俺が“俺”である場所はどこか、俺って一体なんなのか。

その意味を探し、探し、探して流れ着いた神社は15年前のあの日(と言っても、俺には昨日のことなんだけどさ)静寂に包まれている。

不気味なほど静かだけど、俺にはしごく心地良い。


スンッと鼻を鳴らして、鼻の頭を掻く。

静寂がささくれた心を癒してくれるような気がした。
   

「今の地球にはさ」


ふと秋本が壮大なスケールで話題を切り出す。

地球を例に挙げるところがいかにも教師らしい。
  
 
「70億もの人がいるの。自分なんてその数値の一部。私もあんたも、その一部にしか過ぎないわ。
一個人と世界人口を比較したら、そりゃあちっぽけにだって思うわ。この町の人口と自分を比較しても答えは同じ。一個人なんて豆粒のようなものよ」


でもね、坂本。

一個人はちっぽけでも、その一個人が他の一個人と繋がりを持つことで世界の視野が拡がる。

また他の一個人と繋がることで視野が広がる。


この意味、分かる?

分からないって顔をしてるわね。


つまりね、ちっぽけなあんたでも繋がりを持った誰かにとっては“ちっぽけ”じゃなくなるのよ。誰だってそう。

ちっぽけだって自己嫌悪しても、繋がりを持った誰かにとっては“ちっぽけ”じゃない。


だってこの15年間、あんたのために涙を流した人がいる。

あんたが失踪した日から、ずっとあんたのことを捜している人がいる。

諦めず捜している人がいる。


嗚呼、坂本健って少年を親身に心配した人がいた。


失踪したことに不安を抱く人がいた。

いつか顔を見せてくれるだろうと希望を持った人がいた。

 
誰かはあんたのために祈り、誰かはあんたの幸せを願い、誰かはあんたのために再会を望んだ。

私はその光景を目の当たりにしてきた。
 

あんたに昨日言ったわよね、私が泣いた意味を考えなさいって。


それってつまり、そういうことよ。

私にとってもちっぽけじゃなかったってこと。心配してたのよ、15年間、ずっと、そう、ずっと。