崩れかけた入り口扉を蹴り開け、新貝が出てきた。不愉快そうに早足で歩いて来る。自慢の中折れ帽を目深に被っているのは、表情を読ませないためにだろう。
「ご無事で?」
「ご無事だよ、なんもねえ」
 なんともないと答える新貝の上着には、新しい皺がより、少し汚れていた。誰かと争ったあとなのか、身体にもほんのりと熱気が残っている。
 塚原は用心深く内ポケットの拳銃を撫で、背後の建物を覗く。新貝はそれを目敏《めざと》く見つけ、塚原の肩を引いた。
「(拳銃を)仕舞え、もう用は済んだ」
「しかし……」
 あの中に誰かがいる。いつも軽くおちゃらけて見せ、滅多に本性を現さない新貝が動くほど、手強い何者かがいる。それが塚原を緊張させた。だが新貝は気にするなと言い、確認させてくれない。それが余計に不安を煽った。
 理由はない。ただ感じる。あの中にいる者を消さなければならない。でなければ、いつか彼は死ぬ。あの中にいる誰かが手を下すのか、それとも別の誰かかはわからないが、いつか必ず……
「なにしてる、おいてくぞ」
 だがそれ以上思考を巡らすことはできなかった。当の新貝が先を急いだからだ。最近あちこちいろいろとキナ臭い。筒井組からも、何度も脅しめいた申し入れが来ているし先日の例もある。いつ、誰に狙われるかわからない。そう思えば離れることはできない。塚原は、用心深くあたりを探りながら、新貝の半歩前を歩いた。
 新貝が本気になれば、たいていの相手には負けない。だが相手が銃でも持っていたら、丸腰では勝てないだろう。もう少し、せめて事務所につくまではと付き従い、ようやく、あと数メートルで事務所のあるビルだというところまできたときだ。四方から、ばらばらと現れた男たちが、二人に銃を向ける。
 
「とまれ! 動けば撃つ」
 人相の悪い屈強な男たちが十数名で二人を取り囲む。一瞬、筒井組の急襲かと思った。だが中の一人がポケットから出した手帳で、彼らが刑事だと知れる。
「新貝幸人、警察官殺害容疑で逮捕する」
「逮捕状が出た、おとなしくしろ」
「動くなよ! 抵抗するなら撃つ」
 二人を取り囲む刑事たちは、青ざめ、緊張していた。三浦刑事を殺した犯人は、イコールうわさのFOXだと思っているからだ。数十名の命を残虐に切り刻んだ殺人鬼だ、油断すれば自分たちがやられる。その緊張だ。
 おそらく、やむを得ない場合は発砲しても良いと許可は出ているのだろう。誰もが本気に見えた。
 ここで抵抗しても意味はない。逃げることは出来ないし、無駄に撃たれるのも嫌だ。新貝は早々に抵抗を諦め、両手を挙げた。
「はは、怖いな、抵抗はしませんよ」
「幸人さん!」
「いいから、お前も動くな」
 新貝は心配する塚原に、動くなと嗜め、前へ出た。両手を挙げたまま歩く新貝を、刑事たちが取り囲む。
「そのままだ、動くな、動くなよ!」
「動きませんよ」
「じっとしてろ!」
「してます、だからそんな物騒なものは仕舞ってくださいな」
 にこやかに社交的笑顔で、新貝は銃を仕舞ってくれと話した。だが刑事たちは気を緩めようとはしない。すぐにも発砲できるように構えたまま、じりじりと包囲網を縮めていく。
 新貝は両手をあげ、動かない。それでも怖いのか、刑事たちの手は目に見えて震えていた。ほんの少し手元が狂っただけで、引鉄が引かれそうで、見ているほうが怖い。その緊張に耐え切れなくなったのは塚原のほうだ。両手を挙げる新貝の腕を引き、その盾になりながら、懐の銃を刑事たちに向けた。
「どけ! 道を開けろ!」
 ザワリ、と、刑事たちに最大の緊張が奔る。数十名の指が撃鉄を起こす。塚原も身構える。撃ち合い殺し合いは必至に見えた。
 だが、次の瞬間、クルリと姿勢を変えた新貝が、銃を構える塚原の腕を握り、力任せに引き倒していた。
 二メーター近い巨体が乾いた地面に倒れこむ。土埃が舞い、あたりは薄く煙った。
「バカかテメエは! 動くなっつったろうが!」
「幸人さん……」
「ったく、余計なことすんじゃねえよ」
 小さくぼやいた新貝は、やれやれと頭を掻いた。刑事たちが捕まえに来たのは自分だけだ。普通なら自分だけ連行されてそれで仕舞いのはずだった。だが連中に銃を向けた時点で、それもなし、塚原も銃刀法違反と公務執行妨害で逮捕だ。これではあとのことを任せる相手がいなくなる。忠義心からとはいえ、余計なことをしてくれたものだ。
「すみませんね、私の監督不行届きです、勘弁してやってください」
 改めて謝罪すると、緊張で固まっていた刑事たちはハッとしたように動き出し、新貝を取り囲む。なにが怖いのか、我先にと掴みかかる連中に身を任せ、新貝は引き倒されたまま起き上がらない塚原をちらりと見た。
「慌てなくても私は逃げませんよ、抵抗もしない、丁重に扱ってください」
 両手をあげたまま、一切の抵抗を見せない新貝の手に、手錠がかかる。自分の行動が主をいっそうの窮地に陥れた。塚原はその失態に気づき、呆然としていた。だがそれを思いやってやる時間は取れない。
「塚原、お前もだ、なに、ただの銃刀法違反だ、すぐ出てこれる」
「幸人さん……」
「俺のほうは心配しなくていい、刑事殺しは俺じゃない、調べりゃわかることだ、とりあえずおとなしくしとけ、いいな?」
「はい、すみませんでした」
「ほんとお前、真面目だねえ」
 項垂れる塚原と、無抵抗を貫く新貝は、その場で逮捕、連行された。

 午後三時四十七分。
 新貝幸人、三浦正也巡査殺害容疑で逮捕、同時刻、塚原悟志、公務執行妨害、および、銃刀法違反で現行犯逮捕。

 ***

「狐野郎! あのクソ! ブッ殺す!」
 新貝が出て行って数分後、目を覚ましたフィーンは綺麗な顔を歪ませて怒鳴り散らした。やり込められたのがよほど悔しいらしい。
「手を焼かすなら切る……か」
 オウガはそれを聞き流し、そろそろ手を引くかというニュアンスで呟いた。
 彼はいつも冷静だ。ラウに対する考え方も、殺し方も、穏やかで優しい。それは彼の行動が、憎しみからではなく、悲しみや哀れみから発動するものだからだろう。
 彼は、家族を、母を、愛していたのだ。怒り悲しみながらも、人の痛みに気づくことが出来ないラウたちにすら、同情する。だがそれこそが、フィーンをより苛立たせる。
「なにが切るよ、こっちから切ってやろうじゃないの!」
 あいつはあたしを踏みつけたのよ、許さない。と、フィーンは息巻く。彼女は受けた屈辱を忘れない。こうなったら、本当に新貝を殺すまで気は晴れないだろう。それを思えば、なぜもう少し手加減してくれなかったのだと、恨みたくもなるが、それも仕方がない。あれでも彼は充分手加減してくれたのだ。
 もしも彼が本気なら、フィーンの首はへし折れていた。当然、自分らも無事ではいられなかった。殺るか、殺られるか、彼との決着は、どちらかが死ぬまでつかなかっただろう。
 今はお互い、利用されつつ利用して、危うい均衡を保ってはいるが、いずれは破綻する。だが、それはどちらかの、もしくは両方の、死を意味している。
 出来るなら、彼と争いたくない。
 それがゼノの正直な気持ちだった。
「新貝《フォックス》の言うことをいちいち真に受ける必要はないんじゃないかな、彼は気まぐれだ、それに、僕たちを気に入ってる、本気で切りはしないと思う」
 彼は最初に会った夜から、こちらにシンパシーを感じているようだった。怪我をして動けない子供一人、殺して捨ててしまえば面倒もない。だが彼はゼノを殺さなかった。それどころかまだ幼かったゼノに犯罪の片棒を担がせ、生き残りたいなら強者になれと教えた。
 自分や、自分の部下にやらせたほうが早いだろう仕事をゼノに任せ、態度はきついが、食っていけるだけの金と、情報をくれる。
 ゼノにとって、新貝は恩人だ。だが、オウガやフィーンにとっては違う。そこが三者の主張を分けた。
「だからなに! いつあいつの気が変わるか、ビクビクしながら生きろって言うの? あたしは嫌よ!」
「まあまて、新貝《フォックス》もこちらを消したいわけではないだろう、その気ならとっくにやってる、彼は彼で俺たちを飼うメリットを感じてるんだ」
「メリットって、なによ!」
 仲介に入ろうとするオウガを、フィーンは睨む。彼女としては、とにかく早く新貝を殺したい。だがそれにはゼノとオウガの協力がいる。そこがさらに気に食わない点だ。二人を敵に回してはいけないと、理性ではわかるのに、我慢できない。自身をコントロールできない自分に、フィーンも、気づいてはいた。だがどうしても頷けない。
「ん、そうだな……」
 言い出したはいいが、オウガもその理由までは考え付かないらしい、首を傾げ、言い澱んだままになる。フィーンはさらに苛立った。
「ちょっと! 思いつかないなら言わないでよね! バカなの?」
「すまない、だがなにかあるはずだ」
「だから! なにかってなによ!」
「わからない」
「はぁ? なにそれ、ふざけてんの? 舐めてんの?」
 はっきりしない返事に焦れたのか、フィーンは立ち上がった。手にはいつものハンティングナイフが握られている。
「もういい、あんたいらないわ」
「フィーン……」
 彼女の殺意に反応し、オウガも懐に手を入れる。内ポケットには縁引き針が入れてある。それを確認しながらじりじりと下がった。
「やる気か? 仲間を殺すのか?」
「あんたなんか、仲間じゃないわ、最初から気に食わなかったのよ」
「それならなぜ受け入れた? 拒否だって出来たはずだ!」
「知らないわ、ゼノが気に入ってたからじゃない? でももういい、我慢出来ないのよ、あんたは邪魔よ!」
 思い切り我侭に、ヒステリックに叫んだフィーンは、赤い髪を逆立て、ナイフを握りなおす。オウガは身構え、間合いを計った。
「やめろ! フィーン!」
 今にも殺し合いを始めそうな二人の中で、それまでずっと静観していたゼノが怒鳴る。滅多に声を荒げないゼノの怒鳴り声に、さすがのフィーンも手を止めた。燃え上がりかけた髪も、黒く凪いでいく。
「なによ……」
 戸惑い、勢いをなくしたフィーンが聞き返すと、ゼノは争う二人の間に立ち、静かに話しだした。
「新貝《フォックス》は、たぶん、僕たちと同じだ」
「え?」
「同じ?」
「ああ、彼の言動からは、ラウへの憎しみと、虐げられたモノ特有の屈折が見える気がする……たぶん彼も、かつては僕たちと同じ、世界に見捨てられた子供だったんだ」
「新貝《フォックス》が?」
「ああ、そう見えないか?」
「……どうかな、俺にはわからんよ」
「嘘だね、わかってるクセに」
「ふん」
 ゼノの言葉に、思い当たらなくもないという顔で、オウガは頷き、たしかに、と言葉を続けた。
「普通あの人くらいになれば、ふんぞり返って命令するだけになりそうなのに、彼は自分で動く、俺たちに会いに来るにも、必ず一人だ、そこは評価してる」
「だろ? 今回だって、自分が可愛いなら、忠告なんかしないで、黙って切り捨てればすむことだ、でも彼は来た、それに、言ってることは正しい」
 まあなとオウガは頷く。理解は出来なくとも、納得は出来るようだ。だが、フィーンは納得も理解もしない。冗談じゃないわと地団駄を踏んだ。
「なにが評価よ、なにが正しいよ! 信じらんない、あんたたち正気なの? あいつは大人よ、弱い者の生血を吸うことしか能のない最低の男だわ!」
「それも否定はしないよ、でもそれは僕たちも同じだ」
 自分たちは、新貝の下請けをして、情報と収入を得ている。それはフィーンの言う、汚い大人の片棒を担ぐ行為だ。彼を否定するなら、自分らも否定されなければならない。
 それこそが、フィーンの嫌悪の原因だ。
「だから最初から言ってるでしょ、あんな奴の言いなりになる必要なんかないって!」
「何度も言ってるはずだ、フォックスとの関係を切れば、俺たちは動けない」
「なんでよ! あたしはやれるわよ!」
「無理だ、どうやってラウを炙り出す? 金はどうするんだ」
「お金なんか要らない!」
「金がなければどうやって食べ物を手に入れるんだ? 盗むのか? それは許されるのか?」
「そんなの、何とでもなるわよ!」
「ならない! よく考えろ、ゼノを死なす気か?」
 オウガは年長者として、ゼノとフィーンを護ることを第一と考える。だがフィーン感情だけで動く。理屈としてわかっても、決して納得はしない。二人の言い分はいつまで経っても平行線だ。
 こんなとき、最終決定権はいつでもゼノにあった。そこで二人は同時に振り返る。採決を求める二人の視線に、ゼノは小さく頷いた。
「仲間割れはよそう、フィーンの気持ちはわかったよ、でもここだけは堪えてくれないか? 新貝は殺せない、彼は善人じゃないが、少なくともラウじゃない、そして僕たちには必要な人間だ」
 わかって欲しい。ゼノは真剣に心をこめて話した。しかしフィーンには届かない。彼女にとって、それは自分を否定されたのと同じなのだ。
 ゼノだけは、なにがあっても自分の味方だと思っていた。必ず自分の言い分を聞いてくれると信じた。それがこの始末だ。フィーンはギリギリと歯軋りしながら、二人を睨んだ。小さな手がわなわなと震え、一度は凪いだ髪も再び赤く逆立っていく。
「よせ、フィーン! 落ち着け!」
 変貌していくフィーンに驚き、オウガが叫ぶ。ゼノも慌てて前へ出た。
「フィーン、僕たちは敵じゃない、キミの仲間だ、落ち着いて話そう」
 これ以上彼女を興奮させたらどうなるかわからない。ゼノは、それを察し、オウガに下がっててくれと話した。そしてゆっくり彼女に近づく。
 フィーンは、二人の言葉を、なんとか受け止めようとしている。時折見せる泣きそうな瞳が、助けてくれと訴えている。ここで抑えなければ彼女も自分たちも不幸だ。ゼノも必死だった。
 だが、彼女はゼノの説得にも耳を貸さず、爆発しそうな勢いで叫んだ。
「来ないで! 来たらあたしはあんたも殺す!」
「フィーン!」
「やっぱり無理よ、あたしには我慢出来ない」
 ハアハアと息を乱し、フィーンは世界を睨む。小さな手に握られたナイフは、いつしか両手持ちになり、近づこうとするゼノを威嚇した。
「フィーン、よそう」
「来ないで! 来たら殺す!」
 真っ赤に染まった瞳で、フィーンは叫ぶ。
 全身の血液が泡を吹いて沸騰し、頭蓋は赤く熱せられた鉄鍋のように脳髄を焼いた。自分を思いやり、心配して近づいてくるゼノの存在さえ、疎ましい。
 欲しいのは自由と殺戮。血と悲鳴。懺悔と死だけだ。
「もうあんたたちはいらない、あたしはあたしのやりたいようにやる!」
「フィーン!」
「来るな!」
 まさか出ていく気かとゼノは叫び、出て行けるわけがないと、オウガは高をくくる。
 フィーンは涙の滲む赤い瞳で二人を見つめていた。ゼノも、オウガも、相手を見返す。誰も目を逸らせない。そうして三人、長い時間睨み合い、やがてあたりを漂う気が凪いでくる。
 赤く逆立っていたフィーンの髪が色を変え、空気とともに、ゆるりと落ちた。
「フィーン」
 少しずつ、気を静めていくフィーンの思いを酌み、ゼノは彼女に駆け寄った。幾度も名を呼び、握りしめられているナイフを離させる。その様子を、オウガは少し離れた場所から、黙って見ていた。
「フィーン、ごめん、抑えてくれてありがとう、新貝は殺せないけど、ほかのことはキミの気が済むようにする、約束するよ」
「気の済むように?」
「ああ」
「本当ね?」
「ああ、約束する」
「オウガも、それでいいのね?」
 フィーンは、二人から離れて様子を見ていたオウガに訊ねる。突然ふられた話に、戸惑いながら、オウガも異存はないと答えた。一瞬、フィーンの目に光が宿り、口元が綻ぶ。その瞳に、オウガは妙な違和感を持った。顔を上げ、二人のほうへと歩み寄る。
 だが、彼がなにか言う前に、フィーンは口を開いた。
「それならいいわ、じゃあ、さっそくだけど、例の女、殺っちゃいましょうか」
「三ツ橋杏奈か? あの女はまだ裏が取れてないぞ」
「あんたたちが信頼する新貝がほぼ確定だって言ったじゃないの、それで充分だわ」
「しかし」
「殺るのよ、警察じゃあるまいし、証拠が出るまで待ってたら、手遅れになるわ、そのためにあたしたちがいるんじゃないの?」
「だがな、あとで間違いでしたでは済まないんだ、ここは慎重に……」
「殺るって言ってんでしょ!」
 あくまでも冷静に、慎重に行こうと主張するオウガを、フィーンは一喝した。これは復讐よと言い、逆らう気なら出て行くと睨む。
「もういいだろ、三ツ橋杏奈は新貝《フォックス》も、たぶん間違いないと言ってる、殺っていいんじゃないか」
「そのたぶんが、問題なんだろ、たぶんってのは、憶測交じりの感想だ、違うかもしれない」
 いつもなら、新貝の情報を受けたあと、三人のうち誰かが確認に行く。誰が行くかは相手と状況次第だが、たいていそれはゼノの仕事だった。しかし今回、重田に怪しまれ、草薙と揉めたことで、ゼノは居場所を失っている。そのため、情報は得ていたが、充分な下調べが出来ていなかった。
 住まいなど、どこでもいい、河原のテントでもいいし、ここのように、普段は使われていない廃屋でもいい。雨風が凌げれば、それで充分だ。今まではそうだった。
 だが、草薙と暮らしたことで、ゼノの中に、今までと違うなにかが生まれたのかもしれない。寂しいという感情も、たぶん、その一つだ。
「もちろん、確認を怠ったのは僕の責任だ、だが、これまでも、新貝《フォックス》の情報が間違ったことはなかった、確かめるまでもないじゃないか」
「なぜそんなにムキになる? 調べてからでも遅くはないはずだ」
「遅いかもしれないだろ!」
 これまでになく感情的に、ゼノは反論した。おそらく、フィーンがいなくなってしまうかもしれないという恐怖が、彼の判断を鈍らせているのだ。
「ゼノ……お前、変わったな」
「変わった? 僕が?」
「ああ、ガキっぽくなった、いや、これが年相応か」
 見かけは小学生だが、ゼノは今年十七になる。だが十七歳が大人かといえば、そうとも言えない。一般的には高校二年くらいの歳であり、一番始末に負えない年齢とも言える。
 大人並みの思考力を持ちながら、感情は子供の部分が多くを占める。大人ぶりながらも、大人の庇護を、どこかで望んでしまう。中途半端な年代だ。
 自分は間違ってないと信じ、自分の信じる正義を絶対と思いこむ。そして、少年は少女に、少女は少年に弱い。
 恋し、愛されることを求め、異性に甘くなる。今のゼノはまさにそのとおり、健全な十七歳の少年そのものだ。
 昔、抑圧され、外の世界との接触も絶たれたゼノは妹だけを生甲斐としてきた。その妹が消えた今、彼を支えるのはフィーンなのかもしれない。
 そう思えば反対もできないと、オウガは思った。
 
「今回だけだぞ」
「え……?」
「だから、お前たちの我儘を聞くのは今回だけだと言ってるんだ」
「我儘って」
「我儘だろ、違うのか?」
 確認もしないで行動を起こすというのは、ありえない。だからこれは我儘だとオウガは言った。
「……そうだ、な」
 冷静に指摘され、ゼノも我に返ったのだろう、その通りだと唇を噛み締めた。
 三人でラウを狩ると決めたとき、これから人でなくなる自分たちのために、最低限のルールを決めようと話した。それは、それを歯止めとし、自らも邪鬼になることを防ぐ狙いもあった。だからルールは絶対のハズだ。
 そして、一番大事なルールは、相手がラウであると確信出来ないときは、動かない。ラウか否かの判断は、ゼノが、ゼノに判断できないときに限り、他の二人が加わり、三人で協議して決めるというのがある。今回、それを違えることになる。
 それでもやるのかと目くばせするオウガに、ゼノは決行すると答えた。フィーンに約束したのだ、やめるとは言えないのだろう。二人のために……というより、ゼノのために、オウガも了承した。

「決まりね、じゃあさっそくだけど、オウガ、今回はあんたがやって」
「俺が?」
 やりたがっていたのはフィーンなのに、なぜと、オウガが顔を上げる。ゼノも不思議そうだ。
「やると言われても信用出来ないのよ、まずはあんたの覚悟を証明してもらうわ」
「わかった」
 フィーンは、敵愾心丸出しの、憎しみに満ちた目をしていた。嫌な予感が付き纏う。了承すべきではないと思いながら、オウガは頷いた。

 *

 決行はそれから二日後の夜となった。
 フィーンが珍しく積極的に下調べを行い、標的がその夜、一人で外出することを突き止めてきたからだ。
 標的はその日、職場の友人と飲み会だった。それ自体は珍しいことではなく、仕事絡みの飲み会は、毎週のように行われているらしい。
 だがその日の集まりには、いつもは顔を出さない内気なメンバーも来るということで、普段と違う店が会場になった。人ごみを避けるため、選ばれたその店は、駅や繁華街から少し離れた位置にあり、あたりには人影も街灯も少ない。それがその日を決行日に選んだ理由だ。

「来たわ、オウガ、ちゃんとやってよ」
「わかってる」
 標的の女、三ツ橋杏奈が店から出てくるのを確認し、フィーンが早くやれと指示を出す。だが標的の女は同僚らしい数名の男女と一緒だ。一人になるまで手は出せない。オウガは標的が一人になる隙を、辛抱強く待った。
 駅に向かい歩く途中、最初の一団が別方向へと別れる。じゃあまた来週と手を振りあい別れた片方は、おそらく二次会にでも向かうのだろう。賑やかに騒ぎ、その足取りも楽しそうだ。三ツ橋杏奈は、その一団のほうにいた。
 それでも一人になるチャンスはあるかとあとを追ったが、そのチャンスは訪れることなく、標的は仲間たちと次の店へ入ってしまった。
 そこは先ほどの店より繁華街に近いが、まだまだ人通りは少ない。しかし相手は店の中だ。これでは狙えない。物陰に身を潜めながら、オウガは苛立った。
 こうなったら出てくるまで待つしかないが、それもあてのある話ではない。また別の店へ行くかもしれないし、ずっと一人にならないかもしれない。それを待ち続けるのは時間の無駄だ。無理矢理決行すれば、足がつく。
 やはり下調べをフィーンにやらせたのは失敗だ。彼女の計画はずさん過ぎる。今日は取りやめるべきだと感じた。
「どうしたの、オウガ?」
「今夜はやめる」
「ちょっと! 何言ってんのよ、やるって決めたでしょ!」
「無理だ、この状況ではやれない」
「待てばいいでしょ!」
「待っても一人になるとは限らない、それに、やらないとは言ってない、計画を練り直そうと言ってるんだ」
「だめよ!」
 フィーンは怒鳴り、今すぐ行けとオウガに指示する。しかし今すぐは無理だ。出来ないと反論すると、彼女はじゃあ出来るようにしてやるわよと歩き出した。待てと止める暇もない。
 店の裏手へ回り込んだフィーンは、そっと裏口扉を開き、ブレーカーを落とす。たちまち建物全体が闇に包まれ、店内では客が騒ぎだす。その闇に乗じ、フィーンは中の一番手前にいた女を引っ張り出した。
「きゃっ……」
 いきなり外へ引き出された女が、俯せに転がる。彼女はその背中を踏みつけた。
「あら残念、人違いだわ」
「え、なに? 誰?」
 倒された女は、三ツ橋杏奈ではなかった。突然の襲撃に驚き怯えた女は、首を捻り、自分の背中を踏んでいる者を確認しようとする。だがフィーンはそれを許さず、振り向こうとした女の顔面を蹴った。グチャッと嫌な音がして、女の顔が裂ける。フィーンはそれを見て、高笑いをした。そして、手にしたナイフを女の背中に突き立てる。
 女は仰け反りながら手足をバタつかせた。薄暗い路地裏に女の悲鳴がこだまする。

「なに?」
「なんだ?」
 悲鳴が聞こえたぞと口々に騒ぎ、店の中から客たちが出てくる。血のついたナイフを手に、ニタリと笑ったフィーンは、驚き呆然としていたオウガの肩を引いた。
「え……?」
 力の抜けていたオウガは、よろよろと一歩を踏み出す。その手に、血まみれのナイフを乗せられ、オウガは一瞬、動きを止めて瞠目した。
「フィーン……?」
 信じられないという表情で、オウガは振り向き、心から晴れ晴れとした顔で、フィーンは微笑む。
「さよなら、オウガ」
 呆気にとられるオウガを残し、フィーンは暗闇に消えた。

「きゃああぁ!」
「人殺しっ」
「ぅわぁあっ!」
 路地に倒れている血まみれの女と、血のついたナイフを握るオウガを見つけた客たちが悲鳴を上げる。
「ちっ」
 きゃあきゃあと騒ぐ女、喚き散らす男、警察に通報している店員。それを見つめ、オウガはようやく、フィーンに嵌められたことを悟った。
「動くな! 警察だ」
「おとなしくしろ!」
 警察は、驚くほど早く現れた。まるで待ち伏せでもしていたように……?

 いや、ようにではなく、していたのだ。

 抵抗するなと喚きながら近づいてくる警官を眺め、オウガはゆっくり両手を上げた。頭の後ろで手を組めと言われ、その通りにすると、警官は勢いづいて集って来る。怯えているのか、必要以上に高圧的に怒鳴りながら、彼らは集団でオウガを抑え込む。
「傷害の現行犯で、逮捕する」
 鬼のように怖い顔をした中年の刑事は、そう言ってオウガの手に手錠をかけた。その言葉で、倒れている女を覗いてみると、女は僅かに呻きながら、起き上がろうとしていた。刑事がそれを支え、別の刑事が救急車を呼んでいる。出血は多く見えたが、傷はさほど深くないようだ。オウガもホッとした。
 こんなバカバカしいことで、なんの関係もない人を死なせずにすんでよかったと思った。

「ずいぶん、早かったな」
 パトカーへと引き立てられていく途中、腕を掴んでいる刑事に話しかけた。
「通報があったんだよ、今夜、このあたりで殺人事件が起きるってな」
 話しかけられた中年の刑事は、どこか腑に落ちないという顔で、静かに答えた。
「通報してきたのは、女だった?」
 そう訊ねると、刑事はなぜそれを知ってるのだというように、ギョッとした表情になる。これで確定だ。
 オウガは自然とこみ上げてくる自嘲を抑えきれず、俯きながら歩いた。

 フィーン、今、どこにいる?
 さぞや得意顔でいるんだろう?
 俺を嵌めて、自由になって、それで満足か? 嬉しいのか?
 だが喜んでいる余裕なぞないぞ。
 俺たちは三位一体、誰かひとり欠けてもやっていけない。
 なにもできない。
 早くそれに気づけ。
 手遅れになる前に……。

 俯き歩くオウガの頭上には、大きく赤い月が、低く輝いていた。