――おにいちゃん。

 夢の中で、自分を呼ぶヒナの声がした。そっと目を開け、声のするほうを見ると、そこには妹の可愛らしい顔があった。
 髪もきちんと生え揃い、おかっぱ頭にピンク色の小さなリボンをしている。服もリボンとお揃いのベビーピンクで、手には小さなぬいぐるみを持っていた。いつだか部屋に放り出してあった雑誌に載っていた、小振りのテディベアだ。ぬいぐるみのくせに、ヒナと同じデザインの服をつけている。
「ヒナ……どうしたの? 可愛いね」
 問いかけてもヒナは答えず、ただニコニコと笑っていた。酷く身体がだるかったが、ヒナが幸せそうに笑うので、晴も嬉しくなった。
 無理して起き上がろうとすると、彼女はそれを制し、小さなポシェットからパステルカラーに輝く飴玉《あめだま》を取り出す。
「はい」
「どうしたの、これ、くれるの?」
「うん、あげる」
 飴玉なんて、ずいぶん久しぶりに見た。うちにお菓子があるなんて、いったいどこから見つけてきたのだろう。もしかしたらお母さんがくれたのかな? でも、そんなことあるかな? 不思議に思いながらも、晴は差し出された飴玉をヒナの手元に押し返した。
「僕はいいよ、ヒナ食べな?」
「いい、ヒナたくさんもってるから、おにいちゃんたべて」
「でも……」
「おにいちゃん、いつもヒナをまもってくれて、ありがとうね」
「当たり前だよ、僕はお兄ちゃんなんだから」
「ヒナ、おにいちゃんのいもうとでよかった、おにいちゃん、だいすき」
 だからあげると、ヒナは飴玉を差し出す。不思議な虹色をした小さな飴は、硝子細工のビー玉のように、きらきら光って見えた。恐る恐る、その珠を手に取る。
「ありがとう」
「どういたしまして」
 晴に飴玉を手渡したヒナは、大人びた口調でおしゃまに答え、とても幸せそうに微笑んだ。その微笑が眩しくて、晴は目を細める。小さいはずの妹が、とても大きく、美しく見えた。
 手の中の飴玉が熱い。
「ごめんヒナ、お兄ちゃん、ちょっと眠い……」
「うん、ねていいよ、ヒナここにいるから」
「ごめんねヒナ」
「へいき、おやすみ、おにいちゃん」
「うん、おやすみ、ヒナ」
 妹から飴玉を貰い、晴はそれを握り締めて目を閉じた。
 きっと、お父さんが改心してくれたんだ。ヒナやお母さんを可哀想に思って、うんと働いてくれたんだ。
 もう、お腹が空いて泣くこともない。お母さんも、ヒナも、みんな幸せになれるんだ。
 良かった。
 安らかな気持ちで目を閉じた晴は、それからまたずいぶんと長く、眠り続けた。そして、引き攣るような胃の痛みと、頭痛で目を覚ます。

 目の前が暗い。ここはどこだと首を捻る。
 そっと手を伸ばすと、木で出来た梁と、和紙に触れた。いつもの押入れだ。ではあれは夢か……?
 そういえば、ヒナはあんなにすらすらと喋れない。満足に歩くこともできない。髪も、ばさばさで薄い。あれは、こうであって欲しいと願う、自分の願望が見せた夢だったのだ。
 でも、幸せな夢だったなと口を硬く結び、晴は半身を起こした。そして反射的に伸ばした手の先に、ヒナがいないと気づく。
「ヒナ?」
 慌てて起き上がり、晴は傍らを手探りで探した。だが隅から隅まで探しても、ヒナの小さな身体にはつき当たらない。
「ヒナ、ヒナ、どこ? ヒナ、返事して!」
 妹を探し、声を上げる。するとその声を聞きつけたのか、押入れの襖が僅かに開いた。
「ダメよ晴、お父さん、今寝てるの、静かにして」
「お母さん……?」
 顔を出したのは母親だった。細い手をした母親は、押入れの中の晴にそっと触れ、怯えた声で、大丈夫かと聞いた。開けられた襖の隙間から入る光で、晴は自分の惨状に気づく。手足は内出血で変色し、ところどころ腫れ上がって、まるで怪物のようだ。着ている服は、傷から染み出た血で汚れ、ごわごわと固まっていた。
「お母さんが、助けてくれたの?」
 その惨状を見て、晴はようやく思い出した。自分はあの時、怒り狂った父親に殴られ、気を失ったのだ。あのあと、どうなったのだろう? 父親は、動かなくなった自分を見て、それ以上殴るのをやめ、放り捨てていったに違いない。そして母がそれを見つけ、匿ってくれた……だが、では、ヒナは?
 突然その疑問に突き当たった晴は、怯えた目をして、ただおろおろと座り込んでいる母親に叫んだ。
「お母さん、ヒナは? ヒナはどこ?」
「ヒナ? え、知らないわ」
「知らないって、そんな、ヒナだよ、お母さん、見てないの?」
「やめて! 怒鳴らないでよ、お前までお母さんを責めるの?」
「お母さん……」
 食事も満足に取れず、いつも夫に責められ詰られ続けた母親は、精神を病んでいた。大きな物音に怯え、子供の泣き声に怯え、何かあれば自分の殻に閉じこもる。
 今も、彼女は晴の叫びを聞いてはいない。耳を塞ぎ、目を固く閉じている。
「知らない、知らない……知りません」
 ブツブツと何かを繰り返し、耳をふさいで蹲る母親を、晴は悲しく見つめた。
 これ以上、お母さんになにかを聞いてはいけない。聞けば彼女は壊れてしまう。
 蹲る母親の横をすり抜け、晴は押入れの外に這い出た。

「ヒナ、ヒナ、どこ? 返事して」
 父親に気づかれれば、また殴られる。気づかれちゃダメだ。晴は小さな声で妹を呼び、家中探し回った。だが、彼女の姿はどこにもない。
 どこへ消えた? どこに消えた? ヒナの不在に焦りを覚えた晴は、寝ているはずの父親の部屋に駆け込んだ。
「お父さん、起きて、ヒナがいないんだ、ヒナはどこ?」
 真夜中、就寝中をいきなり起こされた父親は煩いと怒り、大きな手を振り回す。晴はそれもかまわず、父親にヒナの不在を訴えた。母親は当てに出来ない。となれば、父に聞くしかない。
「お願い、ヒナを探して、ヒナが見つからないんだ」
「ヒナァ? いねえなら丁度いいじゃねえか、そのまま消えちまえっての」
「そんなのダメだよ、ねえ、お父さんはヒナが可愛くないの!」
「可愛いわけねえだろ、あんな出来損ないのクソチビ、いないなら放っとけ」
「お父さん!」
 自分が殴られるのも顧みず、妹を探してくれと縋る晴に根負けしたのか、父は珍しく腰を上げ、晴を連れて家の中を歩き回った。部屋の隅やテーブルの下、押入れの中、あちこち探し回ったが見つからない。
 早々に探し飽きた父は、喉が渇いたと台所に歩き、水道の蛇口を捻る。
 そして……。
「まさか、こんなとこにいねえよな?」
 なにか予感めいたものを感じたのか、首を捻りながら身を屈め、水道下の小さな戸棚を開けた。
「うわっ……わっ!」
 戸を開けたとたん、彼は情けない悲鳴を上げて尻餅をついた。驚いた拍子に腰でも抜けたのか、あわあわと、言葉にならない声をあげながら、戸棚の中を指差す。
「あれ……あれ」
 それにつられ、晴もその中を見た。
 薄暗い部屋の、さらに暗い流し台下、その戸棚の奥。ジメジメとした空気に混じり、胸が悪くなりそうな臭気が漂う。下水管にこびり付くヘドロの臭いだ。
 気持ち悪くて、目も口も開けていられない。晴は顔を顰め、目を細めて中を覗いた。

 なにかある。
 なにかいる。

 排水溝に寄りかかるように、小さく黒い、ぶよぶよした塊がある。
 これは、なんだ……? 嫌な予感に動機が早まる。まさかという思いでドキドキしながら、晴はその塊を見つめた。そして、その塊がなんなのかに気づき、大声で泣いた。
「わああぁあっ!」
 青黒く変色し、すでに腐りかけているそれは、晴が必死で護り、捜し求めた、ヒナだった。

「ヒナ、ヒナ……ヒナ、ごめん」
 小さな妹の乾き、痛み、苦しさを思い、晴は泣いた。ごめんなさい、ごめんさないと、頭の中で繰り返し、ただ泣いた。
 と、そのとき、背後に佇む父、父親が、晴の肩を突く。
「晴、いますぐ北側の茶の木んとこ、掘って来い、こいつを埋めるぞ」
「え……?」
「これ以上腐ったら始末に負えねえ、とにかくさっさと埋めちまおう、まったく、なんでこんなとこで死んでんだ、猫だって死ぬときは家から消えるっていうぜ、こいつは猫以下だな」
 父親は、やれやれという口調で、蔑むように話す。その顔は、笑ってさえいた。
 この父は、娘の死に嘆き哀しむどころか笑うのか。自分の娘が死んだのに笑うのか。こみ上げる怒りで、身体が震えた。
「どうした? 早く行け」
 動かない晴に、父親が行けと命令する。だが晴は聞かなかった。
 許せない。
 こんなところで一人寂しく、惨めに死んだ彼女に、もっと言うことがあるはずだ。憤り、昂り、父親を睨む。その目に気づき、父親も眉間に皺を寄せた。
「なに睨んでんだ、さっさと行け!」
「嫌だ!」
「……なに?」
 晴の拒絶の声に、父は首を捻り、間抜けに口を開いた。彼の中には、晴が口答えをするという展開はないのだろう。聞き慣れない異国の言葉を聞くように、首を傾げ、その言葉の意味を反復していた。
「なんだ? なんと言った?」
 その問いかけに、晴は首を振る。ヒナが死んだのに、父はなぜ、こんなに平然としていられるのだ。あの小さな子はもういない。いつかお金持ちになって、お腹一杯ご飯が食べられる日が来たとしても、彼女はそれを食べることも出来ない。
 可愛らしい服も、ささやかな玩具も、揺ぎ無い愛情も、何一つ得られないまま、腹を空かせ、乾き、死んだ。
 この先なにがあっても、彼女は笑わない。

 哀れとは思わないのか?
 悲しみはないのか?
 彼女はなんのために生まれたのだ?

 半身とも言える妹を失った悲しみは、怒りに変わり、晴は己を顧みず、叫んだ。
「ヒナは妹だよ、お父さんの子供じゃないか! なんでお父さんは笑ってるの? 酷いよ、ヒナが可哀想だ!」
「は? なにが可哀想だ? 可哀想なのは俺のほうだぜ、この忙しいのになんで死体の始末までしなきゃなんねえんだ、最低じゃねえか」
「なにが忙しいの? お父さん寝てたじゃないか! お父さんがお金をくれないから、お母さんだって、いつも困ってるのに、少しはみんなのことも考えてよ!」
「ふざけんな! てめえ、親に意見する気か!」
 それまでいっさい自分たちに逆らわなかった晴の思わぬ反抗にカッときた父親は、大きな手で胸座を掴んだ。それでも晴は怯まない。
「ヒナに謝ってよ! ごめんなさいって言ってよ!」
「なに調子こいてんだ? 自分がお情けで生かされてるってわかってんのか? いっぺん死ぬか?」
「怒鳴ったって怖くないからね! お父さんなんて、ヒナやお母さんみたいに弱い人を苛めることしか出来ない、弱虫じゃないか!」
「なんだと?」
 感情に任せ叫んだ晴を、父親は睨んだ。困惑は怒りに、怒りは憎しみに変わる。
「ちっと優しくしてやりゃあ、いい気になりやがって、無駄飯食うしか能がねえくせに! 人に文句言えた立場かよ!」
「ご飯なんか、食べさせてもらったことないよ!」
 部屋の隅でいじけて縮こまった母親は、ほんの少しの食料を全部食べてしまう。だから自分はいつだってお腹が空いていた。家中這い回り、ようやく見つけた食べ物も、横で泣く妹に全部あげた。
 自分の腹に入って来るのは最後の最後、ひもじさをやり過ごすため、野菜屑でも弁当の食べ滓でも、見つけられれば何でも食べた。それでも、渇きと飢えは癒せない。お腹が空いて、苦しくて、意識も遠のく毎日で、何度も死ぬことを考えた。
 それを思いとどまらせ、生きる気力を与えてくれたのはヒナだ。
 あの子の微笑みが、あの子の温もりが、生きる力をくれた。

「ヒナを返して! ヒナを返してよ!」
「ふざけやがってガキが偉そうに! 誰のお陰で生きてると思ってんだ!」

 理不尽に身勝手に憤った父親は、ほとんど無意識に拳を握り締め、思い切り振り下ろした。拳は晴の頭に、頭蓋を砕く勢いでぶち当たり、晴はその場に崩れ落ちる。

――おにいちゃん!

 遠くで、ヒナの叫ぶ声がした。

 ***

――おにいちゃん。

 どこかで、自分を呼ぶ声が聞こえた気がして、晴はそっと瞼を開く。だがあたりに人の気配はなく、物音一つしなかった。

 ここはどこだ?
 自分のいる場所を確認しようとして身体を捻ると、全身がギシギシと痛んだ。父親に殴られて、気を失ったらしいということはわかったが、今がどういう状態なのかわからない。ここは押入れの中か? 確かめようと手を伸ばし、指先が地面に当たってようやく思い出した。
 殴られ蹴られ、追い詰められたあのとき、ヒナの声が聞えたのだ。

「おにいちゃん、がんばって、ここから、にげて」
――でもヒナ、お兄ちゃん、もう動けないんだ。

 絶望と諦めだけが身体を支配し、晴が自ら目を閉じようとしたときだった。すぐ近くで、ヒナとは違う、また別の声がした。どこかで聞いたことのあるような、独特のイントネーションを持った男の声だ。

――お前、本当にそれでいいのか?
「誰?」

――立てよ、奴らに、思い知らせてやるんだ。
「思い知らせる? 誰に?」

――奴らだ。
「奴ら? 奴らって誰?」

 聞き返す晴に、その声は返事をしなかった。代わりに聞こえてきたのはヒナの声だ。

「おにいちゃんにげて、おとうさんなんかやっつけてにげて」
――ヒナ……。

「にげて」
――無理だよ。

 ヒナは死んだのだ、彼女の声が聞こえるはずはない。押入れの隅にも、納戸にも、流し台の下にも、母親のベッドの下にも、どこにもいない。これは幻聴だ。だがわかっていても胸が締め付けられる。
「ヒナ、ヒナ、泣かないで? ヒナが泣くと辛いよ」
「じゃあにげてよ、ヒナのためににげてよ」
「ヒナ……」
「おとうさんなんかやっつけてよ」
「……わかった」
 これは、死に際の夢かもしれない。心のどこかで思ったが、そうだとしてもヒナが望むなら、叶えてやりたい。
 それまでずっと、父親の暴力に耐え続けてきた晴は、その時初めて、自らの拳を握り締めた。

 それから自分がなにをどうしたのかはよく憶えていない。気づいた時にはもうここにいた。腫れた瞼の間から見える空は薄暗く、手には土の感触がする。

 逃げられたのか?
 お父さんはどうしただろう?
 ヒナは?

 晴は暗闇に妹の姿を探そうとした。だがどこにも見えない。さっきまで聞こえていたはずの声も聞えなかった。
 あたりを覗ってみても、暗い空が見えるばかりだ。ではアレは夢、幻だったのか?
 晴は失望し、小さな息をつく。
 そして再び目を閉じたとき、チリッとこめかみが痛み、世界に亀裂の入る音がした。