死にたくなったので歩道橋から飛び降りようとしたら、No. 1ホストに救出されて、溺愛生活を送っています。

 こうして、嵐さんとの奇妙すぎる同居生活が始まった。
 自分のアパートに荷物を取りに行くか聞かれたけれど、あそこに戻る勇気はもうなかった。だって、死ぬつもりで全部捨ててきてしまったし。
 残っているのは、空っぽの通帳と、ただの「黒い板」に成り果てたスマホ、それから使い道のなくなった小銭くらいだ。

「顔に似合わず、そういうところは男前すぎるくらい潔いんだな」

 呆れているのか、それとも褒めてくれているのか。嵐さんは俺がもう後戻りできない場所に立っていることを知ると、自分の服を貸してくれた。

「これなら着れるか?」
「あ……はい。なんとかなりそうです」

 何着もクローゼットから出てくるラフなTシャツやスウェット。
 お店用のスーツは反対側のもうひとつのクローゼットにかかっているらしく、嵐さんは「長袖はマジで幽霊みたいな袖の長さになるから笑えねぇな」と言って、半袖の服ばかり出してくれた。それも、俺が着るとちょうど七部丈のTシャツになってしまうのだけれど。

「お前、身長どんくらい? 流石に体格差ありすぎ」
「ええっ、俺、四捨五入したら170ありますよ。嵐さんが高すぎるだけで……」
「四捨五入とか、見栄っ張りしてんじゃねーよ。俺、四捨五入したら190だぞ」

 嵐さんはクローゼットの扉をしめながら、「見晴ルール適用したら巨人になるだろうが」と鼻で笑った。俺をちょっと小馬鹿にするような、軽口。だけど、その行動が伴ってなさ過ぎて、ちぐはぐで。そのちぐはぐを「嬉しい」と思ってしまう自分がいる。
 お金のことも素直に伝えたら、『お前一人くらい、一生養ってやれるわ』なんて、お店に来る女の子が聞いたら卒倒しそうなセリフをさらりと言ってのけられた。

「なぁ。お前、家事とかできんの?」
「……まあ、人並みには……」
「マジ? 俺、掃除とか料理、あんま好きじゃねーんだわ。だから、やっててくれると助かる」

 そう言いつつも、嵐さんの部屋はモデルルームみたいに整っているから、あまりその必要性を俺は感じなかった。 モノトーンで統一された空間には無駄な生活感がなくて、まさに「寝るためだけに帰る場所」という感じだ。
 けれど、リビングの全身鏡の横に立てかけられた一本のギターを見つけて、俺は思わず指を差した。

「嵐さん、ギター弾けるんですか?」
「あ……? あー、それ……。まあ、それなりに」

 そう答える嵐さんの前で、俺は無言で目を輝かせてしまった。

「……なんだよ、その実写版ぴゅあり~みたいな顔。……チッ、わかったよ」

 嵐さんは毒づきながらも、観念したようにため息をついてギターを手に取った。そのまま床にドサリとあぐらをかき、長い指でギターのネックを愛おしそうに握る。その仕草があまりに絵になっていて、俺は息をするのも忘れて見入ってしまった。

「一曲だけな」

 少し照れくさそうに視線を逸らした嵐さんが、ジャラン、と弦を弾く。
 低くて、少し切ない音が、静かなリビングに溶け出した。

(……かっこいい。やっぱり、ズルい人だ)

 昨日までの「きょむきょむ」だった俺の世界に、嵐さんが一色、また一色と鮮やかな色を塗り重ねていく。窓から差し込む午後の光を浴びながら、俺は嵐さんが紡ぐ旋律に、ただただ耳を澄ませていた。

「すごい……! 俺、楽器とか全然できないから、弾ける人って憧れちゃいます」
「……死ぬ前に、できること一個くらい増やしとけ。ほら、こっち来い」

 嵐さんはそう言って、自分の膝の間に俺を招き入れた。
 後ろからすっぽりと抱き込まれるような形になって、俺の膝の上にずっしりとギターが置かれる。

(ち、近くない……? 仕方ないのかもしれないけれど……)

 嵐さんの体温と、微かな煙草の香りが一気に間近に迫って、心臓が跳ねた。

「俺はピックなしでも弾けるけど、お前は腕力ヘボそうだからこれ使え」

 手渡されたのは、小さな三角形の薄いピック。
 嵐さんの毛先に入っているカラーと同じ、深い青緑色をしたそれは、照明に透けて宝石みたいに綺麗だった。そこには、見慣れない英語のロゴが銀色に刻まれている。

「俺がコード押さえてやるから。お前は右手で、上から下に一本ずつ、弦に触れるみたいにストロークしてみろ」

 嵐さんの長い指がギターのネックをしっかりと押さえる。言われるがまま、俺はおどおどしながらピックを弦に振り下ろした。

「……もっと。リズムに合わせて、止まんねーで続けろ」

 耳元で囁かれる低い声。嵐さんの大きな手が、俺の右手にそっと添えられた。
 導かれるようにピックを動かしていくと、バラバラだった音が次第に意味を持ち始め、俺でも聞き覚えのある温かい旋律へと変わっていく。

「すごい……っ! ハッピーバースデーのうた!」
「……そんなに喜ぶ? ガキかよ」

 呆れたような口調だったけれど、振り返った俺のすぐ近くで、嵐さんはふにゃりと柔らかく目を細めて笑っていた。

「俺の誕生日、もう来ないですけどね」
「うるせーな、生まれ変わるための前祝いだ。……ほら、もう一回。次はもっと、優しく弾け」

 嵐さんの指が、また新しいコードを紡ぐ。教えてもらった旋律は、空っぽだった俺の胸の奥を、サッポロ一番を食べた時みたいにじんわりと満たしていく。

(……一週間後には、確実にもう俺は居ないんだよな)

 嵐さんの腕の中に閉じ込められて、一緒に一つの音を鳴らしているこの瞬間。
 自分の人生に、こんなに優しい時間が訪れるなんて思いもしなかった。

「きょむきょむ」な俺の指先が、青緑色のピックを通じて、確かな音を世界に刻んでいる。
「……嵐さん」
「ん?」
「これ、明日も教えてくれますか」

 柄にもなく、欲張ったことを口にしてしまう。
 嵐さんは少しだけ驚いたように目を見開いたあと、俺の頭をぐしゃりと撫でた。

「……飽きるまで付き合ってやるよ」

 嵐さんの奏でる優しいリズムに揺られながら、俺は「明日」があることの不思議な幸福感に、どっぷりと浸かっていた。

 ◇◇◇

「う、っ……ぐすっ、……できな、出来ないぃーー~~っ!」
「あーもう、めんどい! いきなり情緒ジェットコースターになんのマジでやめろって」

 最初はあんなに楽しかったのに。嵐さんが魔法みたいに弦を押さえてくれるのに、俺の指はちっとも言うことを聞いてくれない。
 「もっと指開け」とか「ここを立てろ」とか、隣で根気強く教えてくれるのに、不器用な手は空を切るばかり。積み重なる「出来ない」の山に、俺のよわよわなメンタルはパキッと音を立てて折れてしまった。

「……くやしい……っ」
「負けず嫌いかよ。お前、割とメンドい性格してんな。メンタル豆腐以下じゃん」
「……親にも、『小さいころからすぐ泣いてた』って聞いたことあります」
「ふーん。何て?」
「保育園の綱引きで、自分のチームが負けただけで大泣きしてたって。……それ、言われてからあんまり、泣かないように気を付けてたんですけど……頑張って頑張ってどうにもならなくなった時は、やっぱり……」
「まぁ、それでも……普段は我慢してたってことじゃん」

 嵐さんは呆れたように鼻で笑ったけれど、俺は涙を袖で拭いながら、膝の上のギターをぎゅっと抱え込んだ。

「……我慢する分だけ、自分の力ではどうにもできないことに遭遇すると、俺、悔しくてたまらなくなるんです。一生懸命頑張って、それでも力が足りなくて、どうしても届かなかったときに……泣いちゃうっていうか……」

 悲しい映画を観ても、感動的なドラマを観ても、俺の目は乾いたままだった。
 「泣ける」と銘打たれたものほど、どこか冷めた目で見てしまう節がある。
 けれど、自分の無力さに直面したときだけは、どうしようもなく感情が溢れてしまうんだ。
 嵐さんは俺の言葉を咀嚼するように少し黙り込むと、ギターを傍らに置いて、俺の顔を覗き込んできた。

「……じゃあさ。昨日の夜、お前、すげー頑張ったけどダメだったって感じなわけ?」
「えっ……?」
「あの橋の上でさ。頑張って頑張って、それでもダメだったから……だから、俺の出したラーメン食って泣いたんじゃねーのかって、思ったんだけど」

 図星を突かれた、と思った。
 死ぬために、部屋を空っぽにして、思い出を全部捨てて。俺なりに「完璧な最期」を目指して、必死に頑張ったつもりだった。
 それなのに、嵐さんという想定外のイレギュラーに捕まって、あっさりと「死」に手が届かなくなってしまった。

「……そう、かも。俺、昨日……ちゃんと死にたかったのに。死ぬことすら、自分の力じゃどうにもできなくて……」

 ぽろぽろと、また大粒の涙が溢れ出す。嵐さんは大きな溜息をつくと、「ったく……」と呟きながら、俺の頭を胸の中に引き寄せた。

「……お前の『頑張り』が足りなかったんじゃなくて、俺の『邪魔』が上回っただけだ。だから、自分を責めんな」

 嵐さんの心臓の音が、耳元でトクン、トクンと響く。悔しくて、惨めで、どうしようもない自分。そんな俺を、嵐さんは「めんどい」と言いながらも、壊れ物を扱うみたいに優しく抱きしめてくれた。
 抱きしめる、のは「キスが家賃代わり」のなかに入ってない。
 じゃあ、なんでこんなことするの、ってずっと頭の中で疑問が離れない。
 けれど、「離してください」と言えるほど俺は大人でもなくて。
 誰かに抱きしめて貰えるのって、こんなに安心するんだ、とやっぱり嵐さんの胸を借りてみっともなく泣いてしまった。

 ◇◇◇

 その日の夜ご飯は、嵐さんのリクエストで鶏がらのかき卵スープとパラパラのチャーハンを作った。冷凍のギョーザも羽つきに焼いて、テーブルの上だけはちょっとした町中華気分。それらを気持ちいいくらいの勢いであっという間に平らげた嵐さんは、俺のおおよそ「冷凍食品アレンジ」な手料理をこれでもかと絶賛してくれて、ようやく俺の心にふわりと安堵が広がった。

「ふぅ、食った……。お前、天才?」
「褒め過ぎですよ。……でも、よかったです」

 洗い物をして、最後に大物のフライパンを丁寧に拭き終えた、その時だった。
 背後から、熱い体温とともにギュッ、と腕を回された。

「あ、嵐さん……っ?」
「見晴の飯、マジで美味かった。……胃袋掴まれるって、こういうこと?」
「……よかったです。次はもっと、ちゃんと……」

 その言葉の続きは、強引に身体を反転させられ、肩口から覗き込むような深い深いキスで塞がれてしまった。

「ん、んん……っ」

 くぐもった甘い声が漏れる。一度で終わるはずだったそれは、嵐さんが満足げに目を細めたのを合図にするように、さらに熱を帯びていく。
 俺の身体を正面に向かせると、シンクの縁に追い詰めるようにして、嵐さんの唇が降ってきた。額、鼻先、柔らかい頬――。最後に、耳たぶを甘噛みするような、吐息の混じったキスをされる。

(あ、あれ……? まだ終わりじゃ、ないのかな)

 上目遣いに彼を見上げると、俺の目をじっと見つめ返される。
 俺が緊張して目を逸らすと、嵐さんは下瞼にそっと触れて、さっき泣いて少しだけ赤く腫れたそこを親指の腹でなぞりながら言った。

「これで、今日のお代は回収な」

 それだけ言うと、嵐さんはふいっと顔を離した。唇に残るしびれるような熱に、心臓の拍動がうるさく跳ねる。俺は落ち着かない手つきでシャツの裾をいじりながら、ずっと喉に引っかかっていた疑問をぶつけてみた。

「……嵐さんって、男の人が好きなんですか?」
「は? なに。だったら何だよ」

 嵐さんは意外そうに眉を跳ね上げた。その瞳には、嫌悪感も動揺もなく、ただ俺を品定めするような鋭い光が宿っている。

「いや……なんでもない、んですけど。ただ、気になっちゃって……」
「……そーいう見晴はどうなんだよ。俺にキスされんの、全然嫌がらねーけど。男、いけんの?」

 二十年の人生の中で、男からも女からも告白されたことはあるし、偏見もなかった。誰に対しても等しく「それなり」にしか熱くなれなかった俺にとって、性別なんて些細な問題でしかなかったから。

「俺は……男の人でも、平気で……」
「ふーん。なら、なにも問題なくね」

 あっけらかんと言い放つ嵐さんに、俺はもう一歩、自分でも驚くくらい踏み込んでみた。

「……なんで、お代、キスなんですか?」
「なに。いきなり前のめりになってんじゃねーよ」

 嵐さんは俺の言葉を鼻で笑うと、シンクに手をついて、俺を閉じ込めるように身を乗り出した。甘くて苦い、彼特有の煙草の香りが一気に濃くなる。

「俺は男でも女でもいけるけど。お前、こんな『えっちなことシたことないですー』みたいな顔して、実は経験あったりすんの?」
「……あ、ありますよ。一人だけ、一回だけ……だけど……」

 バカにされているのが伝わってきて、少しムキになって言い返す。
 すると、嵐さんの目の色がすーっと冷たくなって、温度の低い声で俺を見下ろした。

「へぇ。いつ。大学デビューしたあと?」
「……去年……アプリで知り合って、付き合った人と……」

 なんでそんなこと詳しく聞くんだろう。
 威圧感に気圧されて、気まずさで目を逸らすと、嵐さんは「こっち見ろ」と言わんばかりに大きな片手で俺の頬を包んだ。

「純粋そうなツラしといて、意外とやることやってんのな」

 飽きられたような、突き放すような言い方。
 どうしてだろう、その一言が胸の奥をチクりと刺した。
 もっと見栄を張りたいというか、この人にひどく扱われるのが嫌で、もっと特別に優しくしてほしいと望んでいる自分が顔をのぞかせる。
 生まれて初めて自覚した「執着」みたいなものが、少しだけ怖くなった。

「そうですよ、俺。嵐さんが思ってるようなピュアな子じゃないんで」

 可愛くないとわかっているのに、精一杯の強がりを口にしてしまう。
 目を逸らしたままの俺をじーっと覗き込んで、やがて嵐さんは興味を失ったように、ふっと手を離した。

「ま、どーでもいいけど。……先、風呂入れば」

 そう言って嵐さんは、もう一台の仕事用らしきスマホを手に取った。
 溜まった通知を指でスクロールし、恐ろしい速さで返信を打っていく。
  ……お客さんとのやりとり、なんだろうか。

「なに。気になる?」
「いや……そういうの、返すの大変そうだなって思って」
「あー……。まぁ、それ言ったら稼げねーし。エースには絶対マメにしなきゃいけねーし、太客もスペアでセーブしときたいし。細客でも沼らせれば来てくれるし、そっから育てればいいからな」

 専門用語だらけで、なにがなんだか分かんない。でも、色んなお客さんを隅々まで丁寧に、――そして「道具」のように扱っていることだけは、残酷なほど伝わってきた。

(……なにこれ。むかむかする……)

 胸の奥に広がる、居心地の悪いモヤモヤ。これまで感じたことのない真っ黒な感情を、ぎゅっと拳を作って無理やり飲み込むと、俺は嵐さんから逃げるようにシャワーへ向かった。