銀は十五歳を迎えた。
 年齢的に言えば中学も卒業しようという歳だ。だが実際は殆ど学校へは行っていない。まともに出たのは小学校までだ。当然学業も身に付かず、卒業しても行き場もない状態だった。
 だが、中学入学当初から世話になっていた新聞店では、稼ぎ頭の銀を手放す気はなく、卒業後も雇い続けると言ってくれているので、それほど心配はしていない。
 大丈夫、自分はまだまだやってける。そう信じていた。

 ところが、中学卒業を控えた二月、状況は一変した。
 その日は、その冬一番の冷え込みだとかで、芯まで冷える寒い日だった。外では雪が降っていて、配達にも苦労した。自転車では回れなくて、歩きで配るはめになったので、全身びしょ濡れだし、なにしろ疲れた。早く部屋に戻り、つかの間でもゆっくり眠りたいと、身体を引き摺るように家に戻る。

「ただいま」
 どうせ誰もいないだろうと思いながら習慣的にただいまと呟くと、いつもは何の反応もない室内から、衣擦れの音がし、お帰りなさいと返事が返ってきた。銀は驚いて顔を上げる。

「……お母さん」
 そこには、滅多に顔を合わせない母がいた。
「フフッ、おかえり銀、いつも良い子ね」
 とても一児の母とは思えない美しい顔で、彼女は微笑む。その微笑に目を奪われ、銀は知らずと俯いた。
 子供の頃からずっと、母の美しさが密かな自慢だった。だが思春期に入り、少し心持が変わったのかもしれない、謂《い》われなく、ドキドキした。
「なに? どうしたの」
「なにが?」
「だってお母さん、家にいるの、珍しいじゃない、それに……」
「それに?」
 愛くるしい大きな瞳に見つめられ、赤面する。いい子だなどと言われたのは久しぶりだ。
 顔に火傷を負ったあの日から、母は銀の顔を直視しなくなった。どこか忌々しいモノを見るように顔を顰め、チラリと覗いてはすぐ顔を背ける、それが常だ。
 近くに来ることさえ稀なのに、声までかけられては戸惑うばかり、必要以上に高鳴る心臓の音を意識しながら、銀は顔を背けた。
「なんでもないよ」
「ふふ、やあね、変な子」
 顔を背ける銀を追うように、瞳子は先回りして前に立ち、戸惑う銀の前髪をくすくす笑いながら指で掬う。
 サラリと持ち上げられた長い前髪の下から、醜いケロイドが顔を出す。銀は慌てて首を振った。
「やめてよ」
 美しい母に、醜い自分を見られたくないと、反射的に振り払った母の手は、一瞬、宙に彷徨い、また戻ってきた。逃げ回る銀を追って迫ってくる指先に、心臓は音を立てて跳ね上がる。知らず知らず、血流もあがった。
 顔が赤く火照るのを隠そうと銀は俯く。母、瞳子は、逃げる銀の肩を捕まえ、口を尖らせた。
「なんで逃げるのかしら?」
「別に! 逃げてないよ、お母さんこそなに? なんか変だよ」
「変じゃないでしょ、息子の顔が見たいだけ、ね、いい子だからこっちいらっしゃい、抱いてあげる」
「いいってば!」
 いつになく、母は、しつこく絡む。両手を広げ、おいでと囁く顔は、妙に色っぽく、身体がカッと熱くなった。泣きそうな気分で勢いよく振り払うと、母は不愉快そうに顔を顰める。そしてまた手を伸ばして来た。
「なに、あんた照れてるの? お母さんよ私は、母親が息子を抱き締めてなにがおかしいのかしら?」
「おかしいよ! 僕もう十五だよ、中学だってもうすぐ卒業なんだからね」
「あら……そう?」
 子供じゃないんだと話すと、母親はニタリと笑った。その笑顔が爬虫類のようで、とても嫌な感じがした。本能的に下がる。
 だが母は容赦なく近づき、銀の肩を背中から抱いた。ピタリと張り付いてきた女の体温が、火照った身体をさらに熱くさせる。全身から汗がどっと噴出し、息苦しくなった。
 瞳子は銀の動揺を楽しむように掌を這わせる。耳元で、彼女のクスクス笑う小さな声がした。

「子供じゃないの? そうね、大きくなったわね銀、もう一人前の男だわ」
「お母さん……」
「ああ、そんなに緊張しないで、ただちょっとお願いを聞いて欲しくて」
「お願い?」
「ええ、簡単なことよ」
 母は懐から細長く光るものを取り出し、ドキドキしながら振り向く銀に手渡した。
「これで、お父さんを殺してちょうだい」
「え……?」
 手渡されたモノは、父の商売道具の一つ、「縁引き針」だ。
 縁引き針とは、畳の縁を畳床に打ちつけ仮留めしたり、縁を引っ張るために使う道具で、針というよりは錐のような形状をしている。柄の長さが約七センチ、針の部分が十二センチほどで、根元の直径は十五ミリ程度ある。しかしこれでは人を刺すことは出来ても、殺すことは難しい。
「無理だ」
「なんで? 無理じゃないわよ、あなたなら出来るわ」
「無理だって!」
「大丈夫、今夜はあの人にお酒をたっぷり飲ませるわ、寝こんだところを狙えばいいのよ」
「お母さん……」
「必ずキミを幸せにするとか言ってあの甲斐性なし、大嘘じゃない、ぜんぜん幸せなんかじゃないわ、貧乏なんてまっぴらよ、でもね、あいつが死ねば保険金が入るのよ、三千万よ、どうしようもない役立たずだけど、死ねば三千万、笑っちゃうけど、最後くらいは役に立ってもらわなきゃね」
 遊び過ぎて金が尽きた。それは母にもわかるのだろう、最近はあまり金を使わなくなっていた。元が浪費家の彼女は、それが我慢出来ない。外に男を作り、今度はそいつに貢がせていたらしい。しかし名ばかりとはいえ、夫がいては自由に遊べない。だから邪魔な夫を殺し、金も手に入れられる方法をと、彼女なりに考えたのだろう。
 自分の夫の殺人計画を、彼女は嬉々として話す。そんな母を見つめ、眩暈がした。
 出来る出来ないの話ではない。人殺し、それも父親殺しを息子に依頼する母親がどこにいるだろう。依頼されて、はいわかりましたと頷いたら、自分はもう人間ではない。
 出来ないと首を振る銀を見て、瞳子は凶器がこれでは難しいと言っているのかと思ったらしい、包丁のほうがよかったかしらと首を傾げる。
「でもほら、包丁だと血もたくさん出そうだし、後々面倒だわ、その点、あの人の仕事道具でやれば、誤魔化しもききそうじゃない?」
「何言ってるのお母さん、お父さんだよ? 出来るわけないじゃない、お母さん、お父さんを好きじゃないの?」
 父と母は愛し合っている。この期に及んで、銀はそれを幻想していた。だが母、瞳子は、バカじゃないのと首を振る。
「好きなわけないじゃない、いい男だと思ったんだけど、とんだ外れクジだったわ、口煩くて嫉妬深い上に甲斐性もないんじゃ話にならないわよ」
「お母さん……」
 この家ははまだ大丈夫、自分たちはまだまだやっていける。父も母も自分も、最悪ではない。そう思ってきたのは幻、間違いだったのか……。
 銀は、母の言葉に耳を塞ぎ、これは嘘だ、幻だと目も瞑ろうとした。

 ……そのとき、一仕事終えた父がってきた。

「なんだ、そこでなにやってやがる?」
「なにも、なにもしてないよ、お父さん」
 帰って来た父親は、部屋の真ん中にいる瞳子と銀を見つけ、怪訝な顔で近づいてくる。銀は今話していたばかりの父の帰宅に戸惑い、口ごもる。その隙に瞳子は縁引き針を銀に手渡した。渡されて困るのは銀だ、慌てて後ろ手に隠す。
「てめえ、今なんか隠しただろ!」
「違う、知らないよ!」
「嘘つけ! いいから見せろ!」
「知らないってば、やめて!」
 掴みかかられ、揉み合いになり、隠し持っていた縁引き針が露見する。父親は、驚きつつも目を吊り上げた。
「こいつはなんだ、銀」
「知らない」
「何が知らないだ、まさかお前、こいつで俺を刺そうって魂胆か?」
「違うっ、違うよ!」
「なにが違う、ならなんでこんなもん持ってたのか言って見ろ」
「それは……っ」
 お母さんが持って来たんだ。お母さんが、これでお父さんを殺せって言ったんだよ。
 喉元まで出かかった言葉は、父の顔色を見て留まった。
 父は母を愛している。母が自分を殺そうとしていると知れば、きっと哀しむ。父親を悲しませたくない一心で、銀は口を閉ざした。しかし俊夫は、ますます激しく怒る。
「ガキのクセにふざけやがって! お前なんか、生まれて来なきゃよかったんだよ!」
 子供にバカにされていると思いこんだ俊夫は、殺意のない銀から縁引き針を奪い取る。そして激情のまま、針を振り翳し、襲い掛かって来た。
 背後にいた瞳子は大げさにキャアキャアと叫び、部屋の隅へと下がる。チラリと振り返って見た彼女の目は、期待に満ちていた。

「やめてよ、お父さん!」
 母の顔をちらちら見ながら、銀はやめてくれと叫んだ。瞳子は恐ろしさで身が竦んでいるかのように両手で顔を覆っていたが、その隙間から見える瞳は笑っている。
 目的は夫殺しだが、最悪、子供のほうでもいい。どちらが死んでも保険は下りる。保険金さえ出れば自分は楽が出来る。それを想像しての笑いだ。
 銀は哀しく首を振った。
 お母さんはどうかしてる。本当にいいの? 僕やお父さんが死んでもいいって、本気で思うの? そんなの酷いよ。
「やめて、お父さん、お父さん!」
 冷静になってと叫んだが、俊夫は聞かなかった。おそらく頭に血が上っているのだろう、苛々した口調で怒鳴り散らしながら縁引き針を振り下ろす。
「お父さんっ!」
 鈍く光る針先が目前に迫り、背中に緊張が走る。胸が痛み、目の前は真っ暗になった。
 お父さんは本気だ。このままでは殺される。
 銀は父の手を押さえ、その針先から逃れようと必死になった。遠慮なんかしていたら押し負ける。死ぬのは嫌だ。
「やめて、お父さんっ……やめろ!」
 死にたくない一心で、父を突き飛ばし、銀は床にへたり込む。息は上がり、顔も上げられない。逃げなきゃやられる、殺される。だが身体は動こうとしなかった。
 僕は死ぬんだ。ここで殺されるんだ。
 どうせ死ぬなら一瞬で死にたい。ジッとしていれば早く済む。
 覚悟を決めた銀は、固く目を閉じる。
 だが、針はいっこうに襲って来なかった。

 なにがあった?

 恐る恐ると顔を上げ、瞼を開く。目に映ったのは、胸元を押さえ、もがき苦しむ父の姿だった。
「おとうさん……?」
 床に倒れ、もがく父の胸には、縁引き針が突き刺さっていた。どうやら、突き飛ばされた勢いで、持っていた針を自分の胸に刺してしまったようだ。
 どうしよう、どうしたらいい?
 動転する銀の後ろで母はヒステリックに叫ぶ。
「なにしてるの銀、まだ死んでないわ、早くとどめを刺して!」
「え……?」
「えじゃないわよ! 中途半端に生きてられちゃ困るでしょ! 早く!」
 早く殺せと母は叫ぶ。目の前が真っ暗になった。
 彼女は、ひと欠片も夫を愛していないのだ。
 こんなのおかしいよ……その言葉を飲み込んだ銀は、のっそりと立ち上がる。
 足が重い。
 床はごく普通のフローリングなのに、薄日もささない湿地帯を歩いているようだ。
 一歩進む毎に足は重くなり、動悸は高まる。自分の心臓の音が耳元でドンドンと大きな音を立て、血流が上がってくるのがわかる。
 身体は酷く冷たいのに、汗だけがだらだらと流れ落ち、視界は赤く染まって見えた。

 銀はよろよろと歩き、苦しむ父の胸から縁引き針を引き抜いた。そして暫し、ほんの数秒、涙を溜めた瞳で父を見つめる。
「お父さん……ごめん」
 小さく呟いた銀は、父、俊夫の喉元に、勢いよく、縁引き針を振り下ろした。
 ズチャッ……と、鈍い音がして、魂が悲鳴をあげる。生きた肉に突き刺さった針からは、掌を通して、父の脈拍まで伝わってくる。
 喉を突かれた父は悲鳴をあげることも出来ない。ヒュウと息を吸い込むような音が聞こえただけだ。そのまま、二度、三度と針を突き刺す。
 何度目かに振り下ろした針は父の心臓を貫き、瞬間、血走った瞳を見開いた父、俊夫は、僅かに痙攣しながら絶命した。
 父の命を奪った針を、銀は泣きながら引き抜く。息子の嘆きを考えもせず、母、瞳子は緊張した声でやったのかと訊ねた。銀は無言で振り返る。

 もうなにも耳に入らない。耳は機能を失った。
 涙で滲んだ視界に映りこむ母の顔も歪んで見える。
 全てが虚しい。
 全てが哀しい。

「お母さん……ごめんなさい」

 銀の涙声に、瞳子は一瞬不思議そうな顔をした。大きく開かれた瞳も、僅かに首を傾げた可愛らしい仕草も、綺麗な顔も、全てが憧れで、全てを愛していた。
 綺麗な母が自慢だった。
 ごめんなさい。
 もう一度、心の中だけで呟き、銀は縁引き針を振り下ろした。