死にたくなったので歩道橋から飛び降りようとしたら、No. 1ホストに救出されて、溺愛生活を送っています。

 嵐さんの出勤前。リビングには、いつもよりも濃い香水の匂いが漂っている。
 ヘアセットを完璧に終え、体のラインをなぞる黒のタイトなシャツに、シルバーのチェーンを首元に這わせた彼は、俺の隣でスウェット姿で目を細めていた時とは完全に別人だった。

(うわ……カッコいい……)

 その美しさは鋭さがあって、それでいて人を寄せ付けない、冷たくて眩いオーラを放っている。

「……本当に、ホストなんですね」

 呆然とした俺の呟きが、静かな部屋に落ちる。嵐さんは鏡越しに、俺を射抜くような鋭い視線で一瞥した。

「あ? なに、嘘だと思ってたわけ?」
「ちょっとだけ……」
「なら嘘じゃねえって、これ見て分かっただろ。……じゃ、行くわ。俺が居ない間に勝手に死んだら、帰ってきてから殺すから覚悟しとけよ」

 乱暴な言葉を置いて、嵐さんが革のバッグを掴み、玄関へと踵を返す。
 その瞬間、俺の指先が勝手に動いていた。無意識に彼のシャツの袖を引く。高級そうな生地の、冷たく滑らかな感触が指に伝わった。

「ま、待ってください……っ」
「は? 何してんだよ」

 掴んだ袖口から、嵐さんの微かな体温が指先に伝わる。俺の支離滅裂な制止に、彼は眉根を寄せて、あからさまな戸惑いを露わにした。

「俺も……ちょっとだけ、ホストごっこしてみたい……」

 口に出した瞬間、心臓が爆発しそうなくらい熱くなる。けれど、目の前の「俺の知らない嵐さん」があまりに眩しくて、その世界の端っこに、指先だけでも触れてみたかった。
 それだけじゃない。このまま彼が夜の街に消えてしまったら、俺の知らない誰かを魅了するのだと思うと、得体の知れない焦りのような気持ちが、胸の奥をじりじりと焼き尽くそうとする。

「はぁー? だるい、マジでなんなんお前。暇かよ。今から仕事行くっつってんだろ」
「だって……」
「だってじゃねぇ。もうタク呼んでんだよ、下に来てんの。離せよ」

 嵐さんは冷たく言い放ち、俺の手を振り払おうとした。
 けれど、俺の指先は震えながらも、彼のシャツを離さない。

「…………」

 言葉にならない声を飲み込んで、じっ……と潤んだ瞳で嵐さんを見上げる。
 無言の抵抗。ただ、行かないでほしいという、ワガママ。
 嵐さんは一瞬、毒気を抜かれたように動きを止め、俺の顔を忌々しそうに見下ろした。

「――っ、マジでその顔ずりぃ。『ぴゅありぃ〜』顔すんな!!」

 嵐さんは派手に顔をしかめ、俺の厚かましいお願いを全身で拒否するように、深く、重い溜息を吐き出した。
 その吐息には、仕事への焦りよりも、目の前の「拾い物」にペースを乱されていることへの苛立ちと、どうしようもなく漏れ出した甘い諦めが混ざり合っていた。

「……三分。三分だけだぞ。それで満足して離せよ」

 ぶっきらぼうに言いながらも、嵐さんは玄関に向いていた身体をゆっくりと俺の方へ向け直した。香水の匂いが、さらに濃く鼻をくすぐる。

「金、ちゃんとあんの?」
「へっ?」

 彼は俺の顎に指先を掛け、くい、と強引に上を向かせると、ホストとしての「営業スマイル」で俺を覗き込んできた。

「俺のこと指名すんなら金持って来いよ。タダで接客するわけねーだろ。俺、一晩でいくら動かしてると思ってんの?」
「わ、わかんないです……百万円……?」
「バカ、桁がちげーんだよ」
「いっせんまん……?」
「三千万。バースデーの時で一億」
「いちおくえん!?」

 あまりに浮世離れした数字に、眩暈がした。俺の人生が何回分あれば、その金額に手が届くのだろう。そんな大金、逆立ちしたって、一生かけて働いたって用意できるはずがない。
 それでも引き下がれない俺は、縋るような思いで言葉を絞り出した。

「お願いします!! 死ぬ前に一回だけでいいから……っ」

 その言葉を盾にするのは、卑怯なやり方だと分かっていた。
 嵐さんは一瞬だけ、弾かれたように目を丸くし、それから毒気を抜かれたように小さく笑う。
 キッチンからクリスタルのグラスとお酒を手に戻ると、彼は音もなく、俺の隣に腰を下ろした。

「――いらっしゃいませ。……今日が初回だよね?」

 空気が、一瞬で変わった。そこにいるのは、ボロボロだった俺を橋の上で抱きしめてくれた嵐さんじゃない。甘く、冷ややかに澄み渡り、一瞬で相手の思考を停止させてしまうような――完成された「夜の顔」だった。

「あ、えっと……。……初めて、来ました」
「そんなに緊張しないで。……すげー綺麗な子だね。俺、一目惚れしちゃいそう」

 嵐さんの肩が、俺の肩にふわりと触れる。逃げられないよう計算し尽くされた距離。長い指先が、邪魔な前髪を優しく払い、しなやかな動きで俺の耳たぶをなぞり上げた。
 どうしよう、ヤバい。ホストさんって、こんな距離感でお客さんに接客するんだ。まるで、恋人同士みたいだ。女の人たちが嬉しさで溶けてしまう理由も、分かる気がする。

「お名前、なんていうの?」
「……みはる、です」
「見晴くん? 名前まで可愛いんだね。お酒、どれくらい飲める?」

 至近距離で視線がぶつかる。香水の残り香と煙草の気配が混じり合う中、細められたその瞳が、そして親指が、俺の唇をゆっくりと輪郭をなぞるように這う。

「お酒、普段飲まなくて。あんまり強くないです……」
「そっか。じゃあ、ちょっと弱めにして……愛情はたっぷり入れよっか」

 耳元で囁くような甘い声が、脳の芯を痺れさせる。
 ごっこ遊びのつもりだったのに、俺の心臓はさっきから、壊れた時計のようにうるさく警鐘を鳴らし続けていた。

「はい、どうぞ」
「……あ、ありがとうございます……」

 これが、プロのホスト。世の中の女たちが、すべてを捨ててでも、身を滅ぼしてでも手に入れたいと狂わせる、罪な男の真髄なんだ。

「見晴くんは、どーゆう奴がタイプなの?」
「……えっと、かっこいい人が好きで……あとは、優しい人」
「へー。じゃあ、俺だ。かっこよくて、優しくて、連絡もマメだよ?」

 嵐さんの顔が、あと数ミリで触れ合うほどに近づく。混じり合う吐息の中で、彼は俺の耳元に唇を寄せ、蕩けるような声音で、残酷なほど甘い嘘を囁いた。

「――俺は、正直……見晴くんみたいな子がタイプなんだよね」

 ゾク、と背筋を痺れるような刺激が駆け抜けた。
 それは恐怖心ではなくて、圧倒的な「特別」として扱われることへの、底知れない昂揚感だった。自分という空っぽな器が、嵐さんの放つ言葉と視線の熱だけで、ひたひたと満たされていく。

「……あ、あの……っ! もう、おしまい! 終わりですっ!」

 耐えきれなくなって、俺は嵐さんの胸を、突き放すように押し返した。
 張り詰めていた妖艶な空気がなくなり、嵐さんは子供のように声を上げて笑う。

「あー……っ、おもしれぇ。お前、顔真っ赤。……チョロすぎだろ。本当にお前が客だったら、めちゃくちゃ貢がせやすいわ」
「嵐さんが、本気すぎるから……っ」
「本気じゃねーよ。あんなん、ただのテンプレ。行くことはねーにしても、常識として覚えときな」

 嵐さんはソファに深く身を沈めると、少しだけ寂しそうな、いつもの「嵐さん」の温度で俺を見つめた。営業用の仮面を脱ぎ捨てた彼は、グラスに残ったお酒を一気に煽り、空になったそれを置くと、静かに、けれど言い含めるように俺を諭した。

「朝方までひとりだからって、勝手に飲むのは禁止な。酔った勢いで、また変なこと考えられても困るし」

 嵐さんは立ち上がり、俺の頭を一度だけ、乱暴に、それでいて可愛がるように撫でると、玄関へと向かった。

「行ってくる。……いい子で待ってろよ。暇なとき、ベッドの下に雑誌とか入ってるから、読むなら読んでもいいし。まぁ、夜更かししねーで寝るのが一番だけど」
「……はい。……行ってらっしゃい、嵐さん」

 カチャリと静かにドアが閉まり、しんと静まり返ったリビング。
 俺は、まだ唇に熱を持って残っているような嵐さんの親指の感触を、自分の指先でそっとなぞった。彼がいない夜というものが、これほどまでに長く、冷たいものなのか。その事実を突きつけられて、初めて怖さで胸の奥が震えた。
 ぽつん、とひとり残された、広すぎる部屋の中。静寂を紛らわせたくて、さっきの言葉を思い出しながらベッド下の収納を開くと、そこには何冊かのファッション雑誌が綺麗に並んでいた。とりあえず一冊を手に取り、パラパラとページを眺めてみる。

(服も、全部捨てちゃったし……そもそも物欲なんて今はないし。見たところで、意味ないよなぁ……)

 ため息と一緒にページを閉じ、やっぱり寝ようと雑誌を収納に戻そうとした、その時。奥の方で何かがつっかえて、引き出しがうまく閉まらない。
 不思議に思って、暗がりの奥へと手を伸ばしてみる。指先に硬い紙の感触が触れ、それが引っ掛かっているようだった。パコッ、という小気味いい音と一緒に外れたそれを、何気なく手元に引き寄せる。
 ──目に入ったのは、大きな数字と、見慣れた「うすうす」の文字。
 中途半端に蓋が開いたそのパッケージを認識した瞬間、心臓が跳ねた。慌てて引き出しの奥へとそれを押し戻すと、俺は見てはいけないものを覗き見てしまった罪悪感と動揺に耐え切れず、そのままベッドへとダイブした。

(こ、コンドーム……しかも、開封されてた。いや、嵐さん、大人の男の人だし、モテるだろうし……当たり前、なんだけど……)

 まさかこんな形で、突然他人の性事情を覗き見ることになるとは思わなかった。自分の胸に手を当ててみれば、前に住んでいたアパートには電マやローションといった、それなりに元カレと使っていたアダルトグッズがあったのだから、嵐さんのことをどうこう言える立場ではない。
 分かっている。分かっているけれど。今、俺が横たわっているこのベッドで、嵐さんも誰かと肌を重ねていたわけで。
ぐるぐると回る思考を振り払うように、ぎゅっと目を閉じる。
 スマホもなければ、頼れるあてもない今の身の上。自分の家とは違う、嵐さんの匂いがほんのりと染み付いた冷たいベッド。
 俺は逃げ込むように体を小さく丸めると、そっと彼の枕を抱き寄せて、長い夜の眠りへと、ゆっくりと落ちていった。

 ◇◇◇

 カーテンの隙間から見える、ティファニーブルーみたいな色の空。
 夜が完全に明けきる前の、ほんのわずかな時間にしか現れない特別な色だ。たまらなく好きで、これを見ている時だけは、世界が少しだけ優しくなったような、穏やかな気分になれる。

(死ぬ前に見たいものも、意外とあったんだな……)

 起き抜けの頭でそんなことをぼんやり考えていると、玄関のドアが開く音がした。少し重い足音が廊下を渡り、俺がちゃんと寝室にいるか確認しに、嵐さんがやってくる。

「え、お前まだ起きてたの」
「起きてないです。ちょっと目が覚めて、そのまま眠れなくて」
「……また寝不足になると死にたくなるからな。もっかい寝るぞ。俺も疲れてるし」

 そう言って、嵐さんはお店用のスーツを手際よく脱いでいく。シルバーのチェーンを外し、いつもの黒いスウェット姿になって、ハーフアップにしていた髪をばさりと解く。その「いつもの嵐さん」に戻っていく姿を見た瞬間、胸の奥に溜まっていた不安が解けるような、不思議な安心感を覚えてしまった。

「……見晴?」
「な、なんでもないです」

 上裸のまま振り返られたのに驚いて、慌てて視線を逸らし、ベッドのギリギリ端まで寄って背を向ける。すると背後から、いつもより濃いアルコールの匂いが漂ってきた。店でどれだけ飲んできたのか、その熱い呼気がうなじを優しく撫でる。

「なんでそんな離れんの? ベッドから落ちるだろうが」
「ら、嵐さんがゆっくり休めないと思って……」
「……気遣いすぎ。そんなこと気にすんな」
「で、でも……」

 その言葉を遮るように、俺のお腹の辺りに力強く腕が回された。
 背中から抱きしめられ、すっぽりと大きな体躯に収まってしまう。抱き枕にされているみたいだと思いつつも、嵐さんが「……あったけ」とだけ呟いて目を閉じるので、俺もそのままじっとしていた。
 しん、とした沈黙。カーテン越しの空は、少しずつ青を深めていく。

「……嵐さん」

 少しだけ身を捩って、振り返る。至近距離にある嵐さんの顔は、少しだけ疲れていて、それでいて「夜の顔」の刺々しさが抜けた、ひどく無防備なものだった。

「なに?」
「……お代、回収しないんですか?」

 俺の問いかけに、嵐さんは一瞬、動きを止めた。

「……は? なに。何で今?」
「まだ……払ってないな、って思って……」

 嵐さんの手にガッと力が込もり、俺を逃がすまいと身体をマットレスに強く押しつける。

「……なんでお前からそんなこと言ってくんの? 俺からしたら、建前つけてキスしたがってるようにしか見えねーよ?」

 低い、掠れた声。アルコールに焼かれた熱い舌が、強引にこじ開けるように入り込んでくる。さっきまでの穏やかな「おやすみ」の空気はどこへやら、貪り合うような、暴力的なまでのキスだった。

「ん……っ、ふ……」
「感じまくってんじゃねーよ、死にたがりのくせに」

 指摘されて、羞恥心でいたたまれなくなる。けれど、一回で終わるはずのキスが止まる気配はない。ぎゅ、と嵐さんの袖を掴むと、不機嫌そうな舌打ちと共に嵐さんが起き上がる気配がした。

「そういうのやめろ。じゃねぇとマジで犯すぞ」
「そういうのって……?」
「服掴んだり、そんな顔して声出すなっつってんだよ。自覚ねぇのかよ」
「なんで俺、怒られなきゃいけないんですか」

 ちょっとだけ唇を尖らせて横を向くと、嵐さんは弾かれたように目を見開いた。

「は? なにその反応。……お前、俺のことおちょくってんの?」
「ち、ちが――」

 否定するより先に、嵐さんのダボついたトップスの裾から、節くれだった大きな手のひらが、這いずるように俺の脇腹へと滑り込んできた。
 肌越しに伝わる指先の冷たさに、背筋がゾクりと跳ねる。

「エロがってんじゃねーよ。……それとも、死ぬ前に最期のセックスでもしとくか?」
「……い、嫌です。そ、その……そういうのとは、もう誰ともしないって決めてるから……」
「なんで? お前、気持ちいいことされるのとか、案外チョロそうなのに」

 揶揄うような、値踏みするような視線。
 そんな風に見えてたんだ。
 胸のど真ん中を突かれたような痛みが走るのは、俺自身が自分の価値をその程度だと思っているからかもしれない。

「……なに。もしかして、すげー下手な奴に当たった?」
「えっ……」
「初体験がクソすぎて痛かったとか。それで若干、蛙化したとかさ」

 ぐさ、ぐさ、と心当たりを的確に刺されていく。そのまま服を捲り上げられるのを覚悟して身を縮めたけれど、意外にも、その手はすっと引き抜かれた。

「図星かよ」
「……相手が下手っていうか、多分、俺が下手だったんだと思います……」
「……あ? なんでそうなる。フツー抱く側の問題だろ。元彼にそんなこと言われたのかよ」

 押し黙る俺から「肯定」の気配を察したらしい嵐さんは、険しく眉根を寄せた。片手で自分の頭を支えながら、俺の背中に大きな手を添えて、横寝のまま真っ向から向き合ってくる。

「お前、だとしたらとんでもねぇゴミと付き合ってたことになるぞ。……ちょい、吐け。どんなんだった?」
「え……どんな、って……」
「どういう風にヤったか。……いや、大事なのは事後だな。事後だ」

 記憶の底に沈んでいた元彼の部屋の、澱んだ空気を思い出す。

「……優しくするから、って言われて……。でも、挿れたら、すごく痛くて」
「……まさか、ナマじゃねぇよな?」
「付けてくれてました。でも、あの……」
「なんだよ」
「二回目か、三回目くらいの時に……その、途中で……」
「なに? 勝手に外されたってこと?」

 俺が言い淀むと、嵐さんはそっと、俺の指先に自分の指を絡めてきた。その握り方が、壊れ物を扱うみたいにあまりに優しくて、つい心の鍵が緩んでしまう。
 死にたがりの情けない過去なんて聞いて、何が楽しいんだろう。
 お店でネタにでもされるのかな……なんて自虐的な思考を巡らせながら、俺は一番のトラウマを打ち明けた。

 「違います。途中で、『取れちゃったかも』って言われて……。でも、そのまま続けられて。終わって向こうが先に寝ちゃったあと、俺がトイレに起きたら……体の中に、その。ゴムが、残ってて……」

 言い終えた瞬間、繋いでいた嵐さんの指先が、ビクリと跳ねたのが分かった。
 恐る恐る顔を上げると、そこにはホストの営業スマイルなんて微塵もない、暗く沈んだ男の顔がある。

「……それで? お前、ひとりでそれ出したわけ?」
「……はい。指、入れて……。でも、なかなか取れなくて、怖くて。そのあとも、病気とか、いろいろ不安で……」

 嵐さんの呼吸が、少しだけ荒くなる。
 俺の背中に回された手が、シーツを掴むように強く握り込まれた。

「……お前、マジで。そんな扱い受けて、よくそいつとその後も続いたな」

 吐き捨てられた言葉は鋭かったけれど、その奥には、隠しきれない濁流のような怒りと労りが透けていた。

「その件があってから、もうシないって決めて……。たぶん、それが向こうも嫌だったんだと思う。もともと月二回しか会ってなかったし……」

 セックスできないなら、恋人失格。
 そんな風に自分に言い聞かせてきた。だから、あの日以来一度もしていない。俺の初体験は、ゴミ捨て場に放り出されたような惨めな残骸だ。だから、もう二度としないと決めていた。
 淡々と話しながら、嵐さんの表情があまりに険しいことに気づき、俺はびくりと肩を震わせた。慌てて、空っぽな心を糊塗するように、無理やり口角を上げる。

「だから俺、チョロそうに見えるかもしれないけど……もうえっちはしないぞー、って決めてるんです。意外でしょう?」

 えへへ、と精一杯の愛想笑いを浮かべる。けれど、嵐さんはピクリとも笑わなかった。それどころか、大きな両手で俺の頬を挟み込むように掴むと、逃げ場を塞いで真っ直ぐに俺を射抜いた。

「――怖かっただろ」

 不意に投げかけられた、低く、湿り気を帯びた声。
 その一言と、すべてを暴き出そうとする真剣な瞳に、せき止めていたはずの心がぐらぐらと音を立てて揺らぎだす。

「え……えっと」
「顔見りゃわかる。ピエロになろうとしてんじゃねーよ。嫌なこと思い出させて、悪かったな」

 怖かった。うん、そうだ。本当に怖かったんだ。あの日から数日間、ずっと下腹部が重苦しくて。大学のトイレの個室で蹲りながら、どうしよう、病気だったら、病院に行かなきゃいけないのかなって、指を震わせて検索して。
 勇気を出して、元彼にラインを送ったのに。

「……『あー、ほんまごめん。分からへんかったわ』って……。一言、謝られて、それっきりだったんです……」

 欲しかったのは、そんな軽い言葉じゃなかった。もっと誠実な謝罪とか、俺の震えを止めてくれるような温かい労りとか、そういう「俺という人間」を見てくれる何かが欲しかっただけなのに。
 視界がじわじわと滲んで、嵐さんの顔が歪んでいく。

「……もういい。喋んな」

 嵐さんは吐き捨てるように言うと、俺の後頭部を大きな手でそっと抱き寄せた。そのまま、自分の広い胸の中に俺の顔を押し付ける。

「……っ、……嵐さ……」
「……いいから。そのまま黙ってろ」

 嵐さんの心臓の音が、耳元でドクドクと速く、力強く響いている。
 俺の泣き顔を隠すように抱く腕の強さと、煙草の香りが混じった体温。
 今までずっと一人で抱えてきた「怖かった」という塊が、嵐さんの胸板に触れた瞬間、温かい涙となって一気に溢れ出した。

「お前、自分のこと空っぽだの、平凡だのなんだの言ってるけど……。そうじゃねーよ」

 嵐さんは、俺の額に新しいラベルをぺしっと貼り直すみたいに、指先で軽くそこを小突いて言った。

「自分で自分をそうだって、都合よく『書き換えて』、そう思わなきゃやってられないくらいボロボロな自分を守ってきたんだろ。……まぁ、死にたくもなるわな。そんな、自分の価値を削り続けるような真似ばっかの人生なら」

 これまでの二十年、波風立てないように自分を透明にしてきたことまで、すべて見透かされているような言い方だった。
 痛い。けれど、不思議と嫌じゃない。俺が自分に貼った、泥だらけで剥がれかけの絆創膏を、彼はわざと乱暴に剥がして、剥き出しになった傷口を丁寧に消毒し、新しい清潔な布を当ててくれている気がした。

「可哀想すぎて、どうにかしてやりたくなる」

 そのあとすぐ、熱を持った唇がそっと瞼に落とされた。
 子供をあやすような、それでいて「俺が上書きしてやる」とでも言いたげな、傲慢で温かい優しさ。それだけで、お風呂で溶けかけの石鹸みたいに柔らかくなっていた俺の心は、バカみたいに簡単にほだされてしまう。

「お代の回収は、お前からすんのは無し。タイミングは全部俺が決める」
「ご、ごめんなさ……」
「謝んな。ほら、分かったらさっさと払えよ」

 されるがまま、縋るように顔をそっと上に向かせると、嵐さんは吐息まで全部吸い込むみたいな、熱くて重い口づけをくれた。

「ん……っ、……ふ……」

 ただの気まぐれで、道端の迷子を甘やかしているだけだって、頭では分かっている。けれど、肌に触れる指先のわずかな震えや、俺を逃がさないように閉じ込める腕の強さに、まるで俺が「血の通った人間」で、本当に大切にされているみたいな、そんな致命的な勘違いをしそうになる。
 空っぽだった胸の奥に、嵐さんの体温が甘い毒みたいに染み込んでいく。
 あぁ、だめだ。こんな風に「大切にされる幸せ」なんて教えられたら。

(俺……死ぬのが怖くなっちゃうじゃないですか)