死にたくなったので歩道橋から飛び降りようとしたら、No. 1ホストに救出されて、溺愛生活を送っています。

 俺と嵐さんが恋人になってから、二週間が過ぎた。
初めこそぎこちない空気が流れていたけれど、嵐さんは言葉と行動で俺を安心させてくれた。

『お前が居心地良いと思える男に、俺がなるしかねぇよな』
 ――そうぽつりと溢してからは、何の不満も言わずに尽くしてくれている。
 その献身ぶりには、恐れ多くて申し訳なくなってしまうほどだった。
 具体的に言うなら、俺に代わって大学の学生課に休学の事情を電話口で説明してくれたり、スマホを解約した俺のために新しい端末を契約してくれた。けど、それだけじゃない。

『年上の男の人と同居って……どういうことなの! 見晴。家に帰ってきて、ママとパパにちゃんと――』
「だから、そんな大騒ぎしないでってば。ホントにいい人で……」

 嵐さんと同居することを俺の親に伝える時なんて、否定された俺がつい強い口調で言い返しそうになると、嵐さんが電話を代わってくれたのだ。

「見晴。スマホ貸せ」
「……でも」
「いいから。俺が話した方が早いだろ」

 通話を代わった嵐さんは、ヒステリックに怒る母親に対して至極丁寧な口調で挨拶をした。自分が社会人であること、体調面で(実際は心の方だけど)俺を支えたいという真摯な思い、そして生活費等の現実的な話まで淀みなく説明し、状況が落ち着いたら必ず大学に復帰することを約束として取り付けていた。

「えぇ、はい。仕事が落ち着いた頃に、見晴さんと一緒にきちんと挨拶に伺いますので」

 あの過保護な俺の両親を納得させてしまう手腕には、舌を巻いた。ホストとしてのトーク力が関係しているのかは分からないけれど、ちゃっかり母のLINEまで聞き出すほど嵐さんは両親の懐に飛び込み、同棲の許可を難なく得ていたのだから。

「おい、見晴。今週の日曜どこ行きてぇ?」
「えっ……でも、この前デートしたばっかりですよ」
「はぁ? 毎週デートしたくなんねぇの、お前は」
「あ、いや……だって俺、お金ないですし。車もないのに、嵐さんにそんな負担をかけるわけにはいきません」

 俺がオロオロと手を振ると、嵐さんは「あ゛ーー」と天井を仰いで、タバコの煙をふわりと吐き出した。がしがしと頭を掻いて、眉根を寄せている。

「だーかーらー、そんなん気にすんなっつっただろーがよ。マジで甘えんの下手くそだな、お前」
「あ、甘えてるつもりです。自分なりに、精一杯」
「そういう、経済面の話じゃねーよ。もっとこう、俺を振り回す気概を見せろって言ってんの。恋人になってから、ますます萎縮してんじゃん」
「ごめんなさい」
「テキトーに謝りやがってよ。俺だけ? デートしてぇって逆上せあがってんのは」

 その言い方があまりにも、お菓子を買ってもらえなかった子供のように拗ねていて、思わず吹き出してしまった。

「笑ってんなよ、おい」
「えへへ。嵐さん、可愛いなと思って」
「実写版ぴゅあり〜が、何抜かしてんだよ。お前のほうが5億倍可愛いっつーの。俺が行きてえところに今度は連れ回して、買い物しまくるぞ。んで、美味いものも食う。お前、なんかケーキ食いてえとか言ってたよな?」
「あ、はい。ケーキ、食べたいです」
「はい、決定。んじゃー、日曜日は買い物な」

 二本目のタバコに火をつけようとする嵐さんの隣に座り、俺がそっと小指を差し出すと、嵐さんは面食らったように切長の目を丸くした。

「は? 何それ」
「約束です。指きりげんまん」
「…………ざけんなよマジで」
「え、俺なにか変なこと言っちゃいました……?」
「可愛すぎて時が止まったわ」
「あ、う……ごめんなさい」
「悪いと思ってねぇだろ、丸わかりなんだよ」

 たしかに、悪いことをしたという自覚はない。
 嵐さんにむぎゅーっと頬を優しくつままれ、『痛いです』と目を閉じて訴えると、嵐さんが灰皿に手を置く気配がした。そのまま、そっと後頭部に手を添えられる。

「っん……嵐さん」
「変な声出してんじゃねーぞ、エロガキ」

 ぷはっ、と息が苦しくなるようなキスが降ってくる。タバコの苦さと甘さが混ざった香りは、何度重ねても慣れない。

「お前、実はめちゃくちゃキス好きだよな」
「えっ、なっ、なんっ」
「何でバレてるかって?」

 コクンと俺が頷くと、嵐さんは喉の奥でくくっと笑って、前髪をくしゃりと梳きながら崩してみせた。

「顔に書いてある。『嵐さんとチューするのが好きです』って」
「うえっ、俺、そんな変な顔してますか!?」
「うん。最高に嬉しそうな顔してる」

 わざとらしく音を立てるように舌を絡め取られて、そのあと俺はソファーの上で、文字通り骨抜きになるまでキス責めにあった。

 ◇◇◇

 「約束」の日曜日、俺と嵐さんは百貨店や高級ブランドが連なる銀座の街を歩いていた。もし万が一、嵐さんのお客さんに遭遇してもバレないようにと、嵐さんは黒いマスク。俺までキャスケットを被って、変装に付き合わされている。

「お前、靴は? スニーカーそろそろヤバくねえか、それ」
「あ……でもこれ、気に入ってて」
「なんで? 何でもいいから、好きなの買えばいいだろ」
「……これ、大学入る時に、亡くなったおばあちゃんが買ってくれたやつで」
「うわ、マジ? どんだけ物持ちいいんだよ」

 セール品だったから三千円もしなかったけれど、自分の好きな色の三本線が入ったお気に入りだ。中敷を変えて、靴紐を変えてと延命してきたけれど、確かにそろそろ限界かもしれない。
 けれど、「おばあちゃんが買ってくれた」という思い出を語る俺に、嵐さんは帽子の上からそっと手を置いて言った。

「お前のそういうとこ、嫌いじゃないっていうか……むしろめっちゃ好きだなって思うけど。新しい靴って、自分を新しい場所にも連れてってくれるっていうジンクスがあんだよ」
「……初めて聞きました」
「だろうな。俺がたった今作った話だから」

 真顔で信じ込んだ俺に、嵐さんはふっと笑ってみせると、靴屋を通り過ぎて高級アパレルブランドのドアを押し開けた。
 その広い背中を見つめながら思う。俺に無理を強要せず、最後は選択の余地を残して尊重してくれるところ。かと思えば、俺が勇気を持てないとわかると自然にリードしてくれるところ。そんな嵐さんの、器の大きさがたまらなく好きだと。

「服も何枚か買っとけ。さすがに俺の服をシェアすんのも、そろそろ限界だろ」
「え、でも俺、今もらってる三着があれば十分ですよ」
「シンデレラみてぇなこと言ってんじゃねーよ。もっと自分の好きな服を着ろって言ってんの。別に無理して、俺のお下がり着なくていいんだぞ」
「でも、俺、嵐さんのこの服の匂いが好きで……」
「……おい、今すぐホテルに連れて行かれたくなかったら、口にチャックしとけ。わかったな」
「うぅ、ごめんなさい! ごめんなさい、そういう意味では」
「無自覚なのがタチ悪いんだよ。……ほら、こういうのとか似合うんじゃねぇーの?」

 結局、試着室に押し込まれて、なんだか俺には勿体無いほどの綺麗めなスタンドカラーのシャツとか、流行りの形のワイドパンツを買ってもらった。
 普段は今の服を着ていいから『デートの時にきて欲しい』とぽそりと言われて、嵐さんがあんまりにも不器用な照れ隠しをするものだから、俺は嬉しくなってしまった。

 新しいスニーカーは、優柔不断な俺には決められなくて、嵐さんが色とデザイン決めてくれた。靴のサイドに「M」のアルファベットが刺しゅうしてあって、アイボリーにグレーや差し色のミント色、焦げ茶が入ったチョコミントみたいな色だ。自分には勿体ないくらいお洒落なデサインで、もしも俺の背中に羽が生えてたら、それこそ嬉しさで飛んでいってしまったかもしれない。大袈裟かもしれないけれど、それくらい、舞い上がっている自分がいた。

「あの、嵐さん。今日の夜ご飯、頑張って作りますね」
「は? なんで。いつも美味いけど」
「いや……あの、お礼の気持ち? みたいな。それくらいしかホントに返せないから」
「ふーん。なら、俺は別な『お礼』がいいんだけど」

 その言葉に首をかしげていたけれど、家に帰ってから嵐さんに「風呂付き合え」というお礼を求められた俺は、ずるずると半ば引きずられるようにしてバスルームに強制連行された。

(うぅ……これはちょっと、流石にまずいんじゃ……)

 嵐さんの前で、裸になるのは想定してなかった。
 自殺未遂をしたあの夜から、もう一ヶ月以上が経つけれど、嵐さんは本当に宣言通り指一本俺に触れていないし、キスはめちゃくちゃしてくるけど、それ以上を求めてこない。寝る前のハグとか、うなじに不意打ちで口付けられることはあったけれど、セッ……クスの雰囲気になることは、あえて避けているみたいだった。

「ほっせーなマジで。飯食えよちゃんと」
「ま、毎日いっしょに、同じもの食べてるじゃないですか」
「いや、今日のケーキ爆食いはビビったけどよ。もう少し肉つけろ」

 乳白色の入浴剤をいれたバスタブの中、後ろから抱き抱えられるようにして、まわされた手でそっと脇腹をつかまれる。嵐さんと出会う直前の数週間は、ちょっとした鬱状態に近かったから、水とゼリー以外ほとんど何も口にしていなかったせいで、脂肪がない。なので、ほぼ皮をつままれているのと一緒だ。

「んや、嵐さん、くすぐったい……」
「おい、マジでその変な声出すの止めろや」

 んぐ、と口を手で塞がれる。コクコク、と頷く俺をみて、嵐さんはふっと眉を下げて微笑んだ。ゴムでまとめた髪の後れ毛が濡れて、シルバーのネックレスと一緒に光っている。色っぽいな……と鎖骨のところにある嵐さんのホクロを見つめていると、にやりと笑われた。

「お前、ここにホクロあんのな。すげーエロい」

 そう言って、肩甲骨の間をつつーとなぞられる。そんなところに、ほくろなんてあったっけ。見えないし、いちいち覚えてない。けれど、嵐さんはちゅっと音を立ててそこにキスをした。その唇の感触に、肌が粟立つ。
ぴくん、と震えたのを合図にするみたいに、嵐さんは俺の顎を掴むと後ろを向かせてキスをした。軽かったそれがあっという間に深くなって、舌先を吸われたり、食まれてより深くへと誘われる。

「……見晴」

 熱っぽく名前を呼ばれて、首を傾けると、嵐さんは顔を寄せて俺の首筋に灼けつくような痛みを残した。キスマーク。人生で初めてつけられて、ポカン顔で固まってしまう。

「えっ、いまの、キスマークですか!? うわ、人生で初めてです、ちょっと鏡で見てもいいですか」

 興奮気味にざぱぁっとバスタブから上がって、曇ったガラスを手で拭きながら覗き込む。そんな俺を見た嵐さんは『流石、ムードを壊す天才』とバスタブのふちに頬杖をついていたけれど、そういう困った呆れているときの顔ですら、俺はきゅんと胸を締め付けられる一方だった。

 日が暮れてから仕事に向かう嵐さんに『行ってらっしゃい』を言って、朝方の薄明るい静かな時間に『おかえりなさい』を言う生活。
 嵐さんが日中寝ている間にスーパーへ買い出しに行ったり、ご飯を作っておくルーティンにも慣れてきて、この部屋に来た頃よりも確実に自己肯定感は上がっていた。
 特技って誇れるものも、夢中になるものもまだないけれど、嵐さんに求められることが生きている意味だと思える。
「嵐さんのために」って自分にできることを頑張ることに、胸を張っていい。
 時折、悲しい気持ちが顔を出して落ち込む時もあったけれど、嵐さんはその度に『バカ』と言いながら俺を優しく抱き寄せて、いかに俺のことが好きで、大切かを眠りに落ちるまで囁いてくれた。

「なに、ひでぇ顔して。また死にたくなった?」
「ち、ちが……違います。でも、なんか、幸せすぎて怖いというか」

 こんな、こんな幸せでいいんだろうか。悪いことの後には良いことが待っているというなら、この「良いこと」のあとには、悪いことが待ってるんじゃないのかな。
 そんな俺の予感は、それから数週間後……悲しいほど見事に的中することになる。

◇◇◇

 季節は巡り、嵐さんのバースデーイベントを間近に控えた夏の夜のことだった。

「じゃあ、行ってくる」
「スマホ、ちゃんと持ちました?」
「さすがにもう忘れねえから。見晴はこのあと何すんの?」
「うーん、お風呂掃除して、あったかいもの飲んでから寝ようかなって」

 そう答える俺に、嵐さんは傘を片手に安心したようにふっと目尻を和らげて微笑んでくれた。
 ぽんぽん、と優しく頭を撫でられると、一気に寂しさが込み上げてきて『行かないで』と言う気持ちでいっぱいになってしまう。
 でも、俺がその気持ちを伝えずにいることも見透かしたように、嵐さんはクイッと俺の顎に手を添えた。

「できるだけ早く帰るから」

 ちゅっと軽く吸い付いて、余韻を残すようなキスにそっと瞳を閉じる。
 さっきまでは寂しくて仕方なかった胸がトクン、トクン、と鼓動を早めた。

「まだ寂しい?」

 顔を覗き込まれて、唇を巻き込むように口をつぐんだ俺を見て、嵐さんはどこか満足そうに笑う。本当ならここで『すごく寂しいです』って、言えたならいいのに。

(……行っちゃった)

 ぱたん、と閉じたドアの前で、足音が聞こえなくなるまで立ち尽くしてしまう。ああ、やっぱり、忘れ物でもしてくれたらよかった。そうしたら、もう一度引き留めて『やっぱり寂しいです』って言える気がする。
 いつもならリビングにしょぼんとしたまま戻るのだけれど、俺は玄関に置かれた嵐さんに買ってもらった靴を履いた。

『なんで雨の夜に新しいの、おろそうとしてんだよ。晴れの朝に履いてったほうが、いいに決まってんだろうが』

 嵐さんがそう言うから、梅雨の間ずっと履けなかった新品のスニーカー。いつ履く時が来てもいいように、箱から出してタグを切っておいてよかった。
 新しい靴が、自分を新しい場所にも連れてってくれるっていう嵐さんのジンクスを俺も信じたい。この部屋から一歩を踏み出して、普通の生活を送る事は怖いけれど、嵐さんに素直な気持ちを伝えて、「新しい自分」に少しでも近づきたい。
 カードキーを片手に玄関を閉め、走って後を追いかけたけれど、嵐さんはエレベーターに乗ってしまっていた。エレベーターのパネルに表示された数字が地下の駐車場まで降りていくのを見届けて、下へ行くもうひとつのエレベーターに乗り込む。
 俺はいつから、こんなに感情任せで動く人間になったんだろう。
 いや、自殺しようと思った時からそうなのかもしれないけれど、少なくとも誰かをこんなふうに好きになって、必死で追いかけるような恋はしたことがない。
 嵐さんは言わなくても俺の寂しさを分かってくれている。でも、それにいつまでも甘えるんじゃなくて。恋人として、寂しいって伝えて、迷惑に思われるのも覚悟した上で求めたほうが、嵐さんは喜んでくれる気がする。

「……っ、嵐さん!」

 エントランスへと抜ける直前、ドアを開けた嵐さんの背中に向かって呼びかける。

「見晴? どうした、俺なんかまた忘れた?」

 その驚いた顔に向かって、手を伸ばした次の瞬間――エントランスの向こうから、ふらふらと歩いてくる人影が見えた。
 俯いているけれど、その姿には見覚えがある。嵐さんのお店に行った時、揉めていた男の子。茉弥くんだ。

「やっほー。嵐がお店で会ってくれないから、家まで来ちゃった」

 くい、と茉弥くんが嵐さんの袖を引く。ぴたりとその場で立ち止まった俺を一瞥すると、茉弥くんは嵐さんの腕に抱きつくように絡んだまま、上目遣いに見つめた。

「ねえ、嵐。次のバースデーのために三百万用意してきたよ。この前のこと、もう仲直りしようよ」

 ほら、見て。と微笑みながら、茉弥くんは茶封筒を三つゴムで束ねたそれを嵐さんに突きつけた。嵐さんはそれを受け取ることなく、俺を背後に庇う。

「茉弥、なんでここまで来てんだよ。俺、お前に家教えたことねぇはずだぞ」
「えへへ、EDENの売上最下位のホスに50万払ったら、余裕で乃亜くんのパソコンから従業員情報のファイル抜いてきてくれたよ。……ずーっとあの日から、納得いかなかったんだよね。どう考えても俺よりブス、地味、金も稼げないくせに、なんでそんな子が嵐の本命なのかなって」

 遠慮ゼロで面と向かって指をさす茉弥くんの言葉に、思わず俯いてしまう。
 けれど、嵐さんはそれを鼻で笑って一蹴すると、茉弥くんに向かってはっきりと言った。

「それを茉弥に話す理由はないだろ」
「は? 俺は嵐のエースだよ?」
「そうだけど。俺とお前はホストと客だろ。コイツは店とは関係ねぇって言ってんだよ」
「僕の売り上げで最初のナンバーワンがとれたのに? エースに向かってその態度ってひどくない? 次のバースデーで300持ってきたら、家に上げてくれるって去年は言ったの、忘れちゃったのかな」
「……確かにその時は言ったけど。でもお前、その金はどうやって――」
「お店に来てくれるおぢに借金肩代わりしてもらってんの。だって、風俗の売り上げだけで稼ぐなんて、それこそ体が壊れちゃうもん」

 ちら、と茉弥くんは庇われている俺を見て笑った。

「もしかして、その子もいずれはそういう使い方するつもりだった? 本命チラつかせてからの、風俗行き。仲介手数料も稼げちゃうもんね」

 くすくすと笑われて、俺は信じられない気持ちで嵐さんを見上げた。

(――嘘だ。嘘だって、そんなことないって言ってほしい)

 嵐さんは、俺の視線に耐えかねたように視線を逸らすと、茉弥くんの肩をぐっと押した。

「適当なこと言ってんじゃねーよ、コイツはそんなことさせるつもりで、付き合ってるわけじゃない」
「へえー、ずいぶん大事にするんだね。俺には『無理はしないでほしいけど、会いに来て』とか言って、どんどん金額のハードル吊り上げていったくせに」
「吊り上げてねぇよ、お前がエースになりたがって、どんどん俺に金落していっただけだろうが」
「うわ、ホント最低。でも仕方ないよね、ホストってみんなそうだから。でも……嵐、忘れちゃった? 俺言ったよね。俺より大事な子を作ったら『嵐もその相手も、殺しちゃうかもしれないよ』って」

 嵐さんに押し除けられてもなお微笑んだままの茉弥くんは、ポケットから何かを取り出すと、それをパチンと開いて嵐さんに向ける。
 エントランスの照明で光るそれは――折り畳み式のナイフだった。

「……見晴、部屋に戻ってろ。鍵かけとけ」

 さすがの嵐さんも、茉弥くんがそんなものを持って来るのは想定外だったらしい。言葉に詰まりかけるのをぐっと堪えて、俺の肩をドンと押した。

「あ、嵐さん。待って……無理です、絶対嫌です!」
「いいから早く行けって言ってんだろ!」

 物凄い剣幕だった。俺が二日目の朝、ベランダに出た時とは比べ物にならない勢いで怒鳴りつけられて、思わずビクッと体が震える。

「ちなみにこれ、オモチャじゃないからね?」

 茉弥くんは無言で自分の手首に、つう、と刃先を当てると、エントランスの床にはぽた、ぽた、と血の雫が垂れた。こてん、と首を傾げる彼に、嵐さんがごくりと唾を飲む。

「茉弥、まじでストップ。やめろって」
「あはは、嵐が本気で焦ってる。やめるわけなくない? マジでこっちも人生終わらせるつもりでやってんだからさ」
「一旦落ち着け。場所変えて、ふたりで話そう。な?」
「ううん、俺のなかではもうその交渉は終ってんの。だって、あの後……何回電話したと思ってんの? 店に行っても『他店に乗り換えたなら入店お断り』とか意味わかんないこと言われるし。しかも――」

 明るく首を傾げて微笑む茉弥くんは、ぐっとナイフに力を込めなおして言った。

「俺がおぢとホテル行く途中に、呑気な顔してふたりで腕なんか組んじゃってさ。不細工な顔でデレデレしながら、銀座歩くとか……! 許せない、絶対に許さないから! 死ね! 一刻も早く死ねよ」

 ぼろぼろと泣きながら怒鳴る茉弥くんに、俺は何一つとして言葉を掛けられなかった。お客とホスト、エースとしての彼をぐちゃぐちゃにしたのは、嵐さんじゃない。風俗の話が本当だったとしても、ふたりの関係を壊したのは、紛れもなく俺の存在のせいだ。

「嵐のこと先に殺して、こいつのメンタルぐちゃぐちゃにしてから殺すのと。こいつが死ぬとこ嵐に見せて、申し訳なかったって俺に謝ってから死んでもらうの、どっちがいいかなーってずっと考えてたんだけど……。いざ目の前にしたら、普通にムカつくし嵐からにしよっかな」

 笑顔で詰め寄る茉弥くんが刃先を嵐さんに向けた瞬間、俺はその間に割って入るように、嵐さんを守りたい一心で茉弥くんに体当たりした。

「――っ、いった……!」

 衝撃で倒れ込む茉弥くんと、その目の前で蹲る俺。カラン、と床に落ちるナイフの音。嵐さんは身体を二つに折るように倒れたままの茉弥くんを一瞥してから、俺をそっと抱き起こそうとする。その時、じん、とお腹の辺りに鈍い痛みが走った。

「見晴……待て、動くな!」

 嵐さんが血相を変えて、俺のお腹をぐっと抑える。どうしたんだろう、とゆっくりとその手先を見ると、俺のTシャツには濃い血の色が滲んでいた。

「あ……嵐さん、ごめんなさい、おれ……」

 刺されたのに、不思議と怖くないのはどうしてだろう。じん、じんと次第に大きくなる痛み。いくら嵐さんが強い力で抑えても、血が広がる勢いは止まらない。むしろ、より速くなっていく。

「えっ……あの、大丈夫ですか!?」

 そこへ偶然やってきたサラリーマンの二人組が、エントランスの光景を目にして固まっている。茉弥くんを抱き起こそうとして、ナイフが転がっているのを目にした瞬間、そのうちの一人がスマホで警察か救急に通報をしている声が聞こえてきた。

『はい……男性ふたりが倒れていて、一人は血が出ていて。場所は、西新宿にあるマンションの地下駐車場の、エントランスなんですけど……』

 足元に目を向けると、嵐さんに買ってもらった、初めて履いたスニーカーが血だらけになっている。

(あぁ、やっぱり……雨が降ってる夜じゃなくて、晴れの朝におろせばよかった。折角……せっかく嵐さんに買ってもらったのに……)

 俺は何度目かの「ごめんなさい」を言おうとしたけれど、一気に血の気が引くように眩暈がして、嵐さんの腕の中でぐったりと脱力してしまった。

「おい、見晴? 見晴っ!」

 大きな声で呼ばれて、返事をしたいのに口に力が入らない。「あ」を力無く繰り返す俺を、嵐さんが見たこともないような、泣きそうな顔で見つめていた。
 俺は、嵐さんに、こんな顔をさせたかったわけじゃないのに。

「あ、嵐。嵐さん」
「喋んな、今、救急車来るから。絶対死ぬなよ、お前が死んだら、俺……っ」

 そこまで言いかけて、ぎゅっと抱き寄せられる。
 俺も嵐さんを抱きしめ返したいのに、両腕に力は入らないままだ。
 あんなに死にたがっていた自分が、まさかこんなことになるなんて。
 俺は嵐さんのがっしりとした腕の中で、瞼を閉じながら、あの雨の日のことを思い出していた。
 あの時、歩道橋から飛び降りなくて良かった。
 ひとりぼっちで死ぬことを、選ばなくて良かった。
 だって、だってこの腕の中は……。

「嵐さん、嵐さん。おねがい、聞いて」
「…………見晴?」
「ずっと、このまま。ぎゅって、ぎゅってして下さい」

 世界で一番大好きな人のぬくもりの中で、抱きしめられたまま死ねるなら。
 それは、俺にとっての最高の天国だと思うから。