いつか別れるのが怖いから恋人は作りたくないけど、人肌が恋しすぎるので、マッスルバーで働く先輩と添い寝フレンド契約を結ぶことにした

 いつか、別れが来ることに耐えられない。
 だったら、はじめから何も「持っていなければ」傷つかずに済む。そういう極論で物事を考えるようになったのは、たぶん、小学二年生の時に飼っていたハムスターの「まるのすけ」が死んでしまった時からだ。

 町外れのホームセンターで初めて買ってもらったペットで、オスのジャンガリアンという種類だった。物心ついた頃から人間関係の距離感が掴めず、友達作りが苦手だった俺にとって、「まるのすけ」は唯一の庇護対象であり、心の逃避先だった。学校から帰れば、回し車の乾いた音を聞きながらまるのすけの世話をし、小さな体温を手のひらに感じることが自分の心と時間を満たす。
 同じ部屋で寝起きをし、あの子が生きているその事実だけで、孤独な小学生の夜は十分に越えられた。

 おそらく両親としては、俺に生き物を飼育する経験をさせることで、命の尊さだとか、他者を思いやる愛護の心を育んでほしかったのだと思う。
 その当時は純粋に可愛いというだけで頭がいっぱいだったけれど、この歳になれば嫌でも分かってしまう。両親は、始めからいつか訪れる「永遠の別れ」という結末を見据えたうえで、それでもなお、情操教育という名目でまるのすけを飼わせたのだと。
 あんなに小さかった命が、ある日突然、冷たくて動かない塊になってしまった朝の絶望感を、俺は今でも鮮明に覚えている。あんな思いをするくらいなら、最初から何も愛さないほうがよかった。あの小さな箱に土をかけた日から、俺の心の一番柔らかい部分は、固い土の下に埋まったままだ。

「乃依(のい)―、聞いてる? ねぇってば~」

 耳元に、鈴を鳴らしたような声が降ってきた。

「ん? あぁ、ごめん。聞いてる、きいてる」
「絶対聞いてなかったでしょ! なんならもう一度最初から話そうか?」
「いや、いい。だって、由紀はいつも同じことの繰り返しじゃん。すぐ一目惚れして、とんとん拍子で付き合って、半年以内に向こうからフラれるっていう……」
「だから! 次こそいい男を捕まえるために、こうして大真面目に反省会してるんじゃん!」

 午前の講義が終わったばかりの静かな教室で、親友――瀬川由紀(せがわゆき)はわざとらしく机に突っ伏し、大袈裟な嘘泣きをしてみせた。名前も、整いすぎたパーツの見た目も、女子みたいに可愛いけれど、彼はれっきとした成人男性である。
 自分でも顔が良いことに自覚はあるらしく、数々の妬み僻みを軽やかに乗り越えて、「あざと可愛い男子」としてのポジションを確立している。しかも、超面食いな同性愛者であることを周囲にも隠さず公言してはばからない。
 初めこそ、そのテンションの高さには圧倒され、正直少し距離を置いていた。けれど、付き合っていくうちに気づいたのだ。由紀には微塵も裏表がなく、からりとした潔い優しさがある。その心地よさを少しずつ好きだと思うようになり、俺と由紀は、大学三年の今となっては「親友」とお互いに呼びあうほどの深い付き合いになっていた。
 ちなみに、由紀いわく、俺は彼の恋愛対象外らしい。自分ではそんなつもりは一切ないし、そもそも誰かを恋愛対象として見たこともないのだけれど、由紀によれば俺の顔もまた「レベチで可愛い系」からなのだとか。なんの冗談だか。

「でさ、乃依は相変わらず、良い人と巡りあえないまま?」
「いや、そもそも探してないし」
「んもーっ、そんだけ素材がいいのに勿体ないよ。顔だっていいし、おとなしくて上品だし、少しアンニュイな一面もあるなんて、喉から手が出るほど欲しい美青年枠なのに」
「別に、恋人とかいらないし。……いつか別れるんだよ? その時に死ぬほど傷つくって分かっているのに、どうしてわざわざ好きになって、付き合うのか意味が分からない」
「なんで最初から別れるの前提なのさ! 死ぬまでラブラブな夫婦も、ずっと一緒にいるパートナーも、世界中にこんなに溢れてるのに! そうじゃなかったら、人類なんてとっくに滅亡しちゃうでしょ」
「だから、そこなんだってば。どれだけ愛が深かったとしても、長い時間の果てに、どちらかが片方を残して死ぬ未来が絶対に待っているわけじゃん。俺はそんなの、耐えられない」
「じゃあさ、乃依がそのパートナーより、先に死ぬとしても?」
「もちろん同じ。どちらにせよ、終わりの気配におびえながら生きるか、残されて一人になるかの二択でしょ。どちらの結末も耐えがたいものになるのは変わりない」

 講義室の窓から差し込む午前の柔らかな光の中、俺は紙コップのカフェラテのスリーブで両手をあたためながら、隣の席の由紀を一瞥した。
 ああ、もう見事なまでに、綺麗な顔がぐっと歪められている。由紀の顔に思いっきり『有り得ない』って書いてあるのが手に取るように分かった。

「ほんと、あり得ない! 乃依って頭がいいんだか悪いんだか……恋愛をしないなんて、人生の美味しいところをまるっとスルーしてるようなものだよ、損してる損してる!」
「いいの。これが俺の、一番安全な心の守り方なんだから」
「初恋も、片想いもしたことないくせによく言うよ。ねぇ、そういう生き方してて、世の中のイベントとか平気なの?」
「イベント?」
「バレンタイン、花火大会、クリスマス。街中が恋人たちのために盛り上がる行事は、シーズンごとに容赦なくやってくるじゃん」
「どうぞ、勝手にやってって感じかな。バレンタインはチョコ業界の策略だし、花火はベランダから一人でも綺麗に見られるし、クリスマスは我が家は無宗教だから関係ない」
「もうっ! なんで乃依ってそんなに、どこまでも冷めてて捻くれてるのさ!」

 由紀は不満そうにほっぺたを膨らませ、カプチーノのストローをむっとした顔で噛んだ。その横顔を見つめながら、俺は心の中でそっと息をつく。

(捻くれていると言われても、どうしようもないもんな)

 それでも、この胸の奥にある冷たい小さな箱の蓋を開ける勇気だけは、あの日の少年のまま、どうしても持てずにいた。

 ***

 大学の講義を終えた帰り、俺と由紀は駅前の裏に広がるレトロな飲み屋街へと足を向け、いつもの大衆居酒屋の個室に陣取っていた。授業終わりの開放感も手伝って、二人で頼んだのは、気兼ねなく飲み食いできる飲み放題と食べ放題のコースだ。
 なんだかんだ文句を言いながらも、由紀が失恋した直後の傷心には、こうして付き合ってやるのが俺なりの友人としての誠意のつもりだった。毎度、口が酸っぱくなるほど忠告しているけれど、由紀は面食いすぎる悪癖のせいで、毎回のように『中身がクソでクズ』みたいな男にばかり引っかかっては騙されている。
 その整った顔立ちのせいで、相手の男たちも最初は目の色を変えて言い寄り、早々にホテルに行き、体の関係を持つ。
 ひとしきりヤることが済んだら、都合よくポイ捨てされる。いわゆる「雑魚モテ」の典型的なループにハマっていることに、本人は薄々気づいていながら、あまりの寂しさに見ないふりをしているのかもしれない。

「もうやだぁ〜、絶対にクリスマスまでに、新しい彼氏作って見返してやるんだから」
「まーたそうやって、手当たり次第に自分を安売りするんだからさ」
「だって冬ってさぁ、なんかこう、無性にひと肌恋しくなるじゃんかぁ……」

 すっかりビールとサワーでへべれけになった由紀が、テーブルの向こうからずりずりと擦り寄ってきて、俺の腕にぴたっとしがみついてきた。あぁ、こりゃ今夜は一人で帰すわけにはいかないな、途中で変な男に引っかかってお持ち帰りでもされたら目も当てられない。自宅のソファまで送り届ける終電コースを、俺は内心で早くも覚悟していた。

(ほんと、世話が焼ける……でも、由紀にはこれ以上傷ついてほしくないし。急いで彼氏作るとか、今は一番危ない気がするんだけど)

 そんなことを考えていると、腕に頬をすり寄せた由紀は、急にふっと息をひそめ、濡れたような大きな瞳をこちらに向けた。

「乃依には分からないでしょ。誰かにぎゅってしてほしい、あの切ない気持ち」
「えっ?」
「自分の両腕で自分を抱きしめるのとは全然違うの。あったかくて、自分より大きくてたくましい腕にぎゅっと抱きしめられるのって、すごく……心が落ち着くんだよ。あぁ、生きててよかったなって、心の底から幸せって思うし。この広くて冷たい世界の中に、自分のことをこんな風に丸ごと包み込んでくれる人がいるんだぁって、ものすごく満たされるというか……」
「……満たされる、か」

 思わずオウム返しにつぶやいた俺の様子に、由紀はきょとんとまばたきを一つして、会話を止めた。
 そのまま、俺の目の奥を覗き込むように、顔を近づけてくる。

「ねぇ乃依。もしかして今、ちょっとだけ『それってどんな感じなんだろう』って、興味持ったでしょ?」
「……まぁ、なんとなく言いたいことは理解できたというか……。普段は不要だけどさ、無条件に誰かに甘えたい、すべてを預けたいみたいな気持ちは、疲れてる時にたまに湧いてくるから、分からないでもない」
「えっ!? ウソ、あの人間嫌いの乃依が、そんなこと思う時あるの?」
「あるよ。でも、だからって恋人が欲しいとかにはならない。今この瞬間だけ、何も求めずにただ都合よく、俺のことだけを安心させてくれる温もりがあったらなぁ、なんて。ほら、どうしても眠れない夜とか、理由もなく底なしに落ち込んでる時とかさ」
「そうそう、それだよ! その境地に少しでも足を踏み入れてるなら、まだ乃依の人生には希望がある!」
「何の希望だよ」
「乃依のその冷え切った心を、ぐっと丸ごと包み込んでくれる素敵なイケメン彼氏が出来る可能性♡」

 からかうように、由紀はふふ、と細い目を三日月の形にして笑ってみせた。
 だけど、心の中で俺は首を横に振る。恋人なんてものは、やっぱり要らない。
 そこに面倒な駆け引きとか、重たい情とか、いつか訪れる終わりの予感なんてものは一切いらない。もっとこう、手っ取り早く、静かな部屋のベッドの中で、体温だけを分け合えるような関係が――自分の気分の赴くままに現れてくれたら、どんなに楽だろう。

「セフレとかじゃなくてさ。もっとこう、ただハグしてくれるだけの、ハグフレみたいなのが欲しいかも」
「はぐふれ……? っていうかさ、それって一般的には『添い寝フレンド』って言うんじゃない?」
「なにそれ」
「知らないの? お互いに恋愛感情もセックスもなしで、ただただベッドで寄り添って、睡眠と温もりだけをシェアする割り切った大人のパートナーシップのことだよ」

 そんなものがあるのかと、俺はテーブルの端に放り出していたスマホを手に取り、指先でキーワードを弾いてみた。画面をスクロールしていくと、たしかに――そういうニッチな需要を叶えるための専用マッチングアプリやコミュニティが存在するくらいには、世間に知られたシステムらしい。
 興味本位で、適当なランキング上位のアプリを一つ、画面上でタップしてインストールしてみる。すると、隣でコップを傾けていた由紀が、ぴくりと肩を震わせてぎょっと声を上げた。

「ちょっ、乃依! い、いきなりダウンロードしだすとか行動力バグってない?!」
「なにが。ただ、どんなシステムでどんな奴がいるのか見たいだけだよ」
「こういうのって、一見お上品ぶってても、結局はヤリモクとか裏にやばい下心がある奴だらけなんだからね! そういう自衛の意識足りなすぎ!」
「いや、別に本気で出会おうとしてるわけじゃないって」
「口ではそう言いつつ、もうプロフィールの地域とニックネームの設定画面まで進んでるじゃんっ!」

 言い訳をしようとしたけれど、確かに画面は順調に登録を進めてしまっていた。そもそも面白半分だったのだ。どうせ実際に会うつもりなんて毛頭ないし、どんな文言を書いて、どんな距離感で駆け引きをしているのかを、文字だけでも覗き見てみたかっただけなのだけれど。
 一通り、マッチングの検索画面をスワイプして眺めてみる。けれど、出てくるアイコンはどれも顔がよくわからない不鮮明なものばかりで、「これって明らかに他人の拾い画だろ」とツッコミたくなるような怪しい画像を設定している人が大半だった。画面から漂う胡乱な空気に急速に冷めた俺と由紀は、早々にそのアプリを指先一つでアンインストールし、テーブルにスマホを伏せた。
 ちょうどそのタイミングで、店員が「ラストオーダーになります」と声をかけていく。俺たちは、もう何杯目になるかもわからない濃いめのハイボールを、慌てて最後の一杯として追加で注文した。

「てか、乃依。二軒目どうする?」
「え……この時間からまだ飲む気?」
「当たり前でしょ! あのクソ男についての愚痴、まだ半分も語り足りてないんだもん!」

 先ほどまでの失恋の痛手はどこへやら、腹を立てて熱くなっている由紀は、頬杖をついていた顔をふとシャキッと持ち上げた。そして、何やらひらめいたように目をらんらんと輝かせる。

「ねぇ、待って! 俺、今すごい天才的なこと思いついちゃったかも」
「もう、飲み過ぎて頭がおかしくなってるだけだろ。さすがに今日は帰ろうよ」
「そうじゃなくてさ。乃依、よーく考えてみてよ。ハグを合法的にできて、面倒な恋愛感情も一切発生しなくて、マチアプみたいにヤリモクに怯える必要もない、めちゃくちゃ安全な方法があるよ。しかも、美味しいお酒も飲めちゃうの!」
「なにそれ。そんなうまい話――」
「マッスルバー。ここから歩いて五分くらい裏に入ったところにあるの。最近、SNSの特集ですごい話題になっててさー、ずっと一度行ってみたいと思ってたんだよねぇ」
「マ、マッスルバーって……あの、筋肉ムキムキの店員さんがお酒作るやつ?」
「そう! いいから、行こうよ。今夜の二軒目は、お互いの『癒やされたい・発散したい』って欲望を同時に満たせるマッスルバーで完全決まり!」

 こちらの返事も待たずに、由紀はすでに飲み干したハイボールのグラスを置き、会計の札を持ってレジへと駆けていく。そして、慣れた手つきでお会計のお兄さんに「ねぇ、お兄さん。学生割引とかクーポンないの〜?」と見事な上目遣いで媚を売り、ちゃっかり総額から二十パーセント引きにさせて戻ってきた。もう、なんというか、ここまでブレない生き様を見せつけられると、あきれを通り越して一種の尊敬に値する。

「ほら、突っ立ってないで歩くよ!」

 すっかりハイテンションになった由紀にぐいぐいと腕を引かれながら、ピンクのネオンがあやしく煌めく裏路地の奥へと足を踏み入れていくのだった。