドに白いシーツ、飾り気のない窓と金属製の点滴スタンド……と、それにつるされた半透明の液体入りビニール袋。傍らには薄ピンクの制服を着た看護師の女性。考える余地もない。ここは病院だ。
 自分が病院のベッドに寝かされていることに気づいた草薙はゆっくりとそれまでのことを考えた。意識が途絶える直前まで自分はゼノと話していた。正確には、ゼノの身体を借りたオウガ、フィーン……そしてブラッディフォックスだ。
 あのとき、フォックスは大きなナイフを振り翳し、自分は数か所を切られ刺されていた。そしてとどめの一撃を待つ間もなく、気を失った。
 あのあと、どうなったのだ? 自分は助かったのか?
 いや、助かったからこそ、ここにいるのだろうが、いったいそれはどういう結末なんだ? 怪我の程度はどのくらいだったんだろう。手は、動くのかな……? つい、余計な心配をし、右手を動かしいてみた。少し重いような気もするが、とりあえず動く。大丈夫そうだ。
 ほっとしたことで気が緩み、そのまま起き上がろうとした。
「ツっ……ッ」
 途端に胸と腹と背中と肩が痛んだ。激痛というほどではないが、結構な痛みだ。どうやら簡単には起き上がれないらしい。
「なにやってるんだ、まだ起きるのは無理だぞ」
 重田の呆れ声が聞こえた。つい愚痴る。
「寝てても痛いんですよ、どっちにしろ痛いなら起きたほうがいい、起こしてくれませんか?」
「バカ言え」
 起こしてくれと言うと、重田は険しい表情で首を振った。
「お前、二か月も意識不明だったんだぞ」
「二か月?」
 そんなにかと草薙も愕然とした。確かに酷い怪我だったろうから、仕方ないのかもしれないが、二か月は長い。ほとんど植物状態じゃないかと驚いた。だが重田はさらに深刻そうだ。
「ああ、全身数十か所を刺されて内臓損傷に出血多量、医者も意識が戻ることはないだろうと言ってたんだ」
 無茶はするなと振り絞るように話した重田はそこで言葉を止め、唇を噛んだ。涙を堪えるように、怒りを抑えるように固く口を結び、眉間に皺をよせて俯く。
「重田さん……」
 重田は草薙の怪我を自分のせいだと考えているようだった。自分が草薙を焚きつけ、事件に関わらせた。だからこうなったのだと自身を責めているのだ。そうと察した草薙も言葉をなくす。
 暫くの沈黙が続いたが、好奇心が先に立つ。
「俺はなぜ助かったんです?」
 あのとき、ブラッディフォックスは自分を殺す気でいた。気が変わるなどということはなかったはずだ。それはわかる。だがでは、なぜ自分は助かったのだ。
 感じた疑問をぶつけると、重田は通報があったのだと答えた。
「通報……」
「ああ、血塗れの男が倒れている、あと数分で死ぬかもしれないから急いで来いと警察にな」
「え、誰が?」
 家の中には草薙とフォックスしかいなかった。フォックスが通報するとは考えにくい。草薙も首を捻るが、重田もそれはわからないと答えた。
「俺は警察からそう聞いただけだからな、男の声だったと言ってたよ」
「男……」
 オウガだろうか……いや、彼は消えたとフィーンが言っていた。フィーンが通報したなら声は一応女性になるはずだ。
 いや、最初に対峙したとき、彼女の声は男の声だった、それがだんだん女の声に変わっていって、いつの間にか少女になった。彼女でないとは言い切れない。
 いやいや待て、彼女がそんなことするか? するとすればオウガだろう。そもそもオウガが消えたというのは、フィーンが言った話だ。あれが嘘だとしたら……。
 だがそうなると、オウガはそのときどこにいたのだ。隠れてたのか? 隠れて様子を見ていた? なんでそんなことする必要がある?
 いやいやありえないぞ。彼らは魂だ、単体では動けないはずではないか。もし通報したのがオウガなら、そのときゼノの身体を使ったのはオウガということになる。フォックスから奪って? それもあり得ないだろう。
 では誰が……?

「すみませんが、続きはあとにしてください」
 ぐるぐると考えを巡らせ、なにか掴めそうな気がしてきたところで看護師の女性が声をかけてきた。これから診察と処置だという。おかげで纏まりかけた推論は霧のごとくだ。
「そうだな、とにかく体が大事だ、しっかり診てもらって、まずは養生しろ」
 重田もそれに同意し、後ろへ下がった。医者もやってきて、もう少し話させてくださいとは言いにくい空気だ。草薙も仕方なく観念した。
「わかりましたよ、じゃあ考えるのは後にします」
「いや、もう考えるな」
「え?」
 あとで考えるという草薙を重田は止めた。もう考えなくていいという。ズボンのポケットに突っ込まれた両手が少し震えている。
「お前をこの件に引きこんだのは俺だ、これはもともと俺の話だ、お前は関係ない、もう考えなくていい」
「なに言ってんですか! 違いますよ、俺が……っ」
 慌てて起き上がろうとして全身に痛みが奔った。思わず顔を顰めベッドに倒れこむ。看護師と医者が交互に、起きてはいけない、安静にしてくださいと話す。
 重田はそれを横目に病室を出て行った。

 通報は男の声だった、誰なのかはわからない。草薙にはそう話したが実は大方の目星は付いていた。通報を受けたのは重田の友人、矢島だったのだ。しかもかかって来たのは矢島個人の携帯、つまり矢島の番号を知っている人間ということになる。矢島も友人知人が多いほうではないので、その人数も限られる。そして矢島はその声に覚えがあると言った。

────間違いねえ、あれはフォックスだ。
「フォックス? 新貝か? なんで!」

 上層部との裏取引と、弁護士の働きで、新貝はあれからほどなく釈放されていた。捜査は振り出しだ。しかし、それ以来オウガや新貝に代わる容疑者は浮かんでこないというのに、捜査本部には焦る様子がない。
────暫くFOXは現れませんよ、たぶんね。
 釈放前、新貝がそう言ったらしい。つまり、諦めたのだ。
 無理もない。彼の言うことがほんとうだとしたら、犯人は捕まえられない。なにしろ実態がない、幽霊と同じだ。手を下している者は実体としているのだろうが、そいつを捕まえても解決にはならない。真の殺人鬼FOXは捕らえられた身体を捨ててどこかへ消えてしまう。あとに残されるのは哀れな傀儡だけだ。
 もちろん手を下しているのはそいつなのだから、根気よく探せば証拠も出るだろし、アリバイもないだろう。起訴し罰することは出来る。しかしそれは無意味だ。身体を乗り換えただけのFOXはまたすぐ暴れ出す。果てはない、堂々巡りなのだ。
 それに、今回FOXは警察内部の人間、宮田刑事の身体も使っている。FOXの件を本気で追うなら宮田の件も追及しなければならなくなる。とんだ不祥事だ。それは避けたい。民間人を傷つけたのだからは逮捕起訴は免れないが、せめてFOXとは関係ない個人的犯罪として裁きたいのだ。
 だから本部は追うのをやめた。表面上捜査しているふりをして、実際は何もしない。それどころか目撃者潰しや証拠隠しに躍起になる。全ては警察の不始末を隠すため、事件を追及させないためだ。新貝の言うとおり、FOXがとうぶん現れないというならそれでいい。全て闇に葬り、なかったことにしたいのだ。
 そうなると矢島も組織の一員だ。真犯人を追うことは出来ないし、たとえ追ったとしても真実には届かない。何か見つけても捜査本部が全てにぎりつぶしてしまうとわかっている。それこそ意味はない。いやそれどころか、逆に、捜査することで全ての証拠が取り上げられ、事件は永久に明るみに出ないこととなる。それではダメだ。
 内部の人間である自分では、もう真実を追うことが出来ない。だから無理を承知でお前に頼む。矢島は重田にそう言った。
 三浦はFOXに殺された。諦めようにも諦めきれない。罰することは出来なくても、せめてその罪だけでも認めさせ償わせたい。闇に消えたFOXを追い詰め、その正体を暴き、真実を見つけてくれ。それが矢島の願いだった。
 重田も戸惑ったし、実際一時は断った。警察にさえ出来ないものを、一般市民の自分に何ができる。だが草薙が襲われ、考えは変わった。
 自分が捕まえなければあの子供は殺戮を繰り返し続けるだろう。止められるのは少しでも真実に触れた自分だけだ。
 やらなければならないと決意を固め、矢島に会い、禁断の捜査資料を受け取ったのが数日前、それでもまだ躊躇いはあったが、草薙は目覚めた。それが真実を明らかにせよとの天からの啓示のように思えた。だから動くのだ。
 お人好しで危機感の薄い草薙にはもう関わらせたくないが、自分ならいいだろう。
 なにしろ親兄弟、友人知人、おおよそ身内と呼べるような人間もいない。とことんやっても誰も困らないし、悲しむ者もいない。
 半分強がりでそう嘯き、足を速める。

────俺が悲しみますよ。

 頭の後ろで、少し怒ったような草薙の声が聞こえた気がした。