「なぁ。ナポリタン、食いてぇんだけど」
嵐さんのリクエストに応えて、冷蔵庫にあるものでササッと作って出したお昼ご飯。スライスしたウィンナーをたくさん入れてあげたのが嬉しかったみたいで、
「見晴、わかってんじゃん。最高」
なんて笑われて、俺はたったそれだけでバカみたいに舞い上がってしまった。
『この春にリニュアールオープンしたのが、こちらです! やってまいりました、ぴゅありぃ〜ランド!』
食後、たまたまテレビに映った「ぴゅありぃ~ランド」の特集をぼーっと眺める。画面の中、フリフリの衣装で愛嬌を振りまく着ぐるみたちを、嵐さんはしらーっとした目で見つめていた。その温度差があまりにおかしくて、思わず吹き出してしまう。
「嵐さん、ぴゅありぃ~に会いたいんですか?」
「……あ? んなわけねーだろ。実写版が毎日横に居んのによ」
「またそれ……。俺、そんなに似てないと思いますけど」
「いや、似てる。今みたいに、無自覚にあざとい顔してる時とか」
あざとくなんかない。たまたまこういう顔面に生まれただけで、自分的には、普通に地味で平凡な顔だと思っている。けれど、テレビから「期間限定のライトアップを実施中!」というナレーションが流れ、宝石をぶちまけたような光の海の映像が映し出された瞬間。心臓がトクンと跳ねた。
「……なに。行きてーの?」
「ち、ちが……っ。まぁ、ちょっとは綺麗だなって思いましたけど……。ここ、遠いですし」
電車を乗り継げば何時間もかかる場所だ。叶わないものは後悔に繋がるから、考えないようにしたい。なのに、嵐さんは手元のスマホをいじりながら、
「高速なら二時間くらいじゃん」と何故か行く方向で勝手に話を進め始めた。
「え、嵐さん……でも、車がないんじゃ……」
唇に人差し指を立てられ、言葉を失う。
嵐さんはそのまま耳にスマホを当てると、誰かに電話をかけ始めた。
「あぁ、俺だけど。……乃亜、ちょい車貸してくんね? うん、俺の家まで持ってこい。今すぐ」
スピーカーじゃなくともスマホ越しに聞こえる、後輩らしき人の慌てた敬語の大きな返事。俺が目をぱちくりさせて、期待と不安でそわそわしていると、通話を切った嵐さんが「よし」と立ち上がった。
「十五分で来るって。ほら、着替えろよ」
「えっ!? ほ……本当に行くんですか……?」
「ライトアップ、見てぇんだろ? 死ぬ前の思い出づくりに、付き合ってやるよ」
ぎゅーん、と胸の奥を直接掴まれたような嬉しさがこみ上げる。
(嵐さん、男前すぎる! ホストの営業で慣れてるのかもしれないけど……)
出会った時からなんとなく察してはいたけれど、この人の行動力はいつも俺の予想を軽々と飛び越えていく。しかも、俺がマイナスな方へ気持ちを引っ張られる時ほど、そのパワーを発揮しているような気がした。
嵐さんにクローゼットから服を選んでもらい、言われるがままに着替えを済ませた。鏡の前に立つと、嵐さんは俺をじろじろと眺めて、ニヤリと口角を上げる。
「……なんでお前が着ると、俺の服『地雷系ファッション』になんの?」
貶されているのか褒められているのか、よく分からない言葉。
「それ、バカにしてます……?」
「いや、全然。普通にクソ可愛いって意味で使ってる」
嵐さんは手首にはめていた黒いゴムでさっとハーフアップに括ると、煙草を咥えてキッチンの換気扇の下へ移動した。ライターの蓋を慣れた手つきで跳ね上げるように開く仕草も、腰に手をあてて、ふう、と息を吐く姿も様になってる。
(ていうか、いま可愛いって言われた……可愛いって言われた……!)
もはや呼吸と同じレベルで繰り返してきた言葉なのだとしても、爆下がりの自己肯定感を上げるのには、十分すぎる火力だ。
胸の奥がじわじわと熱くなって、顔を伏せながら、俺はそのニヤけ顔を必死で隠していた。
◇◇◇
「嵐さん、遅くなってすみません。……って、あれ?」
玄関のインターフォンが鳴り、煙草をくわえたまま嵐さんが勢いよくドアを開ける。その先に立っていたのは、いかにも「夜のお仕事」をしています、という雰囲気を隠しきれていない、パリッとした細身のスーツを着た同い年くらいの男の人だった。唇にまでピアスが開いて、眩しいくらいの銀髪が明かりに透けている。
嵐さんの背後からおそるおそる顔を出した俺を見て、彼はまるで幽霊にでも出くわしたかのように、信じられないといった顔で固まっていた。
「……えっ。あ、あの……嵐さん、その人って……?」
「気にしなくていい。最近、道路で拾った」
「いやいやいやいや。ストップ、ちょっと待って。人が道路に落ちてるわけないでしょ」
「んー、まぁ厳密には落ちてねーわ。落ちる寸前っていうか、橋のところに引っ掛かってたのを剥がしてきた感じ」
「冗談やめてくださいよ。あー、もう。こんなの本命営業のお客様に見られたらどうするんですか! ただでさえ、沼らせてメンヘラ女製造しまくってるのに」
「だからバレねーように、わざわざ職場から離れたここに住んでんだろ。お前、頭わりーな」
嵐さんに敬語でまくしたてるその人は、俺の顔をもう一度見ると、頭のてっぺんからつま先までを何往復も眺めて、大きくため息をついた。
「……あー、えっと。俺、乃亜っていいます。嵐さんの後輩で……一応、お店のマネージャー的なこともやってます」
「……日野見晴です。あの、ちょっと前から、その……お世話になってます」
ぺこ、と申し訳なさに小さく頭を下げると、乃亜さんは「……あ、はい。どうも」と、少しだけ毒気を抜かれたような顔をした。
どうやら、害はなさそうだと判断してくれた……っぽい。
嵐さんは俺たちのやり取りを興味なさそうに聞き流すと、「行くぞ」と短く告げて、俺の肩を抱き寄せるようにして歩き出した。
「え、あの……嵐さん。ミハルくんって同伴とかじゃなくて、ガチでいま同居してるってことですよね?」
「そうだけど。何か文句あんのかよ」
「いや、文句はないですけど……この子、まさかコンカフェの子とかじゃ……」
「んなわけねーだろボケ。どこをどう見たらこの実写版ぴゅありぃ~がキャストに見えんだよ」
「え、なんか、すごく綺麗な子だなーって思ったんで」
「顔は乃亜のタイプだよな。でも、残念ながらコイツ、ちんこ付いてんだわ」
ぎょっとして乃亜さんに二度見され、思わず首をすくめて俯く。
コンカフェってなんだろう。メイド喫茶とは違うのかな。そもそも「キャス」って何……?
聞こえてくる言葉の端々が、俺の知らない夜の街を匂わせていて、話に首を突っ込んでいいのか分からなくなる。
「え、でも顔はいじってないんですよね?」
「だと思う。だから俺もビビった」
「へぇー、整形ナシでこんな可愛い男いるんだ。夜職させたらフツーに月に百万稼げそう」
「あぁ、それは無理。こうみえてアホだし、超メンヘラだし。ぜってー夜職とか上手く出来るほど器用じゃないから」
めちゃくちゃ言い放題なのが、すごく気になるんですけど。
でもなんとなく、乃亜さんは嵐さんに振り回されながらも、心底彼を慕い、頼りにしているのだということが会話と親密な空気で伝わってきた。
「んで、ミハルくんとどこ行くんすか?」
「あ? ぴゅありぃ〜ランド。文句あんのか」
「ブフッ!」
嵐さんは乃亜さんの綺麗に染められた銀髪にぐりぐりとゲンコツをお見舞いしながら地下駐車場に降りる。そこには、天井のライトを跳ね返すほどピカピカに磨き上げられた黒塗りの高級車が停まっていた。
嵐さんが乃亜さんから放り投げられたキーを、片手で鮮やかにキャッチする。
「これ、ローン通したばっかの新車なんですからねー。傷付けたらマジで泣きますよ、俺」
「俺が付けるわけねぇだろ。……お前はタクで帰れ。ほらよ」
嵐さんはポケットから万札を数枚、乃亜さんの胸元に無造作に突っ込んだ。
そのまま慣れた手つきで、助手席のドアを開ける。
「ほら、見晴。さっさと助手席座れ」
さっきまでとは違う、少しだけ楽しそうな、アイスグレーのサングラスをかけた嵐さんの横顔。俺は、長距離の運転をさせてしまって申し訳ないという気持ちと、それと同じくらいの期待で、胸をパンパンに膨らませていた。
◇◇◇
高速を二時間ちょっと飛ばして、辿り着いた先。
そこには、俺が今まで生きてきた日常とは正反対の、パステルカラーに彩られたメルヘンな世界が広がっていた。おおきなドーム状の建物の入り口を抜けると、そこはもう現実じゃない。天井には魔法がかかったような星空が広がり、どこからか甘いお菓子の匂いと、多幸感にあふれたキラキラした音楽が降ってくる。
「……すご……」
思わず口をぽかんと開けて見上げてしまう。キャンディのようなピンクや、淡いミントグリーンの建物が並び、その間を縫うように、可愛いカチューシャを着けた人たちが笑顔で歩いていた。
「おい、はぐれんなよ。迷子センターに預けられたら迎えに行くのめんどくせーからな」
「ま、迷子になんてならないですよ、絶対」
隣を歩く嵐さんは、相変わらずアイスグレーのサングラスをかけたままだけど、このファンシーな世界の中でも浮くどころか、かえって異彩を放って格好いい。出来るだけ隠すようにハイネックを着た、タトゥーのチラ見えしている首筋と、ぴゅありぃ~の世界観のギャップが激しすぎるけれど。
きらきらしたショップの中は、見渡す限りパステルカラーのぬいぐるみやカチューシャで埋め尽くされていた。家族連れやカップルが楽しそうに選んでいる中、黒い服でサングラスをかけた嵐さんは、やっぱりどう見ても「異物」でしかない。
「……嵐さん、かなり浮いてますよ」
「あ? 知らねーよ。ほら、お前これ選べ。実写版なんだから『正装』しろ」
嵐さんは棚からひょいと、ぴゅありぃ~の耳がついた白い垂れ耳のカチューシャを手に取った。俺が断る間もなく、大きな手が伸びてきて、くしゃっとした髪の上にそれが載せられる。
「……恥ずかしいんですけど……」
「似合ってんじゃん。ほら、鏡見てこい」
言われるがまま鏡を覗くと、そこには白のダボッとした服を着て、ふわふわの耳をつけた俺がいた。
(……自分で言うのもなんだけど、たしかに「実写版」と言われても否定できないくらい、しっくりきすぎている気がする)
でも、俺だけがこんな格好をしているのは、なんだか落ち着かない。
俺は勇気を出して、棚の隅にあった黒い耳のカチューシャを手に取った。
「……あの。嵐さんも、つけてください」
「は? 寝言は寝て言え。俺がこんなもんつけるわけねーだろ」
嵐さんは鼻で笑って、本気で嫌そうな顔をした。今までなら「そうですよね」と言って引くところだけど、今日の俺は、なんだか少しだけ強気だった。
ここが魔法の国だからか、それとも、もう二度と来れないって分かってるせいかもしれない。
「……一回だけでいいんです。写真撮ったらすぐ外していいですから」
「ダメ。絶対しねぇ」
「お願いします……一生のお願い」
また、ずるい言葉を使ってしまった。嵐さんは「チッ」と盛大に舌打ちをして、天を仰ぐ。けれど、見つめ続けると観念したように、俺の方へ少しだけ腰を屈めてくれた。
「……一瞬だけだぞ。マジで誰にも見せんなよ」
「大丈夫ですよ、仲のいい友達も俺にはもう居ないですし」
チャンスを逃さないように、背伸びをする。嵐さんのセットされた髪を崩さないように、そっと黒い耳を載せて、数歩後退りする。
アイスグレーのサングラスに、鋭い視線。それなのに、頭の上にはぴょこんと可愛い耳。
「ふふっ……あはは! 嵐さん、すっごく面白いです」
「笑うなっつーの。……ほら、撮るなら早くしろ」
嵐さんは文句を言いながらも、俺の肩をぐいっと引き寄せて、スマホのカメラの方を向いた。画面の中に並んだ、白と黒の耳をつけた二人。シャッター音が鳴った瞬間、嵐さんが俺の耳元で「……満足かよ」と意地悪く囁いた。
「はいっ、大満足です!」
鏡の中の俺は、数日前までの「死にたがり」が嘘みたいに、見たこともないような幸せそうな顔をして笑っていた。
◇◇◇
ショップを出て、パレードの余韻に包まれながら歩いていると、甘いバニラと焼き立ての生地の香りが漂ってきた。ピンク色のキッチンカーの前には、パステルカラーのトッピングが乗ったクレープを欲しがる子供たちの列ができている。
「……お前、こういうの好きなんじゃねーの。食いてぇなら買うけど」
嵐さんはサングラスを指でずらしながら、メニュー看板を顎でしゃくった。
俺はカチューシャの耳を揺らしながら、色とりどりの写真を見つめる。
「えっと……じゃあ、このイチゴがたくさん乗ってるやつ……」
「おー。すみませーん、これ下さい」
嵐さんは俺が欲しがった、一番デコレーションが派手で甘そうなやつを注文した。お会計を済ませて、手渡されたのは、たっぷりの生クリームにリボン型のチョコが添えられた、まさに「映え」の塊のようなクレープだ。
「わ……すご、可愛い……」
受け取るとずっしりと重くて、甘い香りが鼻をくすぐる。
俺が感動している横で、嵐さんは大きな手でその繊細なクレープを掴むと、ベンチに腰を下ろした。
「ほら、座れ。立って食うとこぼすだろ、お前」
「ありがとうございます。……嵐さん、先に一口どうぞ」
そう言うと、嵐さんは迷いなく生クリームの山をバクリと頬張った。端正な顔立ちに、似合わない黒い耳のカチューシャ。そして口角にちょっとだけついた白いクリーム。そのギャップがあまりにおかしくて、愛おしくて、胸がいっぱいになってしまう。
「……何笑ってんだよ。早く食え。溶けるぞ」
「はい。……いただきます」
イチゴの酸味とクリームの甘さが口の中に広がって、なんだか溶けてしまいそうになる。俺がちびちびと食べていると、嵐さんは俺の様子をじっと横目で見ていた。
「……美味い?」
「はい、すっごくおいしいです。幸せな味がします」
「……あっそ。なら良かったわ」
嵐さんはそうぶっきらぼうに言って、俺の頭をカチューシャごとポンと叩く。
はへ、と俺は間抜け顔でその顔を見上げると、サングラスの奥で、嵐さんの瞳が少しだけ和らいだのが分かった。
……これだけ人がいる広いパークの中でも、誰も思いはしないんだろうな。
ここに居る嵐さんが、超有名なホストだとか。
俺が数日したら、死のうって考えている人間だってことも。
◇◇◇
クレープを食べ終えて少し歩くと、広場の人だかりの先に、お目当ての「ぴゅありぃ~」が姿を現した。白くてふわふわしたフォルムに、大きなピンクのリボン。画面越しに見ていたその姿が目の前にある。
「あ、嵐さん! ぴゅありぃ~ですよ、本物……っ!」
「わかった、わかったから袖引っ張んなよ」
嵐さんは「だりぃ」なんて口では言いながらも、率先して撮影待ちの列の最後尾について来てくれた。黒い服にサングラス、頭には黒い耳。そんな強面の男がぴゅありぃ~を待っている図は、周りの親子連れの中でもひときわ異様だったけれど、嵐さんの態度は堂々としたものだった。
多分、そういう「人から見られる」ことにはやっぱり慣れているんだろう。
いよいよ俺たちの番が回ってくると、ぴゅありぃ~が短い手をパタパタさせて、俺たちを歓迎してくれた。
「……ぴ、ぴゅありぃ~、可愛い……!」
「ほら、隣行けよ」
嵐さんに背中を押され、俺はおそるおそる隣に並ぶ。すると、嵐さんも反対側に立って、スタッフさんにスマホを預けた。
シャッターが切れる直前、ぴゅありぃ~の隣に居た俺の肩を抱き寄せ、手をそのまま下へと滑らせて当然のように腰に手を回す。
「はい、チーズ!」
画面の中の俺は、本物のぴゅありぃ~と、嵐さんに挟まれて、顔を真っ赤にしながら笑っていた。
「……満足か? ほら、次行くぞ。メインイベントだろ」
嵐さんは撮影が終わると、逃げるようにその場を離れた。
その背中を、小走りで追いかける。外のガーデンに出ると、少しだけ日が暮れはじめていた。カウントダウンの放送と共に、何万個ものクリスタルが、一斉に呼吸を始めたみたいに輝き出す。ピンク、ブルー、ゴールド。
幾重にも重なる光の粒が、滝のように知恵の木の枝から降り注ぎ、広場全体を宝石箱の中に変えてしまった。
「……わぁ……」
あまりの美しさに、言葉を失う。俺の瞳に映る無数の光が、涙で滲んでキラキラと揺れていた。
(すごい……こんなに本物は綺麗なんだ)
目の前風景が綺麗過ぎて涙が出るなんて、人生で初めて知った。
嵐さんはベンチに置いていた俺の手を、上からそっと自分の手で覆った。
大きな、熱い手のひら。イルミネーションの光が嵐さんの横顔を縁取って、その瞳が優しく細められる。
「見晴。……死ぬ前にこれ見れて、良かっただろ」
その言葉に、胸の奥がギュッと締め付けられた。
「良かった」なんて言葉じゃ足りない。あの日、橋の上で終わらせようとした自分の人生に、こんなに眩しい光の続きがあったなんて、想像もしなかった。
「……はい。すごく、良かったです」
俺が震える声で答えると、嵐さんは繋いだ手に少しだけ力を込めた。
光の海の中で、俺たちはしばらく黙ったまま、降り注ぐ輝きを浴びていた。
「嵐さん、連れて来てくれてありがとうございました」
このまま時間が止まってしまえばいい。たとえこれが「死ぬ前の思い出づくり」だとしても、この光だけは心の奥で、ずっとずっと――消えない気がした。
◇◇◇
地下の駐車場に戻ると、コンクリートに二人の足音と、嵐さんが車のキーを解除する音が響いた。急に夢のような時間が終わってしまったような気がして、胸の奥が少し切なくなる。
けれど、そんな俺の寂しい気持ちに気が付いたように、助手席でシートベルトを止めようとしていた手を、嵐さんが遮るようにそっと止めた。
「え? あの、嵐さ――」
ひくん、と喉が鳴った。いつの間にかサングラスを外した嵐さんの瞳が切なげに揺れて、吐息が掛かるほど近くに顔を寄せてくる。やばい、忘れてた。俺、嵐さんに“今日のお代”をまだ払ってない。
「っ、ふ……まっ、ちょっ……」
「……ムード台無し。こういう時は何も喋らねぇもんだろうが」
けれど、周りには他にも車が何台も停まっている駐車場で、いつ誰に見られてもおかしくないのに。今までは嵐さんの家だったから何も恥ずかしくなかったけれど、急に焦りと羞恥心がこみあげてきて、唇を塞がれたまま、とん、と小さく手で彼の胸を押す。
「……そんな力でマジでやめて貰えると思ってんの?」
「だ、だって、ここ明るいし、人が……」
「知るかよ」
嵐さんはそんな俺の抵抗などお構いなしに、助手席のシートをカタン、と呆気ないほど簡単に倒して、隙間を埋めるように舌を割り込ませてきた。
(待って、待って待って……! これ、なんかヤバい。いつもの嵐さんと、雰囲気がちがう――)
どうしてそう感じるのかは、分からない。けれど、完全に今の空気はデートのあとのカップルだし、重ねられる熱もまんまそれだ。
いや、そもそも今までの俺たちの関係がおかしかったのかもしれない。
急に「外」の世界を意識してしまった瞬間、俺は今更になって、逃げ出したくなるほどの恥ずかしさがこみ上げてきた。
「ん、っ……」
「……口開けろ」
「で、でも。もう払いましたよ、一日分」
「……明日の分までとか言えば、いい加減黙れる?」
キスの合間にも、耳の輪郭を指先で愛おしそうに撫でられ、髪を梳く指の間からさらさらと束が流れていくのを感じる。
あまりにも甘くて執拗なそれは、嵐さんの本気を見せつけられているようで、俺は本当にとろとろに溶かされて、銀の糸を引くほどの深い口付けに文字通り溺れていた。
「見晴」
ぐっ、と手首を掴まれる。嵐さんは俺の、血管と筋の通る繊細な内側に指先を埋めるように強く握り込むと、低く真剣な声を響かせた。
「……お前、今でもまだ、本気で死にてぇって思ってる?」
核心を抉るような言葉に、心臓が跳ね、思わず息を呑む。逃げようと視線を逸らしかけた瞬間、顎を片手で強引に掴まれた。それすら許さないと言わんばかりに、顔の向きを固定される。
「……嵐さん、待って。なんでそんなこと……」
「何でだろうな。そのぽわんとした頭で、必死こいて考えてみろよ」
なんでそんなに、怒るみたいに言うの?
どうしてそんなに、心の奥まで見透かすような目で射すくめて、手を握り込んでくるの?
(……俺のこと、そんな目で見ないで。これ以上、大事になんてしなくったっていいのに)
俺の人生に、書き殴るように鮮やかな色がついてしまったのは、嵐さんが助けてくれたせいだ。そのせいで――もう何もいらないと諦めていたのに、死ぬ前にひとつだけ、欲しいものが増えていることに気付く。
目尻からぽろ、と溢れだした涙。嵐さんはそれをすべて受け容れるように、繋いだ手のひらのあわいに指先を滑り込ませる。こんな気持ちのこもったキス、生まれて初めてだった。
「……お前は、どうしたら死にたくなくなんの?」
強く、強く力を込めて繋ぎ直したまま。嵐さんは、もう一度だけ、深い口付けをくれた。
嵐さんのリクエストに応えて、冷蔵庫にあるものでササッと作って出したお昼ご飯。スライスしたウィンナーをたくさん入れてあげたのが嬉しかったみたいで、
「見晴、わかってんじゃん。最高」
なんて笑われて、俺はたったそれだけでバカみたいに舞い上がってしまった。
『この春にリニュアールオープンしたのが、こちらです! やってまいりました、ぴゅありぃ〜ランド!』
食後、たまたまテレビに映った「ぴゅありぃ~ランド」の特集をぼーっと眺める。画面の中、フリフリの衣装で愛嬌を振りまく着ぐるみたちを、嵐さんはしらーっとした目で見つめていた。その温度差があまりにおかしくて、思わず吹き出してしまう。
「嵐さん、ぴゅありぃ~に会いたいんですか?」
「……あ? んなわけねーだろ。実写版が毎日横に居んのによ」
「またそれ……。俺、そんなに似てないと思いますけど」
「いや、似てる。今みたいに、無自覚にあざとい顔してる時とか」
あざとくなんかない。たまたまこういう顔面に生まれただけで、自分的には、普通に地味で平凡な顔だと思っている。けれど、テレビから「期間限定のライトアップを実施中!」というナレーションが流れ、宝石をぶちまけたような光の海の映像が映し出された瞬間。心臓がトクンと跳ねた。
「……なに。行きてーの?」
「ち、ちが……っ。まぁ、ちょっとは綺麗だなって思いましたけど……。ここ、遠いですし」
電車を乗り継げば何時間もかかる場所だ。叶わないものは後悔に繋がるから、考えないようにしたい。なのに、嵐さんは手元のスマホをいじりながら、
「高速なら二時間くらいじゃん」と何故か行く方向で勝手に話を進め始めた。
「え、嵐さん……でも、車がないんじゃ……」
唇に人差し指を立てられ、言葉を失う。
嵐さんはそのまま耳にスマホを当てると、誰かに電話をかけ始めた。
「あぁ、俺だけど。……乃亜、ちょい車貸してくんね? うん、俺の家まで持ってこい。今すぐ」
スピーカーじゃなくともスマホ越しに聞こえる、後輩らしき人の慌てた敬語の大きな返事。俺が目をぱちくりさせて、期待と不安でそわそわしていると、通話を切った嵐さんが「よし」と立ち上がった。
「十五分で来るって。ほら、着替えろよ」
「えっ!? ほ……本当に行くんですか……?」
「ライトアップ、見てぇんだろ? 死ぬ前の思い出づくりに、付き合ってやるよ」
ぎゅーん、と胸の奥を直接掴まれたような嬉しさがこみ上げる。
(嵐さん、男前すぎる! ホストの営業で慣れてるのかもしれないけど……)
出会った時からなんとなく察してはいたけれど、この人の行動力はいつも俺の予想を軽々と飛び越えていく。しかも、俺がマイナスな方へ気持ちを引っ張られる時ほど、そのパワーを発揮しているような気がした。
嵐さんにクローゼットから服を選んでもらい、言われるがままに着替えを済ませた。鏡の前に立つと、嵐さんは俺をじろじろと眺めて、ニヤリと口角を上げる。
「……なんでお前が着ると、俺の服『地雷系ファッション』になんの?」
貶されているのか褒められているのか、よく分からない言葉。
「それ、バカにしてます……?」
「いや、全然。普通にクソ可愛いって意味で使ってる」
嵐さんは手首にはめていた黒いゴムでさっとハーフアップに括ると、煙草を咥えてキッチンの換気扇の下へ移動した。ライターの蓋を慣れた手つきで跳ね上げるように開く仕草も、腰に手をあてて、ふう、と息を吐く姿も様になってる。
(ていうか、いま可愛いって言われた……可愛いって言われた……!)
もはや呼吸と同じレベルで繰り返してきた言葉なのだとしても、爆下がりの自己肯定感を上げるのには、十分すぎる火力だ。
胸の奥がじわじわと熱くなって、顔を伏せながら、俺はそのニヤけ顔を必死で隠していた。
◇◇◇
「嵐さん、遅くなってすみません。……って、あれ?」
玄関のインターフォンが鳴り、煙草をくわえたまま嵐さんが勢いよくドアを開ける。その先に立っていたのは、いかにも「夜のお仕事」をしています、という雰囲気を隠しきれていない、パリッとした細身のスーツを着た同い年くらいの男の人だった。唇にまでピアスが開いて、眩しいくらいの銀髪が明かりに透けている。
嵐さんの背後からおそるおそる顔を出した俺を見て、彼はまるで幽霊にでも出くわしたかのように、信じられないといった顔で固まっていた。
「……えっ。あ、あの……嵐さん、その人って……?」
「気にしなくていい。最近、道路で拾った」
「いやいやいやいや。ストップ、ちょっと待って。人が道路に落ちてるわけないでしょ」
「んー、まぁ厳密には落ちてねーわ。落ちる寸前っていうか、橋のところに引っ掛かってたのを剥がしてきた感じ」
「冗談やめてくださいよ。あー、もう。こんなの本命営業のお客様に見られたらどうするんですか! ただでさえ、沼らせてメンヘラ女製造しまくってるのに」
「だからバレねーように、わざわざ職場から離れたここに住んでんだろ。お前、頭わりーな」
嵐さんに敬語でまくしたてるその人は、俺の顔をもう一度見ると、頭のてっぺんからつま先までを何往復も眺めて、大きくため息をついた。
「……あー、えっと。俺、乃亜っていいます。嵐さんの後輩で……一応、お店のマネージャー的なこともやってます」
「……日野見晴です。あの、ちょっと前から、その……お世話になってます」
ぺこ、と申し訳なさに小さく頭を下げると、乃亜さんは「……あ、はい。どうも」と、少しだけ毒気を抜かれたような顔をした。
どうやら、害はなさそうだと判断してくれた……っぽい。
嵐さんは俺たちのやり取りを興味なさそうに聞き流すと、「行くぞ」と短く告げて、俺の肩を抱き寄せるようにして歩き出した。
「え、あの……嵐さん。ミハルくんって同伴とかじゃなくて、ガチでいま同居してるってことですよね?」
「そうだけど。何か文句あんのかよ」
「いや、文句はないですけど……この子、まさかコンカフェの子とかじゃ……」
「んなわけねーだろボケ。どこをどう見たらこの実写版ぴゅありぃ~がキャストに見えんだよ」
「え、なんか、すごく綺麗な子だなーって思ったんで」
「顔は乃亜のタイプだよな。でも、残念ながらコイツ、ちんこ付いてんだわ」
ぎょっとして乃亜さんに二度見され、思わず首をすくめて俯く。
コンカフェってなんだろう。メイド喫茶とは違うのかな。そもそも「キャス」って何……?
聞こえてくる言葉の端々が、俺の知らない夜の街を匂わせていて、話に首を突っ込んでいいのか分からなくなる。
「え、でも顔はいじってないんですよね?」
「だと思う。だから俺もビビった」
「へぇー、整形ナシでこんな可愛い男いるんだ。夜職させたらフツーに月に百万稼げそう」
「あぁ、それは無理。こうみえてアホだし、超メンヘラだし。ぜってー夜職とか上手く出来るほど器用じゃないから」
めちゃくちゃ言い放題なのが、すごく気になるんですけど。
でもなんとなく、乃亜さんは嵐さんに振り回されながらも、心底彼を慕い、頼りにしているのだということが会話と親密な空気で伝わってきた。
「んで、ミハルくんとどこ行くんすか?」
「あ? ぴゅありぃ〜ランド。文句あんのか」
「ブフッ!」
嵐さんは乃亜さんの綺麗に染められた銀髪にぐりぐりとゲンコツをお見舞いしながら地下駐車場に降りる。そこには、天井のライトを跳ね返すほどピカピカに磨き上げられた黒塗りの高級車が停まっていた。
嵐さんが乃亜さんから放り投げられたキーを、片手で鮮やかにキャッチする。
「これ、ローン通したばっかの新車なんですからねー。傷付けたらマジで泣きますよ、俺」
「俺が付けるわけねぇだろ。……お前はタクで帰れ。ほらよ」
嵐さんはポケットから万札を数枚、乃亜さんの胸元に無造作に突っ込んだ。
そのまま慣れた手つきで、助手席のドアを開ける。
「ほら、見晴。さっさと助手席座れ」
さっきまでとは違う、少しだけ楽しそうな、アイスグレーのサングラスをかけた嵐さんの横顔。俺は、長距離の運転をさせてしまって申し訳ないという気持ちと、それと同じくらいの期待で、胸をパンパンに膨らませていた。
◇◇◇
高速を二時間ちょっと飛ばして、辿り着いた先。
そこには、俺が今まで生きてきた日常とは正反対の、パステルカラーに彩られたメルヘンな世界が広がっていた。おおきなドーム状の建物の入り口を抜けると、そこはもう現実じゃない。天井には魔法がかかったような星空が広がり、どこからか甘いお菓子の匂いと、多幸感にあふれたキラキラした音楽が降ってくる。
「……すご……」
思わず口をぽかんと開けて見上げてしまう。キャンディのようなピンクや、淡いミントグリーンの建物が並び、その間を縫うように、可愛いカチューシャを着けた人たちが笑顔で歩いていた。
「おい、はぐれんなよ。迷子センターに預けられたら迎えに行くのめんどくせーからな」
「ま、迷子になんてならないですよ、絶対」
隣を歩く嵐さんは、相変わらずアイスグレーのサングラスをかけたままだけど、このファンシーな世界の中でも浮くどころか、かえって異彩を放って格好いい。出来るだけ隠すようにハイネックを着た、タトゥーのチラ見えしている首筋と、ぴゅありぃ~の世界観のギャップが激しすぎるけれど。
きらきらしたショップの中は、見渡す限りパステルカラーのぬいぐるみやカチューシャで埋め尽くされていた。家族連れやカップルが楽しそうに選んでいる中、黒い服でサングラスをかけた嵐さんは、やっぱりどう見ても「異物」でしかない。
「……嵐さん、かなり浮いてますよ」
「あ? 知らねーよ。ほら、お前これ選べ。実写版なんだから『正装』しろ」
嵐さんは棚からひょいと、ぴゅありぃ~の耳がついた白い垂れ耳のカチューシャを手に取った。俺が断る間もなく、大きな手が伸びてきて、くしゃっとした髪の上にそれが載せられる。
「……恥ずかしいんですけど……」
「似合ってんじゃん。ほら、鏡見てこい」
言われるがまま鏡を覗くと、そこには白のダボッとした服を着て、ふわふわの耳をつけた俺がいた。
(……自分で言うのもなんだけど、たしかに「実写版」と言われても否定できないくらい、しっくりきすぎている気がする)
でも、俺だけがこんな格好をしているのは、なんだか落ち着かない。
俺は勇気を出して、棚の隅にあった黒い耳のカチューシャを手に取った。
「……あの。嵐さんも、つけてください」
「は? 寝言は寝て言え。俺がこんなもんつけるわけねーだろ」
嵐さんは鼻で笑って、本気で嫌そうな顔をした。今までなら「そうですよね」と言って引くところだけど、今日の俺は、なんだか少しだけ強気だった。
ここが魔法の国だからか、それとも、もう二度と来れないって分かってるせいかもしれない。
「……一回だけでいいんです。写真撮ったらすぐ外していいですから」
「ダメ。絶対しねぇ」
「お願いします……一生のお願い」
また、ずるい言葉を使ってしまった。嵐さんは「チッ」と盛大に舌打ちをして、天を仰ぐ。けれど、見つめ続けると観念したように、俺の方へ少しだけ腰を屈めてくれた。
「……一瞬だけだぞ。マジで誰にも見せんなよ」
「大丈夫ですよ、仲のいい友達も俺にはもう居ないですし」
チャンスを逃さないように、背伸びをする。嵐さんのセットされた髪を崩さないように、そっと黒い耳を載せて、数歩後退りする。
アイスグレーのサングラスに、鋭い視線。それなのに、頭の上にはぴょこんと可愛い耳。
「ふふっ……あはは! 嵐さん、すっごく面白いです」
「笑うなっつーの。……ほら、撮るなら早くしろ」
嵐さんは文句を言いながらも、俺の肩をぐいっと引き寄せて、スマホのカメラの方を向いた。画面の中に並んだ、白と黒の耳をつけた二人。シャッター音が鳴った瞬間、嵐さんが俺の耳元で「……満足かよ」と意地悪く囁いた。
「はいっ、大満足です!」
鏡の中の俺は、数日前までの「死にたがり」が嘘みたいに、見たこともないような幸せそうな顔をして笑っていた。
◇◇◇
ショップを出て、パレードの余韻に包まれながら歩いていると、甘いバニラと焼き立ての生地の香りが漂ってきた。ピンク色のキッチンカーの前には、パステルカラーのトッピングが乗ったクレープを欲しがる子供たちの列ができている。
「……お前、こういうの好きなんじゃねーの。食いてぇなら買うけど」
嵐さんはサングラスを指でずらしながら、メニュー看板を顎でしゃくった。
俺はカチューシャの耳を揺らしながら、色とりどりの写真を見つめる。
「えっと……じゃあ、このイチゴがたくさん乗ってるやつ……」
「おー。すみませーん、これ下さい」
嵐さんは俺が欲しがった、一番デコレーションが派手で甘そうなやつを注文した。お会計を済ませて、手渡されたのは、たっぷりの生クリームにリボン型のチョコが添えられた、まさに「映え」の塊のようなクレープだ。
「わ……すご、可愛い……」
受け取るとずっしりと重くて、甘い香りが鼻をくすぐる。
俺が感動している横で、嵐さんは大きな手でその繊細なクレープを掴むと、ベンチに腰を下ろした。
「ほら、座れ。立って食うとこぼすだろ、お前」
「ありがとうございます。……嵐さん、先に一口どうぞ」
そう言うと、嵐さんは迷いなく生クリームの山をバクリと頬張った。端正な顔立ちに、似合わない黒い耳のカチューシャ。そして口角にちょっとだけついた白いクリーム。そのギャップがあまりにおかしくて、愛おしくて、胸がいっぱいになってしまう。
「……何笑ってんだよ。早く食え。溶けるぞ」
「はい。……いただきます」
イチゴの酸味とクリームの甘さが口の中に広がって、なんだか溶けてしまいそうになる。俺がちびちびと食べていると、嵐さんは俺の様子をじっと横目で見ていた。
「……美味い?」
「はい、すっごくおいしいです。幸せな味がします」
「……あっそ。なら良かったわ」
嵐さんはそうぶっきらぼうに言って、俺の頭をカチューシャごとポンと叩く。
はへ、と俺は間抜け顔でその顔を見上げると、サングラスの奥で、嵐さんの瞳が少しだけ和らいだのが分かった。
……これだけ人がいる広いパークの中でも、誰も思いはしないんだろうな。
ここに居る嵐さんが、超有名なホストだとか。
俺が数日したら、死のうって考えている人間だってことも。
◇◇◇
クレープを食べ終えて少し歩くと、広場の人だかりの先に、お目当ての「ぴゅありぃ~」が姿を現した。白くてふわふわしたフォルムに、大きなピンクのリボン。画面越しに見ていたその姿が目の前にある。
「あ、嵐さん! ぴゅありぃ~ですよ、本物……っ!」
「わかった、わかったから袖引っ張んなよ」
嵐さんは「だりぃ」なんて口では言いながらも、率先して撮影待ちの列の最後尾について来てくれた。黒い服にサングラス、頭には黒い耳。そんな強面の男がぴゅありぃ~を待っている図は、周りの親子連れの中でもひときわ異様だったけれど、嵐さんの態度は堂々としたものだった。
多分、そういう「人から見られる」ことにはやっぱり慣れているんだろう。
いよいよ俺たちの番が回ってくると、ぴゅありぃ~が短い手をパタパタさせて、俺たちを歓迎してくれた。
「……ぴ、ぴゅありぃ~、可愛い……!」
「ほら、隣行けよ」
嵐さんに背中を押され、俺はおそるおそる隣に並ぶ。すると、嵐さんも反対側に立って、スタッフさんにスマホを預けた。
シャッターが切れる直前、ぴゅありぃ~の隣に居た俺の肩を抱き寄せ、手をそのまま下へと滑らせて当然のように腰に手を回す。
「はい、チーズ!」
画面の中の俺は、本物のぴゅありぃ~と、嵐さんに挟まれて、顔を真っ赤にしながら笑っていた。
「……満足か? ほら、次行くぞ。メインイベントだろ」
嵐さんは撮影が終わると、逃げるようにその場を離れた。
その背中を、小走りで追いかける。外のガーデンに出ると、少しだけ日が暮れはじめていた。カウントダウンの放送と共に、何万個ものクリスタルが、一斉に呼吸を始めたみたいに輝き出す。ピンク、ブルー、ゴールド。
幾重にも重なる光の粒が、滝のように知恵の木の枝から降り注ぎ、広場全体を宝石箱の中に変えてしまった。
「……わぁ……」
あまりの美しさに、言葉を失う。俺の瞳に映る無数の光が、涙で滲んでキラキラと揺れていた。
(すごい……こんなに本物は綺麗なんだ)
目の前風景が綺麗過ぎて涙が出るなんて、人生で初めて知った。
嵐さんはベンチに置いていた俺の手を、上からそっと自分の手で覆った。
大きな、熱い手のひら。イルミネーションの光が嵐さんの横顔を縁取って、その瞳が優しく細められる。
「見晴。……死ぬ前にこれ見れて、良かっただろ」
その言葉に、胸の奥がギュッと締め付けられた。
「良かった」なんて言葉じゃ足りない。あの日、橋の上で終わらせようとした自分の人生に、こんなに眩しい光の続きがあったなんて、想像もしなかった。
「……はい。すごく、良かったです」
俺が震える声で答えると、嵐さんは繋いだ手に少しだけ力を込めた。
光の海の中で、俺たちはしばらく黙ったまま、降り注ぐ輝きを浴びていた。
「嵐さん、連れて来てくれてありがとうございました」
このまま時間が止まってしまえばいい。たとえこれが「死ぬ前の思い出づくり」だとしても、この光だけは心の奥で、ずっとずっと――消えない気がした。
◇◇◇
地下の駐車場に戻ると、コンクリートに二人の足音と、嵐さんが車のキーを解除する音が響いた。急に夢のような時間が終わってしまったような気がして、胸の奥が少し切なくなる。
けれど、そんな俺の寂しい気持ちに気が付いたように、助手席でシートベルトを止めようとしていた手を、嵐さんが遮るようにそっと止めた。
「え? あの、嵐さ――」
ひくん、と喉が鳴った。いつの間にかサングラスを外した嵐さんの瞳が切なげに揺れて、吐息が掛かるほど近くに顔を寄せてくる。やばい、忘れてた。俺、嵐さんに“今日のお代”をまだ払ってない。
「っ、ふ……まっ、ちょっ……」
「……ムード台無し。こういう時は何も喋らねぇもんだろうが」
けれど、周りには他にも車が何台も停まっている駐車場で、いつ誰に見られてもおかしくないのに。今までは嵐さんの家だったから何も恥ずかしくなかったけれど、急に焦りと羞恥心がこみあげてきて、唇を塞がれたまま、とん、と小さく手で彼の胸を押す。
「……そんな力でマジでやめて貰えると思ってんの?」
「だ、だって、ここ明るいし、人が……」
「知るかよ」
嵐さんはそんな俺の抵抗などお構いなしに、助手席のシートをカタン、と呆気ないほど簡単に倒して、隙間を埋めるように舌を割り込ませてきた。
(待って、待って待って……! これ、なんかヤバい。いつもの嵐さんと、雰囲気がちがう――)
どうしてそう感じるのかは、分からない。けれど、完全に今の空気はデートのあとのカップルだし、重ねられる熱もまんまそれだ。
いや、そもそも今までの俺たちの関係がおかしかったのかもしれない。
急に「外」の世界を意識してしまった瞬間、俺は今更になって、逃げ出したくなるほどの恥ずかしさがこみ上げてきた。
「ん、っ……」
「……口開けろ」
「で、でも。もう払いましたよ、一日分」
「……明日の分までとか言えば、いい加減黙れる?」
キスの合間にも、耳の輪郭を指先で愛おしそうに撫でられ、髪を梳く指の間からさらさらと束が流れていくのを感じる。
あまりにも甘くて執拗なそれは、嵐さんの本気を見せつけられているようで、俺は本当にとろとろに溶かされて、銀の糸を引くほどの深い口付けに文字通り溺れていた。
「見晴」
ぐっ、と手首を掴まれる。嵐さんは俺の、血管と筋の通る繊細な内側に指先を埋めるように強く握り込むと、低く真剣な声を響かせた。
「……お前、今でもまだ、本気で死にてぇって思ってる?」
核心を抉るような言葉に、心臓が跳ね、思わず息を呑む。逃げようと視線を逸らしかけた瞬間、顎を片手で強引に掴まれた。それすら許さないと言わんばかりに、顔の向きを固定される。
「……嵐さん、待って。なんでそんなこと……」
「何でだろうな。そのぽわんとした頭で、必死こいて考えてみろよ」
なんでそんなに、怒るみたいに言うの?
どうしてそんなに、心の奥まで見透かすような目で射すくめて、手を握り込んでくるの?
(……俺のこと、そんな目で見ないで。これ以上、大事になんてしなくったっていいのに)
俺の人生に、書き殴るように鮮やかな色がついてしまったのは、嵐さんが助けてくれたせいだ。そのせいで――もう何もいらないと諦めていたのに、死ぬ前にひとつだけ、欲しいものが増えていることに気付く。
目尻からぽろ、と溢れだした涙。嵐さんはそれをすべて受け容れるように、繋いだ手のひらのあわいに指先を滑り込ませる。こんな気持ちのこもったキス、生まれて初めてだった。
「……お前は、どうしたら死にたくなくなんの?」
強く、強く力を込めて繋ぎ直したまま。嵐さんは、もう一度だけ、深い口付けをくれた。



