なにもかもが気に食わない。全てが上手くいかない。行き詰まり、追い詰められたフィーンは、忌々しく地面を蹴り、天空を見上げた。
 嵐にでもなれば、気分も乗るのに生憎の晴天、雲一つない青空で、余計にムカムカする。

 オウガが消えれば、全て上手くいくと思っていた。ゼノは自分の言うことに反対はしない。邪魔するのはオウガだけだ。だからオウガを消そうと思った。
 だが、その結果、消えたのは、オウガではなく、ゼノだった。

 ゼノの消失はフィーンに大きな打撃を与えた。絶対に裏切らない、いなくならないと思い込んでいた存在が消えたのだ。心の平安は崩れ去り、精神は昂るばかりだ。
 誰の血でもいい、とにかく血が見たい。誰かを殴りたい。
 追い詰められ、切羽詰まったフィーンは、宮田刑事を使い、その欲求を晴らそうとした。だが出来なかったのだ。宮田が言うことを聞かなかった。襲撃は失敗し、宮田は逮捕された。
 このままでは自由を失う。仕方なくフィーンは宮田から離れた。

「クソッ!」
 霧のように淡く儚く、霧散していこうとする掌を見つめ、忌々しく唸る。一番嫌な手だが、それしかないらしい。
 覚悟を決めたフィーンは、幹線道路脇で彼を待った。早く来い、早く来いと待つ時間は長い。じりじりと消えてゆく掌に焦りを覚えながらただひたすらに待つ。そして小指が消えかける頃、彼は現れた。銀杏並木が続く道を無表情に歩いて来る。
 自分の勝ちを確信し、フィーンはニタリと笑いを噛み殺す。だが、彼に声をかけようとした瞬間、他方向から別の人間の声がした。

「ゼノ!」

 話しかけられた少年は不思議そうに口を開き、呆然とした瞳を向ける。そして、自分に話しかける相手が誰なのか、思考を巡らすように暫く見つめ、だいぶ経ってから、ようやく答えた。
「草薙、さん……?」

 驚いたように呟くゼノに、草薙は泣きそうな目をして駆け寄った。ゼノがいなくなったのは、僅か三週間前だが、それが悠久の過去に思える。
 もう会えないと思っていた。だから尚更、この偶然の再会が嬉しい。
「よかった、もう会えないと思ってたんだ」
「俺が、ゼノに見えるのか」
「なんだよ、まだ怒ってるのか? 悪かった、謝るよ」
「別に、怒ってやしない」
「じゃあなんで出て行ったんだ、気に障ったからじゃないのか?」
 ゼノの表情は、怒っていないというわりに固く、冷たかった。
「(ゼノが)なぜ出て行ったのか、教えてやろうか?」
 芝居がかった仕草でゼノは聞き返す。草薙は教えてくれと即答した。いつでも真剣で大真面目、それがこの若者の短所でもあり、長所でもある。
 真面目に突っ込まれれば、突っ込まれたほうも真面目に答えなければいけない気分になる。知らず知らずに本音が出る。思わず言ってはならない真実を口にしてしまいそうで、醜い自身を晒してしまいそうで怖くなるのだ。それはゼノも例外ではない。
「あんたに、見られたくないからさ」
「え……?」
 見られたくないから逃げた。
 憶測だが、たぶんそれは正解だ。大人は信じないといいながら、ゼノは草薙を信じた。だからこそ彼の言い分を聞き、同居の提案に応じた。その彼に背かれる、それが怖いのだ。
 自分もそうだが、ゼノは特にそうかもしれない。侵入を許し、心を開いた相手に嫌われ、恐怖されるのが怖い。信じて愛して、挙句捨てられるのが怖いのだ。だから逃げた。それが正解だ。
「全てを知ったあんたに、見放されるのが怖かったんだよ」
「え、あの……なんで」
 それまでとは全然違うゼノの態度、物言いに、草薙も戸惑う。見放されたと思ったのは、自分のほうだ。
 無理強いはしない。言いたくないだろうとわかっていることはしつこく探らない。嫌がることはしない。それが最初からの約束だった。それを破ったのは自分のほうだ。信じられないと見限られても仕方ないと思っていた。
 全面的に自分が悪い。だが心配だ。
 だからせめて、謝りたい。もしまた会えるのなら、きちんと謝り、また一緒に暮らしてくれないかと頼むつもりでいた。
「本当に心配したんだ、俺が悪かった、もうキミが嫌がることはしないから、帰ってきてくれないか?」
「どうして……」
「心配だから……乗りかかった船だし、というか、ほんとに」
「なんの得にもならないぞ」
「得をしようなんて思ってないよ」
「だろうな」
「え?」
「いや、何でもない」
 草薙の真剣さと実直に、心が揺れる。全て話してしまいたくなる。
 だがその結果、何がどう転ぶかは、予想もつかない。
 ただ一つ言えることは、このまま彼を突き放しても、ゼノは戻って来ないということだ。
 ゼノの消失は自分らの消失にもつながる。そうさせないためには、彼を救うためには、どうずればいいのか、そこを考えたとき、草薙は必要なパーツだと思えた。
 だがことは重大だ。そう簡単には信じられない。
「あんたはゼノが好きなのか?」
 思わず訊ねた質問に、草薙は少し戸惑った表情で頷いた。
「は? や、まあ、そりゃ当然……いや、別に変な意味じゃないぞ」
「わかってる」
「……なら、いいんだけど」
「帰ってきて、くれるかい?」
「そうだな……とりあえず、あんたの家に行こうか、詳しい話はそのあとだ」
「詳しい?」
「ああ、いろいろとな、あんたには話しとかなきゃならないと思う」
「いろいろって、なにを……?」
「それはあとで、ゆっくりと話そう」

 大人びた表情のゼノは、顔を動かさず、視線だけであたりを覗いながら話した。時折小さな肩がピクリと震え、なにかを警戒しているように見える。
「なに、なんかあるのか?」
 最初会ったときも、彼はやくざ者らしき男たちとトラブルを起こしていたようだった。結局あのときの理由も聞かせてもらっていないが、家に保護していたときも傷を負ってくることが多かった。
 もしかしたらあれは終わっていなかったのではないか? あのときの連中は全部死んでいるが、他に仲間がいないとも限らない。
 もしゼノが何らかのトラブルに巻き込まれ、やくざ者に追われているとしたら、家になかなか帰って来なかったのも、自分を巻き込むまいとしてのことだったのかも……。
 思い描いた想像が正解のような気がして、草薙は息を飲んだ。今も何者かがこの子を狙っているのかもしれないと思えば背筋も寒くなる。
「追われてるとか?」
 思わず訊ねると、ゼノは仔細ありげな目をしてそっけなく、別にと答えた。だがさらに突っ込むと、今度は目を伏せ、少し低くなった声で、あとで話すと答え、先に立って歩き出す。それが正解なのだと判断した草薙も後を追った。今度は彼も話してくれるだろう。
 全ては、家に帰ってからだ。

 そこから草薙の家までは電車を乗り継ぎ、駅からも少し歩く。その間ゼノはずっと黙っていたが、電車を降り際、草薙の存在を無視するかのように、前方を見つめたまま、急に口をきいた。
「あんた、なぜあそこにいた?」
「え?」
 さっきゼノを見かけ、声をかけたのは、同じ都内ではあるが、草薙のアパートとはかなり離れている。バイト先からも遠い。それなのになぜと言うのだろう。静かながらも、有無を言わせない威圧感のある問いに、ドキリとした。
 ここで返事を間違えてはいけない。間違えれば彼はまた自分から離れてしまうだろう。離れたら最後、今度こそ見つけられなくなる。
 そう考えた草薙は、全てを正直に話すことにした。相手の誠意を得たいなら、こちらがまず誠意を尽くさなければならない。
「実はね、重田さんから聞いたんだ」
「重田? 奴がなんと?」
「うん、僕がキミを探してるって話したら、あのへんにいるかもしれないって」
 東京都渋谷区、渋谷駅を挟んで、ハチ公広場と点対称になるあたり、有態に言えば渋谷警察署付近だ。重田は、その日、そのあたりにゼノがいるかもしれないと草薙に話した。
 彼がなぜそんなことを知っているのかわからないが、それを頼りに捜し歩き、偶然出会えた。そう話すと、ゼノはさっきより少し視線を落とし、ポケットに両手を突っ込んだまま、早足で歩いた。
「どうしたんだ、なにか引っかかる?」
「やはり殺しておくべきだったな」
「え?」
 物騒なセリフにドキリといて、思わず前を行くゼノの腕を引く。すると彼は静かに振り返り、子供とも思えない力で草薙の手を外した。その目は憎しみと軽蔑に満ち、気のせいか青く光って見えた。
「あの刑事に俺たちの情報を流したのは重田ってことさ、いや、最初からつるんでたのかもな」
「なに、情報? なんの話なんだ」
「……なんでもない」
 それきりゼノはなにも言わなくなった。黙ったまま、先へ先へと急ぐ。また失敗したかなと不安になる。
 だが彼は話してくれると言った。だから信じようと思い、草薙は後を追った。

 ***

 家につくと、ゼノは一変して所在なげな顔であたりをきょろきょろと見回した。どこに居ればいいのかわからない。そんな感じだ。
「どうした? 座っていいんだぞ」
 彼がいつも座っていた長椅子を指して話すと、ゼノは今気が付いたというように小さく頷き、恐る恐ると腰かける。まるで借りてきた猫だ。
 彼は、こんなに他人行儀だったろうか?
 横柄な態度でも、冷たい対応をしていたとしても、これまでのゼノには、こちらに対する親しみというか、一種甘えに似た身内感があった。憎まれ口もそっけない態度も、気を許しているからこそのもののように見えた。だが、今の彼にはそれがない。初めて会った他人のようだ。いや、もともと他人だが、それにしても……。
 なんとなく妙だなと思った。
 思ったとたん、本当に彼が別人に見えてきた。
 浅黒い肌。
 薄く灰色っぽく見える髪。
 緑がかった色の薄い瞳。
 筋肉の発達した腕。
 どんより曇った生気のない表情。
 全身から感じられる異常なまでの警戒心。
 そのすべてがそれまでのゼノのイメージからかけ離れている。もはや別人。逆に、よくこれで彼をゼノだと確信できたものだと思いたくなる。
 それほど、今、目の前にいる彼は他人だ。
「キミは……誰だ?」
 思わず口に出た。
 普通なら、これまでのゼノなら、なに言ってんですかと半分呆れたように肩を竦めて答えたはずだ。だが今ここにいる彼は、真顔のまま、黙って見返すだけだ。背中に冷たいムズ痒さが奔る。
「ゼノ……じゃ、ない、のか?」
 絞り出すように訊ねた。すると彼は、真正面から草薙を見つめ、答える。
「ようやく気づいたか」
「気づいたって……なにに?」
 静かな瞳で自分を見返し、熱のない言葉で淡々と答える目の前の子供に、草薙は戦慄した。姿かたちはたしかにゼノなのに、違う。どこが違うと聞かれれば上手くは答えられないが、違う。醸し出す空気は完全に別人だ。だがまさかそうとも言えない。在り得ない。
 自分で導き出した答えが信じられず、問い返した。するとゼノは、自分の生死にさえ興味なさそうな冷たく乾いた声で答えた。
「今、自分で言っただろ」
「自分で? え、や、ゼノ……」
「ゼノじゃない」
「え……」
「俺はゼノじゃない」
 ゼノの顔をした見知らぬ子供は、静かに、だがはっきりと、自分はゼノではないと言った。その答えに草薙が動揺する。しかし彼はさほど表情を変えず、真顔のまま淡々と話を続けた。
「ゼノはあんたを気に入っていた、いや、懐いていたと言ってもいい」
「え、や、そんな」
 懐かれていた覚えはない。
 草薙はそう思ったが、目の前の子供はそうだと頷く。
「暗黙の了解で、俺たちの中で意見が割れたとき、最終判断はゼノに任せるというのがあった」
「うん?」
「ゼノはあんたを信頼していた、俺もあんたを信じる、だからあんたも、ちゃんと聞かなきゃいけない」
「よくわからないけど、わかったよ、ちゃんと聞く、話してくれ」 
 俺たちとは誰と誰のことだろうと思いつつ、相槌を打った。なにがどうなっているのかはわからないが、これは聞かなければならない話だと思ったからだ。それをある種の覚悟と受け取ったのか、子供はゆっくり話し始める。

「俺たちの出会いは五年前、季節は夏だった」