「――お前は、どうしたら死にたくなくなんの?」
嵐さんの問いかけに、俺は何一つ上手い返事をできないままだった。沈黙に耐えかねたみたいに、嵐さんが乱暴にエンジンをかける。低く重い駆動音が足元から響いて、言葉を失った身体を震わせた。その振動がそのまま、胸の奥に詰まった何かを揺さぶっていく。
(……さっき、なんかめちゃくちゃエロいキスされた……っ)
唇に残るかすかな熱や、微かに鼻をくすぐる煙草の残り香。そのことへの驚きは、確かに頭のどこかにあるはずなのに。
さっきの一言がずぅっと頭の中を占領しているせいで、それ以上の戸惑いも、込み上げてくる嬉しさも、「どうして」っていう疑問も、全部中途半端に締め出されてしまう。思考のスイッチを強制的に切られたみたいに、頭がうまく働かない。
結局、その日の夜は眠るまで、ずっとどこかぎこちない空気のままだった。
それでも、同じベッドに入ると、嵐さんはいつも通りを装っている。背中を向けて、マットレスの端で体をきゅっと丸めて眠ろうとする俺のお腹に、後ろからタトゥーの入った腕を回してきた。
「嵐さん、あの……!」
「……抱き枕代わり」
耳元でそれだけをぽつりと言って、嵐さんはすぐに規則正しい寝息を立て始めた。
(……俺なんて、これくらいしか役に立てないから、今さら抵抗するのも……)
そう思って、体温を分け与えるように大人しく腕の中に収まっている自分も、大分おかしいっていう自覚はあるのだけれど。
それよりも俺は、暗闇の中で、本当にどうしたら死にたくなくなるんだろう、ってずっと同じ場所をぐるぐると自問自答を繰り返していた。
だけど、答えなんていつまでたっても出ない。それなのに、「嵐さんはやっぱり、俺に死んでほしくないのかな」なんて考えている自分がいた。
死ぬ前の思い出づくりをしてもらった身なのに、そんな風に繋ぎ止められている予感に縋ってしまうことが、どこか嬉しかったりもして。
……これって、客観的に見てかなりめんどくさい性格というか。死にたいって匂わせて気を引きたいだけの、ただのかまちょムーヴになってないか?とも思うし、自分の浅ましさに嫌気がさす。
体は鉛のように疲れているのに、頭だけが冴えていて、その日はなかなか眠れなかった。
◇◇◇
次の日の夜は、バケツをひっくり返したような強い雨が降っていた。
嵐さんは「打ち合わせがあるから、早めに出る」と言ってビニール傘を片手に、パタンとドアを閉めて出て行く。一人残された静かすぎる部屋で、お風呂でも入ろうかな、と給湯パネルのスイッチを押しに行こうとした、その時だった。
「……えっ」
キッチンカウンターの上に、ぽつんと黒い端末が置きっぱなしになっている。
嵐さんの個人用じゃなくて、お店のお客さんとやりとりする時に使っている業務用のアカウントが入ったやつだ。どうしよう、忘れてますって連絡しなきゃ、と思って自分のスマホを探しかけて――はっとする。
(データ全部消して、解約したんだった……!)
自分の手で、社会との繋がりを全部真っさらにしたんだった。もう、LINEも電話もする以前の問題だ。
少し待ってみたら、忘れ物に気づいて取りに戻ってくるかな。それとも、このまま触らずに置いておいた方がいいんだろうか。けれど嵐さん以前、お客さんからの連絡には即レスを心掛けてるって言ってたし、もし大事な指名のお客さんからだったら……?
どうしよう、どうしようと頭を抱えて、狭いワンルームの中をうろうろしてしまう。
だけど、ここでうだうだ悩んでいても時間は過ぎるだけだ。意を決した俺は、嵐さんのクローゼットの隅に置いてあった名刺のストックから、金文字の入ったカードを一枚だけ拝借して、雨の中へと飛び出した。
タクシーで繫華街の入り口まで乗せてもらい、大通りを一本曲がった瞬間。
強烈な光の洪水に視界を殴られ、思わず足がすくむ。
「……なに、ここ……」
見上げるほどのビル群を埋め尽くす、目がチカチカするような極彩色のネオンサイン。ホストやキャバ嬢の巨大な看板が笑顔を並べ、重さの効いた電子音が雨の音をかき消すようにズンズンと鼓膜を揺らす。
すれ違うのは、高級そうなスーツを着た男性や、派手なドレスにコートを羽織って気怠げに歩く女の人。色とりどりのビニール傘の群れがぶつかり合うようにして、大勢の人が行き交っている。煙草と香水と雨と、名前のつかないいくつもの匂いが混ざり合って、不快な気持ちを強く揺さぶった。
世界から置いていかれたような、嵐さんの静かな部屋とは真逆の場所。
生きている人間の剥き出しの欲望がそのまま形になったような、ギラギラした街の熱気に気圧されて、胸がぎゅっと苦しくなった。自分がそこに居るのに透明で、場違いな存在に思えてくる。名刺を握りしめる指先に、じっとりと嫌な汗がにじんだ。
(……やっぱり、来ないほうが良かったかも)
慣れない街の匂いと空気に押しつぶされそうになりながら、それでもカードの住所を頼りに、おそるおそる夜の街の奥へと足を進める。
その時だった。
「――おっ、ねえ君。一人? どっか店探してんの?」
不意に背後から肩を叩かれ、ビクッと心臓が跳ね上がる。
振り返ると、少し着崩したスーツ姿の、線の細い男が立っていた。いかにも『夜の街の人』という感じの、貼り付いたような愛想笑いを浮かべている。
「……っ、あの、エデンっていうお店を……」
声を絞り出そうとしたけれど、緊張で喉が張り付いてうまく音にならない。傘を持たない俺の髪から、冷たい雫が頬を伝う。
男は俺の顔を正面から見るなり、一瞬だけ目を見開いて、それから品定めをするようにニヤリと唇の端を上げた。
「へえ、めっちゃ可愛い顔してるじゃん。初めて? この辺。……もしかして、お店探して迷っちゃった系? それならいいとこあんだけどさ」
男はズカズカと距離を詰め、俺の顔を覗き込んできた。
その、蛇に睨まれたような視線に、背筋がゾッと寒くなる。男は慣れた手つきで俺の頼りない手首を掴むと、拒絶する暇も与えず、自分の身体の方へと強引に引き寄せた。
「ちょっと話してかない? お兄さんがおごってあげるから」
「……っ、う、あ……、」
掴まれた手首を振り払わなきゃいけないのに、恐怖で足がすくんで動かない。男の顔が、どんどん近づいてくる。靴底が地面に根を張ったみたいに、何一つ言うことを聞かなかった。
「……やめて、くださ――」
必死に手首を引き抜こうと、残った力を込めたその時だった。
「おーおー、お兄さん。か弱そうな子を掴まえて、なに強引なことしてんの?」
騒がしい雨の音を割って、少し高めの、だけど芯の通った冷ややかな声が響いた。
「あ?」
キャッチの男が怪訝そうに顔を上げた瞬間、俺の腕を掴んでいた手が、上から容赦ない力で引っぺがされる。勢いよく自由になった身体は、そのまま滑り込むように、バニラの香りがする胸へと引き寄せられていた。
「っ……あ、」
「おっと、大丈夫? 足元滑るから気をつけてね」
見上げると、濡れた銀髪をラフに散らした乃亜さんが立っていた。水色の瞳が、夜の街のネオンを反射して冷ややかにきらめいている。この前見た時よりも、更に派手な色のスーツ姿。
キャッチの男は、彼の顔を見るなり「チッ……乃亜かよ」と苦々しげに舌打ちをした。乃亜さんは俺を背中に隠すようにして一歩前へ出ると、形の良い唇を歪めて、凄みのある笑みを浮かべる。
「この子、嵐さんの大事な身内だから。これ以上手ぇ出すと、マジであの人怒らせるよ?」
『嵐さん』という名前が出た瞬間、キャッチの男の顔からあからさまに余裕が消えた。男は「……なんだよ、シケてんな」とブツブツ文句を言いながら、足早に人混みの向こうへと逃げるように消えていく。
静かになった路地裏で、乃亜さんはふぅ、と小さく息を吐いて振り返ると、さっきまでの氷のような圧迫感はどこへやら。まるで人懐っこい子犬のような、極上の営業スマイルを浮かべていた。
「ミハルくん、大丈夫? 怖かったね」
「あ、はい、あの……」
呆然とする俺に、乃亜さんは自分の差していた大きな黒い傘を、すっと頭上に差し出してくれた。自分の肩が雨に濡れるのも全く気にする様子もなく。
「こんな激しい雨の中、傘もささないでどうしたの?」
「あ……これ、嵐さんが忘れてて……」
俺が濡れた手でぎゅっと握りしめていたスマホと名刺を差し出すと、乃亜さんは「うわ、あの人またやったの!?」と呆れたように綺麗な眉をひそめた。スマホ、しょっちゅう忘れるんだろうか。あの隙のない嵐さんが? と思うと、少しだけ胸の奥が温かくなる。
「そっか、わざわざ届けに来てくれたんだ。優しいね。……よし、じゃあ店まで一緒に行こ。ここ、一人で歩くにはちょっと危なすぎるから」
乃亜さんはそう言うと、俺の歩幅に合わせて、ゆっくりと歩き出した。
「嵐さんに持って来てって頼まれたの?」
「いえ、たまたま気付いて持って来て…」
「あー、そっか。でも、これからはこんなとこ、真夜中にウロウロしちゃダメだよ。ミハルくん、相当可愛いから変なやつに声かけられまくると思う」
「へ、変なやつ…?」
「そう。例えば、一晩で数十万稼げるとか甘い言葉で囲い込もうとするスカウト。それに……もっと危ないのもいるよ。シャブを売りつけようとする連中。ミハルくんみたいな世間知らずな子は、一番のカモなんだよ。……いい? ここは、人間が人間としていられなくなるスピードが、世界で一番速い街なんだ。わかったら、二度と夜の歌舞伎町には近づかない方がいいと思う」
乃亜さんの声は穏やかなのに、その言葉の芯に、静かな本気が宿っていた。
まだドキドキと耳の奥でうるさく鳴る鼓動を抑えながら、俺は差し出された傘の下で、乃亜さんに付き添われて嵐さんのいる店へ向かう。
促されるまま、きらびやかな正面入り口ではなく、ビルの脇にある狭い路地へと入っていく。
湿気と煙草の匂いがこもった薄暗い鉄製の階段を上がると、重い防火扉があった。乃亜さんが手慣れた様子でそれを引くと、ズンズンと床を揺らす大きな重低音と、微かなアルコールの匂いが押し寄せてくる。
そこは、華やかなホストクラブの裏側――バックヤードだった。
「ちょっと待っててね、今タオル持ってくるから」
乃亜さんがそう言って奥へ向かう間、俺は場違いな場所に迷い込んだ子供のように、壁際に小さくなって佇んでいた。
狭い通路には、高級そうなシャンパンの空き箱が天井近くまで積み上げられ、出勤前のアイスペールや真新しいおしぼりが整然と並んでいる。姿見の前では、髪を完璧にセットした若いホストたちが「今日お前の姫、来んの?」と低い声で私語を交わしながら、ジャケットのボタンを締め直していた。
きらきらした表舞台とは違う、どこか張り詰めた生々しさが伝わってくる。ここで毎晩、色んな人が何かを演じて生きているんだ。そう思ったら、なぜか急に喉の奥が詰まった。
「はい、これ。しっかり拭きなよ?」
戻ってきた乃亜さんから大きなふかふかのタオルを渡され、濡れた髪や首筋を拭う。
乃亜さんは俺が握りしめていた嵐さんのスマホを受け取ると、「嵐さんに渡してくるね。あ、そうだ」と、悪戯っぽく水色の瞳を輝かせた。
「せっかくお店まで来たんだし、嵐さんの仕事姿、ちょっと見てみる?」
「え……、でも、」
「いーのいーの。ほら、ここからちょっとだけ覗けるからさ。……マジでカッコいいよ。若手はみんな嵐さんに憧れてる」
乃亜さんは内緒話をするように声を潜め、ホールへと繋がるスリット状のガラス窓がある扉を指さす。
断る間もなく背中を押され、俺はおそるおそる、その隙間から華やかなホールの様子を覗き込んだ。
「す、すごい……」
「だろ? 嵐さん、売り上げもえぐいんだけどさ、ちゃんと若手のフォローもしてくれて、どこが良く無かったかとかも指摘してくれんの。しかもエースから細客まで対応もマメだし、普通に同じ男としてシゴデキすぎて尊敬するっつーか」
眩いシャンデリアの光が乱反射する店内は、まるで別世界だった。
高級そうなソファが並ぶ一角。そこに、俺のよく知る、だけど全く知らない嵐さんが座っていた。
(うわ……すっごい可愛い子がいる……芸能人? ていうか、男の子……だよね?)
嵐さんの隣には、いかにもおめかしをしてきたという雰囲気の、小柄で可愛い男の子が座っている。いつも俺の前で見せる、ぶっきらぼうでどこか眠そうな嵐さんはそこにはいなかった。
少し崩したシャツの襟元、色気のある仕草でグラスを傾けながら、嵐さんはその男の子を、とろけるような甘い目で見つめている。男の子が恥ずかしそうに笑うと、嵐さんは愛おしそうにその髪に優しく触れ、耳元で何かを囁いた。男の子の顔が、一瞬で真っ赤に染まる。けれど、その甘やかな時間に浸る間もなく、黒服の男が嵐さんのテーブルに向かう。
「嵐さん、三番テーブル、お願いします」
すると嵐さんは、隣の男の子に「ちょっと他の姫の顔立ててくる。すぐ戻るから、良い子で待ってて?」と、名残惜しそうに頬を撫でて迷いなく席を立つ。
その言葉と行動の間に一瞬の迷いもないことが、ガラス越しにでもわかった。
そのまま嵐さんが流れるように向かったのは、すぐ近くの別のテーブルだった。そこには、派手なブランドもののバッグを置いた、いかにも夜職風の綺麗な女の子が座っている。
「遅い、寂しかったんだけど~」
不満げに拗ねる女の子の腰に、嵐さんは慣れた動作で腕を回し、自分の身体へと引き寄せた。
男の子に向けていたものとはまた違う、情熱的で少し強引な、甘い恋の空気。女の子が嬉しそうに嵐さんの胸に顔を埋めるのを、俺はただガラス越しに見つめることしかできない。
どれが本物で、どれが嘘なんだろう。交互に席を行き来しながら、男の子にも、女の子にも、それぞれの「一番」であるかのように振る舞う嵐さん。その全方位に振り撒かれる完璧な愛の器用さに、めまいがしそうだった。
(……全部ウソ、なのかもしれないけれど……全部ホンモノに見えるのが凄いな)
その時、ホールの一角から「シャンパン入りまーす!」と、お腹に響くような大声が上がった。瞬時にホールの照明が切り替わり、アップテンポなダンスミュージックが爆音で鳴り響く。若手ホストたちが一斉に一つのテーブルを囲む中、嵐さんがマイクを片手に、その中心へと進み出た。
『さあさあ今夜も始まりました、本日の主役は俺の可愛いお姫様! 高級シャンパン頂きました、あざーーす!』
スピーカーを通して響く嵐さんの声は、驚くほど高圧的で、それでいて最高にフロアを煽り立てる。嵐さんの先導に合わせて、周りのホストたちが一斉に女の子が一言喋る度に『よいちょーー!』『飲んで!のんで!もう一杯!』とコールを叫び、手拍子を打つ。嵐さんはマイクを持ったまま、煽るような仕草で長い髪を揺らし、男らしくグラスを煽り笑っていた。
(……嵐さんがあんなに笑うところ、初めて見た)
あの夜、俺を必死に引き留めるように抱きしめてくれた、嵐さんの低い声。
あの温もりも、あのキスも、俺だけの特別なものだと、どこかで思い上がっていたのかもしれない。
いま、目の前で繰り広げられているのは、完璧な『営業』であり、嵐さんの日常だ。誰にでも向ける優しい眼差しも、甘い微笑みも、何十万、何百万という金と欲望が渦巻くこの街で、あの人が生き抜くために磨き上げてきた、商品としての顔。そう理解した瞬間、胸の奥が、ぎゅっと絞られるように痛んだ。
冷たい雨に打たれていた時よりも、ずっと身体が冷たくなっていく気がする。腹の底に、静かに重いものが溜まっていくような感覚。
「……っ、」
これ以上見ていられなくて、俺は思わず視線を逸らし、一歩後ろに下がった。
心臓がドクドクと暴れていて、胸の真ん中がきゅうっと痛む。嵐さんにとって、俺はいったいどういう存在なんだろう。死にたがりの俺を拾って、気まぐれに優しくしてくれているだけで、あの人には帰るべき、こんなに華やかな世界があるのに。
「ミハルくん? あれ、嵐さんに声かけなくていいの? 一旦こっちに下がってくるけど――」
乃亜さんが不思議そうに顔を覗き込んできた。水色の瞳が、俺の青ざめた顔を真っ直ぐに見つめている。
「あ……大丈夫です、あの……スマホ、こっそり戻しておいて貰えませんか。俺が来たこと、知られたくなくて」
「いや、でも……わざわざこんな雨の中、来てくれたのに。なんで? ……家から出るな、とかもしかして言われてんの?」
その鋭い一言に、心臓が跳ね上がった。図星だ。勝手に死ぬなとも言われてるし、ふらっと居なくなるなよともキツく言われている。
「……すみません、本当に、ありがとうございました」
曖昧に肯定する俺の顔を見つめて、乃亜さんは困ったように綺麗な眉を下げている。引き留める乃亜さんの声を背中で遮るようにして、俺は逃げるようにバックヤードの扉を押し開けた。湿った空気が、熱を持った頬を撫でていく。一刻も早く、あの静かで狭い部屋に戻りたい。
そんな気持ちを抱えて路地裏を抜け、大通りに出ようとお店の正面側に回り込んだ、その時だった。
「なー、怒んないで。ちょっと席戻れなかったのはまじでごめんって」
聞き慣れた、だけどさっきまでマイク越しに聞いていたあの低い声が、すぐ近くのビル風に混じって聞こえた。
はっとして足を止める。ネオンの光が反射するきらびやかなエントランスの前に、二つの影があった。嵐さんと、さっきまで隣に座っていた、あの小柄で可愛い男の子だ。その肩は怒りで小刻みに震えていた。嵐さんが宥めるように伸ばした手を、激しく振り払う。
「僕がいくら持ってきたと思ってんの!? マジで有り得ないんだけど!」
雨音でもかき消すことの出来ない、悲鳴のような怒声。それは、ただのクレームなんかじゃない。嵐さんに本気で恋をしている、剥き出しの不満の爆発だった。
「あのさあ、エースの僕を放ったらかして他の女の席行くとか、舐めてんの!?」
「悪かった。お前が一番なのは分かってるから。な? 埋め合わせは絶対するから、今日は機嫌直して」
「埋め合わせってなに!? また店でシャンパン開けろって言うの!? 僕が毎日どんな思いで、知らない男の相手して金稼いでるか知ってるでしょ!? 今月だって嵐のために、昼も夜も体ボロボロになるまで出勤して……っ、限界まで売上貢献してるんだよ! 全部、全部嵐のためなのに!」
「分かってるよ、めっちゃ頑張ってくれてんのは」
「だったら、一回くらい店外でまともにデートしてくれたっていいじゃん! 一日同伴でぴゅありぃ~ランドで待ち合わせした時、嵐なんて言ったっけ? 『ごめん、寝てた』で終わりじゃん! それなのにアフターもいっつも歌舞伎の居酒屋だし……っ、一回だって、家にも呼んでくれたことないじゃん!!」
泣き叫ぶその声に、びくっと肩が震えた。
俺が今、当たり前のように居させてもらっているあの広いマンション。嵐さんの生活の匂いがするあの場所に、この子は、死ぬ気で何百万円も稼いで尽くしても、一度も入れてもらえなかったんだ。
嵐さんの「お前が一番」という言葉の軽さと、自分が特等席に座らされていることを突きつけられて、そのまま動けなくなる。ネオンの光が滲んで見えた。涙じゃない。たぶん、雨だ。
「頼むから大声出すなって、な? 茉弥。ほら、風邪ひくからタクシー乗りな」
嵐さんが焦ったように男の子の肩を抱こうとした、その時だった。
ご機嫌とりに必死だった嵐さんの視線が、ふと泳いで歩道を捉える。そこに、傘もささずにまた雨に濡れて立ち尽くしている俺の姿に気付いた瞬間、切れ長の目が、驚愕で大きく見開かれた。
「見晴? なんでお前が此処に……」
さっきまで男の子に向けていた、ホストとしての表情は消え去り、嵐さんの声が素のトーンに裏返る。その尋常じゃない動揺を、隣の男の子が見逃すはずがなかった。
「嵐? なにこの子、誰?」
男の子の敵意に満ちた視線が、突き刺さるように俺の全身をねめ回す。
傘もささずにずぶ濡れで突っ立っている俺の姿は、どう見たってこの街では異質で、ひどく惨めに映っているはずだった。それなのに、茉弥くんの目尻は鋭くつり上がっている。
「え、っと……」
おびえる俺の声を遮るようにして、嵐さんが一歩前に出た。
その大きな背中で隠すようにしながら、彼の肩を掴んで半ば強引に背を向けさせる。
「とりあえず今日の埋め合わせはまた今度するから。欲しいものあったらラインして」
「だから、もうネックレスとかアクセサリーはいらないんだってば! 僕が欲しいのはそんなのじゃなくて、嵐と一緒に居る時間が――」
ヒステリックに叫ぶ言葉を最後まで聞くことなく、嵐さんはお店の前にタイミングよく滑り込んできたタクシーのドアを開けた。そして、怒り狂って怒鳴る背中を車内へと押し込む。
「すみません、すごい酔ってるんですけど、駅までお願いします」
嵐さんは運転手に手際よく一万円札を握らせ、一礼した。
車内で窓を叩き、怒り心頭という様子で腕を組む彼は、最後に窓を少しだけ開けて、顔を真っ赤にしながら捨て台詞を吐き出した。
「もういい、嵐なんか今月でもう指名変えてやる! ナンバー落ちたって知らないから! 隣の店の担当に乗り換えてやるからね!」
バタン、と激しい音を立ててドアが閉まり、タクシーは水飛沫を上げて夜の街へと去っていった。あれだけ尽くして、身を削って貢いできたはずなのに、去り際はこんなにもあっけないなんて。
車が去ったあとの大通りには、激しい雨の音だけが残されていた。
ネオンの光に照らされた水溜りの前で、雨に打たれたまま、嵐さんとじっと見つめ合う。あの店の中で見た嵐さんのうつくしい笑顔が、まだ瞼の裏にちらついている。
嵐さんは深く、重い溜息をひとつつくと、ゆっくりと俺に歩み寄ってきた。じっとりと濡れて張り付いた俺の前髪を、ぶっきらぼうな手つきでぽんぽんと優しく撫でる。
「……お前、なんでここにいんの」
怒っているような、だけど酷く困ったような、掠れた声。
茉弥、と呼ばれた男の子が叫んでいた言葉が、まだ耳の奥でざわざわと鳴り響いて、胸の中が落ち着かない。
家にも呼ばれたことがない、デートもしたことがない。
それなのに俺は、あの部屋で、嵐さんのパジャマを着て、腕の中で眠っている。何百万円もの大金を積まれても嵐さんが誰にも許さなかったプライベートな空間に、俺は一円も払わず、ただ死にたがっているという理由だけで囲われているなんて。
「す、スマホ……届けなきゃ、って思って」
ぐちゃぐちゃになった感情のまま嵐さんを見上げると、無性に泣きたくなった。
このぐらぐらと揺れている心をどうにかして欲しくて、その胸に飛び込んで。
強く抱きつきたくなるような衝動に駆られる。自分がこんな感情を抱く権利なんて、どこにもないはずなのに。
「……見晴。お前、今何考えてる?」
「いや、その……お邪魔だったかな、って。ごめんなさ……」
「違うだろ。全然んな顔してねぇけど?」
おかしいな。愛想が悪いとは言われ続けて来たけれど、なんでもないふりをするのは得意なはずなのにな。ずっと、ずうっと。店を出る前から痛み続ける胸が、本当の気持ちを分からせようとしてくる。
「泣きそうな顔して、もろに嫉妬してますって顔すんじゃねーよ」
「ち、ちが」
「違わねーわ、馬鹿。つまんねぇ意地はりやがって」
胸の奥に閉じ込めて来た、言葉にできない独占欲を嵐さんがまた暴いちゃうから、嫌になる。なんでもないフリをして、綺麗に世界から消えてしまおうとしていたのに。この人はいつだって強引に俺の心に踏み込んできて、隠しておきたい感情を、引き摺り出しに来るんだ。
「っ……うっ……待って、それ以上言わないで下さい」
これ以上、生きることに執着してしまうような言葉を聞いたら、どうなっちゃうんだろう。
たまらず両手で耳を塞ごうとしたけれど、それよりも早く、嵐さんの大きな手が俺の手首を優しく捕らえた。そのまま逃げられないように指を絡められ、熱い視線で縛り付けられる。
「無理。おれもお前が好きだから、絶対に諦めないってもう決めてる」
凍りついていた心の深いところが、冷たい雨の中で、溶け残った雪がゆっくりと溶かされていくみたいに、じわ……とあたたかくなっていく。
何百万、何千万という大金と嘘が飛び交うこの街の真ん中で、嵐さんが俺にくれたのは、誰にも売らなかった剥き出しの本音だった。その圧倒的な熱量と重みに、張り詰めていた身体からすうっと力が抜けていく。
彼の周りに居る人がどんなに欲しがっても手に入らなかった、ホストの『嵐』ではない、ただの『男』としての生々しい感情が、いま俺だけに注がれている。
「好きって認めさせて、死にたくないって言わせたくて仕方がねぇんだよ」
その言葉に俺はただ瞼を閉じて、嵐さんが撫でてくれる手の温もりを欲しがるように、香水の香りが濃く残る胸へそっと額を預けた。
濡れた黒いアスファルトに、俺たちの静かな吐息だけが白く見えては、雨に混じって消えて行く。
すべてを諦めて投げ出したはずの冷たい雨の日の夜を、こんなに痛くて、こんなに温かいと思える日が来るなんて、思っても見なかった。
嵐さんの問いかけに、俺は何一つ上手い返事をできないままだった。沈黙に耐えかねたみたいに、嵐さんが乱暴にエンジンをかける。低く重い駆動音が足元から響いて、言葉を失った身体を震わせた。その振動がそのまま、胸の奥に詰まった何かを揺さぶっていく。
(……さっき、なんかめちゃくちゃエロいキスされた……っ)
唇に残るかすかな熱や、微かに鼻をくすぐる煙草の残り香。そのことへの驚きは、確かに頭のどこかにあるはずなのに。
さっきの一言がずぅっと頭の中を占領しているせいで、それ以上の戸惑いも、込み上げてくる嬉しさも、「どうして」っていう疑問も、全部中途半端に締め出されてしまう。思考のスイッチを強制的に切られたみたいに、頭がうまく働かない。
結局、その日の夜は眠るまで、ずっとどこかぎこちない空気のままだった。
それでも、同じベッドに入ると、嵐さんはいつも通りを装っている。背中を向けて、マットレスの端で体をきゅっと丸めて眠ろうとする俺のお腹に、後ろからタトゥーの入った腕を回してきた。
「嵐さん、あの……!」
「……抱き枕代わり」
耳元でそれだけをぽつりと言って、嵐さんはすぐに規則正しい寝息を立て始めた。
(……俺なんて、これくらいしか役に立てないから、今さら抵抗するのも……)
そう思って、体温を分け与えるように大人しく腕の中に収まっている自分も、大分おかしいっていう自覚はあるのだけれど。
それよりも俺は、暗闇の中で、本当にどうしたら死にたくなくなるんだろう、ってずっと同じ場所をぐるぐると自問自答を繰り返していた。
だけど、答えなんていつまでたっても出ない。それなのに、「嵐さんはやっぱり、俺に死んでほしくないのかな」なんて考えている自分がいた。
死ぬ前の思い出づくりをしてもらった身なのに、そんな風に繋ぎ止められている予感に縋ってしまうことが、どこか嬉しかったりもして。
……これって、客観的に見てかなりめんどくさい性格というか。死にたいって匂わせて気を引きたいだけの、ただのかまちょムーヴになってないか?とも思うし、自分の浅ましさに嫌気がさす。
体は鉛のように疲れているのに、頭だけが冴えていて、その日はなかなか眠れなかった。
◇◇◇
次の日の夜は、バケツをひっくり返したような強い雨が降っていた。
嵐さんは「打ち合わせがあるから、早めに出る」と言ってビニール傘を片手に、パタンとドアを閉めて出て行く。一人残された静かすぎる部屋で、お風呂でも入ろうかな、と給湯パネルのスイッチを押しに行こうとした、その時だった。
「……えっ」
キッチンカウンターの上に、ぽつんと黒い端末が置きっぱなしになっている。
嵐さんの個人用じゃなくて、お店のお客さんとやりとりする時に使っている業務用のアカウントが入ったやつだ。どうしよう、忘れてますって連絡しなきゃ、と思って自分のスマホを探しかけて――はっとする。
(データ全部消して、解約したんだった……!)
自分の手で、社会との繋がりを全部真っさらにしたんだった。もう、LINEも電話もする以前の問題だ。
少し待ってみたら、忘れ物に気づいて取りに戻ってくるかな。それとも、このまま触らずに置いておいた方がいいんだろうか。けれど嵐さん以前、お客さんからの連絡には即レスを心掛けてるって言ってたし、もし大事な指名のお客さんからだったら……?
どうしよう、どうしようと頭を抱えて、狭いワンルームの中をうろうろしてしまう。
だけど、ここでうだうだ悩んでいても時間は過ぎるだけだ。意を決した俺は、嵐さんのクローゼットの隅に置いてあった名刺のストックから、金文字の入ったカードを一枚だけ拝借して、雨の中へと飛び出した。
タクシーで繫華街の入り口まで乗せてもらい、大通りを一本曲がった瞬間。
強烈な光の洪水に視界を殴られ、思わず足がすくむ。
「……なに、ここ……」
見上げるほどのビル群を埋め尽くす、目がチカチカするような極彩色のネオンサイン。ホストやキャバ嬢の巨大な看板が笑顔を並べ、重さの効いた電子音が雨の音をかき消すようにズンズンと鼓膜を揺らす。
すれ違うのは、高級そうなスーツを着た男性や、派手なドレスにコートを羽織って気怠げに歩く女の人。色とりどりのビニール傘の群れがぶつかり合うようにして、大勢の人が行き交っている。煙草と香水と雨と、名前のつかないいくつもの匂いが混ざり合って、不快な気持ちを強く揺さぶった。
世界から置いていかれたような、嵐さんの静かな部屋とは真逆の場所。
生きている人間の剥き出しの欲望がそのまま形になったような、ギラギラした街の熱気に気圧されて、胸がぎゅっと苦しくなった。自分がそこに居るのに透明で、場違いな存在に思えてくる。名刺を握りしめる指先に、じっとりと嫌な汗がにじんだ。
(……やっぱり、来ないほうが良かったかも)
慣れない街の匂いと空気に押しつぶされそうになりながら、それでもカードの住所を頼りに、おそるおそる夜の街の奥へと足を進める。
その時だった。
「――おっ、ねえ君。一人? どっか店探してんの?」
不意に背後から肩を叩かれ、ビクッと心臓が跳ね上がる。
振り返ると、少し着崩したスーツ姿の、線の細い男が立っていた。いかにも『夜の街の人』という感じの、貼り付いたような愛想笑いを浮かべている。
「……っ、あの、エデンっていうお店を……」
声を絞り出そうとしたけれど、緊張で喉が張り付いてうまく音にならない。傘を持たない俺の髪から、冷たい雫が頬を伝う。
男は俺の顔を正面から見るなり、一瞬だけ目を見開いて、それから品定めをするようにニヤリと唇の端を上げた。
「へえ、めっちゃ可愛い顔してるじゃん。初めて? この辺。……もしかして、お店探して迷っちゃった系? それならいいとこあんだけどさ」
男はズカズカと距離を詰め、俺の顔を覗き込んできた。
その、蛇に睨まれたような視線に、背筋がゾッと寒くなる。男は慣れた手つきで俺の頼りない手首を掴むと、拒絶する暇も与えず、自分の身体の方へと強引に引き寄せた。
「ちょっと話してかない? お兄さんがおごってあげるから」
「……っ、う、あ……、」
掴まれた手首を振り払わなきゃいけないのに、恐怖で足がすくんで動かない。男の顔が、どんどん近づいてくる。靴底が地面に根を張ったみたいに、何一つ言うことを聞かなかった。
「……やめて、くださ――」
必死に手首を引き抜こうと、残った力を込めたその時だった。
「おーおー、お兄さん。か弱そうな子を掴まえて、なに強引なことしてんの?」
騒がしい雨の音を割って、少し高めの、だけど芯の通った冷ややかな声が響いた。
「あ?」
キャッチの男が怪訝そうに顔を上げた瞬間、俺の腕を掴んでいた手が、上から容赦ない力で引っぺがされる。勢いよく自由になった身体は、そのまま滑り込むように、バニラの香りがする胸へと引き寄せられていた。
「っ……あ、」
「おっと、大丈夫? 足元滑るから気をつけてね」
見上げると、濡れた銀髪をラフに散らした乃亜さんが立っていた。水色の瞳が、夜の街のネオンを反射して冷ややかにきらめいている。この前見た時よりも、更に派手な色のスーツ姿。
キャッチの男は、彼の顔を見るなり「チッ……乃亜かよ」と苦々しげに舌打ちをした。乃亜さんは俺を背中に隠すようにして一歩前へ出ると、形の良い唇を歪めて、凄みのある笑みを浮かべる。
「この子、嵐さんの大事な身内だから。これ以上手ぇ出すと、マジであの人怒らせるよ?」
『嵐さん』という名前が出た瞬間、キャッチの男の顔からあからさまに余裕が消えた。男は「……なんだよ、シケてんな」とブツブツ文句を言いながら、足早に人混みの向こうへと逃げるように消えていく。
静かになった路地裏で、乃亜さんはふぅ、と小さく息を吐いて振り返ると、さっきまでの氷のような圧迫感はどこへやら。まるで人懐っこい子犬のような、極上の営業スマイルを浮かべていた。
「ミハルくん、大丈夫? 怖かったね」
「あ、はい、あの……」
呆然とする俺に、乃亜さんは自分の差していた大きな黒い傘を、すっと頭上に差し出してくれた。自分の肩が雨に濡れるのも全く気にする様子もなく。
「こんな激しい雨の中、傘もささないでどうしたの?」
「あ……これ、嵐さんが忘れてて……」
俺が濡れた手でぎゅっと握りしめていたスマホと名刺を差し出すと、乃亜さんは「うわ、あの人またやったの!?」と呆れたように綺麗な眉をひそめた。スマホ、しょっちゅう忘れるんだろうか。あの隙のない嵐さんが? と思うと、少しだけ胸の奥が温かくなる。
「そっか、わざわざ届けに来てくれたんだ。優しいね。……よし、じゃあ店まで一緒に行こ。ここ、一人で歩くにはちょっと危なすぎるから」
乃亜さんはそう言うと、俺の歩幅に合わせて、ゆっくりと歩き出した。
「嵐さんに持って来てって頼まれたの?」
「いえ、たまたま気付いて持って来て…」
「あー、そっか。でも、これからはこんなとこ、真夜中にウロウロしちゃダメだよ。ミハルくん、相当可愛いから変なやつに声かけられまくると思う」
「へ、変なやつ…?」
「そう。例えば、一晩で数十万稼げるとか甘い言葉で囲い込もうとするスカウト。それに……もっと危ないのもいるよ。シャブを売りつけようとする連中。ミハルくんみたいな世間知らずな子は、一番のカモなんだよ。……いい? ここは、人間が人間としていられなくなるスピードが、世界で一番速い街なんだ。わかったら、二度と夜の歌舞伎町には近づかない方がいいと思う」
乃亜さんの声は穏やかなのに、その言葉の芯に、静かな本気が宿っていた。
まだドキドキと耳の奥でうるさく鳴る鼓動を抑えながら、俺は差し出された傘の下で、乃亜さんに付き添われて嵐さんのいる店へ向かう。
促されるまま、きらびやかな正面入り口ではなく、ビルの脇にある狭い路地へと入っていく。
湿気と煙草の匂いがこもった薄暗い鉄製の階段を上がると、重い防火扉があった。乃亜さんが手慣れた様子でそれを引くと、ズンズンと床を揺らす大きな重低音と、微かなアルコールの匂いが押し寄せてくる。
そこは、華やかなホストクラブの裏側――バックヤードだった。
「ちょっと待っててね、今タオル持ってくるから」
乃亜さんがそう言って奥へ向かう間、俺は場違いな場所に迷い込んだ子供のように、壁際に小さくなって佇んでいた。
狭い通路には、高級そうなシャンパンの空き箱が天井近くまで積み上げられ、出勤前のアイスペールや真新しいおしぼりが整然と並んでいる。姿見の前では、髪を完璧にセットした若いホストたちが「今日お前の姫、来んの?」と低い声で私語を交わしながら、ジャケットのボタンを締め直していた。
きらきらした表舞台とは違う、どこか張り詰めた生々しさが伝わってくる。ここで毎晩、色んな人が何かを演じて生きているんだ。そう思ったら、なぜか急に喉の奥が詰まった。
「はい、これ。しっかり拭きなよ?」
戻ってきた乃亜さんから大きなふかふかのタオルを渡され、濡れた髪や首筋を拭う。
乃亜さんは俺が握りしめていた嵐さんのスマホを受け取ると、「嵐さんに渡してくるね。あ、そうだ」と、悪戯っぽく水色の瞳を輝かせた。
「せっかくお店まで来たんだし、嵐さんの仕事姿、ちょっと見てみる?」
「え……、でも、」
「いーのいーの。ほら、ここからちょっとだけ覗けるからさ。……マジでカッコいいよ。若手はみんな嵐さんに憧れてる」
乃亜さんは内緒話をするように声を潜め、ホールへと繋がるスリット状のガラス窓がある扉を指さす。
断る間もなく背中を押され、俺はおそるおそる、その隙間から華やかなホールの様子を覗き込んだ。
「す、すごい……」
「だろ? 嵐さん、売り上げもえぐいんだけどさ、ちゃんと若手のフォローもしてくれて、どこが良く無かったかとかも指摘してくれんの。しかもエースから細客まで対応もマメだし、普通に同じ男としてシゴデキすぎて尊敬するっつーか」
眩いシャンデリアの光が乱反射する店内は、まるで別世界だった。
高級そうなソファが並ぶ一角。そこに、俺のよく知る、だけど全く知らない嵐さんが座っていた。
(うわ……すっごい可愛い子がいる……芸能人? ていうか、男の子……だよね?)
嵐さんの隣には、いかにもおめかしをしてきたという雰囲気の、小柄で可愛い男の子が座っている。いつも俺の前で見せる、ぶっきらぼうでどこか眠そうな嵐さんはそこにはいなかった。
少し崩したシャツの襟元、色気のある仕草でグラスを傾けながら、嵐さんはその男の子を、とろけるような甘い目で見つめている。男の子が恥ずかしそうに笑うと、嵐さんは愛おしそうにその髪に優しく触れ、耳元で何かを囁いた。男の子の顔が、一瞬で真っ赤に染まる。けれど、その甘やかな時間に浸る間もなく、黒服の男が嵐さんのテーブルに向かう。
「嵐さん、三番テーブル、お願いします」
すると嵐さんは、隣の男の子に「ちょっと他の姫の顔立ててくる。すぐ戻るから、良い子で待ってて?」と、名残惜しそうに頬を撫でて迷いなく席を立つ。
その言葉と行動の間に一瞬の迷いもないことが、ガラス越しにでもわかった。
そのまま嵐さんが流れるように向かったのは、すぐ近くの別のテーブルだった。そこには、派手なブランドもののバッグを置いた、いかにも夜職風の綺麗な女の子が座っている。
「遅い、寂しかったんだけど~」
不満げに拗ねる女の子の腰に、嵐さんは慣れた動作で腕を回し、自分の身体へと引き寄せた。
男の子に向けていたものとはまた違う、情熱的で少し強引な、甘い恋の空気。女の子が嬉しそうに嵐さんの胸に顔を埋めるのを、俺はただガラス越しに見つめることしかできない。
どれが本物で、どれが嘘なんだろう。交互に席を行き来しながら、男の子にも、女の子にも、それぞれの「一番」であるかのように振る舞う嵐さん。その全方位に振り撒かれる完璧な愛の器用さに、めまいがしそうだった。
(……全部ウソ、なのかもしれないけれど……全部ホンモノに見えるのが凄いな)
その時、ホールの一角から「シャンパン入りまーす!」と、お腹に響くような大声が上がった。瞬時にホールの照明が切り替わり、アップテンポなダンスミュージックが爆音で鳴り響く。若手ホストたちが一斉に一つのテーブルを囲む中、嵐さんがマイクを片手に、その中心へと進み出た。
『さあさあ今夜も始まりました、本日の主役は俺の可愛いお姫様! 高級シャンパン頂きました、あざーーす!』
スピーカーを通して響く嵐さんの声は、驚くほど高圧的で、それでいて最高にフロアを煽り立てる。嵐さんの先導に合わせて、周りのホストたちが一斉に女の子が一言喋る度に『よいちょーー!』『飲んで!のんで!もう一杯!』とコールを叫び、手拍子を打つ。嵐さんはマイクを持ったまま、煽るような仕草で長い髪を揺らし、男らしくグラスを煽り笑っていた。
(……嵐さんがあんなに笑うところ、初めて見た)
あの夜、俺を必死に引き留めるように抱きしめてくれた、嵐さんの低い声。
あの温もりも、あのキスも、俺だけの特別なものだと、どこかで思い上がっていたのかもしれない。
いま、目の前で繰り広げられているのは、完璧な『営業』であり、嵐さんの日常だ。誰にでも向ける優しい眼差しも、甘い微笑みも、何十万、何百万という金と欲望が渦巻くこの街で、あの人が生き抜くために磨き上げてきた、商品としての顔。そう理解した瞬間、胸の奥が、ぎゅっと絞られるように痛んだ。
冷たい雨に打たれていた時よりも、ずっと身体が冷たくなっていく気がする。腹の底に、静かに重いものが溜まっていくような感覚。
「……っ、」
これ以上見ていられなくて、俺は思わず視線を逸らし、一歩後ろに下がった。
心臓がドクドクと暴れていて、胸の真ん中がきゅうっと痛む。嵐さんにとって、俺はいったいどういう存在なんだろう。死にたがりの俺を拾って、気まぐれに優しくしてくれているだけで、あの人には帰るべき、こんなに華やかな世界があるのに。
「ミハルくん? あれ、嵐さんに声かけなくていいの? 一旦こっちに下がってくるけど――」
乃亜さんが不思議そうに顔を覗き込んできた。水色の瞳が、俺の青ざめた顔を真っ直ぐに見つめている。
「あ……大丈夫です、あの……スマホ、こっそり戻しておいて貰えませんか。俺が来たこと、知られたくなくて」
「いや、でも……わざわざこんな雨の中、来てくれたのに。なんで? ……家から出るな、とかもしかして言われてんの?」
その鋭い一言に、心臓が跳ね上がった。図星だ。勝手に死ぬなとも言われてるし、ふらっと居なくなるなよともキツく言われている。
「……すみません、本当に、ありがとうございました」
曖昧に肯定する俺の顔を見つめて、乃亜さんは困ったように綺麗な眉を下げている。引き留める乃亜さんの声を背中で遮るようにして、俺は逃げるようにバックヤードの扉を押し開けた。湿った空気が、熱を持った頬を撫でていく。一刻も早く、あの静かで狭い部屋に戻りたい。
そんな気持ちを抱えて路地裏を抜け、大通りに出ようとお店の正面側に回り込んだ、その時だった。
「なー、怒んないで。ちょっと席戻れなかったのはまじでごめんって」
聞き慣れた、だけどさっきまでマイク越しに聞いていたあの低い声が、すぐ近くのビル風に混じって聞こえた。
はっとして足を止める。ネオンの光が反射するきらびやかなエントランスの前に、二つの影があった。嵐さんと、さっきまで隣に座っていた、あの小柄で可愛い男の子だ。その肩は怒りで小刻みに震えていた。嵐さんが宥めるように伸ばした手を、激しく振り払う。
「僕がいくら持ってきたと思ってんの!? マジで有り得ないんだけど!」
雨音でもかき消すことの出来ない、悲鳴のような怒声。それは、ただのクレームなんかじゃない。嵐さんに本気で恋をしている、剥き出しの不満の爆発だった。
「あのさあ、エースの僕を放ったらかして他の女の席行くとか、舐めてんの!?」
「悪かった。お前が一番なのは分かってるから。な? 埋め合わせは絶対するから、今日は機嫌直して」
「埋め合わせってなに!? また店でシャンパン開けろって言うの!? 僕が毎日どんな思いで、知らない男の相手して金稼いでるか知ってるでしょ!? 今月だって嵐のために、昼も夜も体ボロボロになるまで出勤して……っ、限界まで売上貢献してるんだよ! 全部、全部嵐のためなのに!」
「分かってるよ、めっちゃ頑張ってくれてんのは」
「だったら、一回くらい店外でまともにデートしてくれたっていいじゃん! 一日同伴でぴゅありぃ~ランドで待ち合わせした時、嵐なんて言ったっけ? 『ごめん、寝てた』で終わりじゃん! それなのにアフターもいっつも歌舞伎の居酒屋だし……っ、一回だって、家にも呼んでくれたことないじゃん!!」
泣き叫ぶその声に、びくっと肩が震えた。
俺が今、当たり前のように居させてもらっているあの広いマンション。嵐さんの生活の匂いがするあの場所に、この子は、死ぬ気で何百万円も稼いで尽くしても、一度も入れてもらえなかったんだ。
嵐さんの「お前が一番」という言葉の軽さと、自分が特等席に座らされていることを突きつけられて、そのまま動けなくなる。ネオンの光が滲んで見えた。涙じゃない。たぶん、雨だ。
「頼むから大声出すなって、な? 茉弥。ほら、風邪ひくからタクシー乗りな」
嵐さんが焦ったように男の子の肩を抱こうとした、その時だった。
ご機嫌とりに必死だった嵐さんの視線が、ふと泳いで歩道を捉える。そこに、傘もささずにまた雨に濡れて立ち尽くしている俺の姿に気付いた瞬間、切れ長の目が、驚愕で大きく見開かれた。
「見晴? なんでお前が此処に……」
さっきまで男の子に向けていた、ホストとしての表情は消え去り、嵐さんの声が素のトーンに裏返る。その尋常じゃない動揺を、隣の男の子が見逃すはずがなかった。
「嵐? なにこの子、誰?」
男の子の敵意に満ちた視線が、突き刺さるように俺の全身をねめ回す。
傘もささずにずぶ濡れで突っ立っている俺の姿は、どう見たってこの街では異質で、ひどく惨めに映っているはずだった。それなのに、茉弥くんの目尻は鋭くつり上がっている。
「え、っと……」
おびえる俺の声を遮るようにして、嵐さんが一歩前に出た。
その大きな背中で隠すようにしながら、彼の肩を掴んで半ば強引に背を向けさせる。
「とりあえず今日の埋め合わせはまた今度するから。欲しいものあったらラインして」
「だから、もうネックレスとかアクセサリーはいらないんだってば! 僕が欲しいのはそんなのじゃなくて、嵐と一緒に居る時間が――」
ヒステリックに叫ぶ言葉を最後まで聞くことなく、嵐さんはお店の前にタイミングよく滑り込んできたタクシーのドアを開けた。そして、怒り狂って怒鳴る背中を車内へと押し込む。
「すみません、すごい酔ってるんですけど、駅までお願いします」
嵐さんは運転手に手際よく一万円札を握らせ、一礼した。
車内で窓を叩き、怒り心頭という様子で腕を組む彼は、最後に窓を少しだけ開けて、顔を真っ赤にしながら捨て台詞を吐き出した。
「もういい、嵐なんか今月でもう指名変えてやる! ナンバー落ちたって知らないから! 隣の店の担当に乗り換えてやるからね!」
バタン、と激しい音を立ててドアが閉まり、タクシーは水飛沫を上げて夜の街へと去っていった。あれだけ尽くして、身を削って貢いできたはずなのに、去り際はこんなにもあっけないなんて。
車が去ったあとの大通りには、激しい雨の音だけが残されていた。
ネオンの光に照らされた水溜りの前で、雨に打たれたまま、嵐さんとじっと見つめ合う。あの店の中で見た嵐さんのうつくしい笑顔が、まだ瞼の裏にちらついている。
嵐さんは深く、重い溜息をひとつつくと、ゆっくりと俺に歩み寄ってきた。じっとりと濡れて張り付いた俺の前髪を、ぶっきらぼうな手つきでぽんぽんと優しく撫でる。
「……お前、なんでここにいんの」
怒っているような、だけど酷く困ったような、掠れた声。
茉弥、と呼ばれた男の子が叫んでいた言葉が、まだ耳の奥でざわざわと鳴り響いて、胸の中が落ち着かない。
家にも呼ばれたことがない、デートもしたことがない。
それなのに俺は、あの部屋で、嵐さんのパジャマを着て、腕の中で眠っている。何百万円もの大金を積まれても嵐さんが誰にも許さなかったプライベートな空間に、俺は一円も払わず、ただ死にたがっているという理由だけで囲われているなんて。
「す、スマホ……届けなきゃ、って思って」
ぐちゃぐちゃになった感情のまま嵐さんを見上げると、無性に泣きたくなった。
このぐらぐらと揺れている心をどうにかして欲しくて、その胸に飛び込んで。
強く抱きつきたくなるような衝動に駆られる。自分がこんな感情を抱く権利なんて、どこにもないはずなのに。
「……見晴。お前、今何考えてる?」
「いや、その……お邪魔だったかな、って。ごめんなさ……」
「違うだろ。全然んな顔してねぇけど?」
おかしいな。愛想が悪いとは言われ続けて来たけれど、なんでもないふりをするのは得意なはずなのにな。ずっと、ずうっと。店を出る前から痛み続ける胸が、本当の気持ちを分からせようとしてくる。
「泣きそうな顔して、もろに嫉妬してますって顔すんじゃねーよ」
「ち、ちが」
「違わねーわ、馬鹿。つまんねぇ意地はりやがって」
胸の奥に閉じ込めて来た、言葉にできない独占欲を嵐さんがまた暴いちゃうから、嫌になる。なんでもないフリをして、綺麗に世界から消えてしまおうとしていたのに。この人はいつだって強引に俺の心に踏み込んできて、隠しておきたい感情を、引き摺り出しに来るんだ。
「っ……うっ……待って、それ以上言わないで下さい」
これ以上、生きることに執着してしまうような言葉を聞いたら、どうなっちゃうんだろう。
たまらず両手で耳を塞ごうとしたけれど、それよりも早く、嵐さんの大きな手が俺の手首を優しく捕らえた。そのまま逃げられないように指を絡められ、熱い視線で縛り付けられる。
「無理。おれもお前が好きだから、絶対に諦めないってもう決めてる」
凍りついていた心の深いところが、冷たい雨の中で、溶け残った雪がゆっくりと溶かされていくみたいに、じわ……とあたたかくなっていく。
何百万、何千万という大金と嘘が飛び交うこの街の真ん中で、嵐さんが俺にくれたのは、誰にも売らなかった剥き出しの本音だった。その圧倒的な熱量と重みに、張り詰めていた身体からすうっと力が抜けていく。
彼の周りに居る人がどんなに欲しがっても手に入らなかった、ホストの『嵐』ではない、ただの『男』としての生々しい感情が、いま俺だけに注がれている。
「好きって認めさせて、死にたくないって言わせたくて仕方がねぇんだよ」
その言葉に俺はただ瞼を閉じて、嵐さんが撫でてくれる手の温もりを欲しがるように、香水の香りが濃く残る胸へそっと額を預けた。
濡れた黒いアスファルトに、俺たちの静かな吐息だけが白く見えては、雨に混じって消えて行く。
すべてを諦めて投げ出したはずの冷たい雨の日の夜を、こんなに痛くて、こんなに温かいと思える日が来るなんて、思っても見なかった。



