***
あの後、泥酔した由紀を家に送り届けてから、終電を逃した俺はそのまま由紀の家のソファーで朝を迎えた。
いつもなら夢なんてほとんど見ないのに、何故かその日に限って――俺は、よりにもよってマッスルバーでトウマさんに抱きしめられた時の夢を見ていた。
しかも、お店ではなく……まるで本当の恋人同士のように、甘い空気の中、自分の部屋で彼と過ごしている夢だった。
『乃依くん、ぎゅーしてあげようか』
『や、やだ。もうしなくていいです』
『俺がしてあげたいんだよ』
後ろからそっと抱き寄せられ、全身を包み込むような心地よい温もりに思わず目を瞑る。体の前へと回ってきた太い腕にそっと手を添えると、彼はより力を込めて俺の肩口に顔を寄せた。
そのまま振り返りかけて、胸が甘く跳ねたその瞬間――。
『おーい! いつまで寝てんだよ、乃依』
由紀のバカでかい声がリビングに響き渡り、夢の余韻もなく現実へと引き戻されたのだった。
数日後。トウマさんにもらった名刺を何日か放置しているうちに、由紀はすでにキャストの人とDMのやりとりを始めたらしく、またマッスルバーへ行こうと何度も誘ってきた。レポートの提出期限が迫っていたし、何よりまたトウマさんに会う気恥ずかしさもあって、俺はその誘いをすべて適当な理由をつけて断り続けていた。
「ねぇ、俺のところにリクくん経由でメッセ来てるよ」
由紀からスマホの画面を見せられ、トウマさんからの伝言を突きつけられる。
『乃依くん、よければお店で待ってます。クーポンも送っとくね』
画面に浮かぶ文字を、俺はしらーっと冷めた目で見つめた。
「……抜かりない営業力だな」
俺のそんな反応に、由紀は不満そうにきゅっと眉間に皺を寄せる。
「乃依、トウマさんに連絡してないの?」
「だって、連絡したら店に来てって言われるだけじゃん」
「えーっ、二回目のハグはなしってこと?」
「もう十分かな。……あの一回で、満足したっていうか」
(夢にまで見たなんて、口が裂けても言えないけど)
あの夢を見たのは、きっと非日常な空間に呑まれたせいで頭がおかしくなっていただけだ。別に俺がトウマさんのことを特別に意識しているわけじゃない。自分にそう言い聞かせながら、俺はぶっきらぼうに言い放った。
「行きたいなら一人で行きなよ。もう由紀の面倒見るの懲り懲りだし」
「ねぇー、ごめんってばぁ! お願いだからもう一回来てよ。そうじゃないとリクくんとまともに喋れないんだもん!」
「リクくんって……ああ、あの時由紀の隣にいた男の人か。え、なに、まさかもう好きになったとかじゃないよね?」
頬を真っ赤に染めてこくこくと頷く由紀に、俺は思わず天井を仰ぎ、盛大なため息を吐き出した。
「うそでしょ、本気で好きになったわけ?」
「だって、顔がめっちゃタイプなんだもん!」
――出た、筋金入りの面食い。
また懲りずにしょうもない恋愛を繰り返そうとしている由紀に呆れ果てながら、俺たちは講義室を出て、二号館から食堂へと向かう通路を歩いていた。
「だから、そうやって顔だけで選ぶから毎回カスみたいな男を捕まえて泣くハメになるんだよ」
「リクくんはカスじゃないもん!」
キーッと怒声を上げる由紀を横目に、俺がスマホを片手に脇見をしながら歩いていたその時――ドン、と大き目のバックパックを背負った誰かの身体に、不意に肩が強くぶつかった。
「っ、ごめんなさい――」
慌てて謝りながら顔を上げかけた俺に、頭上から低く柔らかな声が降ってくる。
「いや、こっちこそ。大丈夫?」
大丈夫です、と反射的に言いかけて、その顔を間近で見た瞬間、俺の言葉は綺麗に喉の奥で詰まった。
――二度見して、ようやく目の前の人物の正体に気づく。
「……トウマ、さん?」
「え、乃依くんじゃん」
お互いに、人が行き交う大学のキャンパスのど真ん中でピタリと足を止めて見つめ合う。しばしの沈黙のあと、気まずさのあまり俺がサッと顔を背けると、トウマさんは楽しそうな笑みを浮かべてスッと一歩距離を詰めてきた。
「まさかの同じ大学だったとは。すげー奇遇だね」
「は、はい……そう、ですね……」
マッスルバーで着ている衣装ではなく、ラフなパーカー姿のトウマさんは、どこにでもいそうな爽やかな大学生のようで見違える。けれど、纏っている大人の余裕と圧倒的な距離の近さは、あの夜のままだ。
「俺、健康栄養学部のスポーツ学科だけど、乃依くんは?」
「文学部です」
やばい。あんなに名刺を放置して連絡もしなかった手前、気まずさで冷や汗が背中を伝う。「怒られるか?」なんて焦る俺をよそに、私服のトウマさんはふわりと口元に笑みを浮かべ、片方の頬に小さなえくぼを作りながら目を細めた。
「――乃依くんからの連絡、ずっと待ってたんだけどな」
よりによって、一番突かれたくない核心をサラッとぶっこまれて、俺は頭から湯気が出そうになる。ぎぎぎ……とまるでロボットのように無理やり前に向き直ると、スマホを握りしめた手がガチガチに硬直した。
そんな俺の反応を楽しんでいるのか、トウマさんはさらに少しだけ上体を屈め、逃げ場を塞ぐように俺の顔をのぞき込んでくる。
「今からメシ? 食堂で食べるなら――」
「ご一緒してもいいですか⁉」
横から由紀が割り込んで来て、俺の腕にコアラのように抱きついたまま、「これは激アツ展開だ」とでも言いたげに鼻の穴を膨らませている。
俺が「やめろ」と視線を送るけれど、トウマさんは俺の心の内なんて気付いていない様子で「じゃあ三人で」と微笑んだ。
「……それって、一人前ですか?」
「うん、昼間は毎回こんくらい食べるのが普通かな」
鯖の味噌煮、かぼちゃの煮物、お刺身、ピーマンの炒め物、なすの煮びたし、オクラと納豆の小鉢、大根のお味噌汁、冷奴、ボウルに盛られたサラダ、季節の果物。一つ一つのメニューは低カロリーだけれど、そこへ更に山盛りの白米をプラス。どう考えても成人男性の一食当たりの摂取カロリーの三倍はありそうな昼食に、俺は目を見張った。
「やっぱりそれって、筋トレのためとか?」
「んー、それもある。あんまり脂質は摂らないように気を付けてるかな」
由紀はトウマさんの隣であれこれ質問しながら、人柄を深掘りしようとしている。
対する俺は、特に話題を振る事もできないまま、テーブルを挟んだ向かいの席で小さいお弁当箱を手に箸をつついていた。
「乃依くん、それだけで本当に足りるの?」
「あ……はい。特に食にこだわりは無くて」
トウマさんは信じられないと言う顔で俺の弁当箱の細長さを見て笑っている。
由紀は俺のぎこちない態度に痺れを切らしたのか、「俺、デザート買ってくるね」と微笑むと、手をひらひらと振って大学生協のある向かいの棟に行ってしまった。
しばしの沈黙。俺もトウマさんも、ムードメーカーがいなくなると、何を話したらいいのか分からない。
「あの……」
「ん?」
「すみません。名刺もらったのに、連絡とかしなくて」
俺の中で思いつく話題と言ったら、それくらいしかない。トウマさんは切れ長の目を少しだけ見開くと、眉を下げて笑って見せた。
「気にしなくて良いよ。だって乃依くん、付き添いで来ただけだろ?」
「そ、そうなんですけど。俺も、由紀に色々話した部分もあって」
「話した部分?」
俺は素直に、トウマさんに打ち明けた。どうして喋ろうと思ったのかは、よく分からない。連絡しなかったことを怒られなかった安心感のせいかもしれないし、この人なら自分にない価値観で物事を語ってくれそう。そんな、年上へのちょっとした憧れもあったせいなのかもしれない。
いつか別れるのが怖いから、恋人は作らないこと。
ゼロか百でしか、物事を考えられないこと。
アプリで探すより、安全だと思って安易な気持ちでハグをしてもらったこと。
その一つひとつを、トウマさんは俺が喋り終えるまでただ静かに、机に両腕を置いて前のめりになりながら聞いてくれていた。
「……そっか。そういう事情が色々あったわけね」
「だから、その……俺としては、あの夜で結構、満たされたと言うか。ハグってこういう感じなんだなって分かったので、もういいかなって」
膝の上でぎゅっと握り拳をつくる。トウマさんは俺が真面目に話していることを感じ取ったのか、じっ、と同じく真剣な顔で瞳を見つめながら言った。
「でもさ、その『孤独感』って、パートナーをもたない限りは一生つきまとうものだよね」
「えっ?」
「乃依くんが生涯恋人を作らないって今は思っていたとしても。全くその寂しさを感じられずに生きていけるかって言ったら、そうじゃないと思うよ。俺は」
まさかの否定と、結構なシビアな回答に俺は頭を不意打ちで殴られたような気持ちになった。ちっぽけなプライドがぽきりと折れて、心の中ではちょっとした怒りのような――『そんなことないですけど』と突っぱねたがる自分が顔を出している。
「でも、その時はその時というか。一時的な感情だと思いますし」
「マッスルバーにわざわざ抱きしめに来て貰うの? 金払って」
「その度にいちいち金を払ってハグしてもらうのは……まぁ、嫌ですけど」
「ほら、出た。それが本音じゃん? だったら、ソフレになろうよ。俺と」
「……はい?」
「添い寝フレンド。キスもセックスもなし。ただ一晩、寂しい時に呼び出して、ハグして寝るだけの関係。金もかからないし、マチアプよりバーに来るよりタイパいいと思うけど」
トウマさんはけろりとして言ってみせると、俺よりも不思議そうに「なんかダメな理由ある?」という顔をしていた。
「トウマさんって、皆にそういうこと言ってるんですか?」
「いや、全く」
「……じゃあ、なんで」
「乃依くんが気になるから?」
――それって、まんま下心じゃないか。
俺が眉をひそめて露骨に「うわ」という顔を向けると、トウマさんはその嫌そうな表情すら面白がるように、余裕のある笑みを深めた。
「乃依くんが欲しいものを、欲しい時に俺はあげられるよ」
「……別に、欲しいなんて一言も」
「じゃあなんであの時、あんなべったり甘えてきたの?」
「そんなこと俺は――」
「してたよ。俺の体にぺたって頬っぺたくっつけて、腕までしっかり回してさ」
茶化すような、少し意地悪な響きを含んだ声。みるみるうちに自分の頬へ熱が集まっていくのを感じ、居ても立ってもいられなくなる。
たまらず席を立とうと体を動かした瞬間、左の手首を不意にぐっと掴まれた。
「――っ」
「素直じゃないとこも可愛いけどさ。正直、その危なっかしいままで他の男のところに行かれるのは、ちょっと見過ごせないかな」
「俺は別に、あなたのこと好きじゃないです」
「分かってるよ」
「…………」
「キスもセックスもしない。付き合えなくてもいい。でも、乃依くんのソフレの権利は俺、絶対に譲りたくないんだけど。……だめ?」
今までに、こんな男に出会ったことがない。そう思い知らされる。
(……って、ちょっと待て。自分は相手のことが気になっている――いや、半分好きになりかけているくせに、「付き合えなくてもいいからそばにいたい」って、なにそれ?)
それって、いわゆる「都合のいい相手」に自分から成り下がっているだけじゃないのか。そこまでして、この人はどうして……。
「本当に俺、付き合いませんよ。好きにも、絶対になりませんから」
「いいよ。俺もソフレ以上のことはしないって約束する」
だから、と。トウマさんは軽やかにその場から立ち上がると、そのまま俺の背後へと回り込み、耳元に顔を寄せてきた。周りの喧騒にかき消されそうな、静かで甘い声がそっと降ってくる。
「俺とソフレの契約、しよう。乃依くん」
あの後、泥酔した由紀を家に送り届けてから、終電を逃した俺はそのまま由紀の家のソファーで朝を迎えた。
いつもなら夢なんてほとんど見ないのに、何故かその日に限って――俺は、よりにもよってマッスルバーでトウマさんに抱きしめられた時の夢を見ていた。
しかも、お店ではなく……まるで本当の恋人同士のように、甘い空気の中、自分の部屋で彼と過ごしている夢だった。
『乃依くん、ぎゅーしてあげようか』
『や、やだ。もうしなくていいです』
『俺がしてあげたいんだよ』
後ろからそっと抱き寄せられ、全身を包み込むような心地よい温もりに思わず目を瞑る。体の前へと回ってきた太い腕にそっと手を添えると、彼はより力を込めて俺の肩口に顔を寄せた。
そのまま振り返りかけて、胸が甘く跳ねたその瞬間――。
『おーい! いつまで寝てんだよ、乃依』
由紀のバカでかい声がリビングに響き渡り、夢の余韻もなく現実へと引き戻されたのだった。
数日後。トウマさんにもらった名刺を何日か放置しているうちに、由紀はすでにキャストの人とDMのやりとりを始めたらしく、またマッスルバーへ行こうと何度も誘ってきた。レポートの提出期限が迫っていたし、何よりまたトウマさんに会う気恥ずかしさもあって、俺はその誘いをすべて適当な理由をつけて断り続けていた。
「ねぇ、俺のところにリクくん経由でメッセ来てるよ」
由紀からスマホの画面を見せられ、トウマさんからの伝言を突きつけられる。
『乃依くん、よければお店で待ってます。クーポンも送っとくね』
画面に浮かぶ文字を、俺はしらーっと冷めた目で見つめた。
「……抜かりない営業力だな」
俺のそんな反応に、由紀は不満そうにきゅっと眉間に皺を寄せる。
「乃依、トウマさんに連絡してないの?」
「だって、連絡したら店に来てって言われるだけじゃん」
「えーっ、二回目のハグはなしってこと?」
「もう十分かな。……あの一回で、満足したっていうか」
(夢にまで見たなんて、口が裂けても言えないけど)
あの夢を見たのは、きっと非日常な空間に呑まれたせいで頭がおかしくなっていただけだ。別に俺がトウマさんのことを特別に意識しているわけじゃない。自分にそう言い聞かせながら、俺はぶっきらぼうに言い放った。
「行きたいなら一人で行きなよ。もう由紀の面倒見るの懲り懲りだし」
「ねぇー、ごめんってばぁ! お願いだからもう一回来てよ。そうじゃないとリクくんとまともに喋れないんだもん!」
「リクくんって……ああ、あの時由紀の隣にいた男の人か。え、なに、まさかもう好きになったとかじゃないよね?」
頬を真っ赤に染めてこくこくと頷く由紀に、俺は思わず天井を仰ぎ、盛大なため息を吐き出した。
「うそでしょ、本気で好きになったわけ?」
「だって、顔がめっちゃタイプなんだもん!」
――出た、筋金入りの面食い。
また懲りずにしょうもない恋愛を繰り返そうとしている由紀に呆れ果てながら、俺たちは講義室を出て、二号館から食堂へと向かう通路を歩いていた。
「だから、そうやって顔だけで選ぶから毎回カスみたいな男を捕まえて泣くハメになるんだよ」
「リクくんはカスじゃないもん!」
キーッと怒声を上げる由紀を横目に、俺がスマホを片手に脇見をしながら歩いていたその時――ドン、と大き目のバックパックを背負った誰かの身体に、不意に肩が強くぶつかった。
「っ、ごめんなさい――」
慌てて謝りながら顔を上げかけた俺に、頭上から低く柔らかな声が降ってくる。
「いや、こっちこそ。大丈夫?」
大丈夫です、と反射的に言いかけて、その顔を間近で見た瞬間、俺の言葉は綺麗に喉の奥で詰まった。
――二度見して、ようやく目の前の人物の正体に気づく。
「……トウマ、さん?」
「え、乃依くんじゃん」
お互いに、人が行き交う大学のキャンパスのど真ん中でピタリと足を止めて見つめ合う。しばしの沈黙のあと、気まずさのあまり俺がサッと顔を背けると、トウマさんは楽しそうな笑みを浮かべてスッと一歩距離を詰めてきた。
「まさかの同じ大学だったとは。すげー奇遇だね」
「は、はい……そう、ですね……」
マッスルバーで着ている衣装ではなく、ラフなパーカー姿のトウマさんは、どこにでもいそうな爽やかな大学生のようで見違える。けれど、纏っている大人の余裕と圧倒的な距離の近さは、あの夜のままだ。
「俺、健康栄養学部のスポーツ学科だけど、乃依くんは?」
「文学部です」
やばい。あんなに名刺を放置して連絡もしなかった手前、気まずさで冷や汗が背中を伝う。「怒られるか?」なんて焦る俺をよそに、私服のトウマさんはふわりと口元に笑みを浮かべ、片方の頬に小さなえくぼを作りながら目を細めた。
「――乃依くんからの連絡、ずっと待ってたんだけどな」
よりによって、一番突かれたくない核心をサラッとぶっこまれて、俺は頭から湯気が出そうになる。ぎぎぎ……とまるでロボットのように無理やり前に向き直ると、スマホを握りしめた手がガチガチに硬直した。
そんな俺の反応を楽しんでいるのか、トウマさんはさらに少しだけ上体を屈め、逃げ場を塞ぐように俺の顔をのぞき込んでくる。
「今からメシ? 食堂で食べるなら――」
「ご一緒してもいいですか⁉」
横から由紀が割り込んで来て、俺の腕にコアラのように抱きついたまま、「これは激アツ展開だ」とでも言いたげに鼻の穴を膨らませている。
俺が「やめろ」と視線を送るけれど、トウマさんは俺の心の内なんて気付いていない様子で「じゃあ三人で」と微笑んだ。
「……それって、一人前ですか?」
「うん、昼間は毎回こんくらい食べるのが普通かな」
鯖の味噌煮、かぼちゃの煮物、お刺身、ピーマンの炒め物、なすの煮びたし、オクラと納豆の小鉢、大根のお味噌汁、冷奴、ボウルに盛られたサラダ、季節の果物。一つ一つのメニューは低カロリーだけれど、そこへ更に山盛りの白米をプラス。どう考えても成人男性の一食当たりの摂取カロリーの三倍はありそうな昼食に、俺は目を見張った。
「やっぱりそれって、筋トレのためとか?」
「んー、それもある。あんまり脂質は摂らないように気を付けてるかな」
由紀はトウマさんの隣であれこれ質問しながら、人柄を深掘りしようとしている。
対する俺は、特に話題を振る事もできないまま、テーブルを挟んだ向かいの席で小さいお弁当箱を手に箸をつついていた。
「乃依くん、それだけで本当に足りるの?」
「あ……はい。特に食にこだわりは無くて」
トウマさんは信じられないと言う顔で俺の弁当箱の細長さを見て笑っている。
由紀は俺のぎこちない態度に痺れを切らしたのか、「俺、デザート買ってくるね」と微笑むと、手をひらひらと振って大学生協のある向かいの棟に行ってしまった。
しばしの沈黙。俺もトウマさんも、ムードメーカーがいなくなると、何を話したらいいのか分からない。
「あの……」
「ん?」
「すみません。名刺もらったのに、連絡とかしなくて」
俺の中で思いつく話題と言ったら、それくらいしかない。トウマさんは切れ長の目を少しだけ見開くと、眉を下げて笑って見せた。
「気にしなくて良いよ。だって乃依くん、付き添いで来ただけだろ?」
「そ、そうなんですけど。俺も、由紀に色々話した部分もあって」
「話した部分?」
俺は素直に、トウマさんに打ち明けた。どうして喋ろうと思ったのかは、よく分からない。連絡しなかったことを怒られなかった安心感のせいかもしれないし、この人なら自分にない価値観で物事を語ってくれそう。そんな、年上へのちょっとした憧れもあったせいなのかもしれない。
いつか別れるのが怖いから、恋人は作らないこと。
ゼロか百でしか、物事を考えられないこと。
アプリで探すより、安全だと思って安易な気持ちでハグをしてもらったこと。
その一つひとつを、トウマさんは俺が喋り終えるまでただ静かに、机に両腕を置いて前のめりになりながら聞いてくれていた。
「……そっか。そういう事情が色々あったわけね」
「だから、その……俺としては、あの夜で結構、満たされたと言うか。ハグってこういう感じなんだなって分かったので、もういいかなって」
膝の上でぎゅっと握り拳をつくる。トウマさんは俺が真面目に話していることを感じ取ったのか、じっ、と同じく真剣な顔で瞳を見つめながら言った。
「でもさ、その『孤独感』って、パートナーをもたない限りは一生つきまとうものだよね」
「えっ?」
「乃依くんが生涯恋人を作らないって今は思っていたとしても。全くその寂しさを感じられずに生きていけるかって言ったら、そうじゃないと思うよ。俺は」
まさかの否定と、結構なシビアな回答に俺は頭を不意打ちで殴られたような気持ちになった。ちっぽけなプライドがぽきりと折れて、心の中ではちょっとした怒りのような――『そんなことないですけど』と突っぱねたがる自分が顔を出している。
「でも、その時はその時というか。一時的な感情だと思いますし」
「マッスルバーにわざわざ抱きしめに来て貰うの? 金払って」
「その度にいちいち金を払ってハグしてもらうのは……まぁ、嫌ですけど」
「ほら、出た。それが本音じゃん? だったら、ソフレになろうよ。俺と」
「……はい?」
「添い寝フレンド。キスもセックスもなし。ただ一晩、寂しい時に呼び出して、ハグして寝るだけの関係。金もかからないし、マチアプよりバーに来るよりタイパいいと思うけど」
トウマさんはけろりとして言ってみせると、俺よりも不思議そうに「なんかダメな理由ある?」という顔をしていた。
「トウマさんって、皆にそういうこと言ってるんですか?」
「いや、全く」
「……じゃあ、なんで」
「乃依くんが気になるから?」
――それって、まんま下心じゃないか。
俺が眉をひそめて露骨に「うわ」という顔を向けると、トウマさんはその嫌そうな表情すら面白がるように、余裕のある笑みを深めた。
「乃依くんが欲しいものを、欲しい時に俺はあげられるよ」
「……別に、欲しいなんて一言も」
「じゃあなんであの時、あんなべったり甘えてきたの?」
「そんなこと俺は――」
「してたよ。俺の体にぺたって頬っぺたくっつけて、腕までしっかり回してさ」
茶化すような、少し意地悪な響きを含んだ声。みるみるうちに自分の頬へ熱が集まっていくのを感じ、居ても立ってもいられなくなる。
たまらず席を立とうと体を動かした瞬間、左の手首を不意にぐっと掴まれた。
「――っ」
「素直じゃないとこも可愛いけどさ。正直、その危なっかしいままで他の男のところに行かれるのは、ちょっと見過ごせないかな」
「俺は別に、あなたのこと好きじゃないです」
「分かってるよ」
「…………」
「キスもセックスもしない。付き合えなくてもいい。でも、乃依くんのソフレの権利は俺、絶対に譲りたくないんだけど。……だめ?」
今までに、こんな男に出会ったことがない。そう思い知らされる。
(……って、ちょっと待て。自分は相手のことが気になっている――いや、半分好きになりかけているくせに、「付き合えなくてもいいからそばにいたい」って、なにそれ?)
それって、いわゆる「都合のいい相手」に自分から成り下がっているだけじゃないのか。そこまでして、この人はどうして……。
「本当に俺、付き合いませんよ。好きにも、絶対になりませんから」
「いいよ。俺もソフレ以上のことはしないって約束する」
だから、と。トウマさんは軽やかにその場から立ち上がると、そのまま俺の背後へと回り込み、耳元に顔を寄せてきた。周りの喧騒にかき消されそうな、静かで甘い声がそっと降ってくる。
「俺とソフレの契約、しよう。乃依くん」



