遠くで獣の唸り声がする。
 そんな気がして開きかけた瞼は、しかし開かなかった。熱を持って腫れあがり、目が開けられない。僅かに動いた指先であたりを探るが、少し湿った土の感触がするだけだ。仕方ないと諦めて息をつくと、さっきまで遠かった唸り声が急に近くで聞こえて来た。耳元に、足元に、獣の声が響く。
 囲まれている。
 そう感じたとたん、怖くなった。だが身体は動かない。獣の声はさらに近づいてくる。
 僕はこのまま死ぬんだ。漠然とそう思い、やがてそれも麻痺して消えた。
 もういいや。
 今日まで生きてきても、良いことなど一つもなかった。きっとこれからもないだろう。もういい、終わりにしよう。
 この世の全てに別れを告げ、晴は先に逝った妹、ヒナの待つ場所へと意識を移そうとした。
 そのとき……。

――ハ・ル!

 誰かに呼ばれたような気がして思わず目を開ける。その途端、地面は底無し沼のように緩くなり、身体は沈んでいく。獣の気配も消し飛んだ。

「ぅわっ……っ」
 ズブズブと減り込み沈んだ晴は、そのまま際限なく落ちていった。果てしない闇に飲み込まれるように、急降下だ。
 暗闇に放り出され落下しながらも、そこがどこなのかを知ろうとした。
 目を凝らせば見えてくる。そこは真の闇ではなく、辺りには疎らな灯りがある。地面に沈んだ気がしたが、どうやら上空から落ちているようだ。遠くに小さく光るものがある。あれはネオンか夜空の星か……光が点在する空間を見渡し、晴は、自分が落ちて行くその地を見下ろした。

 下は河原だった。いつか新貝に出会った、そして初めて琥珀にあった、あの河川敷だ。夏は雑草が生い茂った河原も、今は枯れ果て、見る影もない。
 枯れた雑草の狭間に、何かが転がっているのが見える……いや、誰かが、倒れている。
 あれは誰だ?
 考える前に、答えを知っているような気がして、戦慄が奔った。地面には長い黒髪が乱れ散り、均整のとれた細い手足は無造作に投げ出されている。
 女の子だ。
 大きな白っぽいシャツをワンピースのように着て、遠目でも綺麗な顔が見て取れる。
 まさか……そう思った途端、それは確信に変わった。

「琥珀!」

 思わずあげた自分の声で、晴は意識を戻す。気づけばあたりは夜の闇に包まれ、空には疎らな星と、異様に大きな赤い月が見えた。
 たった今、夢幻の中で見たビジョンが頭を過ぎり、背中に冷や汗が流れる。嘘だ、あり得ないと心が叫び、心臓がバクバクと音を立てて波立った。

 幻の中で、琥珀は死にかけていた。もしあれは現実だとしたら、放ってはおけない。彼女は以前、自分を助けてくれた。今度はこちらが助ける番だ。
「っ……」
 立ち上がった途端、背中と手足が酷く痛んだ。激痛に顔を歪め、晴はまた動けなくなった。ほんの少し身体を動かすだけでも、全身がズキズキと痛む。痛くて歩けない。どこか折れているのかもしれない。
 どうしよう。
 途方に暮れ、夜空を見上げた。
 都会の星々は疎らで小さい。だが彼方の山間近くには、闇を飲み込むように巨大な赤い月が不気味に光って見えた。胸騒ぎが止まらない。
 行かなくては……殆ど強迫観念のような、言い知れぬ使命感で、晴はじりじりと歩き出した。痛む身体を引き摺り、一足毎に休みながら、前へ前へと進み、かの地を目指す。
 そうしてようやく目指す河川敷が見えてきたのは、すでに朝日も昇ろうという時刻だった。
 東の空から太陽も顔を出し始め、闇に包まれていた世界は一変していく。薄く赤く滲んだ空は、やがて透き通るように明るくなり、あたりは薄いオレンジに染まる。
 光に満ちた新しい朝、その日の朝日を浴びながら、晴はまるで蛆が這うようにのろのろと進み、ようやく辿り着いたその地に、彼女はいた。

「琥珀! 琥珀……っ」
 乱れ散る黒髪、投げ出された手足、血……。
 倒れている彼女の下へ、晴は駆けた。身体の痛みも忘れ、夢中で走り、物言わぬ琥珀に取り縋る。呼んでも無駄なことは、子供でもわかった。
 来ているシャツのボタンは弾け、まだ未成熟な膨らみかけた乳房が覗いて見える。そして緩やかな隆起の上には、既に黒くなりかけた血の塊があった。
 白い胸に赤黒い染み。それは今咲いたばかりの黒薔薇のように琥珀の肌を彩る。取り縋り抱えた彼女の身体は、冷たく、固かった。
 嘘だ嘘だと心で叫び、既に色も変わり始めている頬を掴んだ。怒りと悲しみで身体が震える。
 ぼろぼろになった衣服と、胸の傷、手にも顔にも、殴られたような痕や細かな傷があり、暴行をうけたのは確実だ。いったい誰がなんの目的でと考えたが真実はわからない。ただ漠然と、胸の中に陰湿な妄想が湧き上がった。その理不尽と、琥珀の無念を思い、晴はまだ小さな拳を握り締める。

 怒りが沸点を越え、正体の知れぬ相手への殺意が明確な形になったとき、耳元で琥珀の声がした。

「なにを見てるの? 私はこっち」
 え?
「怖い顔してるわね、晴」

 驚いて振り向くと、そこには、以前と変わらぬ琥珀がいた。いや、違う。以前よりずっと、綺麗で大人っぽく見える。髪も記憶していたより長い、背丈すらも、少し伸びているような気がした。
 落ちてくる髪を耳にかけ、どうかした? と首を傾げる仕草は妖艶で、語りかける唇は赤い。
 まるで、数年も先回りして生きたかのようだ。
「琥珀……今、そこに」
「そこに?」
 そこ、と言って振り返った地には、枯れ草が風に靡いているだけで、他になにもない。
 そんなばかなと、晴は目を見張る。目の前の琥珀と、先ほど見たはずの血塗れの琥珀。どちらが本物なのかわからなくなった。
 呆然とする晴に、琥珀はバカねと笑った。そして棲家である排水口へと誘う。だがその中へは入らず、コンクリートの上に座り込んだ。
「なにか見たの?」
「さっき、キミが倒れてるのを見た……気がしたんだ」
「私が?」
「うん、血塗れだった、死んじゃったんじゃないかと思って、僕」
 大丈夫かと聞くと、琥珀はあんまり大丈夫でもなかったわと肩を竦めた。真剣な表情で朝日を見つめる横顔は、少し青ざめて見える。
 琥珀は座り込んだコンクリートの上で、膝を抱えた。指先が微かに震えている。
「あんたが見たのは数時間前の私、ゴミみたいな男にやられてさんざんだったわ」
「大丈夫、なの?」
「大丈夫じゃないって言ったでしょ」
「どこか痛い? 血、出てたよね、お医者さんには行った?」
「血……ああ、そうね、あのクソみたいな男、こんなでっかいナイフ、持ってたのよ、あり得ないわ!」
「ナイフ……刺されたの?」
 幻で見た琥珀は、胸から血を流していたように見えた。もしもあれが現実なら彼女は死んでいる。死なないまでも、かなりの重傷の筈だ。とてもここで話などしていられはしないだろう。だからあれはただの夢、幻だ。だが、それにしては鮮やか過ぎた。
 思い出せばまた怖くなる。身体が震え、脳髄が冷たく沸騰する。もしもあれが現実なら、琥珀をそんな目にあわせた男を放ってはおけない。必ず同じ目に、いや、倍の痛みを与えてやらなければ気が済まない。
 怒りで我を忘れそうになる晴に、琥珀はやめなさいと話した。その視線は母のように優しい。
「あんたがすることじゃないわ、やられたのは私よ、だから私がするの」
「するって、なにを?」
「復讐よ、身の程知らずの男と、浅はかな母親にね」
「お母さん……?」
 聞き返すと琥珀は、暗く沈んだ目でそうよと答えた。彼女の母親は、自分の幸せを守るため、娘を殺そうと考えたのだ。

 琥珀の母、紗江子《さえこ》は、当時付き合っていた男に捨てられ、誰にも告げず、たった一人で琥珀を生んだ。そして生み捨てたまま出生届も出さず、世間に隠して生きた。
 だが女手一つ、生活するにも金はいる。乳飲み子を抱え、生活に困窮した紗江子は、やがて娘の死を夢見るようになる。
 この子さえいなければ自分は自由だ、もっと楽に生きられる。夢にもそう考え始める頃、努めていた会社の社長子息に見初められた。そして情熱的な求愛を受け、玉の輿に乗ることになる。
 そこで子供が邪魔になり、紗江子はまだ一歳だった琥珀の首を絞め、ゴミ捨て場に放置して逃げたのだ。
 晴れて独り身となった紗江子は、めでたく社長夫人になった。夫との間に一児を儲け、幸せの絶頂だ。だがそこへ琥珀が現れた。紗江子の動揺は見るも哀れなほどだった。

「あの女、私を知らないと言ったのよ、知らないはずないわ、知らないならあんなに動揺するわけないじゃない」

 最初、琥珀が訪ねて行っても、紗江子は誰だかわからないらしく、きょとんとしていた。生まれも育ちもいい上流の婦人のように、首を傾げ、どなたかしらと問う母に、琥珀は十三年前、あなたが置き去りにした娘ですと答えた。その途端、紗江子は血相を変え、あんたなんか知らないわと怒鳴った。それまでの上品さはどこへやら、玄関に飾られていた花瓶や美しい絵の填め込まれた額縁を投げつけながら、帰って、帰ってと叫んだ。
「バカよね、嘘をつくにしても、もう少し利口な嘘にして欲しいわ」
 琥珀は腹立たしげに呟き、足元に転がる小石を投げる。小石は思いのほか遠くまで飛んだらしい、はるか先の川辺で小さな水音が響いた。風がそよぎ、どこか生臭い匂いが漂う。晴はわけもなくどきどきしながら、朝日に照らされる琥珀の顔を見つめた。
「挙句どうしたと思う? あの女、昔馴染みのチンピラに、娘を殺してくれって頼んだのよ」
「えっ?」
「勝手に作って、いらないからって勝手に捨てて、今度は思い出したくもないって殺すんだって、最低だわ、ほんと最低、生きる価値ない」
 だから死んでもらうのよと、琥珀はこともなげに言った。その言葉にはなんの躊躇いもなかった。
 彼女は本気だ。本気で母親を殺そうと考えている。瞬時にそれを理解した晴は、その手助けをしたいと思った。彼女の望みは全て叶えてやりたい。
 思いつめ、そう申し出ると、琥珀はそう言ってくれると信じてたわと、口角を上げた。その唇は赤く、晴を見つめる瞳は万華鏡のごとく輝いて見える。
 薄茶色の瞳が徐々に輝きを増し、濃い金になる。そしてその金さえも押し退け、瞳全体が赤く燃えた。
「琥珀……?」
 瞳の色が赤に染まる頃、川からの風に靡く黒髪は、その風に煽られるように逆立っていった。そして、毛先から徐々に血の赤に染まる。
 それは、それまで硬い蕾だった大輪の薔薇が、突然開花したような、異様だった。

「最初はあの男よ、母はその後」

「あの男?」
「ええ、私を襲った男、どぶねずみよりも汚い、蛆のような奴よ」
 さっきまでとは打って変わり、憎しみの篭った低い声で、琥珀は答えた。
「あの男、私を刺したのよ、何度も何度も……切りつけて、引裂いて、笑いながら犯した、絶対に、ユルサナイ」
 赤く染まった目で叫ぶ琥珀の声は震えていた。その震えが、彼女の無念と怒り、そして僅かな恐れを表している。
 この仕事は、彼女一人では無理だ。そう感じた晴は、自ら支えとなることを誓い、願った。その決意に、琥珀も頷く。
「晴、あんたがいてくれてよかったわ、一緒に、戦いましょう、あんたも、妹の仇を討ちたいでしょう?」
「え、なんでそれを?」
 妹が死んだという話は、まだ彼女にしていない。それなのになぜわかるのだと問うと、琥珀はわかるわよと、赤く染まった瞳で答えた。
「私は私の敵を討つ、あんたはそれに協力してくれればいいの、そしたら次はあんたの敵を討ってやるわ、どう?」
「どうって……」
 父親を殺したいかと聞かれ、晴は黙り込んだ。たしかに憎い、死ねばいいのにと思うこともある。だが、本当にそれでいいのかと考えると、心に小さな迷いが生じる。
 優しくされたことなどない。父はいつも不機嫌で、怒鳴ってばかりだし、母は縮こまったまま、自分たちを見ようともしなかった。
 いつもお腹を空かせていた。いつも殴られてばかりいた。生きる意味など見出せることはなく、ただ妹だけが生甲斐だった。
 その妹も、もういない。一滴の水も与えられることなく、干乾びて死んだ。
 殺したのは誰だ?
 父か?
 母か?
 自分か?
 その結論は出せなかった。
 だがそれであの両親を殺していいのかと考えると迷う。
 死ねばいいと願い、殺せとどこかで声がする。その一方でまた、殺さないでと泣く声もあった。

「迷うことないわ、やっていいのよ、あんたの妹を殺したのは誰? あんたじゃないわ、奴らよ!」
「でも……」
 悪いのは誰だ?
 本当に父親が悪なのか?
 まだ迷いのある晴を見越し、琥珀はスイと立ち上がる。
「いいわ、じゃあまずは私のほうを殺る、あんたのほうはその後で考えましょう」
 いいわねと念を押す琥珀の左手には、どこから持ち出したのか、大きなハンティングナイフが握られていた。その刃に銀の輝きはなく、錆び付いたように赤黒い。
「それ……」
「ああ、これ? あの男が私を刺すときに使ったヤツよ、ほら、ここんとこ、黒いでしょ? これは私の血」
 金属の刃にびっしりとこびり付く赤黒い染み。それが本当に琥珀の血だとしたら、彼女は相当な深手の筈だ。こんなに普通に喋れるわけがない。だが彼女の赤い目が、赤い唇が、その異様を嘘ではないと悟らせた。それを証拠に、琥珀の胸には、今しも赤黒い染みが滲み出している。
 真新しく滴る血を意にも介さず、琥珀は天にナイフを翳す。
「この世界は狂ってるわ、大人は快楽を追うことばかり考えて、親は子供を愛さない、誰も彼も、自分が幸せならそれでいいと思ってるのよ、割りを食うのはいつも子供だわ」
「そうかもしれないね」
「かもじゃない、そうなのよ、だからあんたの妹も死んだのよ」
「ヒナ……」
 ほんの数時間前に見た幼いヒナの惨たらしい遺体を思い出し、晴の胸にも青白い種火が灯る。
 あの子を殺したのは誰だ? 勝手に作り、勝手に生んで、飢えも乾きもする子供を、まるでゴミのように疎んじた奴ら……なのではないのか?
 どんな命でも、たとえ犬猫でも、あんな死に方をしていいわけがない。
 根暗い憎しみが晴の中に満ち、そして琥珀は、翳したナイフに、復讐を誓った。
「世界の汚れは、全て私が打ち払う、私はこの世界を破壊する者、フィーンドになる」
「フィーン……?」
「ええ、FIEND……鬼って意味よ」
「なんで! キミは鬼なんかじゃないよ、鬼はキミを傷つけた奴らのほうでしょ?」
「……そうね、鬼は奴らだわ」
 妙に納得した表情で、琥珀は頷いた。晴はそんな彼女をそれ以上傷付けたくないと、血染めのナイフを握る琥珀の手を取った。
「一人でやろうとしないで、琥珀、僕も一緒だ」
「私は鬼、フィーンよ、それでも?」
「キミが鬼なら、僕も鬼だよ、僕はキミの夢を叶えるための鬼だ」
「ずいぶん優しい鬼ね、晴」
「キミとヒナのためなら、僕はなんでも出来るよ」
「ありがとう」
 晴の申し出にフィーンはニコリと笑い、そして再びナイフを握り締めた。

 フィーンの長い髪が朝日を受け、赤く燃え上がりながら逆立つ。
 平穏な河原に錆びた鉄のような臭気が漂い、細い身体からは赤い蒸気が立ち上るのが見えた。
 それは、異様に赤い朝日の照り返しが見せた幻かもしれない。だが、晴の目には赤に染まる彼女が、たしかに見えていた。