深夜二時。換気扇の低い駆動音だけが響くキッチンで、俺は無心にお玉で鍋をかき混ぜていた。ことことと煮込んでいるのは、カレーだ。
あのあと、嵐さんは俺を強く抱きしめてから、「飯、作っとけ。カレーがいい」とだけ言い残して店に戻った。だから今こうして、換気扇の横のオレンジ色の間接照明の下、ぐつぐつと沸き立つ鍋を静かに見つめる。
眠くはない。というより、眠れるはずがなかった。あんなふうにハグをされて、そのまま泥のように眠りこけるほど、俺の心は図太くできていない。
(……もうすぐ、嵐さん帰って来る。そしたら、さっきの話の続き……する、よね?)
茉弥、と呼ばれたあの男の子が、嵐さんとの時間をつくるために体を売り、大金を貢がせてきたという事実。それらはすべて、俺が触れたことのない、嵐さんの未知の側面だった。
家の中でただ優しく甘やかされ、たまに意地悪なことを言われてきただけの自分。嵐さんの本当の姿を知るにつけ、そんな平和ボケした自分がめちゃくちゃに稚拙で、ますます中身のない空っぽの存在のように思えて、恥ずかしさが込み上げてくる。
かき混ぜる手を止めて、もわりと立ち上るスパイスの湯気を眺めた。カレーの匂いって、なんだか不思議と、大丈夫な気がしてくる。こんな気持ちになるのも、嵐さんがカレーを選んだからなのかもしれないな、と思った。
「ただいま」
玄関の方から、ぶっきらぼうな声がした。少し不機嫌そうなその響きに、俺は弾かれたように顔を上げて、キッチンを飛び出した。パタパタという心許ない足音を立てて近づく俺を見て、嵐さんは呆れたように、けれどどこか隠しきれない優しさを滲ませて笑った。
「おかえりなさい、嵐さん」
「……犬?」
「えっ?」
「なんか子犬みてぇに走って来るなと思って。尻尾ねぇけど、幻覚でついてるように見える」
「あ、あの。カレー出来てます、って早く教えたくて」
「ん、ありがとな」
不意に肩を掴まれ、視界がぐるりと回った。
「え、あ……」
短い声を上げる俺を、スーツのボタンを緩めながら嵐さんは意に介さず、そのまま寝室のベッドへと連れ去る。寝具に押し倒される形で降ろされ、何か言わなければと口を開きかけた時、唇に柔らかい感触があった。ちゅ、と短いキス。
「あ……これ、今日のぶん、ですか?」
「ちげーよ。俺がしたいからしてるだけ。つーか、最初からそうだったろ。なんでわかんねぇかな」
はぁ、と呆れたように溜息をつかれる。けれど、その瞳に宿る熱は、ちっとも怒ってなどいなかった。ベッドサイドのデジタル時計が、俺と嵐さんが出会ってから六日目を指している。
『なぁ。死ぬの、一週間だけ延期すんの無理?』
出会ったばかりのあの夜、嵐さんが投げかけてくれた問いかけが脳裏をよぎる。本当なら、俺はこの嵐さんとの夢のような日々を終えて、自ら命を絶つはずだった。けれど、あの歩道橋の欄干に立っていた時のような、鋭い絶望の切っ先は、今の俺にはもう鈍くなってしまっている。
「俺、バカだから……」
「んなこと、最初からわかってんだよ。自分の命捨てる時点で、特大の大馬鹿野郎だろ」
「ひ、ぇ」
べしっ、と額にデコピンを喰らう。思わず「いたっ」と半泣きになると、嵐さんはベッドの上であぐらをかき、その膝の上で頬杖をついた。
「……てか、俺的には、お前も俺のこと……それなりに好きなんじゃねえのかって思ってたけど。違うのかよ」
「え、お、俺ですか?」
「この家のなかに、お前以外に誰が居んだよ。流石に取り憑かれるような女の振り方してねぇぞ」
「……嵐さんのことは、す、すきだけど」
「けど?」
「俺、何も持ってないですよ。お金とか」
絞り出すように言った俺に、嵐さんは鼻で笑った。
「別に困ってねえよ。お前一人くらい、この先一生養えるくらい余裕で稼いでるって言っただろ。大人しく家事でもしとけ」
「でも、それだと俺、ただのヒモ? というか……家政婦になっちゃうんじゃ」
「ぐだぐだ悩む時間があると、またそっちに引っ張られて死にたくなるだろ。うちに連れて来た時に『家事をしろ』っつったのも、そうやって手を動かしとけば、ヘンなこと考えなくなると思ってやらせてたとこもあるし」
チラリとキッチンの方を見た嵐さんの仕草に、だから今日はカレーだったのかと、俺は小さく首を傾げるしかなかった。なんで言ってくれないんだろう。言ってくれたら、もっと素直に作れたのに。でも、そういうことを言わないのが嵐さんなんだろうな、とも思った。
「あとは何が不安なんだ」
その問いに、俺は迷いながらも正直に口にした。
「……こ、恋人同士がすることが、できません」
「あ? セックス?」
あまりに直球な言葉に、ぼっと顔が熱くなる。キスはできる。けれど、性行為そのものは怖い。痛い記憶、失敗した過去。ゴムが中に残っていた時の、あの言いようのない気まずさと屈辱が、今も鮮明にフラッシュバックする。
けれど、嵐さんは「ああ、あの蛙化の男な」と俺の元彼をあっさりと切り捨てると、俺の体を包み込むように抱き寄せた。
「別に俺、お前とセックス狙いで付き合ってんじゃねえよ」
「で、でも。普通に、溜まったりしたら、フーゾク? とか行っちゃうんじゃないですか」
「いや、考えすぎだろ。こんだけ顔知られてて行くわけねえじゃん。性処理くらい自分でどうにかするし」
「……ていうか、嵐さん。俺で、勃ちますか……?」
「バカがよ、勃つに決まってんだろ」
「あ、う……」
嵐さんは、ふっと目を細めた。そして、俺の手を強引に引き寄せて、自分のあぐらをかいた脚の間に導く。
「お前が触っただけで余裕で硬くなるし、毎晩意識を飛ばして必死に耐えて寝てたんだよ。好きなやつが居て勃たなかったら、それはもう男じゃねぇだろ」
うわ、かっこいい、と思ってしまった。けれど、その言葉に続くように、嵐さんは俺と指と指を色っぽく絡めて、手の甲にキスを落とす。
「だから、見晴がシてぇって思ったら、死ぬほど優しく、気持ちよくしてやりてえな」
「……いや、俺、たぶん、不感症で」
「嘘つけ。キスの度にあんなトロ顔するやつが、不感症なわけねーだろ」
「と、とろ顔?」
「はいはい。自覚なし、と」
ちょっと小馬鹿にされて、よわよわのメンタルがズキリと痛む。嵐さんはハァ、と息を吐いて、指先を絡めたまま下から覗き込むように俺の顔を見つめた。
「……死ぬのやめて、俺のそばにずっと居んのは嫌?」
「まって、同情ならそれ以上優しくしないでください、俺、ほんとに好きになっちゃう」
「なれって言ってんだよ。死ぬことは怖くねえくせに、何にそんなビビってんだ」
解いた指。ぎゅう、と片手で顎を怒り気味に掴み上げられる。ゆらゆらと滲む視界で、悲鳴のように絞り出したのは、俺の心のいちばん深いところにあった恐怖だった。
「何にもない人間だなって、いつか飽きられて、愛されなくなるのが怖いです」
それは、友達、恋人、親。どれにも当てはまる、一番のトラウマだった。
好きなことも、得意なことも、夢中になれるものもない。自分の意思なんてどこまでもゆるくて、しんどいのだけ嫌で。そんな自分に辟易して、みんな離れていく。その証拠に、俺が姿を消した一週間の間、捜索願も出されてないし、ニュースにもなっていない。それがなによりも、人から愛されなかった人生を物語っているような気がして、毎晩「やっぱり」と自分を否定してしまう。
「ふーん、じゃあそれって俺が全部教えられるってことか?」
「へっ?」
「お前にはどんな魅力があるか語りまくって、どんだけ夢中になってるか教えて、愛し尽くして。こんなに幸せになれると思わなかった、っていつか思わせてやるよ」
「あ、嵐さ……」
「そういう人生、送んのは嫌?」
嵐さんの声は低くて、静かで、どこにも逃げ場がなかった。
「……でも、俺、そんなこと言われて、嵐さんにいつか離れられたら」
「だーかーらー。離れねえって言ってんだろ。そん時が来るとしたら、俺が死ぬ時ぐらいだ」
「嵐さんが、死んじゃうのは嫌です!だめ、ぜったい」
「ヤクの標語みてーな言い方すんな。例え話だろ」
自分が死ぬのは怖くないけれど、この人が死ぬのを考えたら、それだけでとんでもなく恐ろしい。そこまで考えて初めて、どれだけ自分が嵐さんを……大切に思っているのかを痛感させられた。
「あ、嵐さんが死んだら俺も死にます」
「おいおい、いきなりメンヘラ再始動させてんじゃねーよ」
「だって、嵐さんが変なこと言うから」
「死にたがりに変って言われたくねーよ。お前の方がよっぽど変なやつなんだからな」
あ、それもそうか、とポンと心の中で手を打つ。
ぴたりと止まった涙を見て、嵐さんは俺をさっと片手で肩口を押し倒すと、ベッドに組み敷いたまま言った。
「まぁ、こんな変なやつに執着してる時点で、俺もだいぶやべー奴だけど。……可愛くて仕方ねえよ、マジで」
「ちょ、まっ、待って、キャパオーバーで」
「俺、言葉は惜しまない方だし。本命できたの初めてだから、うまくやれてるかわかんねーけど」
「で、でも、茉弥くんは……」
「おい、そこでその名前出すな。さてはお前、あいつにめちゃくちゃ嫉妬してんな? 実はまだ引きずってんだろ」
「だって、すごく可愛い人でした」
「まぁ、それはそうだけど。別にあいつとヤッたことないし。同伴はしたけど、好きとか思ったことねえよ。ただの客だ」
そう言い切られて、ホストとしての顔と、プライベートの顔がごちゃごちゃに混ざる。あれだけ執心されてもキッパリと突き放すような言い方に、それを自分に向けられたらと思うと、少しだけ怖くなった。
「見晴。お前の返事聞かせろ」
「返事……」
「俺とここで暮らして、バカみたいに可愛がられて生きてく。それが嫌なら、もう出て行って、好きなところで死んでいいぞ」
その言い方は、もう俺が絶対に死なないことを確信しているようだった。死なないで欲しいというお願いベースではなく、早く認めろよ、と逃げ道を塞ぐような強引さ。
「す、すき」
「あ? 聞こえねーよ」
「……好きです、嵐さんが好き。メンヘラで良ければ、付き合ってください」
「おー、メンヘラ上等だよ。拗らせても何回でもわからしてやるから、覚悟しとけ」
そのまま、顔の横に手をついて嵐さんはキスをくれた。いつものより甘くて、長くて。解いた髪の襟足が触れるとくすぐったくて、ネックレスのプレートがひやりと肌に触れる。
「俺が死ぬの嫌なら、せいぜい毎日必死に生きろよ。もしもお前が死んだら、俺も速攻で後追いして。嵐さんより先に死ぬなんて馬鹿なことしなければ良かった、って後悔させてやるからな」
「う、うう……分かりました」
「重いとか今更だからな。お前が俺のことおかしくさせたんだぞ。責任とれよ」
「せ、責任?」
ちゅ、と瞼にキス。それが、鼻筋、頬、唇へと移動して、ちゅく……と軽く舌を絡められて。こんなふうに愛されるのがこれから毎日のことになるのかと思うと、幸せすぎて怖くて、なんだか叫び出したくなった。
◇◇◇
【side:嵐】
ガキの頃から、ただ息をしているだけで「台風みたいな男」だと言われてきた。やんちゃ、なんて言葉で濁されていた性格も、いつしか『粗暴』に変わり、底辺校に入った頃には『素行不良』という立派な四文字熟語が、俺の背中にへばりついていた。
『ひとりで他校の三年をボコボコにしたって』
『ホントはヤバい薬、やってるって噂知ってる?』
自分で言うのもなんだが、地頭は悪くねえし、母親譲りのこの顔のおかげで人生はイージーモードだった。女に困った記憶なんて一度もない。中一で童貞を捨ててからは、百人斬りだなんてアホな遊びに興じては、その場限りの快楽で現実を塗りつぶす――そんな退屈な日々を送っていた。
高三の春、運良くまともな恩師に出会ったのが運の尽きか。「カリスマ性はあるから、とりあえず手に職をつけろ」と耳にタコができるほど言われ、美容師の道へ。試験をパスした後は地元の美容室で下積みを積み、適当に顔面を売って、ちやほやされながら生きていく。そう思っていた矢先、店が労基に突かれて休業。そこから職を転々とし、気づけば居酒屋の掛け持ちやグレーな仕事に足を踏み入れ、生活は荒れる一方だった。
『嵐さぁ、ウチのこと都合のいい女だと思ってるでしょ? わかるんだよね、そういうのが態度に出てて』
「は? 嫌いになったなら、別れるって。お前以外にも泊めてくれる女いるし」
『……相手、誰? ウチの知ってる子? まさか二股以上とかじゃないよね?』
「曜日で分けてる。お前は金曜日の女」
『まっっじで最低! 出てけ! このクズ男!』
(どうしても一緒に暮らしたいと言うのは大抵、向こうからなのに)二十代前半はヒモみたいな生活をして、どれも仕事は続かないまま。結局、最後に残ったのは、この【カリスマ性】と【顔】だけだった。自分の中身が驚くほど空っぽだと悟ったが、まあ、武器が二つもあれば十分だ。
『おにーさん、夜職興味ないすか? ナンバーワンいけると思うんすけど』
飲みの帰りにEDENのキャッチに引っ掛かり、体験入店したあとにノリでホストに転身したら、笑えるくらいあっという間にナンバーワンになった。タワマンの最上階で夜景を眺めながら、人生って本当にチョロいもんだなと、冷めた目で思っていた。金も酒も女も美味い飯も、何不自由ないはずなのに。胸の奥に開いたぽっかりとした穴が、日を追うごとにデカくなっていくのを感じていた。
◇◇◇
見晴が死のうとしていたあの夜は、マジで俺の人生で一番肝を冷やした。
雨のなか、ゆるいジャージ姿でクロックスだけ綺麗に揃えて、ずぶ濡れで欄干に立っているあいつの横顔。浮世離れしているっていうか、作り物みたいに綺麗で、魂がどこかへ飛んでいってしまったんじゃないかと思うほど肌が白かった。
声をかけてみたら、予想を裏切るドアホっぷり。放置して次の日に死なれるのも後味が悪いし、何より顔が俺のドストライクだった。マックのバーガーをテイクアウトするような軽いノリで、とりあえず連れ帰った。ワンチャン、ヤれれば儲けもんだと思って押し倒してみたものの、あいつは拍子抜けするほど無防備で、危機管理能力がゼロだった。
(いや、無理無理。さすがにこんなぴゅありぃ~の化身とヤるとか、罪悪感やばすぎんだろ)
死ぬ理由を聞いても、明確な答えなんてない。死ぬことがステータスだとでも思っているのか、と呆れた。最高に面倒臭い荷物を背負い込んじまったな、と本気で後悔した――はずだった。
『嵐さん』
『嵐さん、見て! これ……っ』
『もーっ、何で明日の分まで食べちゃうんですか!? これは作り置きの分で……』
あいつがころころと表情を変える瞬間は、いつも心臓が変な音を立てた。これまで見てきたどんな美形よりも、見晴には言い表せないぴゅありぃ〜オーラっていうか、純粋で、どこか守ってやりたくなるような危うさがあった。
ギターを弾かせたり、飯を作らせたり、家事をさせたり。気まぐれで何でもやらせて、どんな反応をするか観察していた。意外と負けず嫌いなところや、こっちが貧乏ゆすりしたくなるほどの天然っぷり、時折見せるあざとい表情。それが全部、本人は無自覚で……さらにタチが悪い。
(俺の方が見晴自身より、見晴のことを理解しているんじゃねーか……?)
そう思いながら、剥がしても剥がしても出てくる新しい一面に、気づけばどっぷり夢中になっていた。
風呂上がりに俺のロンT一枚で出てきて、「おばけみたいになっちゃいました」なんてふざけたこと言うから小突いてやったが、そのあと寝顔を眺めながら円周率を数えて、必死に自分を抑えつけていたのは秘密だ。棒アイスのミルク味を適当に買ったら(故意じゃねえ)、溶かして垂らした指先を「美味しいです」って目を細めて舐めてる姿には、心の中で(可愛すぎてやっぱ死ね)を二十回は唱えた。いや、死なれたらガチで無理なんだけど。そういう威力、ということだ。
……けど、元彼の話を聞いてからは違った。底辺のクズ男が、体の中に避妊具を残したまま事後に寝腐るなんて、頭がイカれてるとしか思えない。
数日間怖かったと呟く見晴の口ぶりは、表面上は立ち直った風だったが、あいつの中には今もその傷がこびりついているようだった。
とりあえずそいつを探し出して、俺もケツの穴にゴムをねじ込んでやろうかと考えたが、乃亜に「マジで逮捕されたら庇えないです」と真顔で止められたのでやめた。まあ、俺より面食いの乃亜が「顔も中身も最高に可愛い」と認めるんだ。見晴が別格の存在だってことは、ここまでくると認めざるを得なかった。
車でドライブに連れて行っただけで目をキラッキラさせて喜んだり、家の中で袖をドアノブに引っ掛けて一人ですっ転んだり。見晴といるだけで毎日が騒々しくて、勝手に「可愛い」が更新されていく。それが次第に「愛おしい」という感情に変わっているのに、自分でも薄々気づいてはいた。
こいつを死なせずに、どうやったら幸せにしてやれるのか。ずっとこの笑顔を守れるのか。考えれば考えるほど分からなくて、失うのが怖くて。適当に付き合ってきた女とも男とも違う。ただ気持ちいいだけのセックスがしたいとか、楽しいことさえできればいいとか、そんなんじゃなかった。
見晴の、毎日どしゃ降りの心を、どうしたら晴らしてやることができるのか。
好きだと伝えて、伝えて、伝えまくって。ようやく恋人になってくれた、と思った矢先。「絶対に怖がらせたくない」と必死に隠してきた、男としての気持ちはずっと内側で暴れていて。
「嵐さん、そろそろ寝ますか?」
「おう。あんまくっつくなよ」
「で、でも。嵐さんがぎゅって後ろからしてるじゃないですか……」
「ごちゃごちゃうるせーな、人の気も知らねえで。マジであと2cmでもケツ近づけてきたらぶち込むぞ」
「あ、え、ご、ごめんなさい」
ただの可愛い、好きだ、愛おしい、の気持ちだけじゃ足りない。触れたい。嗅ぎたい。
「嵐さん」
「んー?」
「嵐さん、あの、髪……そんなに嗅がなくても」
「うっせーなマジで、エロい匂いさせてんじゃねーよ」
「え、エロい匂いってどんなですか」
「しらね。同じシャンプー使ってんのに、バカほどいい臭いするわ」
どんな顔で乱れるのか、見せて欲しくて。こいつのこと、気持ちよくさせたい。身体まで全部愛し尽くしたい。
「自分じゃ全然わかんないです」
「だろうな。わざとだったらブチ切れてるとこだ」
「ふふ、でも、嵐さんっていつも怒ってるみたいに喋るじゃないですか」
腕の中で身を捩り、見晴が暗闇の中で俺の瞳を見上げてくる。
……またこうやって、こいつは俺の気も知らないで、死ぬほど下手くそな甘え方をしてくる。俺の心は、それこそ嵐のように掻き乱されていた。
あのあと、嵐さんは俺を強く抱きしめてから、「飯、作っとけ。カレーがいい」とだけ言い残して店に戻った。だから今こうして、換気扇の横のオレンジ色の間接照明の下、ぐつぐつと沸き立つ鍋を静かに見つめる。
眠くはない。というより、眠れるはずがなかった。あんなふうにハグをされて、そのまま泥のように眠りこけるほど、俺の心は図太くできていない。
(……もうすぐ、嵐さん帰って来る。そしたら、さっきの話の続き……する、よね?)
茉弥、と呼ばれたあの男の子が、嵐さんとの時間をつくるために体を売り、大金を貢がせてきたという事実。それらはすべて、俺が触れたことのない、嵐さんの未知の側面だった。
家の中でただ優しく甘やかされ、たまに意地悪なことを言われてきただけの自分。嵐さんの本当の姿を知るにつけ、そんな平和ボケした自分がめちゃくちゃに稚拙で、ますます中身のない空っぽの存在のように思えて、恥ずかしさが込み上げてくる。
かき混ぜる手を止めて、もわりと立ち上るスパイスの湯気を眺めた。カレーの匂いって、なんだか不思議と、大丈夫な気がしてくる。こんな気持ちになるのも、嵐さんがカレーを選んだからなのかもしれないな、と思った。
「ただいま」
玄関の方から、ぶっきらぼうな声がした。少し不機嫌そうなその響きに、俺は弾かれたように顔を上げて、キッチンを飛び出した。パタパタという心許ない足音を立てて近づく俺を見て、嵐さんは呆れたように、けれどどこか隠しきれない優しさを滲ませて笑った。
「おかえりなさい、嵐さん」
「……犬?」
「えっ?」
「なんか子犬みてぇに走って来るなと思って。尻尾ねぇけど、幻覚でついてるように見える」
「あ、あの。カレー出来てます、って早く教えたくて」
「ん、ありがとな」
不意に肩を掴まれ、視界がぐるりと回った。
「え、あ……」
短い声を上げる俺を、スーツのボタンを緩めながら嵐さんは意に介さず、そのまま寝室のベッドへと連れ去る。寝具に押し倒される形で降ろされ、何か言わなければと口を開きかけた時、唇に柔らかい感触があった。ちゅ、と短いキス。
「あ……これ、今日のぶん、ですか?」
「ちげーよ。俺がしたいからしてるだけ。つーか、最初からそうだったろ。なんでわかんねぇかな」
はぁ、と呆れたように溜息をつかれる。けれど、その瞳に宿る熱は、ちっとも怒ってなどいなかった。ベッドサイドのデジタル時計が、俺と嵐さんが出会ってから六日目を指している。
『なぁ。死ぬの、一週間だけ延期すんの無理?』
出会ったばかりのあの夜、嵐さんが投げかけてくれた問いかけが脳裏をよぎる。本当なら、俺はこの嵐さんとの夢のような日々を終えて、自ら命を絶つはずだった。けれど、あの歩道橋の欄干に立っていた時のような、鋭い絶望の切っ先は、今の俺にはもう鈍くなってしまっている。
「俺、バカだから……」
「んなこと、最初からわかってんだよ。自分の命捨てる時点で、特大の大馬鹿野郎だろ」
「ひ、ぇ」
べしっ、と額にデコピンを喰らう。思わず「いたっ」と半泣きになると、嵐さんはベッドの上であぐらをかき、その膝の上で頬杖をついた。
「……てか、俺的には、お前も俺のこと……それなりに好きなんじゃねえのかって思ってたけど。違うのかよ」
「え、お、俺ですか?」
「この家のなかに、お前以外に誰が居んだよ。流石に取り憑かれるような女の振り方してねぇぞ」
「……嵐さんのことは、す、すきだけど」
「けど?」
「俺、何も持ってないですよ。お金とか」
絞り出すように言った俺に、嵐さんは鼻で笑った。
「別に困ってねえよ。お前一人くらい、この先一生養えるくらい余裕で稼いでるって言っただろ。大人しく家事でもしとけ」
「でも、それだと俺、ただのヒモ? というか……家政婦になっちゃうんじゃ」
「ぐだぐだ悩む時間があると、またそっちに引っ張られて死にたくなるだろ。うちに連れて来た時に『家事をしろ』っつったのも、そうやって手を動かしとけば、ヘンなこと考えなくなると思ってやらせてたとこもあるし」
チラリとキッチンの方を見た嵐さんの仕草に、だから今日はカレーだったのかと、俺は小さく首を傾げるしかなかった。なんで言ってくれないんだろう。言ってくれたら、もっと素直に作れたのに。でも、そういうことを言わないのが嵐さんなんだろうな、とも思った。
「あとは何が不安なんだ」
その問いに、俺は迷いながらも正直に口にした。
「……こ、恋人同士がすることが、できません」
「あ? セックス?」
あまりに直球な言葉に、ぼっと顔が熱くなる。キスはできる。けれど、性行為そのものは怖い。痛い記憶、失敗した過去。ゴムが中に残っていた時の、あの言いようのない気まずさと屈辱が、今も鮮明にフラッシュバックする。
けれど、嵐さんは「ああ、あの蛙化の男な」と俺の元彼をあっさりと切り捨てると、俺の体を包み込むように抱き寄せた。
「別に俺、お前とセックス狙いで付き合ってんじゃねえよ」
「で、でも。普通に、溜まったりしたら、フーゾク? とか行っちゃうんじゃないですか」
「いや、考えすぎだろ。こんだけ顔知られてて行くわけねえじゃん。性処理くらい自分でどうにかするし」
「……ていうか、嵐さん。俺で、勃ちますか……?」
「バカがよ、勃つに決まってんだろ」
「あ、う……」
嵐さんは、ふっと目を細めた。そして、俺の手を強引に引き寄せて、自分のあぐらをかいた脚の間に導く。
「お前が触っただけで余裕で硬くなるし、毎晩意識を飛ばして必死に耐えて寝てたんだよ。好きなやつが居て勃たなかったら、それはもう男じゃねぇだろ」
うわ、かっこいい、と思ってしまった。けれど、その言葉に続くように、嵐さんは俺と指と指を色っぽく絡めて、手の甲にキスを落とす。
「だから、見晴がシてぇって思ったら、死ぬほど優しく、気持ちよくしてやりてえな」
「……いや、俺、たぶん、不感症で」
「嘘つけ。キスの度にあんなトロ顔するやつが、不感症なわけねーだろ」
「と、とろ顔?」
「はいはい。自覚なし、と」
ちょっと小馬鹿にされて、よわよわのメンタルがズキリと痛む。嵐さんはハァ、と息を吐いて、指先を絡めたまま下から覗き込むように俺の顔を見つめた。
「……死ぬのやめて、俺のそばにずっと居んのは嫌?」
「まって、同情ならそれ以上優しくしないでください、俺、ほんとに好きになっちゃう」
「なれって言ってんだよ。死ぬことは怖くねえくせに、何にそんなビビってんだ」
解いた指。ぎゅう、と片手で顎を怒り気味に掴み上げられる。ゆらゆらと滲む視界で、悲鳴のように絞り出したのは、俺の心のいちばん深いところにあった恐怖だった。
「何にもない人間だなって、いつか飽きられて、愛されなくなるのが怖いです」
それは、友達、恋人、親。どれにも当てはまる、一番のトラウマだった。
好きなことも、得意なことも、夢中になれるものもない。自分の意思なんてどこまでもゆるくて、しんどいのだけ嫌で。そんな自分に辟易して、みんな離れていく。その証拠に、俺が姿を消した一週間の間、捜索願も出されてないし、ニュースにもなっていない。それがなによりも、人から愛されなかった人生を物語っているような気がして、毎晩「やっぱり」と自分を否定してしまう。
「ふーん、じゃあそれって俺が全部教えられるってことか?」
「へっ?」
「お前にはどんな魅力があるか語りまくって、どんだけ夢中になってるか教えて、愛し尽くして。こんなに幸せになれると思わなかった、っていつか思わせてやるよ」
「あ、嵐さ……」
「そういう人生、送んのは嫌?」
嵐さんの声は低くて、静かで、どこにも逃げ場がなかった。
「……でも、俺、そんなこと言われて、嵐さんにいつか離れられたら」
「だーかーらー。離れねえって言ってんだろ。そん時が来るとしたら、俺が死ぬ時ぐらいだ」
「嵐さんが、死んじゃうのは嫌です!だめ、ぜったい」
「ヤクの標語みてーな言い方すんな。例え話だろ」
自分が死ぬのは怖くないけれど、この人が死ぬのを考えたら、それだけでとんでもなく恐ろしい。そこまで考えて初めて、どれだけ自分が嵐さんを……大切に思っているのかを痛感させられた。
「あ、嵐さんが死んだら俺も死にます」
「おいおい、いきなりメンヘラ再始動させてんじゃねーよ」
「だって、嵐さんが変なこと言うから」
「死にたがりに変って言われたくねーよ。お前の方がよっぽど変なやつなんだからな」
あ、それもそうか、とポンと心の中で手を打つ。
ぴたりと止まった涙を見て、嵐さんは俺をさっと片手で肩口を押し倒すと、ベッドに組み敷いたまま言った。
「まぁ、こんな変なやつに執着してる時点で、俺もだいぶやべー奴だけど。……可愛くて仕方ねえよ、マジで」
「ちょ、まっ、待って、キャパオーバーで」
「俺、言葉は惜しまない方だし。本命できたの初めてだから、うまくやれてるかわかんねーけど」
「で、でも、茉弥くんは……」
「おい、そこでその名前出すな。さてはお前、あいつにめちゃくちゃ嫉妬してんな? 実はまだ引きずってんだろ」
「だって、すごく可愛い人でした」
「まぁ、それはそうだけど。別にあいつとヤッたことないし。同伴はしたけど、好きとか思ったことねえよ。ただの客だ」
そう言い切られて、ホストとしての顔と、プライベートの顔がごちゃごちゃに混ざる。あれだけ執心されてもキッパリと突き放すような言い方に、それを自分に向けられたらと思うと、少しだけ怖くなった。
「見晴。お前の返事聞かせろ」
「返事……」
「俺とここで暮らして、バカみたいに可愛がられて生きてく。それが嫌なら、もう出て行って、好きなところで死んでいいぞ」
その言い方は、もう俺が絶対に死なないことを確信しているようだった。死なないで欲しいというお願いベースではなく、早く認めろよ、と逃げ道を塞ぐような強引さ。
「す、すき」
「あ? 聞こえねーよ」
「……好きです、嵐さんが好き。メンヘラで良ければ、付き合ってください」
「おー、メンヘラ上等だよ。拗らせても何回でもわからしてやるから、覚悟しとけ」
そのまま、顔の横に手をついて嵐さんはキスをくれた。いつものより甘くて、長くて。解いた髪の襟足が触れるとくすぐったくて、ネックレスのプレートがひやりと肌に触れる。
「俺が死ぬの嫌なら、せいぜい毎日必死に生きろよ。もしもお前が死んだら、俺も速攻で後追いして。嵐さんより先に死ぬなんて馬鹿なことしなければ良かった、って後悔させてやるからな」
「う、うう……分かりました」
「重いとか今更だからな。お前が俺のことおかしくさせたんだぞ。責任とれよ」
「せ、責任?」
ちゅ、と瞼にキス。それが、鼻筋、頬、唇へと移動して、ちゅく……と軽く舌を絡められて。こんなふうに愛されるのがこれから毎日のことになるのかと思うと、幸せすぎて怖くて、なんだか叫び出したくなった。
◇◇◇
【side:嵐】
ガキの頃から、ただ息をしているだけで「台風みたいな男」だと言われてきた。やんちゃ、なんて言葉で濁されていた性格も、いつしか『粗暴』に変わり、底辺校に入った頃には『素行不良』という立派な四文字熟語が、俺の背中にへばりついていた。
『ひとりで他校の三年をボコボコにしたって』
『ホントはヤバい薬、やってるって噂知ってる?』
自分で言うのもなんだが、地頭は悪くねえし、母親譲りのこの顔のおかげで人生はイージーモードだった。女に困った記憶なんて一度もない。中一で童貞を捨ててからは、百人斬りだなんてアホな遊びに興じては、その場限りの快楽で現実を塗りつぶす――そんな退屈な日々を送っていた。
高三の春、運良くまともな恩師に出会ったのが運の尽きか。「カリスマ性はあるから、とりあえず手に職をつけろ」と耳にタコができるほど言われ、美容師の道へ。試験をパスした後は地元の美容室で下積みを積み、適当に顔面を売って、ちやほやされながら生きていく。そう思っていた矢先、店が労基に突かれて休業。そこから職を転々とし、気づけば居酒屋の掛け持ちやグレーな仕事に足を踏み入れ、生活は荒れる一方だった。
『嵐さぁ、ウチのこと都合のいい女だと思ってるでしょ? わかるんだよね、そういうのが態度に出てて』
「は? 嫌いになったなら、別れるって。お前以外にも泊めてくれる女いるし」
『……相手、誰? ウチの知ってる子? まさか二股以上とかじゃないよね?』
「曜日で分けてる。お前は金曜日の女」
『まっっじで最低! 出てけ! このクズ男!』
(どうしても一緒に暮らしたいと言うのは大抵、向こうからなのに)二十代前半はヒモみたいな生活をして、どれも仕事は続かないまま。結局、最後に残ったのは、この【カリスマ性】と【顔】だけだった。自分の中身が驚くほど空っぽだと悟ったが、まあ、武器が二つもあれば十分だ。
『おにーさん、夜職興味ないすか? ナンバーワンいけると思うんすけど』
飲みの帰りにEDENのキャッチに引っ掛かり、体験入店したあとにノリでホストに転身したら、笑えるくらいあっという間にナンバーワンになった。タワマンの最上階で夜景を眺めながら、人生って本当にチョロいもんだなと、冷めた目で思っていた。金も酒も女も美味い飯も、何不自由ないはずなのに。胸の奥に開いたぽっかりとした穴が、日を追うごとにデカくなっていくのを感じていた。
◇◇◇
見晴が死のうとしていたあの夜は、マジで俺の人生で一番肝を冷やした。
雨のなか、ゆるいジャージ姿でクロックスだけ綺麗に揃えて、ずぶ濡れで欄干に立っているあいつの横顔。浮世離れしているっていうか、作り物みたいに綺麗で、魂がどこかへ飛んでいってしまったんじゃないかと思うほど肌が白かった。
声をかけてみたら、予想を裏切るドアホっぷり。放置して次の日に死なれるのも後味が悪いし、何より顔が俺のドストライクだった。マックのバーガーをテイクアウトするような軽いノリで、とりあえず連れ帰った。ワンチャン、ヤれれば儲けもんだと思って押し倒してみたものの、あいつは拍子抜けするほど無防備で、危機管理能力がゼロだった。
(いや、無理無理。さすがにこんなぴゅありぃ~の化身とヤるとか、罪悪感やばすぎんだろ)
死ぬ理由を聞いても、明確な答えなんてない。死ぬことがステータスだとでも思っているのか、と呆れた。最高に面倒臭い荷物を背負い込んじまったな、と本気で後悔した――はずだった。
『嵐さん』
『嵐さん、見て! これ……っ』
『もーっ、何で明日の分まで食べちゃうんですか!? これは作り置きの分で……』
あいつがころころと表情を変える瞬間は、いつも心臓が変な音を立てた。これまで見てきたどんな美形よりも、見晴には言い表せないぴゅありぃ〜オーラっていうか、純粋で、どこか守ってやりたくなるような危うさがあった。
ギターを弾かせたり、飯を作らせたり、家事をさせたり。気まぐれで何でもやらせて、どんな反応をするか観察していた。意外と負けず嫌いなところや、こっちが貧乏ゆすりしたくなるほどの天然っぷり、時折見せるあざとい表情。それが全部、本人は無自覚で……さらにタチが悪い。
(俺の方が見晴自身より、見晴のことを理解しているんじゃねーか……?)
そう思いながら、剥がしても剥がしても出てくる新しい一面に、気づけばどっぷり夢中になっていた。
風呂上がりに俺のロンT一枚で出てきて、「おばけみたいになっちゃいました」なんてふざけたこと言うから小突いてやったが、そのあと寝顔を眺めながら円周率を数えて、必死に自分を抑えつけていたのは秘密だ。棒アイスのミルク味を適当に買ったら(故意じゃねえ)、溶かして垂らした指先を「美味しいです」って目を細めて舐めてる姿には、心の中で(可愛すぎてやっぱ死ね)を二十回は唱えた。いや、死なれたらガチで無理なんだけど。そういう威力、ということだ。
……けど、元彼の話を聞いてからは違った。底辺のクズ男が、体の中に避妊具を残したまま事後に寝腐るなんて、頭がイカれてるとしか思えない。
数日間怖かったと呟く見晴の口ぶりは、表面上は立ち直った風だったが、あいつの中には今もその傷がこびりついているようだった。
とりあえずそいつを探し出して、俺もケツの穴にゴムをねじ込んでやろうかと考えたが、乃亜に「マジで逮捕されたら庇えないです」と真顔で止められたのでやめた。まあ、俺より面食いの乃亜が「顔も中身も最高に可愛い」と認めるんだ。見晴が別格の存在だってことは、ここまでくると認めざるを得なかった。
車でドライブに連れて行っただけで目をキラッキラさせて喜んだり、家の中で袖をドアノブに引っ掛けて一人ですっ転んだり。見晴といるだけで毎日が騒々しくて、勝手に「可愛い」が更新されていく。それが次第に「愛おしい」という感情に変わっているのに、自分でも薄々気づいてはいた。
こいつを死なせずに、どうやったら幸せにしてやれるのか。ずっとこの笑顔を守れるのか。考えれば考えるほど分からなくて、失うのが怖くて。適当に付き合ってきた女とも男とも違う。ただ気持ちいいだけのセックスがしたいとか、楽しいことさえできればいいとか、そんなんじゃなかった。
見晴の、毎日どしゃ降りの心を、どうしたら晴らしてやることができるのか。
好きだと伝えて、伝えて、伝えまくって。ようやく恋人になってくれた、と思った矢先。「絶対に怖がらせたくない」と必死に隠してきた、男としての気持ちはずっと内側で暴れていて。
「嵐さん、そろそろ寝ますか?」
「おう。あんまくっつくなよ」
「で、でも。嵐さんがぎゅって後ろからしてるじゃないですか……」
「ごちゃごちゃうるせーな、人の気も知らねえで。マジであと2cmでもケツ近づけてきたらぶち込むぞ」
「あ、え、ご、ごめんなさい」
ただの可愛い、好きだ、愛おしい、の気持ちだけじゃ足りない。触れたい。嗅ぎたい。
「嵐さん」
「んー?」
「嵐さん、あの、髪……そんなに嗅がなくても」
「うっせーなマジで、エロい匂いさせてんじゃねーよ」
「え、エロい匂いってどんなですか」
「しらね。同じシャンプー使ってんのに、バカほどいい臭いするわ」
どんな顔で乱れるのか、見せて欲しくて。こいつのこと、気持ちよくさせたい。身体まで全部愛し尽くしたい。
「自分じゃ全然わかんないです」
「だろうな。わざとだったらブチ切れてるとこだ」
「ふふ、でも、嵐さんっていつも怒ってるみたいに喋るじゃないですか」
腕の中で身を捩り、見晴が暗闇の中で俺の瞳を見上げてくる。
……またこうやって、こいつは俺の気も知らないで、死ぬほど下手くそな甘え方をしてくる。俺の心は、それこそ嵐のように掻き乱されていた。



