いつか別れるのが怖いから恋人は作りたくないけど、人肌が恋しすぎるので、マッスルバーで働く先輩と添い寝フレンド契約を結ぶことにした

 ***

「いらっしゃいマッスル!」

 マッスルバーの扉を開けた第一声は、まさかの出オチだった。
 出迎えてくれた店内のキャスト――とでも呼べばいいのだろうか、男性たちはみな一様に白やグレーのタンクトップを着用しており、太い二の腕がむき出しになっている。分厚い胸筋も、まるで布地を限界まで引き延ばしているかのようにパツパツに強調されていた。

「お荷物を、お預かりしマッスル」

 あまりのハイテンションについていけない。というか、語尾の「ます」がすべて「マッスル」に変換されてしまっている。
 その瞬間、今宵のひとときはすべての「ます」にこのバカげた変換がつきまとうのだという恐ろしい現実に行き当たり、俺は若干口元をひきつらせながらサコッシュと上着を預けた。
 隣で、すでに数軒ハシゴして泥酔状態の由紀は、ずらりと並んだイケメンマッチョたちを見るや「眼福〜♡」とかなんとか呟き、早くもメロついている。頼むから粗相だけはしないでくれよ。
 店内を見渡すと、カウンターには常連らしき若い女性客や、俺たちと同い年くらいのグループが腰を下ろしていた。その向こうでは、ワイシャツをわざとらしくはだけさせたキャストの二人が、横並びになって慣れた手つきでお酒を注いでいる。

「こちら、メニュー表になりマッスル。ワンオーダー制となっておりまして、飲み放題プランは一時間で二千五百円になりマッスル」

 ……徹底しているな、おい。

「……由紀、もう結構飲んでるんだし、ここはワンドリンクでいいよな?」
「えーっ、でもせっかく来たんだし、頼むならあの『生絞りサワー』とかが面白そうじゃない」
「好きにすれば。俺は、カシオレでお願いします」
「ご注文、ありがとうございマッスル!」

 オーダーが通った瞬間、店内のあちこちから「マッスル」の山びこが返ってきた。なんだこの音圧の強い異空間は……とは思いつつも、店内のお客さん達は一様に楽しそうだ。おしぼりを腕に挟んだキャストと、「硬い」とか「抜けない」とか場合によっては卑猥に聞こえる言葉でキャアキャアと盛り上がっている。あまりのハイテンションの大渋滞に俺が内心でげんなりしていると、由紀が頼んでいた生絞りサワーが先に運ばれてきた。

「お待たせいたしました。イケメン生絞りサワーになりマッスル」

 運ばれてきた瞬間、由紀がお腹を抱えて大爆笑し始めた。
 なんと、目の前のムキムキな男性がレモンを素手でぎゅっと握りつぶし、ボタボタとグラスに果汁を滴らせている。さらに、怪しげな極太の注射器(たぶんおもちゃの類だ)でその汁を吸い上げると、じっと見つめる由紀の唇へとその先端を向けた。

「はい、あーんして」
「ちょっ、まっ、これエロくない?」

 イケメンマッチョに注射器でお酒を飲まされるという、シラフで考えたら狂気じみたアトラクションだが――まあ、あくまで健全なエンタメの範疇なのだろう。
 由紀はガチ照れしながら語彙を失っていて、俺はといえば、何のトッピングもない普通のカシオレに静かに口を付けてそれを横目で眺めるばかり。ふ、とカウンターの奥に視線を走らせたとき、たまたまそこに居たキャストと目が合った。

(え……顔とカラダのギャップ、すごい)

 ブリーチされた金髪のウルフヘア。黒いVネックのTシャツ姿だが、その上腕二頭筋や肩幅は一般的な男性の体格を軽く凌駕している。
 それでいて腰にかけての線は引き締まっており、服の上からでも腹筋の割れ目がうっすらと分かるほどだ。美しい逆三角形、というのはきっと彼の体格のことを言うのだろう。

「……あんな腕で抱きしめられたら、普通に窒息死しそう」

 心の中で思ったことを、うっかりぼそりと口からこぼしてしまう。
 それまで筋肉トークで盛り上がっていた由紀と、カウンターにいたキャストの男性が、ぴたりと動きを止めてぽかん顔でこちらを見つめていた。

「お兄さん、もしかして『トウマ』のご指名希望⁉」
「えっ……いや、全然。今のはただの独り言で――」
「うちの店、オプションでハグとかチェキのサービスもあるんスよ。一回千円で、三十秒間のハグ。他店に比べたらマジで価格設定が良心的すぎてバグってますよ」
「……はぁ」

 隣で由紀も「人肌恋しいの解消できるかもぉ〜?」と怪しい呂律で俺の肩をバンバンと叩いてくる。
 別に、千円払ってマッチョに本当に抱きしめられたいわけでは……と由紀に説教しようとしたところ、さっきのキャストが「トウマ~」と手招きしながら俺たちの席へとヘルプを要請した。

「お前のこと気になってるお客さんいるぞ」
「ん、今いく」

 トウマ、と呼ばれたその男性はカウンターの作業を片付けると、すたすたと俺たちのボックス席にやってきた。
 そのままちらりと俺の顔を見て――いや、ちらりどころか、じっと穴の開くほどガン見している。そんなに人の顔をまじまじと見るものか。

「由紀くんと、そのお友達の乃依くんだって。ふたりともマッスルバー初体験らしいよ」
「え、マジか。『くん』ってことは二人とも男?」

 いや、どっからどう見ても男だろと心の中で全力でツッコミつつ、とりあえず「はい」とこくんと頷いておく。
 トウマさんは俺の頭のてっぺんからスニーカーの先までを何往復も値踏みするように眺めると、「……え、エグくね?」とだけ短く呟いた。なにがえぐいんだ。

「お前の腕を見て『窒息死しそう』って言ってたぞ」
「や、若干それガチで有り得るけどね。乃依くんだっけ?」
「はい」
「隣、座ってもいい?」

 一応、俺が警戒心で少しピリついているのを察知したらしい。
 俯き気味の顔を覗き込まれるようにして問いかけられ、さすがに面と向かって「ダメです」とは言えず、俺は「どうぞ」と着席を促した。

「年齢いくつ? 今更だけど未成年じゃないよね」
「成人してます。大学生です」
「へー、学生なのにこんな店来ちゃうんだ。結構遊び慣れてる?」
「この子はめちゃくちゃ遊んでますけど、俺は全然です」

 由紀はすっかりお気に入りのキャストと二人の世界に浸り、いつの間にかどんどんオプションを追加し始めている。まあ、お酒とトークに金を溶かすのは本人の勝手か……と目を逸らしていると、よそ見を遮るように「乃依くん」と名前を呼ばれた。

「乃依くんもオプションつける?」
「ごめんなさい。冷やかしで来たわけじゃないんですけど、俺は本当にこの子の付き添いで来ただけっていうか」
「そっか。まぁ、それなら千円分で美味い酒飲んだ方がいいかもな」

 意外にも、拍子抜けするほど大人の対応をされてしまった。てっきり、このガヤガヤとしたハイテンションな雰囲気とアップテンポな音楽に合わせて、もっとゴリ押しの営業を掛けられるかと思っていたのに。
 トウマさんは店内を静かに見渡し、俺のグラスに浮かんだ水滴に気付くと、さりげなくそれを拭き取って新しいコースターに替えてくれた。
 流れるような無駄のない動作に見惚れていると、「ん?」と綺麗に目を細めて微笑みかけられる。不意に目が合った途端、胸の奥がぎゅうっと引き絞られるように息苦しくなった。

「乃依ぃ~、なんでまだハグされてないの!?」
「いや、だから俺はお前の付き添いで――」
「もう、俺が払うから。すみませーん、トウマさん指名でこの子に『マッスルハグ』のオプションお願いしてもいいですかぁ?」
「ちょっ、由紀。本当にいいってば」

 ケラケラと笑いながら、由紀はポケットから取り出した二千円札をトレーに並べた。……え、二千円?

「一分間のマッスルハグ、オプションはいりまーす!」
「ありがとうございまぁす!」

 マジかよ、と顔が急激に熱くなっていくのを感じながら振り返ると、トウマさんに「こっちおいで」と軽く肩を叩かれた。
 心の準備が全くできていないまま、「えっと」と戸惑う俺の横に、ストップウォッチが無造作にテーブルへと置かれる。

「後ろからのハグと前からのハグ、どっちがいい?」
「う、後ろからが良いです……」
「本当に? それだと、どんだけ恥ずかしくても店中の客に丸見えになっちゃうけど」
「じゃ、じゃあやっぱり前からで……!」

 もう、こうなったら煮るなり焼くなり好きにしてくれ。
 観念したような気持ちでトウマさんの方を向き直ると、そっと背中に温かい腕が回され、すぐに計測を開始する電子音が店内の喧騒の中に鳴り響いた。

「じゃあ、一分間。目一杯ハグしあげるね」

 耳元で低く囁かれて、短く息を呑む。
 次の瞬間、耳たぶを指先で撫でられたかと思うと、みっしりと密度のある硬質な筋肉の壁に、そのままぎゅうっと強く引き寄せられた。

(え、やばい。なにこれ、思った以上にやばくない……?)

 もはや文学部としてあるまじき語彙力喪失レベルなのだが、本当にそれ以外の言葉が出てこない。同性に、しかも初対面の男にハグをされるなんてこれが人生で初めてだ。人間の身体って、こんなにも体温が高くて、不思議と安心するものだなんて知らなかった。

「乃依くん、緊張しなくていいよ。力抜いて」

 とくん、とくんと、力強い心臓の音が伝わってくる。その鼓動に耳を寄せたまま、思わず呼吸を忘れて聴き入ってしまった。トウマさんは、俺が腕の中ですっかり固まっているのがおかしかったのか、ふっと息をこぼすように笑うと、とん……と、優しく愛おしげに背中を叩いてくれる。

(成人男性が友達の奢りで、マッスルバーの初対面の男に抱きしめられてるなんて、冷静に考えたら狂ってるだろ)

 頭の中ではいつもの冷めた自分がそう必死に分析しているのに、気付けば俺は両腕を相手の背中に回し、トウマさんに縋りつくようにぎゅっと抱きしめ返していた。
 それに気付いたのだろうか。トウマさんが、ほんのわずかに息を詰める。

「なにそれ、わざと?」

 すり、と肩口のあたりに彼が顔を寄せると、洗い立てのシャンプーみたいな爽やかな香りが髪の隙間からふわっと漂ってきた。その少し奥にあるのは――男らしい、微かな汗の匂い。
 なのに、不思議と不快感なんて微塵もない。むしろ、そこらの下手に甘ったるい香水なんかよりもずっと色っぽくて、思わず息を殺して、すん、と深く吸い込みたくなる衝動に駆られていた。

「……わざとじゃないです」

 例えるなら、抱きしめ合った腕と腕、身体と身体がぴたりとパズルのピースをはめたみたいにしっくりくる感じだ。落ち着くし、それに程良い圧迫感が心地いい。

「乃依くん」

 恋人のように甘く名前を呼ばれて、心の中で(もっと)と欲張りな自分がひょっこり顔を出していた。分かっている、これは恋愛じゃない。お金を払ってやってもらっているサービスの一環だ――それなのに。

(夜、とか。同じベッドでこんな風に抱きしめられたら、どんだけ寝心地いいんだろ……)

 もちろん、そこにあるのはセックスなんかじゃない。純粋で濃厚なハグだけだ。あーあ、出張マッスルハグのサブスクサービスでもあればいいのに……なんて現実逃避にトリップしていると、ぽんぽん、と頭を優しい手つきで撫でられた。

「乃依くーん、聞こえてる? もう一分経ったよ」
「え、あっ、ごめんなさい」
「どう? 窒息しそうなくらい気持ちよかった?」
「それは……」

 肯定も否定もできないまま、膝の上でぎゅっと拳を作って黙り込む。
 俺のそんな初々しい恥ずかしさに気付いたのか、トウマさんは「ありがとね」と、なぜか俺に礼を言うと、冷えたサイダーをそっと差し出してくれた。そんなおまけは、メニューのどこにも書かれていないのに。

「これ、俺の専用アカ。出勤日とか毎月ストーリーで流してるから、よかったら追加して」
「……こういうの、あるんですね」
「それか、気になった時にでも、気晴らしにふらっとおいでよ。週四で入ってるから、大抵の日は店に居るし」

 俺は促されるままペコりと頭を下げてその名刺を受け取ると、トウマさんが見ていない隙に財布の奥底へとそっと突っ込んだ。
 向こうはあくまでビジネス、俺は一夜限りの羽目外し。きっともうこのお店には二度と来ないし、そもそも一人でこんなアミューズメント施設みたいな場所に気晴らしに来るほどの度胸も無いからだ。

(確かに、ハグはめちゃくちゃ気持ちよかったけどさ)

 さすがに二回も通ったりしたら、それってつまり「好き」みたいなものなんじゃん? と、脳内の『いつか別れるから恋愛しません』のプラカードを持った冷めた自分がすかさずすっとんできて、甘いモヤモヤを容赦なく打ち消していく。
 すると、足元から崩れるように眠たそうになった由紀が、俺の腕にぐっと全体重を預けて「もう無理ぃ……」と盛大にギブアップ宣言をしてきた。

「ほら、言わんこっちゃない……すみません、お会計お願いします」
「由紀くん、泥酔してるし心配だから。大通りまでタクシー拾うところで見送るよ。荷物も持ってあげる」
「ありがとうございます」

 他のキャストたちはみんな由紀のカバンに自分の名刺をこれでもかと突っ込んでいるというのに、トウマさんだけはなぜか、フラフラする俺たちの分の上着や鞄までまとめて持って扉を開けてくれた。
 エレベーターを降りるやいなや、由紀がその場に崩れ落ちそうになったのを、トウマさんがサッと肩を貸して支えてくれる。

「由紀くん、こんなに一気に飲んじゃダメなタイプじゃない? 危ないよ」
「いや、ほんとそうなんですけど……ついさっき失恋したばっかで、ヤケクソになってて……」
「あー、なるほどね。ヤケ酒のテンションでマッスルバーってことね」
「まぁ、そんな感じです……」

 トウマさんは大通りでタクシーを拾うために、地下の店舗から階段を上がろうと先導してくれた。その背中を見て、俺は思わず咄嗟に彼の太い二の腕をキュッと掴んで引き止める。

「あの、ここで大丈夫です。あとは俺が家までなんとか送り届けるので」
「でもさ」
「トウマさん、薄着じゃないですか。今から表に出たら絶対風邪引いちゃいますよ」

 もうすっかり肌寒い夜だというのに、トウマさんは白のTシャツ一枚にぴっちりとしたスキニーデニムを履いただけの格好だ。
 相槌を求めるように顔を見上げると、トウマさんはなぜかみるみるうちに耳の先までじわじわと赤く染め上げ、耐えきれなくなったように大きな手で口元を覆い隠した。

「……うん、そーね。ありがと、乃依くん」
「こちらこそ」

 へにゃりとその場に崩れ落ちそうになる由紀の身体を必死で支えながら、俺たちは開いていたドアからタクシーへとなだれ込んだ。

「保土ヶ谷まで、お願いします」
「かしこまりました」

 運転手さんに由紀のアパートまでの住所を告げてふと窓の外を見ると、まだ寒そうに肩を強張らせて見送ってくれているトウマさんの姿が目に入り、俺は慌てて小さく手を振って見せた。

『また来てね』

 声は聞こえなかったけれど、はっきりとそう動く彼の口の形が読み取れた。
 また来るつもりなんてさらさらない――はずなのに、別れ際の勢いに気圧された俺は、その場の空気に流されるまま「はい」と小さく頷いてしまい、タクシーはトウマさんをその場に残して夜の街へと走り出した。
 むにゃむにゃと寝言を呟きながら眠りこける由紀の頭を自分の肩で受け止めながら、俺はふー……と長いため息をつく。

(さすがに遊びすぎた。ていうか、あのカシオレのせいで地味に酔っ払ったかも……)

 最後にもらった冷たいサイダーのおかげで、口の中は少しすっきりしたけれど。
 あれはもしかしたら、トウマさんなりに俺の酔い具合を気遣っての優しさだったのかも――なんて今更になって気づき、まともにお礼も言えなかったな、とぼんやり後悔する。

(でも、まぁ……もう二度と喋る機会なんてないだろうし。由紀もそのうち新しい彼氏でもできれば、またあんな店に連れて行かれることもなくなるはずだ)

 流れる夜の街のネオンが、車窓の向こうで光の線となって消えていくのをぼんやり見つめながら、俺はさっきまで感じていたトウマさんの腕の確かな温もりを、どうしても頭の片隅から追い出せずにいた。
 そもそもあんな筋肉ムキムキのタイプが好みだったわけじゃないし、元々面倒な恋愛なんてしたくない俺にはまったく関係のない人間のはずなのに。……なのに。

(なんだろう、あの人……。ただの筋肉マンかと思いきや、やけに大人っぽいっていうか、気配りがサラッとできるっていうか……。あの甘やかし上手な感じ、あれはきっと年上の余裕ってやつなのかな)

 気づけば、アルコールで少し熱を帯びた頭の中は、彼のことでいっぱいになっていた。あんなに最初は「なんだこの異空間は」とマッスルバーを心の中でこき下ろしていたくせに、トウマさんに対する評価だけが、気づけば一人歩きしてうなぎのぼりに上がっている。
 いや、待てよ。向こうは所詮ビジネスのプロだ。こうやって巧みな話術と肉体美で、毎日いろんな客の心を転がしているだけなんだから。
 頭の中で、冷めた理性と抗えない好奇心の二つの感情が激しくせめぎ合いを起こす。何を俺は、たかが一回のハグごときでこんなにうだうだ悩んでいるんだろう。

(もう、二度と関わることのない人じゃんか)

 ――その五日後、再び彼の温もりに触れることになるなんて。このときの俺はまだ、知る由もなかった。