生まれて来なければ良かったと、本気で思ったことはなかった。だが今、つくづくと思う。なぜ生まれてしまったのだろう。この世に愛も喜びもないなら、なぜ生きなければならなかったのか。
 生んでくれなんて言っていない。そう言えば親たちだって、生まれていいとは言っていないと答えるかもしれない。
 なるほど子供を選んで生むわけにはいかないだろう。望むと望まざるとに関わらず、出来てしまうこともある。
 だがそれでも作り出した責任は親にあるはずだ。愛し合い、快楽を追った結果、子供が出来ると知らなかったとは言わせない。
 彼らはみなそれを知っていた。知っていて行い、子供は生まれたのだ。望んだ子かどうかなど子供には関係ない。望まなかろうと、自分たちで作り出した命だ、愛し育てる義務がある。
 なぜそれを放棄する?
 なぜ愛せない?
 それは子供の罪か?
 いや違う。
 子供に罪はない。悪いのは大人だ。
 勝手に作って勝手に生んで、それを育てることもしない。
 お前たちが世界を壊す。
 いつか見かけたあの兄妹も同じだ。あの子らも、両親に望まれず生まれ愛されることなく這い蹲って生きてきたに違いない。
 妹の姿は見えなかったが、ほんの一瞬垣間見た兄のほうはテレビのニュースで見る難民の子供のように痩せていた。自分が助けてやらなければ死んでしまうような気がして怖かった。毎日でも通い、なんとかしてやりたいと思ったのに結局あれきり会いには行けなかった。
 あの子らは今どうしているだろう?
 ずっと心の奥に引っかかっていた棘が化膿してジクジクと痛んだ。
 後悔と焦りに押されるように銀は兄妹のいた貸家へ向かう。しかしそこに二人の姿はなかった。

 子供の存在は世間には隠されていた。自ら出かけたのではないだろう。引越しではない、人の住む気配はまだある。ではどこに行った?
 不安に駆られる銀の背に冷たい風が吹き、風に乗って錆び臭さが漂って来る。
 背中の汗を意識しながらふりむくと、湿った鉄の臭いを纏った誰かがゆっくりとこちらへ歩いて来るのが見えた。

 夜目にもわかる赤い逆髪。手には大きなハンティングナイフ。
 ユラユラと、じりじりと、砂に水が滲みこむような気色の悪い不気味さでそいつは近づいてくる。
 そして目の前を通り過ぎようとしたとき、確かにこちらを見た。逆立った髪と同じく、赤く血走った目だ。ごくりと息を呑み、その行方を追う。
 赤髪は長いマントのような上着を翻し、兄妹の家に入って行った。言い知れぬ予感に戦慄しながら銀も後に続く。

 玄関から入ってすぐは台所だ。音もなく開け放たれた家の中は薄暗かった。
 窓際にはコンロや流し台が並び、あまり大きくない二人掛けくらいのテーブルがある。赤髪は息を殺すように、小さなテーブルの横に立っていた。僅かに身を屈め、何かを見ている。
 なにを見ているんだ?
 気になって同じく覗きこむと、そこには洋酒の瓶を抱えた女がしゃがみ込んでいた。以前覗き見たことのある、若夫婦の妻のほうだ。
 女はアル中なのか、時々思い出したように酒をラッパ飲みし、また蹲る。暫くそれを眺めていた赤髪は、女に小声でなにか話しかけた。女は顔をあげ、赤髪と目があう。不思議そうな顔をしていた。
 赤髪は無感動に片手を振り上げ、女の胸にハンティングナイフを突き刺した。ナイフは深々と突き刺さりドロリとした粘液が流れ出る。
「あ……?」
 ほんの一声あげただけで女は絶命した。
 女の死を確かめることもなく赤髪は次の間へと歩いて行く。さっきまでは気づかなかったが、隣の部屋にも誰かいるようだ、テレビの音が聞こえる。
 境にある襖を開くと若夫婦の夫のほうだろう男がいた。畳の部屋の中央に台所に背を向ける形で座り込みテレビを見ている。
 旧式の液晶にはお笑い芸人が騒ぎ立てる番組が映し出され、照明も室内を明るく照らす。なんの変哲もない日常に入り込んだ異質、赤髪は男の背後に忍び寄り、躊躇うことなくナイフを突き刺した。ザシュッと肉の切り裂かれる音が聞こえた気がした。

 低く呻いた男は横倒しに倒れる。ナイフを引き抜いた赤髪は、そいつの胴体を跨ぐように覆い被さり再びナイフを突き立てた。今度は正面から腹を刺す。ナイフは肉を抉り男は情けなく大きな悲鳴を上げた。
 声を出されると不味いと思ったのか、赤髪は次に男の喉を切り裂いた。穴の空いたホースから水が漏れだすように男の喉から鮮血が噴出す。男の血を顔面に受け、赤髪は文字通り真っ赤に染まった。
 喉を裂かれ、悲鳴をあげられなくなった男は、血の吹き出る喉を押さえながら転げ回る。赤髪はそのあとを追いナイフを振り下ろし続けた。やがて男はびくびくと痙攣し、絶命する。

「……っ」
 声も出せずそれを見ていた銀が息を飲むと赤髪はゆっくり振り向いた。
「お前……」
 さっきも目が合ったろうに今始めて気づいたかのように赤髪は目を見張る。白目の部分が赤く充血した、不気味に薄気味悪い目だ。
 ぎくりとして身が竦んだ。逃げなければと思いながらも身体が動かない。
 赤髪は無表情に銀を見据え、ハンティングナイフを握り直した。

「待って! その人は違うよ!」

 ナイフが振り上げられようとしたそのとき、別の声が割って入った。その声で赤髪は動きを止める。叫んだのはいつか見た兄妹の兄のほうだ。
「きみ……」
 少年は驚く銀にいつかはありがとうございましたと頭を下げる。赤髪は用心深く銀の様子を観察しながらナイフを仕舞った。
 ついさっきまで大風に弄られるように逆立っていた髪は静かに凪ぎ、ゆるりと落ちる。そうしてみて初めて気づいた。赤い髪のそいつは、まだ少女と呼んでいい年頃の女性だった。
 少女が何者で、少年がどうしていたのか、そして彼の妹はどうなったのかと訊ねると、少年は、妹は死んだと答えた。
 少年の名前は晴《はる》。
 晴は存在を認められていない無戸籍児で、妹、ヒナは先日死んだと言う。少女のほうは口を利こうとしなかったが、晴は彼女を指し、フィーンだと紹介した。
 フィーンは親に捨てられ天涯孤独だったが、つい先日、自分が捨てた子供が生きていると知った母から刺客が差し向けられた。
 自分の幸せのため、子供を殺そうとする母の身勝手に怒り、復讐を決意したフィーンは、最初に刺客の男を、次に自分を疎んじた母を殺した。
 そしてこの世の全てに復讐を誓ったフィーンは、次に晴の両親を狙ったということらしい。

「こいつらは、晴たちを邪魔にして虐待し続けた、その結果妹は餓死した、二人共、自分のことしか考えてない屑だわ」
 殺されて当然だと、彼女は乱暴に話した。その瞳は血溜りのように赤い。
「アタシたちは決めたんだ、奴らに思い知らせてやる、みんな、地獄で後悔すればいいってね」
 ねえ晴? とフィーンは首をふる。晴は返事をしなかったが、小さく頷いていた。その少し青ざめた表情を見ていると胸が痛む。
 だがフィーンはあくまでも彼を道連れにする気らしい。やるしかなんだ、そうしなきゃ世界は変わらないと囁く。それには晴も同意した。
 晴の決意にフィーンは嬉しそうだ。口先だけでなく目元を緩めて微笑んだ。
 赤い髪を逆立てるように人を殺め、血塗れの顔で後悔なく笑っていてもフィーンは美しかった。点々と散る返り血さえも彼女を彩るアクセサリーに見える。その危うい美しさに、銀は母を思い浮かべた。護りたかった面影を追い、人知れず唇を噛む。
 今度こそ、役に立ちたい、護りたい。その思いが銀を突き動かした。

「そのとおりだ」
 フィーンの意見に同意した銀は、自分にもその思いはある、だから手伝わせてくれ、仲間にして欲しいと申し出た。だがフィーンはそれに頷かない。
 銀はそのとき十五歳、体格がよかったので、歳よりも大人っぽく見える。顔も、火傷を隠すために伸ばされた前髪で半分隠れ、胡散臭い。信用出来ないと睨んだ。
「信用してくれ」
「無理ね、だいたいあなたに人が殺せるの? 出来ないくせに」
「出来る、俺もついさっき父と母を殺して来たところだ」
「へえ……」
 銀の返事にフィーンは表情を変えた。そこで晴もこの人は以前自分たちを助けてくれたんだと話す。その話でフィーンも銀を信用する気になったらしい、わかったと頷いた。
「わかった、いいわ、やろう」
「ああ」

「あんた、名前はどうする?」
 自分たちは生まれ変わった。ここから世界を変えるため、過去は全て捨てるのだ。だから新しい名前をつけろとフィーンは言った。
「アタシはフィーン、鬼よ、この子はゼノ、異物って意味よ」
 あんたはどうすると聞かれ、銀も暫し考える。そして最近読んだ無名作家の本を思い出した。そこには人を殺し、喰い、世界を恐怖に叩き落す悪鬼、羅刹《オウガ》のことが書かれてあった。主人公は羅刹《オウガ》を狩るハンターのほうだったが、銀はなぜか、羅刹《オウガ》たちの生き様存在に心魅かれた。
 鬼はなぜそこに存在したのか、なぜ人を殺すのか、それを強く考えた。そのとき答えは出せなかったが、今は違う意味で理解できる。
 自分も、羅刹《オウガ》だ。
 
「俺は、オウガ……人食い鬼だ」